2005/09/22(木) [n年前の日記]
#14 [pc] 親の心中に付き合わされるクローズドソースのソフトウェアたち
類似画像検索ソフトを探していたら、
_PickPix2の作者が亡くなっていたこと
を知った。
作者が亡くなったと同時にこのソフトの未来も無くなったのだなとそんなことをぼんやり思ったり。これがもしオープンソースであれば、誰かが開発を引き継いだり等、新たな展開があったかもしれないけれど…。類似画像検索というジャンルは、これといったソフトが未だ出てきていない、ある種未開のジャンルな印象もあるので、なんだか惜しまれる話。
喩えとしては不適切・不謹慎かもしれないけど。クローズドソースなソフトウェアは、親の心中に付き合わされる子供みたいなものかもしれない。
世に生まれ出たソフトウェアには、本来、未来がある ―― より優れたソフトウェアとして成長する可能性・チャンスが、どのソフトにも等しく備わっているように思う。しかし、作者しかソースに触れられない環境にそのソフトウェアが置かれたら、そのソフトウェアに未来を与えることは、その作者にしかできないことになる。そして、その作者が亡くなれば、子であるソフトウェアの成長も止まる。
以前、 _税金を注ぎ込んでおいてオープンソースにもしないソフト の話を見かけ、また、そのソフトに関する _2chの該当スレ中 で、クローズドソースというポリシーを絶賛(?)する各種主張を眺め、何だかモヤモヤしてしまったことを思い出したり。そのモヤモヤの正体がそのときはよくわからなかったのだけど、今は少し判った気もしたり。件のソフトは、作者が死んだら、ソフトの未来もおそらくは消えてしまう。作者の死と共にその子供であるソフトウェアも心中させられる。たとえその子供がどれだけ多くの可能性を秘めた子供であっても。自分はそのことにモヤモヤを感じてしまったのかもしれない。
「ソースはクローズドであるべき」と考えるソフトウェア作者にとっては、自分が死んだ後の世界で、自分の作品が不遇な状況に置かれようが知ったことではない。自分の名声を高めるために、あるいは自分にとっての経済的な利を得るために、ソフトウェア = 子供は存在する。おそらく彼らにとって、子供は親の付属物でしかない。彼等にとっては、彼等の死後の子供の未来など、どうでもいいことで。
しかし子供を、いや、自分の作った作品の持つ可能性を見据えている作者もこの世には存在していて。自分が死ぬからといって、未来のある子供まで付き合わせて、殺す必要はない。自分の子供に見所があるなら、誰かしら後見人として名乗りを上げてくれるだろう。そう考える親は、いや、作者は、オープンソースにする道を選ぶのかもしれないと、そんなことを想像したり。
まあ、クローズドソースといっても、それが会社などの「集団」の中で生まれたソフトウェアであれば、別の社員・メンバーが引き継いだり等できるだろうし、さほど問題はなさそうな。また、それを生み出す過程で得たものを、形を変えて ―― たとえば技術文献として書き溜めて公開していくという方法によって、それらソフトウェアの遺伝子が後世に残る事例もあったりするだろうしで。一概にクローズドだからいけない・未来が閉ざされるというわけでもないよなと思ったりもする。何かそのへん工夫をしているのなら、それで充分なのかも。
作者が亡くなったと同時にこのソフトの未来も無くなったのだなとそんなことをぼんやり思ったり。これがもしオープンソースであれば、誰かが開発を引き継いだり等、新たな展開があったかもしれないけれど…。類似画像検索というジャンルは、これといったソフトが未だ出てきていない、ある種未開のジャンルな印象もあるので、なんだか惜しまれる話。
喩えとしては不適切・不謹慎かもしれないけど。クローズドソースなソフトウェアは、親の心中に付き合わされる子供みたいなものかもしれない。
世に生まれ出たソフトウェアには、本来、未来がある ―― より優れたソフトウェアとして成長する可能性・チャンスが、どのソフトにも等しく備わっているように思う。しかし、作者しかソースに触れられない環境にそのソフトウェアが置かれたら、そのソフトウェアに未来を与えることは、その作者にしかできないことになる。そして、その作者が亡くなれば、子であるソフトウェアの成長も止まる。
以前、 _税金を注ぎ込んでおいてオープンソースにもしないソフト の話を見かけ、また、そのソフトに関する _2chの該当スレ中 で、クローズドソースというポリシーを絶賛(?)する各種主張を眺め、何だかモヤモヤしてしまったことを思い出したり。そのモヤモヤの正体がそのときはよくわからなかったのだけど、今は少し判った気もしたり。件のソフトは、作者が死んだら、ソフトの未来もおそらくは消えてしまう。作者の死と共にその子供であるソフトウェアも心中させられる。たとえその子供がどれだけ多くの可能性を秘めた子供であっても。自分はそのことにモヤモヤを感じてしまったのかもしれない。
「ソースはクローズドであるべき」と考えるソフトウェア作者にとっては、自分が死んだ後の世界で、自分の作品が不遇な状況に置かれようが知ったことではない。自分の名声を高めるために、あるいは自分にとっての経済的な利を得るために、ソフトウェア = 子供は存在する。おそらく彼らにとって、子供は親の付属物でしかない。彼等にとっては、彼等の死後の子供の未来など、どうでもいいことで。
しかし子供を、いや、自分の作った作品の持つ可能性を見据えている作者もこの世には存在していて。自分が死ぬからといって、未来のある子供まで付き合わせて、殺す必要はない。自分の子供に見所があるなら、誰かしら後見人として名乗りを上げてくれるだろう。そう考える親は、いや、作者は、オープンソースにする道を選ぶのかもしれないと、そんなことを想像したり。
まあ、クローズドソースといっても、それが会社などの「集団」の中で生まれたソフトウェアであれば、別の社員・メンバーが引き継いだり等できるだろうし、さほど問題はなさそうな。また、それを生み出す過程で得たものを、形を変えて ―― たとえば技術文献として書き溜めて公開していくという方法によって、それらソフトウェアの遺伝子が後世に残る事例もあったりするだろうしで。一概にクローズドだからいけない・未来が閉ざされるというわけでもないよなと思ったりもする。何かそのへん工夫をしているのなら、それで充分なのかも。
◎ _売られるために育てられる作品より、自由に生きる作品の方が幸せか :
たしか再掲。
「もういつ終了するか分からない」「長くは続けられない」「リンクするのでなく必要なら全文コピーしてほしい」といったことは、哲学や宗教ではなく、単純にサーバ負荷が高くなると、お金が払えなくなって続けられなくなる、ということなのだ。もっと露骨に言えば「無断コピーしてもらった方が、わたしは儲かる」(コストを削減できる)。
このようなトポロジーが成り立つためには、 キャッシュ(古い言葉で言えば無断コピー)は場合によってはフリーの情報発信者に利益を与える面もある、という点が、もっときちんと認識されるべきだろう。商業ベースで情報を販売するならもちろん話は別だが、個人サイト等で、フリーで普通に発信したいのに、プロプライエタリのマスメディアの感覚と混同して「自分の文章が無断で利用されるのは、わたしにとって損害だ」と錯覚してしまうと、いつまでたっても、非生産的なリーチャーのために生産的な発信者がコストを負担する構造から抜けられない。
ただしこれは心理的な面やスケールの要素もある問題で、 「情報の作者として尊敬されたい」というモチベーションが「情報自体」を生かしたい気持ちを上回ると機能しない。図式的には「わたしが死んだらこの情報は利用できなくなります」という作者と作品の無理心中関係だ。なぜならその作者にとって作品は第一義的に自分の功名心を満たすためのものだから、そのこと自体は少しも悪くないが、結果としては、本人が死んでしまえば、その作者にとっての作品の第一義的な存在意義もなくなるわけだ。なんとなく、このへんがどこか関係してくるような気もしたり。ただ、上記の内容はWebサイト・文書情報に関する話で。ソフトウェアの場合は、成果物の中に「バイナリ」と「ソース」という2種類のものが混ざるから、判断が難しいところもありそうだなとぼんやり思ったりもするのだけど。「バイナリ」に対する「ソース」は、情報の種類としては何になるんだろう。
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以上です。