2007/11/09(金) [n年前の日記]
#5 [tv] スルー力は凄いけど恐ろしいかも
数日前に、NHK「ためしてガッテン」で、「怒り」をテーマにした実験映像が流れてた。心拍数を調べる装置をつけた被験者に、それとは知らせず、喫茶店内で最悪な接客に直面させ、その心拍数を測るといった実験で。大体の人は、酷い接客を目にして、どんどん心拍数が上がっていって怒り心頭に発したのだけど。ただ一人、お坊さんが被験者だったときだけは、まったく心拍数が変わらず。
*1
なんでも、そのお坊さんは、「自分は、この後行われる(と伝えられていた)実験を待つために喫茶店にいるだけで。別に喫茶店でコーヒー等を飲むことが目的ではないのだから、接客などどうでもいいことではないか」てな具合に考えながらそれら接客を見ていたとかで。また、スタジオ内では、「貴方の言動が、私の人生と何の関係があるのだろうか」という境地に達していたのだろうと、解説?喩え?をしていたり。
お坊さんはスゲーなぁ、などと単純に感心しながらも。 *2 もしかすると、これこそがスルー力ってやつなのかな、と連想したり。が、しかし、凄いなと思うと同時に、何か怖いものも感じてしまったり。
お坊さんはスゲーなぁ、などと単純に感心しながらも。 *2 もしかすると、これこそがスルー力ってやつなのかな、と連想したり。が、しかし、凄いなと思うと同時に、何か怖いものも感じてしまったり。
- blogのコメント欄で批判的なコメントが大量に書き込まれても、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 間違った技術を吹聴してる人が居ても、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 無灯火自転車が目の前を走って行ったからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 駅のホームで人が線路に落ちたからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 池で子供が溺れているのを目撃しても、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 相撲部屋でかわいがりと称した殺人事件が起きたからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 生活保護を打ち切られて餓死した人が出たからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 日本のアニメ産業が斜陽化したからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- CDがCCCDになったからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 地上波デジタル放送がダビング不可になったからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- HDDを買うたびに謎の組織にお金を払ってるからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
- 共産主義者や宗教関係者が権力者から弾圧されたからといって、「それが、私の人生と何の関係があるのだろうか」
◎ 「人として」云々等を言ってしまったらいかんような気もする。 :
当初、「何か」=「人としてどうなのか」かなと思ったのだけど。それはちょっと違う気もした。
「人として〜」という物言いは、良い結果に繋がるときもあれば、悪い結果に繋がるときもあるわけで。悪しき思い込みとして成立してしまうときもあるから、ちと危険。会津地方に伝わるという、什の誓い ―― 「ならぬものはならぬ」と似たところがありそうな気が。どうしてそれが「ならぬもの」とされているのか、本当にそれは「ならぬもの」なのか、現状でも「ならぬもの」として相応しいのか、そこまで考えた上で語らないといかん気がする。思考停止したまま、自分が洗脳された自覚がないまま、不用意に語り、しかもそれを他者に強要するのは、何か危ない感も。
いや、楽だからつい使っちゃうんだけど。「人としてどうなのよ?」的言い方は、どんな場面でもそれっぽく語ったつもりになれるから、便利ではある。けど、そこにも「何か」、怖さを感じたりして。
「人として〜」という物言いは、良い結果に繋がるときもあれば、悪い結果に繋がるときもあるわけで。悪しき思い込みとして成立してしまうときもあるから、ちと危険。会津地方に伝わるという、什の誓い ―― 「ならぬものはならぬ」と似たところがありそうな気が。どうしてそれが「ならぬもの」とされているのか、本当にそれは「ならぬもの」なのか、現状でも「ならぬもの」として相応しいのか、そこまで考えた上で語らないといかん気がする。思考停止したまま、自分が洗脳された自覚がないまま、不用意に語り、しかもそれを他者に強要するのは、何か危ない感も。
いや、楽だからつい使っちゃうんだけど。「人としてどうなのよ?」的言い方は、どんな場面でもそれっぽく語ったつもりになれるから、便利ではある。けど、そこにも「何か」、怖さを感じたりして。
この記事へのツッコミ
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以上です。
---引用開始---
論争に勝とうと思ったら、考えうるもっとも知的に怠惰な方法とはなんでしょう?論争相手が“人間性(humanity)”を欠いている、と主張することです。
(中略)
そうすることで、あなたは相手の考えについてきちんとしたことをなにもいう必要がなくなる。
また、それがあたかも広範な世論であり、あなたには怒りに燃える
多数派がついていて、とことんあなたを支持しているかのような顔ができる……
---引用終わり---
「万物理論」という小説からの引用です(中略部分を含め非常に面白い下りなので、機会があったら一読されるのも良いかと思います)
現実にも人間性の是非を問うのは水掛け論になりがちですし、良い行為とは言えないと思います。
検索してみました。
なるほど、仏教にも種類がある
→お坊さんにも色々あるから必ずしもお坊さんが
そういう考え方をするわけではないっしょ、
という話でありませうか。
どちらかが、スルー力万歳的な考えを良しとしてる、
等の状況があったりするんですかね…。
blog界隈でブームになってるソレを見て、
仏教やってる人が「それは俺達がン百年前に通った道だ」
とか思ってたら、なんだか面白いような気もします。
検索してみたらSF小説のページに到達しました…。
グレッグ・イーガンさんとやらが書いた小説、で合ってるのかしらん?