mieki256's diary



2005/12/23(金) [n年前の日記]

#1 [nitijyou][pc] NICをつけた状態で memtest86 を走らせてみたけどエラーは出ない

LANケーブルを繋いだ状態で28時間動かしてエラーが出ないんだから、NICじゃなさそう…。

さて、どうしよう。XWAVE 5000 は、もしかすると自分が壊してしまったかもしれんという不安があるし。やっぱり 別のサウンドカードをつけるか…。

ということで、SoundBlaster PCI 128 (MODEL CT4700) をつけてチェック開始。

#2 [emacs] emacs で yahtml と css-mode を設定

xyzzy の該当編集モードと比べると、どうも使いづらい。いや、単に慣れの問題かもしれんのだけど。

xyzzy の場合、
  1. 開始タグを打つ。
  2. テキストを打つ。
  3. 「</」と入力すると勝手にタグを閉じてくれる。
という流れだけど。

yahtml の場合、
  1. ショートカットキーで開始タグと終了タグを同時に挿入。
  2. テキストを打つ。
  3. 終了タグの次の位置にカーソル移動。
のようで。…うーん。やはり勝手にタグを閉じる機能が欲しい気も。

もしかすると、テキストだけガーッと打ってから、リージョンでタグをつけていく方法かとも思ったけど。そういうわけでもないらしい。

テキスト量がどの程度になるか予測がつかないうちから終了タグが見えてるのは、なんだか妙な感じではあったり。閉店間際に流れてくる蛍の光、みたいな。ちと落ち着かない。まあ、yahtml に限ったことではなく、各種統合環境上でのプログラムソース記述時の自動補完 ―― 例えば、if ( ) { } 等の挿入時も同様に「終わり」が先に出る場面が多々あるわけで。なんだか、「終わり」を先に出力しておきたい文化、てのがあるみたいだなと、そんなことをなんとなく。

M-RET でそこそこいい感じのタグを挿入するらしい、のだけど、タグを閉じなきゃいけない場面でタグを閉じないような? どうも昔の html 仕様を前提に作ってありそうな予感も。例えば、<center>タグのショートカットキーがあるあたりとかもそうだろうし。css使ってたら、<center>タグは使わないよな。つまり、css をあまり意識できなかった時代の仕様、だろうと想像。

css-mode の補完が M-TAB に割り当てられていて閉口 :

M-TAB は、ウインドウマネージャがウインドウの切替えに使ってしまう場合が多いので、X 上の emacs からは使えなくなるのだけど。何故にそういう割り当てにしてる elisp が多いんだろう。不思議。「ESC-TAB」「M-C-i」で使えという意見も見かけたけど、わざわざ遠く離れたESCを押して「トト」が「トンっ・トン」になるのもアレだし。キーの数が 2 → 3 に増えるのもアレだし。 *1

直接 css-mode.el を書き換え。M-TAB を指定してるところを、C-. にした。xyzzy で C-. に慣れてるので。

余談。奴隷であるコンピュータを動かすための経文を、主人である人間様が覚えることについての疑問 :

yahtml にも見られる、「タグと対になったショートカットキーをずらずらと用意していく・増やしていく方法」ってのは、アプローチとしてどうなんだろうと。

エディタで html を書いてる人間の頭の中には、打ち込むべきタグの綴りが既に存在するけれど。それらの綴りとはまた別に、新たにショートカットキーを脳内に記録させるというのは、二度手間になってるのではなかろうか。IBMホームページビルダー等、WYSIWYG のツールにありがちな、「文書の中身の作成に必要な知識とはまた別に、ソフトの使い方に関する膨大な知識も必要になってしまって、結局てんやわんや」的、奇妙な状況に近付いてる気がする。

てなことを、「yahtml を使うとショートカットキーでタグを打ち込めて便利」などと紹介してるページを目にして思ったり。emacs って、M-/ を押すだけで既存の単語を補完してくれるわけだけど。そういう機能を持つエディタを使ってる人間が、ショートカットキーの多さを褒めるあたりに違和感が。もう、「コンピュータ様にお仕事をしていただくための経文を、奴隷である人間がひたすら覚えるべし」てな時代は終わりつつあるのかも、と思ってたのだけど。そうじゃない世界が現存してる空気をどことなく感じてしまったような気もして、なんだかもやもやと。

例えば、css-mode.el は、補完を利用して「シンプルな手順」のみ提示してるのだけど。個人的にはそちらのほうが「emacs的」「UNIX的」解決のように思える。いや、yahtml も補完はできるのだけど、標準のキー割り当てだと、3段階ぐらいキーを押して補完するようになってるようで。あまりそのへん重要視されてない・もしかすると冷遇されてる予感も。自分が見かけた yahtml の紹介ページも、えてして「ショートカットキーをこれだけ打つだけで、ほら、こんなに」「ショートカットキーはこんなにあるんですよ。スゴイでしょ」的内容が多いあたり、「経文」の更なる増加を有難がってる感じがして。そこは有難がる場面じゃなくてゲンナリする場面じゃないのかと。ていうか自分はキーの一覧を見てかなりゲンナリしちゃったんですけど、もしかして少数派なのかしらん。 *2 *3

てなことを考えつつも。blog や wiki が存在するこの御時世に html 直書きのことを考えてみてもあまり意味はなさそうだなとも思ったりもして。まあ、便利さを追求していくことにも方向性ってのがありそうだなと。単にそれだけの話。たぶん。

余談の余談。htmlタグ・ソースを打つときの流れと処理の軽さについて :

  1. 「<」が打たれれば、そこからタグが始まるであろうことは間違いない。
  2. その直後に、例えば「h」を打てば、そこに入るタグは、<html>,<head>,<h1>,<h2>…といったあたりで決まってくる。つまり、補完が使える。補完のキーはショートカットキーを1つだけ覚えてればいい。
  3. 「>」が打たれたら開始タグの記述が終了したことは間違いない。後はテキストを書くだけ。
  4. 開始タグは必ず終了タグと対になるので…。「</」が打たれたら、その後ろに、開始タグと同じ単語が『絶対に書かれる』はず。コンピュータが人間の代りに打ってくれる。
…といった流れが、xyzzy での html編集。たしか css 編集も似たような感じ。「終わり」を事前に出しておきたい文化・ショートカットキーを押しまくる文化より、こちらのほうが個人的にはしっくりくるのでした。

でも、xyzzy のやり方は処理が重いのかもしれないなと気がついたり。
  • いつ、「<」「>」「</」が打たれるか、絶えずチェックしてなきゃいけない。
  • 「<」が来たら、その後に続く単語やパラメータを推測しないといけない。
  • 「</」が来たら、どの単語が自分と対になるのか、遡って調べなきゃいけない。
それを考えると、開始・終了タグを同時に出してしまう方が処理は軽そう。

複数のユーザが同時に使用する可能性があるために、処理はあまり重くできない UNIX系と、個人が利用する場面がほとんどであろうから、多少重い処理も実装できる Windows系、てな文化の違いがあったりするのかな。わからんですが。

*1: といいつつ、IME ON を 「半角/全角」という『遠いキー』にしてるあたり、自分も矛盾してるのだけど。
*2: いや、htmlタグも経文なんだけど。そっちの経文は覚えちゃったんだから仕方ない。
*3: <h1>~<h6>なんて html 中で利用頻度少ない上に文字数少ないのに、なんでそんなとこまで割り当ててるのか。とかそんな疑問もチラリと。

#3 [anime] ケロロ軍曹、動物の擬人化の回

猫がグー。ただし変身前。さておき、赤ガエル妄想時の「ムフゥ…ムホ…グフッ」なる笑いが素晴らしい。感情を表面に出すことを絶えず自制せずには居られない戦士ぶりを見せつつもしかし脳内に広がる薔薇色のシミュレーション映像に心を奪われるその様がまさしくムッツリの本随を表現して以下略。

象は北斗の拳からのインスパイアだろうか。原作にもあるのだとしたら、やはりローディストの血が以下略。虎は格ゲーっぽいような。

#4 [anime] ウルトラマンMAX、友好的宇宙人の回

太田愛脚本。平成ウルトラシリーズでこういう話を書かせるなら、この脚本家さんでキマリ、だよなぁ。

#5 [anime] セイザーX、3日間の回

素晴らしい脚本。冒頭のカットからして非凡。笑えるシーンも多々。シリーズ序盤でこんな密室劇(?)を出してくるとは予想外だった。状況というか、設定自体は、STAR WARSの1シーンとまったく同じなのだけど。アレをここまで拡大して、主人公と敵の交流を描いてしまうあたり、素晴らしい。

#6 [anime] BLOOD+、地下室でパーティの回

主人公のお付きの人、いいなぁ。無表情でやりあうあたりとか。

#7 [anime] エウレカセブン、首都に突入の回をビデオで見返し

あら! OPが変わってる! リアルタイムで視聴してたときはOPを見損ねてたので、気づかなかった。

なるほど、アップの表情を中心に描き直してる、ような。それでもまだ無理してる感じも受けるけど。もしかすると画面の明るさ・背景もいじってある…ように思えたけどそれはちと自信無し。

冒頭の動画追加と、主人公メカに戻ってくるあたり、どうして追加・修正したのか疑問に思ったりもして。以前の映像を見ていて、特に変える必要は感じなかったのだけど。何か意味付けがあるのかしら。冒頭は、設定上それまで孤独だった少女の境遇を表現してるとか。

OPの最後のカットで、少年と少女が手を繋いでるかのように若干修正されてた点が気になったり。考えてみればこの作品、最初のOPでも、本編でも、手を繋ぐことの重要性を意識しているような気がする。種族の違う者同士が手を繋ぐ ―― それは、誰の目にも明らかな『象徴』になり得るし。また、手を繋ぐことがイデの発動のスイッチになってるあたり、ストレートというか、判りやすいな、とも。

_エウレカセブンの第3期OPは30年前に原案があった :

おお。たしかに! <オイ…。

#8 [anime] ライダーヒビキ、ザンキさん全裸回をビデオで見返し

全裸師弟コンビ。どっちも役者魂が垣間見える。肌は寒いが心の中は熱いぜ! とか。

走りながら変身しつつ攻撃しちゃう映像は、もしかするとライダー剣の功績なのかもしれないなと。 :

前にも書いたかな。コレ。…いいや、書いちゃえ。

平成ライダーシリーズの変身シーンに関しては ―― もしかすると昭和ライダーも含めて、かもしれんけど ―― ライダー剣でブレイクスルーが起きたのではないかと思えてきたり。静的 → 動的になったというか。

アギトの変身シーンは、アギト、G3、ギルスの3種類があるけれど。それぞれ、変身シーンの作り方からして違う。
  • アギトは、旧来のライダーシリーズの踏襲。
  • G3は、ヘルメットを被る等、リアルな方向に追求。
  • ギルスはG3の真逆で、観念的・イメージ映像で表現。
しかし3つとも、基本的には立ち止まった状態での変身。 *1

龍騎の変身は、2D的なエフェクトのみで表現。おそらく、ミラーワールドという異次元世界への導入も兼ねたシーンになるから、次元の違いを意識して2D表現を用いたのかな、という気もするのだけど。何にせよ龍騎のソレも、役者さんがピタッと静止した状態で変身する。

555の変身は、人物の周囲を光の線が回り込むという、立体・奥行きを意識した表現。メカを使って変身するあたり、アギトのG3と共通するところもあるわけで、どちらかというとリアルな方向を意識した画作りだろうと。が、コレもまた静止した状態での変身。

ライダー剣は、ガラリと変わる。実は、エフェクトそのものは旧来の作品と比べて地味なのだけど。(<たしかあちこちで、エフェクトのことを「畳」と揶揄されてた記憶も) その代わり、なのだろうか、役者が動いてるのに変身できてしまうカットが多々見られるようになった。
  • バイクで疾走しながらの変身。
  • 公園の柵を飛び越えながらの変身。
  • 敵に殴られて地面を転がりながらの変身。
  • 階段を降りながらの変身。
これまでのライダーの変身とは雲泥の差。更に、それらを、昭和ライダーの映像のようにモンタージュ技法で逃げつつ実現するのではなく、1カットの中で連続した動きとしてしっかり見せてしまう。かつ、ビデオでコマ送りでもしないと、いつ役者さんが入れ替わっているのかわからない。…何かと評価の低い作品ではあるけれど、変身シーンのバリエーションに関しては、旧来のシリーズから圧倒的な進化を遂げている。と思える。

で、ライダーヒビキは、走りながらの変身に加え、同時に敵への攻撃も行ってしまうというパワーアップぶり。ライダー剣で確立した技術を下地にしつつ、更なる発展を遂げてみせた、と思うわけで。

考えてみれば、ライダー1号はバイクで走りながら変身してたわけで。ある意味ではライダー剣で原点回帰を成し遂げたと言えるのかもしれない。それでいて昭和ライダーとは違い、1カットで表現できるところまで技術向上を果たしたわけで。「やろう」と言い出したであろう、監督さん・上の人達もスゴイけど。実際にやってみせた特撮スタッフもスゴイ、と思うのでした。

ここまで書いて思ったけど、コレ、前にも書いたことあるよなぁ。まあ、いいか。

*1: ギルスだけはイメージ映像の強みで、バイクで疾走しながら変身できたような記憶もあるけど、ちと記憶が怪しい。

#9 [tv] ここ数日、「チャングムの誓い」なる韓国ドラマを見てるのだけど

感心するところが多々。サザエさんみたいなカメラワークで、よくまあここまで。脚本の力、なのだろうな。上手い。

気にしながら見ている点が、数点。
「恨み」「復讐」のリピート頻度。あるいは、念の強さ。
やはり韓国の民族性が若干滲みでている、と見るのはちょっとフィルタがかかってるだろうか。…まあ、例えばハリウッド映画でもそういう設定はよく使うから、韓国作品特有というわけではないんだけど。ハリウッドなら、銃を撃ったり、日本刀を振り回して直接的に復讐しちゃうところ、だろうけど、この作品はそのへん間接的というか、陰湿というか。いや、そのあたりは映画とTVの違いなだけかも。時間の長さが全然違うし。
主人公が「嘘」をつく・「盗み」を行う。
「正義」の側として描いてるはずの主人公がときどきそういうことを行うあたり、韓国では肯定されているのだろうかと疑問が湧いたりもして。もっとも、主人公がそれらの行動を行う場合にはルールがあって。「自分以外の誰かの境遇を改善するのであれば、嘘も盗みもOK」みたいな。師匠の名誉回復とか、彼氏の生命を助けるとか。自己保身のための嘘・盗みはしてないように見える。
稀に混ざっている、日本批判。
「詫びるなら行動で示せ」等の台詞は、煽動なんだろうなぁ。そんな映像がNHKで流れてる状況自体が興味深い。日本人は懐が深いのか。それとも何も考えてないだけか。まあ、面白いからどうでもいいけど。
登場人物の愚行の多さ。
愚行が目立って興醒めしてしまうところが多々。もっともそれについては日本のドラマも同様なわけで。やはりドラマを作るためには愚行が必須なのだなと再認識。でないと話が動かないし。…でも、何か上手なカモフラージュを考える必要がありそう。感情面を考えると納得できる、とか。あるいはキャラ設定を生かすとか。
「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「大岡越前」あたりとの類似性。
結局のところ、絶対的な権力を持つ「上様」の指示で事態が好転する展開ばかりなわけで。水戸黄門と同じ。たぶんそのあたりに視聴者が喜びそうなカタルシスが ―― おそらくはアジアに共通する何かが埋め込まれていそうな。とはいえ日本のソレとは違う部分も。最終的には「上様」の指示で好転するとしても、そこに到達するまでの過程で、主人公のアクティブさを必ず見せている点とか。また、日本の場合はえてして「上様」が主人公になるけど、あちらの場合、「上様に仕える人」が主人公になるあたり、ちと興味深い。水戸黄門を見ている視聴者が感情移入するのは、誰か。黄門様か、それとも黄門様が救うはずの人々か。それを考えたとき、この作品の巧みさが見えると同時に、かの国の矛盾点も垣間見える気がする。
何にせよ、次から次へと障害イベントが発生するあたり、少年ジャンプ的というか、「ガラスの仮面」的というか。上手いなと感心。…ドラマや映画の類を見ていると、必ず舟を漕ぎだす親父さんが、「チャングム」は、毎回最後まで起きてる・見ているのですよ。スタッフが、テクニシャンであることの証明。

「水戸黄門」との類似をどうして意識するかというと。 :

以前どこかで、韓国の映画監督の来日インタビュー記事を読んだのがきっかけだったり。

韓国の映画監督曰く、
  • 「ホテルで水戸黄門を見た」
  • 「面白いとは思ったが、水戸黄門は韓国人にはウケない」
  • 「登場人物が受動的過ぎる」
と言っていて。そのときは「なるほど」と思ったものの、「チャングム」を見たら、「おいおい。そっちだって結局上様が解決してるやんか」と。

まあ、自分で事態を改善するのではなく、優秀な君主の登場を望む ―― 要するに他力本願を望むあたりは、おそらくアジアに共通した特有の性質じゃなかろうかと思ってるので、別に悪いことでもなんでもないんだけど。

以上、1 日分です。

過去ログ表示

Prev - 2005/12 - Next
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリで表示

検索機能は Namazu for hns で提供されています。(詳細指定/ヘルプ


注意: 現在使用の日記自動生成システムは Version 2.19.6 です。
公開されている日記自動生成システムは Version 2.19.5 です。

Powered by hns-2.19.6, HyperNikkiSystem Project