mieki256's diary



2012/06/12(火) [n年前の日記]

#1 [cg_tools] Metasequoiaをインストール

3.0.2が出てたらしいのでインストール。

2.4.14のフォルダからプラグインをコピーしたら、必ず不正終了するようになった。うーん。

#2 [anime] 京アニ作品は凄いな…

「氷菓」を見ていてクラクラしてきた。一見すると地味な印象だけど、細部の作り込みが…。ほぼ全カットに何かしらの工夫が盛り込まれている。とんでもない密度、のような気がする。京アニ作品は凄い。「今頃何言ってんだ」と言われそうだけど。

「私、気になります」のカットに感心。所詮は人が描いた絵に過ぎないはずなのに、眩しい…。おそらく主人公視点ではこう見えるというカットだろうけど。キラキラした瞳でそんなに見つめるな、眩し過ぎる、疲れるからやめてくれ、そんなに顔を近づけるな、わかったわかりました、やりますよ、と困惑して依頼を引き受ける主人公の気持ちが伝わってくる。この少女は、主人公が絶対この謎を解いてくれるはずだと完全に信じ切ってるのだろう、怠惰な主人公もこんな目で見つめられたら動くしかないわなあと、たったの1カットで納得できるほどに説得力に満ちた画が、ほぼ毎回、しっかり出てくるあたりがとんでもないなと思う。

会話のテンポも絶妙。「〜だと思いませんか?」「(思いません)」てなやりとりですら、その間(?)の取り方だけで笑ってしまった。間髪入れずに返すから、バッサリ切って捨てている感が強烈で。…考えてみると、それらやり取りをする際、主人公はえてして心の声、モノローグ?で返す。口パクが無い。その分、アフレコ時だか編集時に、間を詰めるよう演技を要求したり、機材でタイミングを調整しやすくなりそう。もしかすると、脚本やコンテ段階で、後から調整しやすくなるよう、口パクの有無や表情の見える角度を計算しながら書いていたりしないか。と、思えてくるほどに絶妙なタイミングが多く。時間制御の上手さ、細やかさを感じる。

ネタバレになるけれど、 温泉旅行の回のラストには唸ってしまった。それまで、 姉妹・兄弟なんてそんなにいいものじゃないと思わせる方向で会話を進めておきながら。 妹を背負う姉、鼻緒が切れた草履(?)のカットと、 心配そうな幼女らしい声で「イケる?」の台詞。説明に要したカットは2カット。使った台詞は一言。たったそれだけで雰囲気を180度変えた、その見せ方にシビレた。…原作から改変・追加した部分らしいけど。自分は、これは全然アリだと思った。少女が持っていた、お花畑な理想を全否定したわけでもなく。少年が語った、殺伐とした関係を全肯定したわけでもない。0/1ではないと思わせて、見ているこちらも少し嬉しくなって終わらせるあたりが実にいい。作画や演出に負けじと脚本面も工夫している、ような気がする。

なんというか、京アニは、間違いなく映像作品を作っているスタジオだと思える。 *1 映像だからできること、映像じゃなくてもできること、色々あるわけだけど。総合芸術だからこそできる見せ方や伝え方を、京アニ作品は駆使している印象。素晴らしい。

しかし、こんな作り方していて、持つのかなあ…。

これが全部CGだったら、自分はどう感じるのだろう。手描きアニメだから感心しているのだろうか。…CGになっても変わらないかもしれない。PIXAR作品も、毎回作り込みの凄さに仰天してるし。神は細部に宿る。PIXARも、スタジオジブリもそうだけど、京アニも毎回それを実証してる気がしてる。…とにかく頭が下がります。素晴らしい。
*1: アニメスタジオなのに何を言ってるんだと思われそうだけど、つまりは、アニメが総合芸術であることを意識しないまま、漫然と作ってるスタジオ/作品/演出家/脚本家がたまに目につくなあ、という話で。スピリッツはあるけど技術が追いついてないだけなのか、そもそもスピリッツが無いのか、単に自分の観察眼がダメダメなのか、分からないけれど。

#3 [game][neta] 紙芝居ゲームについてまだ悶々と考えている

まだ考えてる。

自分、絶対どこかで勘違いしたまま考えてる。おそらく、前提からして間違えてる。けど、考えがまとまらないとなんだか気持ち悪いのでメモ。

まとめ。 :

  • テキスト表示は、本来は間に合わせ。妥協の産物。
  • UIを見れば、考えて作ってるか考えてないか分かる。
  • 目指すものを意識してから作り始めると答えが見えるかも。

元々の紙芝居はどうだったのか思い返してみたり。 :

元々の紙芝居は、語り手?が居るのが当たり前だったよなと気がついたり。

子供達が遊んでる広場に、自転車の荷台に箱をくくりつけたおじさんがやってくる。ベルみたいなものをカランカランと鳴らす。子供達が集まってくる。絵を少しずつ差し替えながら、おじさんは喋る。
  • お姫様が登場すると、女性っぽい声を真似したり。悪者が出てきたときは、野太い声になったり。
  • アクションシーン(?)になると、絵を差し替える速度や、喋りの速度がグングン上がっていく。

元々の紙芝居は、説明を「語り」で、つまりは「音声」で行ってた。音声だから、そこには「時間制御」があったし、「演技」も含まれていた。それが、本来の紙芝居。

アナログだったけど、何十年も前に、すんなり実現できていたこと。

コンピュータが家庭に入り始めた頃を思い返してみたり。 :

やがて、コンピュータが家庭の中に少しずつ入り始めた。当時はパソコンと呼ばず、マイコンなんて言われてた。

そのコンピュータ上で、紙芝居ゲームが発生した。

ところが、当時のコンピュータは性能が低すぎて、音声を扱うことなんてできなかった。仕方ないから、作り手は、画面にテキストを表示して説明することにした。

…やりたくてやったわけじゃない。それしかできないから泣く泣くそうしただけ。カタカナひらがなメッセージで説明せず、島本須美様あたりの声で説明できたら、どんだけ嬉しいか。でも、無理。速度も容量もない。カタカナひらがなで説明するしかないじゃん。

ついでに言えば、当時は画像すら満足に扱えなかった。毎回、LINE文で線画を描いて、ノロノロと塗って表示していた。たった8色の画像なのに、1枚表示するに何秒もかかった。これでは、コンテンツの時間制御なんて夢のまた夢。映画やTVが24〜30コマ/秒で時間制御してるその横で、1コマ出すのに5〜10秒かかるメディアで時間制御をしても話にならない。

だからそのへんはバッサリ諦めて、全てをユーザにお任せすることにした。テキストを読んだら、キーを叩いてください。マウスをクリックしてください。このスペックでは、時間制御は無理です。時間の制御は、プレイしてる貴方にお願いするしかありません。

全てが「間に合わせ」。何もかもが「妥協」。他に選択肢が無かった。スペックが足りてないのだもの。

そして今。 :

そして今、コンピュータの性能は飛躍的に向上した。音声も扱えるようになった。画像も一瞬で表示できるようになった。

ようやく、本来の紙芝居だって十分できる時代になった。さあ、仕方なく諦めていたアレコレを、今こそ実現できるぞ。夢のような時代がやってきた。

ところが、テキスト表示で済ませてた時代が長過ぎて、ユーザも作り手も、「このジャンルはこういうもんだ」「これでいいのだ」と思い込んでしまった。シナリオが主であり、音声も画像もオマケだと、それが正しいと信じ込んでしまった。やりたくてやってたわけじゃないのに。

少なくとも、元々の紙芝居は、画と音声が主。考えてみればテキスト表示なんて無い。テキストはオマケどころの話じゃなく、そもそもそんなもの最初から無かった。…今ならゲームもそのように作れるはずだが、どうして何十時間もテキストを読まされる状態になっているのか。紙芝居のおじさんが何十時間も演じ続けてたら子供達は次々と去っていくだろう。それを考えると…自分達は、マゾか?

そう考えていくと、紙芝居ゲームと呼ばれるものの大半が、どれだけいびつな形で、思考停止したまま作られ続けているか、なんとなく見えてきそうな気もしたり。

ではどうすればいいのだろう。 :

作り手が、作り始める前に、ある種の夢やビジョンを持つことかな、と思えてきたり。

近づけたいメディアを意識するだけで違う気がする。小説に近づきたいのか。漫画に近づきたいのか、アニメ、(元々の)紙芝居、絵本、無声映画、歌舞伎、人形劇、一体何に近づいて、追い越したいのか。

もちろん、「ゲームならでは」の新しい「体験」がそこに無いと、「だったら最初から○○書けばいいじゃん」で終わっちゃうけど。せめて、「ライバル」「先輩」を意識するだけで、それぞれの正解が見えやすくなる気もする。

そして、作り手が何を意識したか一目で分かるのが、UIデザイン(?)かなと思ったり。
  • 小説に近づけたいなら、主であるテキストがとにかく読みやすい、そんなUIを目指すはず。数行しか表示できないメッセージウインドウは真っ先に廃止されるし、テキストの後ろで画がパカパカ切り替わったら読みにくいだけだから、そんなレイアウトにもならない。全ての台詞を音声で用意する必要もない。テキストを読ませたいのであって、音声を聞かせたいわけじゃない。ここはどうしても声を聞かせたい、そのほうが効果的、と思える箇所だけ音声入りになる、かもしれない。
  • 漫画に近づけたいなら、キャラ絵のレイアウトと、誰が喋っているかが重要になる。メッセージウインドウは廃して、キャラ絵に吹き出しがついて回るレイアウトが正解だろうし。カメラ位置がどんどん変わる見た目を目指すから、キャラの立ち絵のスクリーンショットすら、バラエティに富んだ見た目になってないとおかしい。
  • アニメに近づけたいなら、メッセージウインドウも、マウスクリックも要らない。全ての時間制御は、事前に作り手が管理設計しておくのだから、ユーザがマウスクリックしないでどんどん済むのが理想。画面にテキストが現れることもない。巷のアニメは常時画面にテキスト表示なんかしていない。表示しなくてもコンテンツになっているのだから、ゲームも同じことができるはず。

つまり、自分達がどこを目指しているか意識していれば、UIデザインは自ずと決まる。悩んでも、すぐに答えが見つかる。

逆に言うと、旧来の、諦めと妥協から生まれたUIを延々と踏襲している作品は、一目で、考えなしに漫然と作られていることが分かってしまう。のかなと。

ていうかフツーはこうなる前に気付くものではないかと思えてきた。 :

ゲームの収録に使う台本の厚さが凄いことになってる、という話をどこかで見かけた記憶があって。持ち運びすらやっかいなので、タブレット端末が出てきたときに、「これで台本をどうにかできる。microSD に入れてタブレット端末で見れば楽になる」と喜びの声が一部から上がった、とかなんとか。

フツー、そうなった段階で、「…この作り方は、何か間違えてないか?」と疑問を持たないのかな…。

やりたくてもやれなかったから、仕方なくやってたことを、安易に基本にしちゃって。そこに後付けでアレコレ足してしまったから、量がおかしなことになったのではないかなあ…。わかんないけど。

スペックが向上して、やりたいことはある程度出来る時代になったのだから、そろそろ、「自分達がやりたかったことって何だろう?」「どこに行きたかったんだろう?」と、手を動かし始める前に問い直して、ジャンルのスタイルに大鉈を振るってみるのもアリではないかしらん。もしかすると、必要と思ってたシンドイ作業、揃えようとしてた膨大なデータが、全部要らないものだった…そんな結論が出てこないとも限らない。…どこを目指すかによって、真逆の展開も、更なる地獄への扉を開く可能性も否定できないけど。

とりあえずそんなことを素人考えで思ったとメモ。

ここまで書いといてなんだけど。 :

紙芝居ゲームと呼ばれるソレは、元々、紙芝居じゃなくて、絵本を目指してたんじゃあるまいか? AplleII だか Mac だか、そのへんが出始めた頃に、動く絵本がどうとか、そういう記事を読んだ記憶が。

絵本として捉えると、明らかにシナリオ量が異常だよなあ…。途中から小説家志望の人達がどんどん入ってきてこんな状態になったのだろうけど。ジャンルが本当に欲していたのは、絵本作家志望の人達だったりして。

いや、やっぱり違う。当時のスペックでは絵本しか目指せなかった、そう捉えるのが正解かも。今は何でもできるスペックが手に入ったのだから、絵本を目指すべき、と思い込む必要はまるでないよな…。

この記事へのツッコミ

Re: 紙芝居ゲームについてまだ悶々と考えている by 名無しさん    2012/07/05 16:35
いろいろあるので箇条書きで。
・長い長いと連呼しているが、めちゃくちゃ長い部類のFate/stay nightでさえ、文庫本でいったら十数冊〜せいぜい二十冊ぐらい。既刊の長編小説シリーズを一気に買うのと変わらない。
・漫画、映画、紙芝居など絵と音を基盤にしたメディアと比較しているが、こういったゲームは基本的には挿絵と音楽付き文芸と考えた方が近い気がする。
・声があれば演技ができるというが、声は昔は存在しなかった。Fate/stay nightも元々は声なし。
・文字なんか表示したくないのに仕方なく表示している、のではなく、文字が主のものとして、それに様々な演出を追加して発展したメディアである。
・既にノベルゲームという一つの種類のメディアなのだから、他の種類のメディアと長さが違うということを持って非難材料とすべきじゃない。週刊漫画作家が長編小説作家に対して長すぎると文句言っているようなちぐはぐさを感じる。
・「自分にはこの長さは合わない」と言えばいいのに、自分に合わない要素をそれだけで普遍的な欠点であるかのように主張するのは無理がある。
・シナリオの無駄を削っておらず、没もリテイクもないという考えが、どこかからか拾ってきたたった1枚の絵からの妄想にのみ基づいており根拠に欠ける。
・なぜ、量と体験がトレードオフであるのか。量が多く、それを読んでいる間ずっと素晴らしい体験ができるなら最高ではないか(もちろんそうでない場合も多いが)。
・こういったゲームにおけるユーザーの体験のためには、登場人物への感情移入が重要。そのためには一定のボリュームが大変有効。
・漫画っぽい画面構成でキャラクターが吹き出しでしゃべるノベルゲームも、テキストウィンドウがないノベルゲームも、既にある。
・立ち絵が惰性になってることが多いのは同意。

#4 [game][neta] 決定キーを押すだけで進行するゲームは何を「体験」させているのだろう

わかんない…。ああいったゲームは、何を「体験」させているのだろう…。

カードゲームは何を「体験」させているのだろう。 :

これもわかんない…。

1〜2回はプレイしたような記憶があるのだけど、何が面白いのかさっぱり分からなかった。その後、社内(?)で大流行してたし、今はもう、そういう市場が確立してるぐらいだから、そこに面白さがあるのは絶対に間違いない。でも、それが何なのか、わかんない…。

シミュレーションゲームや、TRPGも、わかんない…。学生時代にちょこっと混ぜてもらった記憶がある。でも、面白さがわからなかった。

それらは、ユーザに何を体験させているんだろう?

「イメージ」が足りてなかったのかな。 :

ヴァンガードの中で、「イメージしろ!」という台詞が頻繁に出てくるけど。もしかして、「イメージ」する能力が、自分は欠落しているんだろうか。楽しんでいる人達は、「イメージ」して、楽しんでいるのだろうか。

TRPGあたりは、どう考えても「イメージ」できないと楽しめない気がする。ひたすら喋って状況説明してるだけだし。

「イメージ」はどこにあるのだろうか。当然、ユーザの中、だろうけど。もしかして、ヒットするコンテンツその他は、ユーザの中に眠っている「イメージ」を、ユーザに認識させるための、優れたトリガーを多数含んでいるコンテンツ、だったりするのだろうか。

ユーザ自身が脳内で生み出した、それらイメージに勝るだけの優れたイメージを、作り手が提供するのは難しい。既存の映像は、ユーザの脳内に作られる理想映像に、なかなか勝てない。

ゲームにおいて、量を揃えるということは、作り手側の提供できるイメージを増やす行為なのだろうか。ひょっとすると違うかもしれない。本当は、ユーザの中のイメージを引っ張り出すためのトリガーを揃える行為が正しかったりしないか。

女の子を48人出せば、どれかしらお気に入りの子が見つかるように。あらゆるトリガーを大量に用意すれば、どれかしら、ユーザの中にあるイメージにヒットして、そのイメージが意識として浮き上がってくる。そうなれば勝ったも同然。「この○○は凄い」と称賛してくれる。商品に対して良いイメージを持ってくれる。

例えば、FPSが、やたらとリアル志向のデータを揃えるのは、見た目をリアルにしたいと思っているわけではなくて。自分がそこに居るようなイメージをユーザから引き出すためのトリガーを用意してる行為、だったりしないか。

アニメ作品の中では、現実にはあり得ないデフォルメされた動きが頻繁に見られるけど。それらは、ユーザの中にあるイメージを引き出すためのトリガーとして存在するのではないか。だから、あえてデフォルメするのではないか。FPSとは逆の手法で、リアルだと思い込ませるために、リアルではないデータを用意するのではないか。

本当にそうなのかなあ…? なんだか見当違いのことを考えてる気もする。そんなところで楽しんでいるわけではないような予感も。

以上、1 日分です。

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