2013/10/25(金) [n年前の日記]
#3 [anime] 「宮崎駿×半藤一利」対談番組を再視聴
HDDレコーダから消す前にもう一度見ておこうかなと。
アニメはほとんど見ない・宮崎アニメもトトロしか見ていないという半藤氏が、「風立ちぬ」の主人公の声について「アレは素人ですか?」と宮崎駿監督に質問しちゃったシーンを見て。予備知識が無い人・アニメに詳しくない人が宮崎アニメを見ても、声優の起用については異常な状態だと気づいてしまうのだなあ、と。それってマズイ状態、だろうなと…。
声優としては素人の人を起用するのは、現実らしさを少しでも作品に付加したいという狙いがある故、だろうけど。しかし考えてみれば…。
現実世界の会話は、どもったり、口ごもったり、言い直したり、そういったノイズが必ず入ってるものだけど。宮崎アニメの会話・台詞は、まるでアニメの脚本でも読んでるかのような、ノイズレスの流暢な、しかも時々キザっぽさすら感じる会話・台詞なわけで。まあ、アフレコブースで脚本読んでるわけだから、現実の会話のように聞こえないのは当たり前だけど。何にせよ、もう脚本レベルからして現実から乖離してる、と言えるのだろうなと。
そもそもアニメ映像だって、実写からひたすらノイズを取り除いて、特徴だけを抜き出して抽象化・デフォルメした映像だし。
ホントかどうかは知らないけれど、宮崎駿監督は、声優を本職としてる人達の声・演技について、「娼婦の声」と喩えたことがあるらしいけど。その喩えを使えば、監督が書いたコンテに並んでる台詞だって、ドキュメンタリー映像と比較しちゃったら全てが娼婦の台詞ばかりだし、監督がチェックした原画で作り上げた映像も、実写映像と比べたら全てが娼婦の映像と言えそうな気もしてきたり。
現実にはあり得ない映像や台詞で、しかし現実以上に現実らしさを感じさせる・錯覚させるのが、よくできたアニメなのだろうけど。そこに素人の声を当ててしまったら…。娼婦の台詞に、娼婦の画、しかし声だけはそのへんに居るおじさんおばさんでは、違和感があって当然かも、と。
アニメの画は、現実の光景・動きをデフォルメした画、だろうけど。それは、声・演技についても等しく適用すべきではないのかなあ、と。デフォルメした画や動きには、デフォルメした声や演技が一番しっくりくるのでは ―― 声・演技にも、アニメの原動画と同様に、抽象化が必要なのではないかしら、と。
素人を声優として起用するのは、アニメの画に実写の写真を常時貼り込むような行為だったりしないか。本物を持ってきたら本物らしくなるだろう、という発想は、偽物の映像で現実以上の何かを与えてやるぜ、てな気概が見えてこない、アニメの作り手としては敗北宣言に近い選択だったのではないか。とすら思えてきたり。
まあ、本当に写真をベタベタ貼ってるアニメも自分は好きなんですけど…。でも、それは自分がアニメばっかり見てきたから、ちょっと変わったアニメが気になるだけの話で。普段アニメを全然見てない人が、「アレは素人ですか?」と質問しちゃう起用って、やっぱり何か間違えてたんじゃ…。「この声優、素人かなあ」なんて思われちゃったら、肝心の話の中身に集中してもらえなくなるし。観客に、作品中のどのへんを気にしてもらいたいのか、そのコントロールを作り手側ができていない状態ですわな…。
もっとも、アレだけ画作りにリソース割いたら、疲れちゃってソレ以外はどうでもよくなりそうだよなとも。これが完璧主義者の高畑監督なら、声も演技も音も手を抜かないのだろうけど、その代わり、公開に間に合わない…。アニメ制作のあらゆる面にリソースを割くけれど、スケジュールを守ることにリソースを割く気配が見えないのが高畑監督…。
てなことを思ったりしましたとメモ。
アニメはほとんど見ない・宮崎アニメもトトロしか見ていないという半藤氏が、「風立ちぬ」の主人公の声について「アレは素人ですか?」と宮崎駿監督に質問しちゃったシーンを見て。予備知識が無い人・アニメに詳しくない人が宮崎アニメを見ても、声優の起用については異常な状態だと気づいてしまうのだなあ、と。それってマズイ状態、だろうなと…。
声優としては素人の人を起用するのは、現実らしさを少しでも作品に付加したいという狙いがある故、だろうけど。しかし考えてみれば…。
現実世界の会話は、どもったり、口ごもったり、言い直したり、そういったノイズが必ず入ってるものだけど。宮崎アニメの会話・台詞は、まるでアニメの脚本でも読んでるかのような、ノイズレスの流暢な、しかも時々キザっぽさすら感じる会話・台詞なわけで。まあ、アフレコブースで脚本読んでるわけだから、現実の会話のように聞こえないのは当たり前だけど。何にせよ、もう脚本レベルからして現実から乖離してる、と言えるのだろうなと。
そもそもアニメ映像だって、実写からひたすらノイズを取り除いて、特徴だけを抜き出して抽象化・デフォルメした映像だし。
ホントかどうかは知らないけれど、宮崎駿監督は、声優を本職としてる人達の声・演技について、「娼婦の声」と喩えたことがあるらしいけど。その喩えを使えば、監督が書いたコンテに並んでる台詞だって、ドキュメンタリー映像と比較しちゃったら全てが娼婦の台詞ばかりだし、監督がチェックした原画で作り上げた映像も、実写映像と比べたら全てが娼婦の映像と言えそうな気もしてきたり。
現実にはあり得ない映像や台詞で、しかし現実以上に現実らしさを感じさせる・錯覚させるのが、よくできたアニメなのだろうけど。そこに素人の声を当ててしまったら…。娼婦の台詞に、娼婦の画、しかし声だけはそのへんに居るおじさんおばさんでは、違和感があって当然かも、と。
アニメの画は、現実の光景・動きをデフォルメした画、だろうけど。それは、声・演技についても等しく適用すべきではないのかなあ、と。デフォルメした画や動きには、デフォルメした声や演技が一番しっくりくるのでは ―― 声・演技にも、アニメの原動画と同様に、抽象化が必要なのではないかしら、と。
素人を声優として起用するのは、アニメの画に実写の写真を常時貼り込むような行為だったりしないか。本物を持ってきたら本物らしくなるだろう、という発想は、偽物の映像で現実以上の何かを与えてやるぜ、てな気概が見えてこない、アニメの作り手としては敗北宣言に近い選択だったのではないか。とすら思えてきたり。
まあ、本当に写真をベタベタ貼ってるアニメも自分は好きなんですけど…。でも、それは自分がアニメばっかり見てきたから、ちょっと変わったアニメが気になるだけの話で。普段アニメを全然見てない人が、「アレは素人ですか?」と質問しちゃう起用って、やっぱり何か間違えてたんじゃ…。「この声優、素人かなあ」なんて思われちゃったら、肝心の話の中身に集中してもらえなくなるし。観客に、作品中のどのへんを気にしてもらいたいのか、そのコントロールを作り手側ができていない状態ですわな…。
もっとも、アレだけ画作りにリソース割いたら、疲れちゃってソレ以外はどうでもよくなりそうだよなとも。これが完璧主義者の高畑監督なら、声も演技も音も手を抜かないのだろうけど、その代わり、公開に間に合わない…。アニメ制作のあらゆる面にリソースを割くけれど、スケジュールを守ることにリソースを割く気配が見えないのが高畑監督…。
てなことを思ったりしましたとメモ。
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以上です。