2012/06/10(日) [n年前の日記]
#3 [game][neta] 2D紙芝居ゲームについてなんとなく考えてる
あくまで思考メモです。現状・現実と違っている可能性大、個人的な印象論でしかないです。
一旦ダラダラ書いてみないと自分の中で考えがまとまらないので…。
一旦ダラダラ書いてみないと自分の中で考えがまとまらないので…。
◎ まとめ。 :
先にまとめとく。
- 紙芝居ゲームはプレイ時間長過ぎ。それじゃ客が増えない。
- 量じゃなくて、「ユーザ体験」が大事。昔は、量=体験だったけど今は違う。
- プレイ時間が長いのは無駄が多いから。文と画と音がリンクせずに「感感俺俺」してる。
- ユーザから「○○する仕様をつけて」と言われたら、真の原因を考えないとダメ。
- 量を増やしても無駄にならない何かがあるかもしれない。他ジャンルが参考になるのかも。
- 廃業覚悟で開き直って作るのもアリ。勘違いしてるユーザを狙い撃ちできれば潰れない。
◎ もやもや考え始めた経緯。 :
アニメ版 Fate/ZERO?を見て面白いなと思い、シリーズ最初の作品らしきFate/stay night?なるゲーム版に興味を持ったけど。クリアに数十時間かかると聞いて、「アホか。やってられるか」と。…せっかく興味を持ってくれた人に、プレイする前から「やってられるか」と思わせて大丈夫なのか。
どうしてそんなにプレイ時間が長くなるのだろう。…シナリオのせい?
どうしてそんなにプレイ時間が長くなるのだろう。…シナリオのせい?
◎ 個人的には無駄が気になる。 :
その手のゲームは、文と画と音がリンクしてない印象。皆がバラバラ。結果、無駄だらけになり、プレイ時間が長くなるのでは。あくまで仮説。
例えば。
絵を見れば分かるよ。無駄だ。
さらに今時は音声付ゲームが大半。声優さんは、たった一つの台詞にも感情を含めることができる。「馬鹿っ」という一言も、怒ってる、呆れてる、テレている等色んな「馬鹿っ」があって、声優さんならその違いも表現できる。彼等の演技を聞けば一発で伝わる。でも、「馬鹿っ」と音声が流れた直後に、「彼女は怒りの表情を露わにして俺を罵倒した」等のメッセージが表示されたり。無駄だ。しかも声優さんの仕事振りを全否定してる。そんなに信用できないのか。何のために音声を入れてるの?
こういう部分が積み重なって、長いシナリオになってないか。あくまで仮説だけど。
「音声OFFでプレイするために、それらのテキストは必要」という反論がありそう。
その主張はおかしい。音声が使える/使えないで、シナリオの中身は異なるはず。アニメ脚本と小説で、同じ原稿をそっくりそのまま使い回す人は居ない。なのにどうしてゲームでは、シナリオの使い回しを安易に良しとするのか?
そもそも、どうして音声OFFにされるのか、そこを考えたか? アニメや映画を音声OFFで観賞する人は居ない。なのにどうしてゲームでは、作り手自ら音声OFFで観賞するのもアリと認めてしまうのか?
理由は色々思いつく。プレイ場所の制約、演技が酷い、音声はオマケという思い込み等々。自分は、「プレイ時間が長過ぎてユーザが時間短縮のための最適化を始めてしまうから」と想像しているけど。何にせよ、真の原因を突き止めなくては本当の対策にならない。
ユーザから「音声をOFFにしたい」「音声キャンセル仕様をつけてほしい」と要求されて、「ハイハイ分かりました仕様つけました」で済ませるのは楽だけど、問題は全然解決していない。「…なんで音声を出したくないんだろう?」と、そこから悩んで仮説を立てて修正せねばならない。
つまるところ、その手のゲームは、データの扱い方からして、 _「感感俺俺」 に感染してる。文、画、音を、二重三重に繰り返す愚行を精査していない。
例えば。
絵を見れば分かるよ。無駄だ。
さらに今時は音声付ゲームが大半。声優さんは、たった一つの台詞にも感情を含めることができる。「馬鹿っ」という一言も、怒ってる、呆れてる、テレている等色んな「馬鹿っ」があって、声優さんならその違いも表現できる。彼等の演技を聞けば一発で伝わる。でも、「馬鹿っ」と音声が流れた直後に、「彼女は怒りの表情を露わにして俺を罵倒した」等のメッセージが表示されたり。無駄だ。しかも声優さんの仕事振りを全否定してる。そんなに信用できないのか。何のために音声を入れてるの?
こういう部分が積み重なって、長いシナリオになってないか。あくまで仮説だけど。
「音声OFFでプレイするために、それらのテキストは必要」という反論がありそう。
その主張はおかしい。音声が使える/使えないで、シナリオの中身は異なるはず。アニメ脚本と小説で、同じ原稿をそっくりそのまま使い回す人は居ない。なのにどうしてゲームでは、シナリオの使い回しを安易に良しとするのか?
そもそも、どうして音声OFFにされるのか、そこを考えたか? アニメや映画を音声OFFで観賞する人は居ない。なのにどうしてゲームでは、作り手自ら音声OFFで観賞するのもアリと認めてしまうのか?
理由は色々思いつく。プレイ場所の制約、演技が酷い、音声はオマケという思い込み等々。自分は、「プレイ時間が長過ぎてユーザが時間短縮のための最適化を始めてしまうから」と想像しているけど。何にせよ、真の原因を突き止めなくては本当の対策にならない。
ユーザから「音声をOFFにしたい」「音声キャンセル仕様をつけてほしい」と要求されて、「ハイハイ分かりました仕様つけました」で済ませるのは楽だけど、問題は全然解決していない。「…なんで音声を出したくないんだろう?」と、そこから悩んで仮説を立てて修正せねばならない。
つまるところ、その手のゲームは、データの扱い方からして、 _「感感俺俺」 に感染してる。文、画、音を、二重三重に繰り返す愚行を精査していない。
◎ どうしてプレイ時間が長くなっても平気なのかな。 :
「ボリューム」という物差しを振り回す一部のユーザの声ばかり大きかったからでは、と邪推。
その手のゲームのレビュー記事を読むと、「ボリュームが少ない」と文句を言ってる人を頻繁に見かける。そのたびに自分はゲンナリしてる。
- ゲームをプレイしたユーザが、「なんだか物足りないな」と感じた。
- ユーザは、「どうしてだろ?」「何で物足りないのだろう?」と疑問を持った。
- 「…たぶん、ボリュームが少ないのだ」「これは量の問題なのだ」と結論を導き出した。
- ユーザは、「ボリュームがあるゲームは良ゲー」「ボリュームがないゲームはクソゲー」と主張し始めた。
- 声が大きいユーザの言うことを真に受け、作り手は、シナリオの量、プレイ時間を増やし始めた。
- (あるいは、同じシナリオ量でも、読み終えるまで時間がかかるよう、不便なシステムを積極的に導入した。一度に数行しか表示できないメッセージ窓。一文字ずつ表示していくエフェクト。絵が変わる際にもエフェクト。…どれもチビチビとユーザの時間を奪い、プレイ時間を伸ばしていく。)
その手のゲームのレビュー記事を読むと、「ボリュームが少ない」と文句を言ってる人を頻繁に見かける。そのたびに自分はゲンナリしてる。
◎ ボリュームがあるゲームは良いゲーム、ではない。 :
一部のユーザが「ボリュームが大事」と結論付け、作り手もソレを信じたとして。
その結論は間違いだと思う。
昨今、一部で「UX」という単語が流行ってる。User eXxperience。略してUX、なのかな。ユーザが何を体験できるのか、そこが大事、という話だろうと自分は捉えているけど。
また、コンテンツ業界でも、「自分達が売っているのは『体験』なんだと意識することが大事」と、語る場面をよく見かけるようになった。
自分もその考え方に同意。量が大事なんじゃない。本当に大事だったのは「体験」。そこが「物足りない」と思わせていた原因。「体験」の問題を、「量」「ボリューム」の問題と見誤ってしまったのではないか。
でも。
昔は、量と体験が繋がっていた。8〜16bitPC時代の話。何せ、RAM64KBとか、640KBとか、カセットテープでロードとか、FD2枚組とか、8・16色表示とか、そんな時代だったから。
戦後の食糧難みたいなもんで、味なんかどうでもいいよ、とにかく腹一杯食べてみたいなあ、と本気で望まれていた時期が ―― 量の多さが体験と直結していた時期が、ゲームの世界にもあった。
いや、そもそも当時は、ゲームをプレイすること自体が、新鮮な「体験」だったのか。この新しい「体験」をもっと味わっていたい。それを手っ取り早く実現するには…プレイ時間が長いほうがいい。…そういうことかしら?
でも、今は違う。
量は少ないほうがいい。他にも色んな食べ物(=娯楽メディア)があるから、既にユーザの腹は結構膨れてる(=ユーザが使える時間は残り少ない)。たった一口二口で美味いと思いたい、そう望む客に、山盛りだけが売りの料理を差し出してもゲンナリされて当然。
でも、食糧難の時代を生きてきた客は、量が大事と思い込んでいて。「ボリューム満点だ! この料理(=ゲーム)は最高だ!」と叫ぶ。周りの客はウンザリして店から去っていく。
さりとて、時代に合った品を作ってみても、さきほどの客が「これっぽっちかよ!? この店は最低だ!」と怒鳴る。店に入ろうとした人達はその声を聞いて引き返してしまう。実は適量だったかもしれないのに。
…そういう状況ではあるまいか。そんな単純なわけないか。
マズいことに、作り手も真面目で、楽もしたいから、制作システムが最適化されて、容易に軌道修正できない予感も。
エンジン部分は使い回しを前提に完成度が高まって。文、画、音の制作手順も確立して、作業を個別に切り分け外部に丸投げも可能になって。後はデータを揃えるだけだ。とにかく手を動かせ。テキストを増やせ。絵を増やせ。音声を突っ込め。…短期間に少ない人数で、とにかく量を増やすことを目的にして、作業手順が最適化された。でも、最初の仮説が間違ってた。量の問題じゃなかった。どうすんのコレ。
その結論は間違いだと思う。
昨今、一部で「UX」という単語が流行ってる。User eXxperience。略してUX、なのかな。ユーザが何を体験できるのか、そこが大事、という話だろうと自分は捉えているけど。
また、コンテンツ業界でも、「自分達が売っているのは『体験』なんだと意識することが大事」と、語る場面をよく見かけるようになった。
自分もその考え方に同意。量が大事なんじゃない。本当に大事だったのは「体験」。そこが「物足りない」と思わせていた原因。「体験」の問題を、「量」「ボリューム」の問題と見誤ってしまったのではないか。
でも。
昔は、量と体験が繋がっていた。8〜16bitPC時代の話。何せ、RAM64KBとか、640KBとか、カセットテープでロードとか、FD2枚組とか、8・16色表示とか、そんな時代だったから。
戦後の食糧難みたいなもんで、味なんかどうでもいいよ、とにかく腹一杯食べてみたいなあ、と本気で望まれていた時期が ―― 量の多さが体験と直結していた時期が、ゲームの世界にもあった。
いや、そもそも当時は、ゲームをプレイすること自体が、新鮮な「体験」だったのか。この新しい「体験」をもっと味わっていたい。それを手っ取り早く実現するには…プレイ時間が長いほうがいい。…そういうことかしら?
でも、今は違う。
量は少ないほうがいい。他にも色んな食べ物(=娯楽メディア)があるから、既にユーザの腹は結構膨れてる(=ユーザが使える時間は残り少ない)。たった一口二口で美味いと思いたい、そう望む客に、山盛りだけが売りの料理を差し出してもゲンナリされて当然。
でも、食糧難の時代を生きてきた客は、量が大事と思い込んでいて。「ボリューム満点だ! この料理(=ゲーム)は最高だ!」と叫ぶ。周りの客はウンザリして店から去っていく。
さりとて、時代に合った品を作ってみても、さきほどの客が「これっぽっちかよ!? この店は最低だ!」と怒鳴る。店に入ろうとした人達はその声を聞いて引き返してしまう。実は適量だったかもしれないのに。
…そういう状況ではあるまいか。そんな単純なわけないか。
マズいことに、作り手も真面目で、楽もしたいから、制作システムが最適化されて、容易に軌道修正できない予感も。
エンジン部分は使い回しを前提に完成度が高まって。文、画、音の制作手順も確立して、作業を個別に切り分け外部に丸投げも可能になって。後はデータを揃えるだけだ。とにかく手を動かせ。テキストを増やせ。絵を増やせ。音声を突っ込め。…短期間に少ない人数で、とにかく量を増やすことを目的にして、作業手順が最適化された。でも、最初の仮説が間違ってた。量の問題じゃなかった。どうすんのコレ。
◎ それでもいいのかも。 :
量が大事と叫ぶ客を相手にして成り立ってるのがその手のジャンルかな、それで食えるなら問題ないよな、という気もしてきたり。
前述の最適化の話も、食えるようになるために作業効率をひたすら向上していったらそうなっただけの話。それが悪いというわけでもない。
元々作り手は、仮説なんて持ってなかった。こんなものを作りたいという夢もビジョンも無かった。客の言うがまま、場当たり的対処を続けてたらこうなっただけ。
変化についていけないとしても、間違いに気づいてない客が居て、その人達が買い続ければ、存続は出来る。宮崎駿が語ってた町のゲタ屋理論 ―― 最後の一店になれば、今までのやり方を続けても食っていける、かもしれない。
でも、おそらく、その店以外は廃業するしかないのだけど。
前述の最適化の話も、食えるようになるために作業効率をひたすら向上していったらそうなっただけの話。それが悪いというわけでもない。
元々作り手は、仮説なんて持ってなかった。こんなものを作りたいという夢もビジョンも無かった。客の言うがまま、場当たり的対処を続けてたらこうなっただけ。
変化についていけないとしても、間違いに気づいてない客が居て、その人達が買い続ければ、存続は出来る。宮崎駿が語ってた町のゲタ屋理論 ―― 最後の一店になれば、今までのやり方を続けても食っていける、かもしれない。
でも、おそらく、その店以外は廃業するしかないのだけど。
◎ 他のジャンルはどうなんだろう。 :
STG、格ゲー、RPG、FPSにも通ずる部分がありそう。
STGや格ゲーは、消えていったジャンルの代表例として参考になる。
RPGやFPSは量との戦いだから、ある意味同胞。予算も期間も人数も桁違いの差があって比べるのもどうかと思うけど、作る上では量が肝、と言う捉え方は同じかなと思う。
FPSは、量と体験が今のところ連動してる状態に見えるけど、そのうちズレが出てくるのだろうか。それとも、ズレないままどこまでも行くのだろうか。だとしたら、FPSは既存ジャンルと何が違うのか。何が新しいのか。
どこまで量を増やしても、それが無駄にならない、そんな箇所・要素がありそうな気がする。FPSはソレを見つけたのでは。…ホントにそうなのかなあ。
STGや格ゲーは、消えていったジャンルの代表例として参考になる。
RPGやFPSは量との戦いだから、ある意味同胞。予算も期間も人数も桁違いの差があって比べるのもどうかと思うけど、作る上では量が肝、と言う捉え方は同じかなと思う。
FPSは、量と体験が今のところ連動してる状態に見えるけど、そのうちズレが出てくるのだろうか。それとも、ズレないままどこまでも行くのだろうか。だとしたら、FPSは既存ジャンルと何が違うのか。何が新しいのか。
どこまで量を増やしても、それが無駄にならない、そんな箇所・要素がありそうな気がする。FPSはソレを見つけたのでは。…ホントにそうなのかなあ。
◎ ていうかこの記事も長いヨ。 :
伝わるか不安だから長くなるのかしら。おそらく、テキストを書く側に、読み手を信用していない部分がある、のかなあ。よく分かりません。
ひたすら書いてると気持ちいいのもたしかで。俺は仕事したぞーって気持ちは味わえる。でも、真に仕事をこなしたわけじゃない。ただの自己満足。
ひたすら書いてると気持ちいいのもたしかで。俺は仕事したぞーって気持ちは味わえる。でも、真に仕事をこなしたわけじゃない。ただの自己満足。
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輝かしい星が見る夢 奈須きのこインタビュー
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Fateシナリオライターのインタビュー
ボリュームを振りかざした一人が、自分は時代遅れであるという事や
新世代に対する抵抗を語っているところが興味深い