mieki256's diary



2012/07/19(木) [n年前の日記]

#1 [anime] 境界線上のホライゾンを視聴

作業しつつBGVとして流してチラ見では基本設定すら理解できない感じがしたので、「後で見る」つもりで録画だけして放置状態だったのだけど。HDDレコーダの空きが厳しいのでそろそろ消化しないと、てな感じで1話から目を通し始めたり。

ある意味、凄いな…。ディスプレイに全画面表示して腕組みしながらガン見してみたけれど。つまりは視聴に専念したつもりだけど。それでも、登場人物が何を言ってるのかさっぱりわからねえ…。全ての会話が意味不明。まるで技術系のはてなダイアリーを眺めてる気分。なんだこの呪文の羅列は、みたいな。

設定が観念的過ぎる上に、作品内でのみ通用する用語・単語がてんこもりだから、チンプンカンプンなのだろうと思うけど。映像化しちゃいけないラノベって、あるんだなあ…。

全てを文章で示す、小説という表現手法なら、観念的な設定も独自用語もいくらでも書くことができるし、読者が理解できずに引っ掛かっても読み返すことができるから、作品・商品として成立する可能性は十分ある。ので、それが小説なら、作家さんが好きなだけ突っ走ってくださいな、で済むのだけど。これをアニメにするのは…。小説以外では表現できない作品ってあると思うけど、これはそういう作品じゃないのかなと。

アニメだの映画だのを見るにあたって、「理解不能な部分は、『よくわかんない』とラベルを貼ってパッケージングしてひとまず横に置いといて、理解できるところだけ受け止めて、どんどん先に進む」てな鑑賞の仕方もあるよ、という話を以前どこかで見た記憶があって。自分も時々そういう見方で凌いだ(?)作品がいくつかあるけれど。この作品は、それも無理だなと。全てを細かくパッケージングする羽目になるから処理が追いつかないし、理解できる部分がほとんど残らない。もしかするとそのあたり、視聴者側の脳内で、ある種のオーバーフローを起こし続けることで、「この作品、なんだかすげえ」と錯覚(?)させる作り、なのかなと勝手な想像も。

まあ、世の中、色んな作品があったほうがいいよね。と思うので、これはこれで。2期も作られてるみたいだから需要はあるのだろうし。

1〜3話をガン見して理解できなかったのだから、たぶんこの後の話も理解不能だろう…。どんどん消していこう…。しかし、このおいてけぼり感、スゲエなあ…。

ガンダムシリーズやマクロスシリーズも、こう見えているのだろうか。 :

アニメばかり見ている人にはピンとくる設定も、普段アニメを見てない人には、こんな感じでチンプンカンプン、なのだろうか。なんだかマズイな…。

能・狂言・歌舞伎も、それをずっと見ている人なら、お約束が分かってるから楽しめるのだろうけど。この作品もそういう領域に入ってる作品なのだろうか。ラノベばかり読んでる人ならピンとくるのかしら。わからんけど。

アニメだの、ラノベだの、そのへんなんだかヤバイのかもしれない。蛸壺化してる可能性が高そう。

まあ、作品によるか。全てがこういう作品というわけでもないし。

#2 [anime][neta] ラノベ原作アニメ内の固有名詞だか専門用語だかについてぼんやり思ったり

境界線上のホラなんとかを見ていて思ったけれど。原作を読めば、作品内の、固有名詞? 専門用語? 独自用語? に、どんな漢字が割り当てられているか分かるだろうから、多少は台詞の意味も分かってくるのかも、と。なんだかそのへん、灼眼のシャナ、彩雲国物語、等と同じ問題を抱えてるような気が。

妙な単語をやたら作りたがる・使いたがる作家さんってたまに居るけど、映像化する時、困るよなあ…。

ラノベ原作のアニメ化企画は、今後も増えると思うけど。原作内で使われる膨大な独自用語(?)を、映像ではどのように理解・把握させるのか、その手法について、アニメ業界には課題が突き付けられている、と個人的には思っていたり。

用語と言ってもピンとこないか…。説明に適してるか分からないけど。例えば、昨今流行り(?)の「怪異」なる単語で説明すると。小説では「怪異」と書けるから、読者にもイメージが伝わるけれど、アニメでは「カイイ」という音の響きにしかならないので、視聴者は、「カイイ? 何ソレ?」と困惑する羽目になる。台詞内の単語で一々引っ掛かると、作品を楽しむどころではなくなるわけで。

これがもし新房作品なら、臆することなく画面にドーンと「怪異」の文字を表示したり、黒板に書いたりしちゃうと思う。「なるほど、そういう単語か」と視聴者は把握できるので、その後はすんなり作品に入っていける。

実写作品だけど、仮面ライダー響鬼も同じことをしてた。怪人の呼称について、画面にドーンと「魔化魍」の文字を表示してた記憶が。 *1

そんな感じで、このあたり何かしら工夫しなきゃいけない。と思う。 やり方はなんでも構わないから、技を発見しないといけない。

新房監督とその仲間達は、技を会得しつつある気がするのだけど。でも、他作品では、技を見つけようという気概すら見えないことも多く。技を見つけようとしないということは、作り手に、伝えよう、理解してもらおうという気持ちすら無いことの証明だから、あまり良い傾向ではない。

いや、そもそも、そんな面倒臭いラノベはアニメ化しないのが一番手っ取り早いのか。というわけにはいかんよな… (´・ω・`)

単語数が少なければ、文字ドーン方式その他も使えるんだけど。単語が多過ぎると、手の付けようがないよな…。例えば、ホラなんとかで文字ドーンをやったら、画面が文字だらけになりそう。

いっそ、無声アニメにして、台詞は全部字幕に…。嘘です。アニメなのに、ゲームっぽくメッセージ窓を常時表示して…。嘘です。

何か手は無いのかな。「その手があったか!」と感動してみたいものですが。

まあ、宿題ですわな。アニメ業界に出されてる宿題。てなことを思いながら視聴させてもらってます。

昔のアニメはそのへんどうしてたっけ。 :

ラノベ原作アニメ、と言うわけじゃないけれど。

例えば、ナウシカの「フカイ」「キョシンヘイ」「オウム」は、どの時点で、観客の脳内に辞書登録してたんだろう?

「フカイ」は、タイトルロゴを出す直前、説明文を画面に出すところで、「腐海」の文字を見せてたっけ? 記憶が怪しいな…。「キョシンヘイ」「オウム」は、本編中で最後まで、文字を見せてなかった気がする。

でも、ナウシカの場合、実物を見せながら「○○だ!」と言わせてた。
  • 「腐海」に沈んだ村を歩くユパ様が、「この村も『フカイ』に沈んだか…」
  • 「巨神兵」の繭?を目の前にして、ユパ様とミト爺が、「『キョシンヘイ』が掘り起こされたというのだ」「すると、これが…?」
  • 「王蟲」の抜け殻を目にしたナウシカが、「なんて綺麗な『オウム』の抜け殻」
実際の台詞は違ってるだろうけど、そういうことをやってた。観客が、「ああ、この世界では、これを○○と呼んでんのか」と理解さえできれば、どんな漢字がついてるのか分からなくても問題は無いだろうな、と思う。

富野アニメは、どうだろう…? 基本的に、独自用語はカタカナだけにしてることが多いので、そもそも漢字・文字を見せる必要が無い。…たぶん、これも、技なのだろうと思う。

それでも、自分が子供の頃は、「モビルスーツ」「ニュータイプ」「サイコミュ」「デスドライブ」あたりで引っ掛かってた記憶があり。

「ニュータイプ」は、シリーズ中盤、マチルダさんとブライトさんの会話で、「エスパーみたいなもの」とぶっちゃけてる。でも、これは映画版だけだったかも? 記憶が怪しい。それに、ニュータイプが実際に出てくるまで時間が空いちゃうので、その頃には視聴者は設定を忘れてる。しかし、後半アムロがどんどん強くなり、それに伴って「ニュータイプ」「ニュータイプ」と周囲が言い始めるので、「凄いパイロットのことなんだろうな」ぐらいは伝わるのだと思う。

「デスドライブ」は、映像を見て、「ヤマトのワープみたいなもんかなあ」と思った記憶がある。後に、ロマンアルバムを読んで、ワープとは概念が違うのだと知ったけど。そんなの知らなくても、やっぱりワープみたいなもんだと思っておけば問題無い。これは、既に知られている概念・設定を利用して、混乱を少なくした事例、なのかしら。「ニュータイプ」を「エスパーみたいなもの」とぶっちゃけてるソレに、少し近いのかもしれない。

「マグネットコーティング」は、全然引っ掛からなかった記憶がある。おそらく、アムロのスピードにガンダムがついていけない、という問題を提示して、それに対する解決策を、技術者が登場して説明する、という流れが良かったのかなと思う。実際には何やってるかさっぱりわからんけど、「油を差すようなもんだ」と言ってたような気もするし。

なんとなくだけど、比喩を上手に使って説明を済ませた場面が多い、のかな…。

しかし…。何かのバラエティ番組で、ガンダム芸人さんが、「ロボットのことをモビルスーツって呼ぶんです!」と、一般人のゲストに向かって叫んでた映像を目にした記憶もあり。そういう説明が必要な時点で、結構危ないのだと思えたり。ガンダム芸人さんが、なぜ叫ばなければいけなかったのか、それを鑑みると。独自用語を1つ増やすたびに、お客さんが作品から振り落とされそうになっている、ということぐらいは意識したほうがいいのかもしれない。

宮崎駿監督も、富野監督も、その他、尊敬すべき先輩方も、ちゃんとそういう危機感を持ってアニメを作ってた。特に昔は、アニメ=子供の見るもの、だったから、今以上に気配りが必要だったのだろうと想像するのだけど。

先輩達は、色々な技を発見してきたけど。さて、現役世代は、どうだろうなあ…。まあ、数が少なければ、先輩達が発見した技を使ってどうにかなるんだろうけど。数が多くなると…。この量は、先輩達の時代には、ちょっと無かったよねえ…。

いっそ、東映アニメの動画枚数制限のように、「1話につき独自用語の使用は○種類まで」の制限を脚本家に課してしまうとか。…気配りできる演出家・脚本家なら、そんな制限は不要だろうけど。気配りできない・技を見つけようとしないスタッフしか居ないなら、規則を強制して解決するしか…。いや、そこはやっぱり、自発的に何かしらの技を見つけてほしいような気も。

まあ、宿題ですわな。

*1: 響鬼のソレは、筆文字というデザイン性を活かして、視覚的にもおどろおどろしい感じを伝えていた。仮に文字が読めなかったとしても、なんか気味が悪いモノなんだなと、低年齢の視聴者にも雰囲気で伝えようとしていたのかしら。…いや、待て。OPで、主人公の名前その他も、同じデザインで表示してたから、そういうわけではないか。単にそのほうが和風ムードが出るから、かな…。

#3 [anime] アニメの中で説明できる量について最近思ったことをメモ

もやしもんリターンズの1話を見て、これはちょっとギリギリか? でもないか? このくらいなら大丈夫か? もうちょっとイケるか? 無理か? と少しハラハラドキドキしたり。

何がギリギリ? 説明できる量が。

アニメは、説明することに長けている表現手法。と、自分は思っているけれど。しかし、アニメは、時間制御できる表現手法でもあるから、説明できる量には限度がありそうだな、てなことを、件の作品を見ているうちに思ったり。

それぞれ説明が必要かしら? 自分もそのうち忘れそうだから、一応メモしておこう…。

アニメは説明することに長けている表現手法。 :

前にも書いた気がするのだけど、記事が見つからなかったので、一応メモ。

例えば、ニュース番組や教養番組で、少し複雑な事故・事件・知識等を説明するときは、ちょっとしたアニメが挿入されたりする。なんでアニメが出てくるのか。アニメを使うと説明が分かりやすくなるから。

そもそも、日本で初めて作られたアニメは、教育目的で作られたらしい。子供達に科学知識を教える際に、アニメを使うと分かりやすく説明できる、てな効能を見出されたのだとか。東映動画が誕生する、少し前の時代の話。

ということで、実際に使われている場面を眺めると、アニメは説明することに長けている表現手法、と言えるのではないかと。

アニメになるとどうして分かりやすくなるのか。これは自分の勝手な仮説だけど。
  • 動きを表現できる。動きとは、時間の変化に伴った、状態の変化のこと。
  • 説明する上で邪魔になる視覚情報を、デフォルメ・記号化を通すことで、消去することができる。肝の部分だけ、見せることができる。
  • 「読み聞かせ」ができる。
  • etc.
どれも、アニメ特有の強みというわけではないけれど。時間、絵、音を操れる総合芸術だからこそ持てる強み、ではあると思う。

ついでに、飛躍した極論も書いてしまうけど。アニメを使っているのに上手に説明できないということは、そのアニメを作った人達が、説明すべき内容を理解できてない証拠。もしくは、作った人達が、アニメを愛してない。アニメという表現手法と真剣にお付き合いしてないから、活用できないのだろうなと。自分の勝手な極論ですけど。

しかし時間制御する表現手法には量に関して限界がある。 :

アニメは説明することに長けているけれど。しかし、作り手が時間を制御できる表現手法でもあるので、説明できる量には限界があるよな、と。

作り手が時間を制御できない、小説や漫画と比較すると、分かりやすい気がする。
  • 小説や漫画は、時間の制御を、読者が行う。理解が遅い読者はゆっくり読むし、理解が早い読者はガンガン読み進む。一人一人の理解速度に対応できる。
  • 小説や漫画は、途中で引っ掛かる部分が出てきたときに、少し前に戻って読み返すこともできる。過去の情報を容易に参照できる。
  • 小説や漫画は、詰め込む情報量に自由度がある。ページサイズや文字数が許す限り、ギッシリ詰め込むこともできるし、逆に、特大の文字で台詞を一つだけ書く、なんてこともできる。
アニメでは、どれも難しい。
  • アニメは、視聴者一人一人の理解速度に対応できない。作り手が設定した速度以外にはならないから。
  • アニメは、作り手が仕込まない限り、過去の情報を参照できない。
  • アニメは、フレームという制限、TVという解像度の制約があるので、詰め込める視覚情報の量に制限がある。
  • アニメは、音声を流すので、一定の時間内に詰め込める台詞の量に限界がある。
  • etc.

例えば、もやしもんは漫画が原作だけど。漫画版では、教授がやたら長々と農学について説明するコマがある。アニメでは、そういう表現は無理。説明するためには、その音声分の時間が必要になるので、下手すると教授の説明台詞だけでAパートが終わってしまう。しかしこれが漫画なら、たった1コマ、吹き出しの中にビッシリ細かい文字で書き込んで、読者に情報を与えることができる。その上、読者がその気になれば、その説明を一字一句漏らさず読んで理解することもできてしまう。…いや、もやしもんの件のコマは、どう見ても読み飛ばすこと推奨なのだけど。そこに書かれた大量の文章を、読もうと思えば読めてしまうのが、時間制御をユーザに任せている表現手法の強み。アニメでは、そういうのは無理。

アニメは音楽と同じ。提示した情報は、どんどん流れて消えていく。

作り手が時間を制御できる表現手法は、理解させられる量に関して限界がある。オーケストラの楽器音の一つ一つ、合唱団の一人一人の声を聞き分けるのは、素人には無理。

もっとも音楽は、漠然と全体を感じることができればそれで娯楽になるけれど。アニメは、そういうわけにはいかない。いや、そういう状態で問題無い場面と、問題がある場面が混在している。それがアニメ。

説明することに関して、そういう難しさが、アニメにはあるよなと。分かりやすい形で伝えられるけど、提示できる情報量には限界がある。感じさせることはたやすいけど、大量にしっかりと一度に全てを理解してもらうことは難しい。

このへん、アニメに限った話じゃなくて、映像コンテンツに共通する話なのだけど。

そんなこんなで。 :

「もやしもんリターンズ」を見ていると、説明できる量や、説明する速度について、どのへんがギリギリのラインか、絶えず意識しながら作ってるように思えるので、好印象でしたよ、と。アニメという表現手法と悩みながら付き合ってくれているんだな、みたいな。まあ、漫画原作があの情報量だから、そうせざるをえないよ、と言われそうな気もするけれど。

「氷菓」も、同じような理由で好印象。謎について説明する際に、アニメの強みを活かした説明を模索しているように見える。巷のアニメのほとんどが、「読み聞かせ」しか使わない怠惰ぶりを見せる中、あの手のこの手で状況を説明しようと試みている。心意気からして違う。原動画の細やかさもそうだけど、京アニは、アニメ(あるいは映像表現)を愛してくれている人達が集まっているんだなあ、と感じて嬉しくなるわけで。

自分は薄いアニオタだけど、それでも一応アニメが好きなほうなので。アニメの強みや弱みを意識しながら作ってる作品群を見ていると、それだけでなんだか嬉しくなってしまうのでした。みたいな。

そんなことを思いましたよとメモ。

以上、1 日分です。

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