mieki256's diary



2006/02/11() [n年前の日記]

#8 [web] 「公開する自由」ってなんだろう

コメント欄で「公開する自由」というフレーズ? 単語? が出てきて、自分の中で「?」が浮かんだり。考えてみると、そのあたりを自分は意識したことがないような気もする。「公開する自由」とは、なんだろう。ということでそのへんをつらつらと。

そのあたりについて触れている記事を読めば、自分も何かピンとくるかもしれない。 :

と思ったので試しにGoogle検索。しかし、どうもGPL絡みの記事しか出てこないのであります。

_ITmedia エンタープライズ:GPLが好きな理由 (1/2)
プログラムを改良し、コミュニティー全体の利益のためにその改良版を公開する自由(第3の自由)。

ITmedia エンタープライズ:GPLが好きな理由 (1/2) より


_リチャード・M・ストールマン 講演録
さらに、プログラムの改良バージョンを公開する自由があります。したがって、あなたには変更する自由があります。ここで、あなたがこの自由を行使するとします。あなたは、プログラムをあなたにとって都合がいいように変更するとします。この時点で、他の人もあなたの変更したプログラムを欲しがるかもしれません。したがって、あなたにはプログラムの改良バージョンを公開する自由があり、そして、他の人々もあなたの努力から恩恵を受けるようになるのです。

http://www.takeda-foundation.jp/award/takeda/2001/forum/04c.html より



他に見つけたのは、下のような文。

_プライバシー
個人情報の保護の要請が過度になされると,個人情報の発信という形での自己表現を妨げることになることにも留意すべきでしょう。自己の情報をその個人が公開する自由は,当然尊重されるべきです。

プライバシー より


_新・闘わないプログラマ No.93 - リンク
公開された著作物は、もれなく批評される可能性が付いてくる、とでも言ったらいいか、そんな当たり前のことが当たり前のこととして理解できない人間が多い、というのが不思議でなりません。批評されるのが嫌な人は、そもそも公開すべきでないわけで、公開する自由と同様に、公開しない自由ってのもその本人にはあるのだから、公開したことによって付いてくる批評だとか責任だとか、そういったものを引き受ける必要があるわけです。

リンク より


_ニュースと感想 (63) - 「プライバシー保護と個人情報」について。
第1に、「表現の自由」とは、自分の生み出した情報を公開する自由である。他人の情報を公開する自由ではない。この点では、たとえ政治家のような公人であれ、その人の情報を、「表現の自由」という名目で他人が公開することはできない。たとえば、小泉のもつ情報(個人アルバムの写真など)を勝手に公開することは、「表現の自由」とはならない。一方、小泉の似顔絵を描くのは、描いた人の情報であるから、これを公開するのは、「表現の自由」となる。

ニュースと感想 (63) より


_「残虐サイトで殺人願望」ハンマー殴打少年が供述 - 関心空間
※「表現する自由」とそれを社会に対して「公開する自由」とは別物である。それはちょうど、寝室という密室では2人が同意の上であればどのような変態的行為も自由であるが、それを公の場で行えば法的に罰せられるのと構造的には同じである。

「残虐サイトで殺人願望」ハンマー殴打少年が供述 - 関心空間 より



む。「表現する自由」というフレーズが出てきたことで、ぼんやりとだけど、意識できそうな気になってきた。

自分が何かを書いて。それを人に見せたいな、あるいは見せてもいいかな、と思ったとして。
  • 「blogでも始めて載せるかな」とか、
  • 「同人誌作ってコミケで売るかな」とか、
  • 「チラシを作って道端で配るかな」とか、
そういうことが出来る状態が、「公開する自由」がある状態、ですかな。

逆に、
  • blogに載せたらblogサービスの管理人が勝手に記事を削除しちゃったとか、
  • コミケで同人誌を売ろうとしたら運営会の人が「これは販売禁止」と言ってきたとか、
  • 道端でチラシを配ったら国家治安法云々で警察に逮捕されちゃったとか、
そういう状態になると、「公開する自由」がない状態、でせうか。

「公開する自由」という概念(?)を意識できなかったのは、自分の中では「それがあるのは当たり前のこと」になってたから、なのかしら。 :

なんていうか、空気のようなもので。…自分が息をしてるとき、「自分の周りには空気があるから呼吸ができているんだ」なんて逐一思わないけど。それと似たような感じなのかも。たぶん。

でも。実際には、いついかなるときも、「公開する自由」があるとは限らない。たとえば、太平洋戦争中に「戦争反対」なんて主張をしたら、国家権力によって弾圧されたろうし。中国では今尚、Web上ですら、「天安門事件」について情報公開できない。

考えてみれば、自分が中高生だったころ、今現在のWebのような道具はなかった。「公開する自由」なんてものは、空気のようなものじゃなかった。限られた条件下に居る人達だけが得られる特典・選ばれた人々だけが行使できるもの、だったのかもしれない。…数行前に書いたこととは矛盾してる気もするけど。

もしかすると。はっきりとは意識できてなかったけど。自分は、「〜許可制」等の主張に対して、恐怖を感じてたりするのかしら。「公開する自由」を奪われることへの恐怖心とでもいうか。もう一度、あの暗黒時代 ―― 誰かに対して自分の意見を伝えることが難しかった小中高生時代、それっぽく言うと「昭和の時代」に、ひょっとすると逆戻りしてしまうかもしれない…そういう状況を無意識下でイメージしてしまって恐怖を感じる、みたいな。いや、わからんですが。

これもまた、あるレベルの欲求が満たされないと、次のレベルの欲求は生じない。という話が関係してたりして。 :

_マズローの欲求段階説 でしたっけか。

戦時中に子供時代を過ごし、満足に食料を得られない状態を体験した人は、職業を選ぶ際、「飯が食えるか否か」 *1 を優先して考える。

でも、そういう世代に育てられた人は、食料がなくなるという状態を体験していない。だから、次のレベルの欲求 ―― たとえば自己実現云々とか? ―― を満たせるかどうかで職業を選ぶ。「飯が食えるか否か」は、(場合によっては)さほど優先せずに。

「公開する自由」を堪能できない時期を過ごした世代は、「公開する自由」が失われることに恐怖を感じる。たとえばGPLの提唱者は、ソフトウェアのソースの公開・配布に関して不自由を味わった。だからこそ、GPLを提唱して、GPLの普及に力を入れてる。

物心がついた頃から、「公開する自由」が堪能できていた世代は、もしかすると、その次のレベルの欲求が発生するのかもしれない。それが、「公開しない自由」…だったりして。

や、わからんけど。勝手な妄想というか、電波を書いただけですが。

現実世界で他者と自由自在にコミュニケーションできる人は、「公開する自由」を重要視したりしないのかも。 :

「公開する自由」 = 「他者に何かを伝えることが許される自由」、と考えれば。現実世界で他者とたっぷりコミュニケーションしてる人は、もうそれだけでお腹一杯になりそうな。とかそんなこともなんとなく思ったのでメモ。

*1: 「飯が食えるか否か」≒「給料が高いか低いか」、かしら。

以上です。

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