2006/06/27(火) [n年前の日記]
#4 [jiji] 「何のために勉強するの」なCMはまだ日本に
必要だったのか。てなことを、家に火をつけた子供云々のニュースを目にして思ったり。ていうか最近やたらとあのCMを目にしたのは、そういう事件が起きたから、だったりしたらなんかアレだなと。…ついこないだまで、「ゆとり教育=悪」という風潮があったような感も。この国は節操がないなぁ。それとも、間違いをすぐに正そうと努力できる国、とでも言っておいたほうがいいのだらうか。よくわからんけど。
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以上です。
「何のために勉強するの」なんていう疑問を持っちゃった時点で
すでにゆとり教育になってしまっているような気がします。
昔の人は大人も子供も、もっとゆとりなく必死に働いて
「働きバチ」「ワーカホリック」
「受験戦争」「四当五落」
なんて、
一見悪い意味だったり自虐的な意味だったりしたものの、
それを励みと戒めにして自分に鞭を入れてたのに
いまは現象面だけ捉えて
「過労死」「リストラ」
「ゆとり教育」「全入時代」
と、ただただ恐怖感や虚脱感だけ与えるようなキーワードに
置き換えてしまっている
子供が忠実に感じ取っているんだと思います。
「何のために勉強するの」と聞かれたら
「生きるため」と答えられないの?
と思ったりします。
ところが、
フリーターやら生活保護の人がいい生活しすぎて
安い賃金で働いている方が苦しい生活をしている矛盾がある以上、
この論法が通用しない。
子供は、獣的な感覚で、判ってしまっているのかもしれませんな。
「生きるため」に「勉強する」ことの無意味さ・実際の効果の無さを…。
私も子供のころ思っていました。
「大人って家帰ってきたら勉強しなくていいから羨ましいな」
って。
勉強は嫌いじゃなかったんですが、
世の大人は子供に勉強しろ、宿題やれ、っていってるくせに
当の大人は仕事から帰ってきたらテレビ見てるのが解せなかったね。
その辺が説得力のなさなのかも、と思ったり。
夜電車に乗ると、
おとーちゃんは酒飲んでるのに
子供は塾の帰りだったりするしね。
>すでにゆとり教育になってしまっているような気がします。
>「何のために勉強するの」と聞かれたら
>「生きるため」と答えられないの?
オイラのお袋は、昭和16(太平洋戦争の始まった年)生まれで、今年65歳になります。
たまに昔話とか聞くのですが、お袋に言わせると
「弟や妹達の面倒や家の手伝いするよりも、学校に行ってた方が楽しかった。
給食食えるし、友達と遊べるし。」
とか。漠然と勉強は将来必要とは思ってたけど、学校に通う直接な理由は
「給食が楽しみ」とか「友達と会えるから」とか「家に居ると重労働が待ってる」とか。
例えるなら、虫歯になって歯医者行くのは自分にとって「必要」だけど、
あんまり行きたくない、怖いから。でも行くのは、帰り道に「オモチャ買ってくれる」から、、、、みたいな。
この「オモチャ買ってくれる」との飴玉的存在が「ゆとり教育」の本命だったのかも?
> 当の大人は仕事から帰ってきたらテレビ見てるのが解せなかったね。
> その辺が説得力のなさなのかも、と思ったり。
それ、あるかもしれませんな…。
親が職場で、低学歴であることを理由に差別されたり、
不当に低く評価されたりする様を子供に見せてやれば、
子供のほうも「勉強しなきゃマズイ」と恐怖感を持って取り組むのかしら…
ってそれもなんだかな…
ふと思ったんですが、もしかすると、自営業の親を持った子供は、
勉強に対する印象や、それによる自分の将来像の持ち方にも、
変化が出てくるのですかね。
「俺はこんな職業をやりたくない」
→「勉強してこの状況から脱出してやる」とか。
逆に、「俺は親と同じ職業につきたい」
→「そのためにはこれを勉強しなきゃ」とか。
親が、どんな自分の姿を子供に見せているかで、
子供の、学業なり何なりへの取り組み方も変わってくるのかしら。
> 「友達と会えるから」とか「家に居ると重労働が待ってる」とか。
> 「オモチャ買ってくれる」との飴玉的存在が
> 「ゆとり教育」の本命だったのかも?
なるほどなぁ…。
子供にとってそれが飴玉になりうるか、というあたりも関係してそうですな。
昔なら、「家での重労働の回避」が飴玉になりえたけど、
今では、飴玉になりえる何かを提供しにくい状況がある
―― 各家庭の経済状況や生活スタイルの幅が広すぎて
多様化についていけない、というところがあるのだろうか…。
親は仕事の様子だけを見せるようではだめだと思います。
最終的には親(大人)ってすごい!
って言わせなければならないわけですが、
仕事だけが人生ではないわけです。
近所づきあい、礼儀、冠婚葬祭、道徳、社会性、人間性、趣味、教養、
地域の文化、社会貢献などなど
たくさんのことを語らなければならないのです。
そして、これらのことを十分に熟知し、
後世に伝えるところまで高めなければならないのです。
しかし、親が自らそれを否定したり非難するから
子供は「そんなのいらねー」って思っちゃうんですよね。
学校で子供が
「算数なんか要らない、電卓があるしコンピューターがあるじゃん」
と言われて言葉に詰まったらだめなのと同じですね。
「お前ら電卓やコンピュータに使われる側になっていいのか?
電卓やコンピュータを使う側になれ」
という概念が必要なんだと思いますよ。