mieki256's diary



2012/03/08(木) [n年前の日記]

#3 [anime] ギルティクラウンが面白い

ギルティクラウンというアニメがお気に入りなのです。と、メモしておくのです。

ボイド結晶に似ている。 :

本編中に、ボイド結晶という物体が出てくるのだけど。どういう物体かと言えば…。

色んな形状が集まって、くっついているような形で。デコボコしていて、ゴツゴツしていて、しかしところどころは妙に丸かったり、それぞれの大きさがバラバラだったり。パッと見は、いびつで、グロテスク。そして、表面は鏡のよう。…などと想像できそうな物体。

作品そのものを表しているようだ、と想像するのです。

パッと見は、そのへんの石ころ(=既存作品の売れ線要素)をやたらとくっつけただけのように見える。でも、覗き込むと、自分の顔(視聴者の現実の姿)がいくつも映り込んだりして。うかつに触ると、指がスパッと切れるような(=心に突き刺さる)鋭利な部分もある。視点を変えながら眺めていくと、周囲の光をキラキラと反射して、醜さの中に美しさが同居しているような気分に…なれる瞬間もありそうな。

数話前から、主人公の「集」というネーミングには何か意味がありそうだ、もしかするとコレは、と、ぼんやり予想はしてたのですが。昨晩の地上波放送で、 集のボイドは、人の醜いものを全て集めるボイドだったとネタ晴らしが来たあたりで、ああ、やっぱりそうだったのか、そういう作りかと、今までの設定や展開が腑に落ちた、そんな気分になりまして。

とにかく、アレコレ集めた作品なんだなと。アニメの設定云々だけじゃない。現実社会の嫌なところ、視聴者が自己嫌悪しているところ、気付いた範囲でとにかくかむしゃらに集めて一塊にしている。結果、アニメと言うフィクションを通じて、現実を客観視するためのヒントを提示している、とすら思える。

主人公を見ていて嫌になるのは当たり前。言動に一貫性がなく、ブレまくりで、無意味に上司(?)と張り合い、そのくせ上司のようには何一つ上手く行かず、行き当たりばったりで、頭も悪く、周囲の顔色ばかり伺って、誰にでもいい顔を見せようとして自爆していく。…視聴者自身が自己嫌悪しているアレコレがそこに集まっている。ソレ、なんて俺? 知らない間に自分がアニメ化されてたよ! みたいなもんで。

展開を見ていて嫌になるのも当たり前。緊急時にも民主主義に固執して対応が後手後手に回り、有権者からは不満が出て、リソースがないのに理想論を振り回して事態を悪化させ、さりとて強権で対処しても不満が出て、犠牲者はどんどん増えるわ、信頼は失うわ、友達無くすわ、ボロボロになっていく。…ついこないだ、散々見せられて辟易した、日本の惨状が再現されている。コレ、震災前に書かれた脚本だったら凄いなと。…いや、UN-GOが震災の影響を受けていたから、これも震災後に書かれた脚本なのかもしれないけれど。

何にせよ、そのあたりに気付いてしまうと、もう迂闊な感想は書けない。石を投げたつもりが、視聴者自身にブーメランとなって返ってくる。…なんかキリストと石のあの話っぽいですが。あるいは、「時々ディスプレイに霊の顔が映るのですが…」「それ、お前の顔だよ」みたいな。怖い。怖いよ、このアニメ。

ヒット作品を目指しているようで実は逆。 :

考えてみれば、監督やシリーズ構成の人が手がけてきたヒット作品 ―― デスノートやコードギアスの真逆になっているのも興味深い。

例えば主人公の性格は、キラやルルーシュと比べると、ことごとく正反対。他者を駒として見ているキラやルルと、助けられるものなら助けたいと真面目に思ってしまう主人公。頭が良くて次々に「計画通り」を実現するキラやルルと、頭が悪くてことごとく失敗させる主人公。他にもいろいろあるけれど、あらゆるところが正反対。

キラやルルが、王の器を持ったキャラ ―― ある種のスーパーマンだとしたら、この作品の主人公は、少なくとも性格・人物像に関して正真正銘本物の凡人。たかだか凡人如きが王の資格を手にしたらどんなことになるのか、というシミュレーションなのかもしれない、と思いつつ。もしかすると、ガイという存在は既存ヒット作品の暗喩であり、そのガイのようになりたいと願う主人公の姿が作品自体の暗喩になっているのかな、と思うこともできそうで。

ヒット作品のセオリーとしては、読者・視聴者の願望を描く、という方針(?)があるわけで、デスノートも、コードギアスも、それに従っていたけれど。この作品は真逆。願望ではなく、現実を延々と見せ続けている。今のところは。

このまま行くと勝算はない。けれど、勝算を見出しているからこそ、あえてこういう作りにしているはずで。さて、ここからどう持っていくのか…。

藤子F作品を彷彿させる気もしたり。 :

ボイドの設定も興味深い。

自分達は常日頃から、社会の中で「能力」を試される。入学試験もそうだし、就職活動もそうだし、能力によるランク分けに絶えず晒されている。数値化される場合もあれば、数値化されずに評価される場合もある。誰もが、「お前、何か『力』を持っているはずだよな?」と問われながら、扱われている。

もし、その能力とやらを、目に見える「道具」の形にすることができたなら…? この設定は、ある種、藤子F作品に見られるSFマインドと通ずるところがあるように思えていたり。

更に、藤子F先生のSF作品に多々見られる、現実世界のアレコレを客観視する冷たい視点も内包しているように感じられて。前述の、凡人が王になる云々も含めて考えれば…。この作品は、今風のキャラデザ・作画で見せる「劇画版・のび太のボイド王国」なのです。…いや、その喩えはどうかと。

などと書いてはみたけれど。 :

可愛い女の子が「あぁん」と悶えたと思ったらカッコイイ音楽が流れ始めて派手な空中戦が始まるソレだけに着目すると、なんだかトンデモなバカアニメを見せてもらってるような感もあり。初代マクロスの、ミンメイの歌をバックにバルキリーが板野サーカスして敵が異様にシリアス顔でデカルチャーと驚いている、あの感覚に近い。アニメとはこうあるべき、とまでは言わないけれど、個人的に好きなのです。そういうノリ。

まあ、何にせよ、お気に入りなのです。

以上です。

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