mieki256's diary



2005/08/10(水) [n年前の日記]

#11 [zatta] 「戦争」の定義が広い感じがしたり

_ツッコミ欄での話 にレスをつけてたら長くなってしまったので、こちらでアップするのであります。

なんていうか、色々考えさせられる話だなと。

でもまあ、自分の拙い頭でぼんやり思ったことをメモしてるだけなのでなんともアレなんですけど。これといった結論は出ない話でもあるし。とりあえず、自分の思考メモ、みたいな感じで一つ。

「戦争」の定義が違う気はしたり :

外交は兵器を使わない戦争
勝利 = 「自らの安全の保障」の獲得
このへんを読んで、ふと思ったり。もしかするとツッコミ欄での話は、「戦争」の定義がより広いことを前提にした話なのかもしれないと。

自分の場合は、
「戦争 = 国と国が武力衝突してる状態」
という定義なのですが。
「戦争 = 争いごと」
という広い定義がされる場合もあるわけで…。 *1 そういう広い定義で、かつ、複雑な状態をシンプルに捉えることで、認知・理解・理由付けすることを試みるのであれば、氏の言説(?)・主張は、「それはそれでアリな捉え方」と思えたのでありました。

要するに、「なるほど」「そうかも」と。

「ヤケクソ」なのか「計算があった」のか :

> 戦争という状況に持ち込むことでその時の日本の状況を好転させられる可能性があると踏んでいた

座して死を待つよりは…
っていうことでしょう。

窮鼠猫をかむ。でも、鼠に獅子は倒せない。
といったところでしょうか。
うーむ。それは単なる「ヤケクソ」では…。「状況を好転させられる可能性があると踏んでいた」思考とは違うものだろうと。一緒にしちゃいけない気がするです。

「猫を噛んだその後」を、鼠がシミュレーションしてるか、計算がそこにあるのか、ということなのかもしれず。そのシミュレーションがあるのとないのとでは、行動は同じように見えても、本質的には違う行動を選択してるのではないかと。何より、その後の展開が違う。

で。太平洋戦争開戦では、シミュレーションが自分たちにとって都合が良すぎるものだったか、あるいは、シミュレーションしてた人が途中で舞台を下ろされちゃったか、という話なのかなぁ、と、そんな想像をしてる自分なのであります。一応計算はあっただろうと…。

でも、「ヤケクソ」かもしれんしなぁ…。自分、その当時のことを詳しく知ってるわけでもないし。ちょっとよくわからない。

仮に「ヤケクソ」だったら、あまりに日本人がバカすぎて絶望するしかなさげではあります。するとおそらく未来でも、二度三度も同じことを繰り返しそう。ドイツが2回も同じことをしてるんだから、日本だってその可能性はある。と、そんな未来を妄想して怖くなったり。

状況は違うのでそれはないか。日本の場合、おそらくはドイツと違って、経済的に復興したという体験をしてることが大きいのかもしれんし。武力衝突という選択肢をとることの不毛さ・効率の悪さを知ってるような気もするし。これから、周囲の国々に抑圧されるような状況がどれだけ発生するか、という気もするし。

不信感というもの :

日本がどんなに仲良くしても、相手は戦争を仕掛けてくるかも
悩んでいる間にこめかみに銃を突きつけられてしまうかも
「死にたくなければ敵を倒せ」という追い込まれた状況で
このへんを読んで、「相手に対する不信感が、悲劇を生み出すのかもしれないなぁ」と思ったり。

…戦時中の、米軍が沖縄に上陸したときの映像を見ると、考え込んじゃうのです。断崖絶壁から飛び降りる、子供を抱えた日本人女性の映像とか。

おそらく適切な交渉ができたなら、米軍は彼女を殺すことはなかっただろうと。でも当の女性は「米兵は自分達を殺す」と思い込んでただろうし、「適切な交渉」なるものが存在する可能性も知らなかったのだろうと。

しかも、それら「交渉」を知ってても、行使することが難しい状況だったろうとも。民間人の姿をして、米軍に爆弾持って突っ込む日本兵が出てきたわけだし…。そうなると米兵にとっては、誰が民間人で誰が戦闘員か区別がつかない。であればその場に居る日本人全員を、戦闘不能の状態にするしかなくなる。それを見た日本人が、「米兵は自分達を殺す」の思い込みをますます強固にして…。防空壕の中で布団に火をつけて自決しようとしたり、母親が娘を殺してから自分も自決したり。そんな光景が展開されて。

どれもこれも、相手に対する不信から始まってる。「ヤツラは○○をするかもしれない」「いや、絶対にする」みたいな。そういう想像力が働いて、「座して死を待つよりは…」という、自滅に繋がる行動に走る。

でも、仮に、日本とアメリカの立場が逆だったとしたらどうなのかと。当時の日本兵が、アメリカ本土に上陸できたとしたら、そこに居るアメリカ人を、民間人を、皆殺しにしたのだろうかと。…たぶんしないと思うわけで。一部では、そういうことをしようとする人が居るかもしれんけど。大半の日本人は、「そこまで残虐なことを俺達はしない」と思うような気が。実際日本兵は、アジアの各地で、そこに済む人達を皆殺しにはしていないし。<いや、それは状況が違うから、実例にはならんだろ…。

自分達がそういう状況に置かれたら「自分達はやらないだろう」と思う。でも、相手がそういう状況に置かれたら「相手はやるだろう」と思う。…どうも話がおかしい。かといって「相手が自分たちのように振舞うか」という確証もない。やっぱりそこには不信感が残り。

そういう状況になる前に、ルールを作っておくしかないのかもしれないなと思ったり。白旗を揚げたら戦闘は終わりとか。民間人の扮装をして敵の部隊に特攻することは絶対にしないとか。どんな危機的状況に置かれても、最低限このルールだけは守ると。そのルールを守ったものは生命を保証されるし、ルールを破ったものは生命を奪われると。 そういうルールを決めておかないといけない気が。で。そういうルール作りは、平和な時にしかできないことで。平和な時に作って、相手もそれを守ってくれることを信用するしかない。もしくは、守らざるをえないと思わせるだけの抑止力を準備しておかないといけない。 *2

でも。その平和な時に、不信感を前面に押し出して、「ルールを作るなんて無駄だ」「所詮戦争は○○だ」「そういう状況に置かれたら、相手はルールを守らない」等言い始める人が出てくると…。これは困るかも。たぶん、話が進まない。結局、ルールを作れずに終わるか、ルールを作っても平気で破る人が出てきて、悲劇が生まれてしまう。

となると。実は、本当の敵は ―― 自分たちの生命を脅かす真の存在は、自分の中に存在する相手への「不信感」だったり、「不信感を前面に押し出した主張・行動を繰り広げる人」だったりするのかなぁ。とか。つまり、本当の敵は自分達の中に居る、みたいな。

まあ、そんなことをぼんやり思ったのでありますが。なんだか、『イデオン』とか『∀ガンダム』みたいな話な気もしてきました。いや。ひょっとすると『CASSHERN』? …むぅ。所詮自分は、頭の中だけで考えてる人ってことかしら。

でもまあ何にせよ戦争は回避すべき手段なわけで :

どうやって決着をつけるのかシミュレーションするのも大変だし。大抵予測を外れた動きをするし。終わっても遺恨を残すし。とにかく後処理が面倒だし。

もっとも基本的なところが「食料」
これはそうだろうなぁ…。少なくとも民衆のレベルでは、食えてれば問題はそんなに起きない感じが。日本の戦後復興もそうだし、中国の経済開発関係もそうだし、ドイツが2回目をやっちゃったのもそうなのだろうし、食えるようになると不満がグンと減少する、ように見える。「どうやって食えるようにするか」に知恵を使うことが、戦争回避に最も有効な策なのかもなぁ…。と思ったけど「食えるようにするため」に戦争が起きるのか。ややこしい…。む。戦争をすると食えなくなる可能性が高いことを、知識として持つことができれば、もしかするとそれが抑止力になるのだろうか。

でも、戦争するかしないかを決定するのは、民衆じゃないし…。決定する人を民衆が選ぶことはできるかもしれないけど…。

というわけで自分の中でも考えがまとまらないのでした。まあ、まとまったからといって、何がどうなるというわけでもないのですが。

*1: ビジネスの世界でも、よく「これは戦争なんだ」とか言われたりするようですし。…余談だけど、ビルゲイツはそういう煽り方(?)がかなり好きらしい。
*2: もちろん、今までの戦争にだって、それらルールはあったはずだけど。太平洋戦争の場合、双方がそのルールを破ってるところがあるしなぁ…。ややこしい。

以上です。

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