2005/10/14(金) [n年前の日記]
#6 [web] _Hypertextと知 : A Study around Super Heroes
リンクが意味を持つためには、ある思想を信じていなければならない。「知恵は個人のものだが、知識は人類のものである」って思想を。個人の知恵を知識として相互参照し、共有し合うことでさらに個々の知(知識/知恵)を後押しし、全人類的な知が底上げされるのだというような。
そうすれば人類の知が発展するとか、そもそも知とは発展するものだとかいう予測には根拠がない。一種の思い込みであり、夢であり、宗教なのであって、だからこそ西洋からしか生まれえなかった概念だと思う (中略) 人類が一元的に発展しうるし、すべきだという歴史観自体は、西洋人ならぬわれわれが受けつけるべきではない。よかれと思って他国を蹂躙できるのは、その同じ思想にもとづく心性だ。
けど、「発展しうる」というポジティブシンキングにだけは共鳴したい。とくに「知」というジャンルにおいては。
どういう「知」のありかたが Hypertext によって形成されうるか。2つの道がある。1つは「総合的な知」であり、もう1つは「個人的な知」である。で、私個人は前者を断固支持する。 (中略) 前者を採り、Hypertext というネットワークと不可分のメディア形式に、何か新しいものを生み出しうる可能性を期待するなら、どこかで個の能力を超えなければならない。そしてその活路は、「ネットワーク」にあるはずだ。ネットワークの弱さ ―― あまりに流動的で、時間的・空間的な固定(アーカイブ)がほとんど不可能に近い ―― は、ここでは強みとなる。もしも「知」が一元的に発展するという思想を前提するなら、流動性は問題にならない。流動しなければ発展もないし、むしろ流動性こそが発展性を保証する。非常に興味深い内容、と思ってしまったのでメモ。
(中略) ただ一点、それが自己満足にとどまらない可能性があるとすれば、「全人類的」でありうる要素を、流動するネットワークに提供できるかどうかの一点に集約される。
こういう場面で「メモ」と称して丸々コピペしてしまう自分の行動は、結局のところ文中に出てくる「流動性」に関係するのだろうなと想像。「流動」するから、せめて自分の管理できる場所に「固定」しておきたいと願うが故の行動、なのだろうし。しかし、そこで「固定」を試みると言うことは、「流動性」の持つメリットを未だ自覚・認識できていないということにも繋がってしまうのだろうか。少なくとも自分の中では、『「知」が一元的に発展するという思想を前提するなら、流動性は問題にならない』のくだりが全然理解できてなかったり。「流動性が問題になる」場面は容易に想像できても、「流動性が問題にならない」場面は想像が難しく。おそらくは、ネットにおいて新参者故、単にそういう場面を見ていない・見ていても意識できていないため、だろうけど。…もしかすると、この「流動性」とは、「TV番組におけるライブ感の重要性」とも関係してくる話なのであろうか。いや、それとは別種な気もする。うーむ。
何にしても、長年ネットに触れている先輩方の考察・思想は勉強になるというか。それらを公開してくれることに感謝の念を。ありがたや。
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以上です。