2012/06/11(月) [n年前の日記]
#3 [game][neta] なんでシナリオが長くなるのかまだもやもや考えてる
まだ考えてたり。
自分も間違った結論を出してる可能性大だけど、とりあえず考えをまとめるためにメモ。
自分も間違った結論を出してる可能性大だけど、とりあえず考えをまとめるためにメモ。
◎ まとめ。 :
先にまとめとく。
- web日記や個人blogは自己満足で書いてる場合が多い。だから長くてもいい。でも、娯楽商品は違う。
- 娯楽商品を作る業界では、「没」「リテイク」という苦痛は当たり前。
- ゲームもそろそろ編集が必要ではないのか。
- 作家が自己満足したいのか、商売をしたいのか、どっちですか。
◎ 自分が書くアレコレも無駄に長い。 :
なんで長くなるのかな…。
「読みたい人だけ読めばいいや」という気持ちになると、長くなる気がする。そういう気持ちになった時点でアウトなのかな。
でも、この日記ページは、作業メモや思考メモも兼ねてるし。その時したこと考えたことをメモし忘れるぐらいなら、長くなっても、全部書いたほうがマシ。長くなる=悪ではない。時と場合による。
だったら、チラシの裏(=ローカル)に書き溜めておけばいいではないか、と言われそう。何故わざわざ公開するのか。
話がずれた。何にせよ、Web日記、個人blogの類は、書く側が満足するために書いている傾向がある。読み手の都合より、書き手の都合を優先する場面が多い。と言えそうな。
でも、娯楽コンテンツは違うよなあ。
「読みたい人だけ読めばいいや」という気持ちになると、長くなる気がする。そういう気持ちになった時点でアウトなのかな。
でも、この日記ページは、作業メモや思考メモも兼ねてるし。その時したこと考えたことをメモし忘れるぐらいなら、長くなっても、全部書いたほうがマシ。長くなる=悪ではない。時と場合による。
だったら、チラシの裏(=ローカル)に書き溜めておけばいいではないか、と言われそう。何故わざわざ公開するのか。
- 公開するという行為を通すことで、考えをまとめ直す作業が入る。未来の自分にとっても読む気が起きるメモに変化する可能性が高まる。から?
- 誰かがたまたま読んで、化学反応が起きて、もっと凄いことを考える人、真の正解を導き出す人が登場する可能性が残っているから?
話がずれた。何にせよ、Web日記、個人blogの類は、書く側が満足するために書いている傾向がある。読み手の都合より、書き手の都合を優先する場面が多い。と言えそうな。
でも、娯楽コンテンツは違うよなあ。
◎ 娯楽コンテンツは違う。 :
娯楽コンテンツは、客を楽しませるために書く/作る。作り手が満足するために作るわけではない。
もっとも、客が楽しめればそれでいいのであって、作り手が苦痛を味わうことが必須ではない。作り手が無茶苦茶楽しんでる様子を見て客も楽しむ、そんな恵まれた作品も時には出てくるし。ただ、作る過程で苦痛を味わうことは、比較的デフォルトだろうと思う。
ゲームも、そういう役が必要なのかもしれない。シナリオライターが上げてきたシナリオを、「ここは要らない」「ここも要らない」とバシバシ切り捨てる役が必要。
それはディレクターの仕事かもしれないし、あるいは別途、実写における編集に相当する役職を新たに設けてもいいのかも。そればかりやってれば、その役職にはノウハウが溜まっていくから。
「銀河鉄道999劇場版」を市川崑監督が編集したらどうにか映画らしくなった、という話もあるし。ゲームのシナリオも優れた編集を通すことで、レベルアップしたり、間口が広がる可能性もあるのでは。そういう時期に突入しているのでは。
しかしそれは、シナリオライターの作家性を侵害する行為でもある。
おそらくシナリオライターの心の中には、「これを書くのにどんだけ苦労したと思ってるんだ」「俺の努力を認めろ」「一切削るな」「自分の作品を改変するな」てな気持ちがありそうだし。俺が満足したいのだ、俺の作家性を優先しろ、客のことなんか知るか、みたいな。
その気持ちが強くなると、削れなくなる。誰も好き好んで険悪な空気を作りたくないから、周囲もシナリオライターに従う。そしてシナリオがどんどん長くなる。
つまり、紙芝居ゲームは、ゲーム業界におけるWeb日記・個人blogではあるまいか。あのジャンルは、そもそも娯楽コンテンツではなかったのではないか。…そんな可能性に思い至ったりもして。
もちろん、娯楽商品としてしっかり意識しながら苦痛を受け入れつつ作ってるところと、全然意識しないで作ってるところが混在してる気はする。同人からメーカになったところも多々あるようだけど、それらは後者であろう可能性が高そうだし。そのあたりの境界線があいまいなのが、あのジャンルの面白さ、だったりもするのだろうか。
それは他のメディアでも言えるか。個人制作のアニメとか。同人誌とか。
てな思考をメモ。
- 漫画のコンテを描いて担当さんに見せると、「ここは要らない」「ここも要らない」とバンバン削られる。せっかく描いたアレコレが削られて漫画家は悲しい。でも、それで正解。
- アニメの脚本、コンテ、原画を描いて監督に見せると、「ダメ。リテイク。書き直し」と言われる。没になって脚本家やコンテマンやアニメーターは悲しい。でも、それで正解。
- 実写映像作品は、編集と監督が、フレーム、カット、時にはエピソードまで、バッサリ切り捨てる。役者やスタッフが寒さにガタガタ震えながら撮影してもサックリ削られて皆が悲しい。でも、それで正解。
もっとも、客が楽しめればそれでいいのであって、作り手が苦痛を味わうことが必須ではない。作り手が無茶苦茶楽しんでる様子を見て客も楽しむ、そんな恵まれた作品も時には出てくるし。ただ、作る過程で苦痛を味わうことは、比較的デフォルトだろうと思う。
ゲームも、そういう役が必要なのかもしれない。シナリオライターが上げてきたシナリオを、「ここは要らない」「ここも要らない」とバシバシ切り捨てる役が必要。
それはディレクターの仕事かもしれないし、あるいは別途、実写における編集に相当する役職を新たに設けてもいいのかも。そればかりやってれば、その役職にはノウハウが溜まっていくから。
「銀河鉄道999劇場版」を市川崑監督が編集したらどうにか映画らしくなった、という話もあるし。ゲームのシナリオも優れた編集を通すことで、レベルアップしたり、間口が広がる可能性もあるのでは。そういう時期に突入しているのでは。
しかしそれは、シナリオライターの作家性を侵害する行為でもある。
おそらくシナリオライターの心の中には、「これを書くのにどんだけ苦労したと思ってるんだ」「俺の努力を認めろ」「一切削るな」「自分の作品を改変するな」てな気持ちがありそうだし。俺が満足したいのだ、俺の作家性を優先しろ、客のことなんか知るか、みたいな。
その気持ちが強くなると、削れなくなる。誰も好き好んで険悪な空気を作りたくないから、周囲もシナリオライターに従う。そしてシナリオがどんどん長くなる。
つまり、紙芝居ゲームは、ゲーム業界におけるWeb日記・個人blogではあるまいか。あのジャンルは、そもそも娯楽コンテンツではなかったのではないか。…そんな可能性に思い至ったりもして。
もちろん、娯楽商品としてしっかり意識しながら苦痛を受け入れつつ作ってるところと、全然意識しないで作ってるところが混在してる気はする。同人からメーカになったところも多々あるようだけど、それらは後者であろう可能性が高そうだし。そのあたりの境界線があいまいなのが、あのジャンルの面白さ、だったりもするのだろうか。
それは他のメディアでも言えるか。個人制作のアニメとか。同人誌とか。
てな思考をメモ。
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以上です。