2018/09/18(火) [n年前の日記]
#1 [comic][neta] 「りびんぐゲーム」「雑居時代」から色々と考えたり
思考メモ。
寝ていたら夢の中で、「りびんぐゲーム」「雑居時代(小説。氷室冴子著)」っぽい漫画のネタが出てきて。
目が覚めてから、「今でもああいった設定は、アレンジ次第でイケるんじゃないのか」「少なくとも巷に溢れてる異世界転生モノよりは面白くなるのでは」と思えてきて、夢の中で見たソレを頭の中でネーム(モドキ)に起こし始めたのだけど。
しかし、脳内で、主人公に「何だよ…この状況…ありえねえ」的な台詞を言わせた瞬間、ソレは違うなと気が付いた。今の時代、ああいうのって、全然「ありえねえ」話ではないよなと…。シェアハウスとかよく聞くわけだし、ひょっとすると今現在では「あるある」ネタじゃないのかと。
ああいった状況設定を異常と捉えるのは、御歳を召した方々、いわゆる昭和世代やバブル世代、ぐらいではないのか。今時の若い人達からは、「そんなどこにでもありそうな風景の何が面白いんだよ」と思われちゃったりしないか…。
考えてみたら、「りびんぐゲーム」ってバブルが弾けたちょっと後ぐらいに連載されてた作品、だったような気もする。時代に先駆けていた設定ではなくて、時代と同時進行していた設定というか。当時の自分は「ありえねえ」「漫画だなあ」と思いながら読んでた気もするけど、アンテナの性能が低すぎて、現実が同じような状況になってることに気づいてなかっただけ、かもしれないなと…。
まあ、よくあるシチュエーションだったとしても、それはそれで、今なら「ほのぼの日常系」というジャンルとして作れるのではないかと思ったりもするのだけれど。
ん? もしかして「きらら」系の作品で、そういうのって既に結構あったりしないか? ありそうな気がしてきた。そっち系は詳しくないけど、たぶんあるよな…。
寝ていたら夢の中で、「りびんぐゲーム」「雑居時代(小説。氷室冴子著)」っぽい漫画のネタが出てきて。
目が覚めてから、「今でもああいった設定は、アレンジ次第でイケるんじゃないのか」「少なくとも巷に溢れてる異世界転生モノよりは面白くなるのでは」と思えてきて、夢の中で見たソレを頭の中でネーム(モドキ)に起こし始めたのだけど。
しかし、脳内で、主人公に「何だよ…この状況…ありえねえ」的な台詞を言わせた瞬間、ソレは違うなと気が付いた。今の時代、ああいうのって、全然「ありえねえ」話ではないよなと…。シェアハウスとかよく聞くわけだし、ひょっとすると今現在では「あるある」ネタじゃないのかと。
ああいった状況設定を異常と捉えるのは、御歳を召した方々、いわゆる昭和世代やバブル世代、ぐらいではないのか。今時の若い人達からは、「そんなどこにでもありそうな風景の何が面白いんだよ」と思われちゃったりしないか…。
考えてみたら、「りびんぐゲーム」ってバブルが弾けたちょっと後ぐらいに連載されてた作品、だったような気もする。時代に先駆けていた設定ではなくて、時代と同時進行していた設定というか。当時の自分は「ありえねえ」「漫画だなあ」と思いながら読んでた気もするけど、アンテナの性能が低すぎて、現実が同じような状況になってることに気づいてなかっただけ、かもしれないなと…。
まあ、よくあるシチュエーションだったとしても、それはそれで、今なら「ほのぼの日常系」というジャンルとして作れるのではないかと思ったりもするのだけれど。
ん? もしかして「きらら」系の作品で、そういうのって既に結構あったりしないか? ありそうな気がしてきた。そっち系は詳しくないけど、たぶんあるよな…。
◎ 異世界転生モノも「りびんぐゲーム」「雑居時代」かも。 :
「そういう設定の作品は、異世界転生モノより面白くなるのでは」と一瞬思ってしまったけれど。よく考えたら巷に溢れてる異世界転生モノって、えてして「りびんぐゲーム」「雑居時代」の要素がどこかしらに含まれてるような、そんな気分になってきた。
例えば、「このすば」。アレは「雑居時代」だよなあ…。
あるいは、先日見かけた、魔王がどうこうな設定のラノベ原作アニメ。宿屋の狭い一室に、男性主人公と美少女二人が暮らしてるわけで、「りびんぐゲーム」と言えなくもないよなと。
戦士や魔法使いが馬車に乗って皆で旅をする系の設定も、ある意味、開放感のある「りびんぐゲーム」だったりしないか。
例えば、「このすば」。アレは「雑居時代」だよなあ…。
あるいは、先日見かけた、魔王がどうこうな設定のラノベ原作アニメ。宿屋の狭い一室に、男性主人公と美少女二人が暮らしてるわけで、「りびんぐゲーム」と言えなくもないよなと。
戦士や魔法使いが馬車に乗って皆で旅をする系の設定も、ある意味、開放感のある「りびんぐゲーム」だったりしないか。
◎ 四谷さんは大事な気がする。 :
ということで、異世界転生モノはえてしてそのあたりの要素も既に含んでいるのだ、てな印象になってきたのだけど。
ただ、それらの作品には、男性メンバーが主人公しか居ない・ハーレム状態という違いがあるなと…。「めぞん一刻」で言えば、四谷さんが居ない世界線ばかり。
四谷さんが居ないと、気持ち悪いのだよなあ…。いや、四谷さん自体もかなり気持ち悪いというか不気味な存在だけど、居ないともっと不気味。居たら劇的に何か変わるわけでもないのだけど、居なかったら世界が閉じるというか…。
異世界転生モノは、何故に四谷さんが置かれないのか。四谷さんが相手でも、主人公が負けてしまうと思い込まれているのだろうか。どんだけ魅力がない主人公なの…。
ただ、それらの作品には、男性メンバーが主人公しか居ない・ハーレム状態という違いがあるなと…。「めぞん一刻」で言えば、四谷さんが居ない世界線ばかり。
四谷さんが居ないと、気持ち悪いのだよなあ…。いや、四谷さん自体もかなり気持ち悪いというか不気味な存在だけど、居ないともっと不気味。居たら劇的に何か変わるわけでもないのだけど、居なかったら世界が閉じるというか…。
異世界転生モノは、何故に四谷さんが置かれないのか。四谷さんが相手でも、主人公が負けてしまうと思い込まれているのだろうか。どんだけ魅力がない主人公なの…。
◎ 主人公以外の男性が居るかどうか。 :
主人公以外の男性が配置されているかどうかについて考えているうちに、宮崎アニメの「紅の豚」を思い出したり。飛行機工場に
女性しか居なくて主人公が驚く、みたいなシーンを…。
ただ、あのシーンは、工場長に、「ガハハ」と笑う系の男性が配置されていたよなと…。要するに、彼は四谷さん、なのだよなと。
主人公が異性の集団の中にたった一人でポツンと居ると、なんとも居心地の悪さを感じてしまうし、それは同時に、読者、視聴者、観客にとっても居心地の悪さを感じさせてしまうのだけど。周囲に一人二人同性を配置すると、それだけで気が楽になる、見ていてどこか安堵する、みたいな。異常な状況が、ちょっとフツーにありえる状況になって、受け入れやすくなる…。
しかし、仮に、今時の作家がああいうシーンを作ろうとしたら、きっと工場長は、巨乳の美人女性になってしまうのだろう…。もしかすると「サービスサービス〜」とか言っちゃう系のキャラかもしれないってそれは古いか…。
そこらへんが、当時の宮崎駿監督の優れたバランス感覚であり、より多くの大衆が最終的には支持する作品を繰り出せてた秘訣、だったのかもしれないなと。 *1 要するに、設定一つ考えるだけでも「健康的」か「病的」か、みたいな話で…。今の作家は、ほとんどが「病んでいる」可能性が…。
まあ、病んでいる受け手の数がソレなりに居る現代なので、それはそれで商売になってしまうのだろうけど。より多くのリターンを得たいなら、大ヒット作品を得たいなら、どこかで転換を、なのだろうな…。と言っても、病んでる人に「健康的になれ」と要求しても「無茶言うな」だよなあ…。
ということで、健康的な作家を見つけたら、これは大事にしないといけませんよ、今時珍しい掘り出し物ですよ、と。「コイツの感覚、古いなあ」と思った直後に、「待てよ。もしかして俺は、未来の宮崎駿にダメ出ししちゃってるのでは」と、ちょっとは思い直したほうがいいのかも…。なんちてぽっくん。
このへんは、「普遍性」と「古さ」の混同、みたいな話になるのだろうか。ちょっとよく分かりませんが。
ただ、あのシーンは、工場長に、「ガハハ」と笑う系の男性が配置されていたよなと…。要するに、彼は四谷さん、なのだよなと。
主人公が異性の集団の中にたった一人でポツンと居ると、なんとも居心地の悪さを感じてしまうし、それは同時に、読者、視聴者、観客にとっても居心地の悪さを感じさせてしまうのだけど。周囲に一人二人同性を配置すると、それだけで気が楽になる、見ていてどこか安堵する、みたいな。異常な状況が、ちょっとフツーにありえる状況になって、受け入れやすくなる…。
しかし、仮に、今時の作家がああいうシーンを作ろうとしたら、きっと工場長は、巨乳の美人女性になってしまうのだろう…。もしかすると「サービスサービス〜」とか言っちゃう系のキャラかもしれないってそれは古いか…。
そこらへんが、当時の宮崎駿監督の優れたバランス感覚であり、より多くの大衆が最終的には支持する作品を繰り出せてた秘訣、だったのかもしれないなと。 *1 要するに、設定一つ考えるだけでも「健康的」か「病的」か、みたいな話で…。今の作家は、ほとんどが「病んでいる」可能性が…。
まあ、病んでいる受け手の数がソレなりに居る現代なので、それはそれで商売になってしまうのだろうけど。より多くのリターンを得たいなら、大ヒット作品を得たいなら、どこかで転換を、なのだろうな…。と言っても、病んでる人に「健康的になれ」と要求しても「無茶言うな」だよなあ…。
ということで、健康的な作家を見つけたら、これは大事にしないといけませんよ、今時珍しい掘り出し物ですよ、と。「コイツの感覚、古いなあ」と思った直後に、「待てよ。もしかして俺は、未来の宮崎駿にダメ出ししちゃってるのでは」と、ちょっとは思い直したほうがいいのかも…。なんちてぽっくん。
このへんは、「普遍性」と「古さ」の混同、みたいな話になるのだろうか。ちょっとよく分かりませんが。
*1: もっとも、宮崎駿監督も、「もののけ姫」では巨乳美人女性的な工場長ポジションのキャラも出しているのだけど。しかしアレは、男女関係なく集団をまとめていく強い女性リーダー像という別属性を描いてるわけで…。
_大衆の先頭に立って旗を振ってる例の絵画
のソレというか。そこもまた、優れたバランス感覚があるように思える…。
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#2 [anime][neta] 「紅の豚」の飛行機工場のシーンについてなんとなく思ったり
思考メモ。
「紅の豚」の飛行機工場のシーンについて思い返しているうちに、アレは宮崎駿監督が初期の東映動画に属していたから思いついたシチュエーション、自身の体験から生まれたシーンだったりするのかなと思えてきたり。
東映動画時代は、作品制作の終盤になると、原画マンや動画マンも仕上げ部に手伝いに行ってた、みたいな話が大塚康生氏の「作画汗まみれ」に書かれてたような気がするわけで。おそらく、女性ばかりがずらりと並んでる仕上げ部の光景を見て、当時の宮崎駿氏は何かを感じていたのではあるまいか…。そしてそれが、後に自作の中で、ひょっこり芽を出したのでは、と…。
「紅の豚」の主人公は、最初、「オイオイ大丈夫か」と不安がってるけれど。工場長は「まかせとけ」なノリだし、そのうち顔を知ってる婆ちゃん達も出てくるし、「モリモリ食べて、ビシバシ働こう」というスローガン通りに立派な働きを見せる作業員の姿を目にするしで。「コイツラに任せとけば大丈夫だ」という気持ちに変わってくる…。そこらへんも、東映動画時代の宮崎駿監督の体験から出てきた流れ、だったりしないかと…。「この娘さん達、スゲエな。頼りになるな」「仕上げに関しては俺より上手いやん」みたいな。
だとしたら、マズイ。若い作り手世代は分業が進み過ぎていて、部署間の交流がほとんど無いらしいから、宮崎駿監督が目撃したそういう風景を、自身の体験として得る機会が無いだろう。ということは、宮崎アニメのような作品を作ろうとしても、コレは作れない。実体験に基づく引き出しが少ないから。
であれば…。時々強制的に、演出、原画マン、動画マンを、仕上げの手伝いに行かせないとマズいのでは…。って短絡的過ぎるか。というか、そんな余裕が今のアニメ業界にあるわけ無いし。そもそも、それぞれ、別スタジオ・別会社になってるだろうから無理だよな。おそらくはスタジオがある国自体も違ってそう。
などと考えると、一つのスタジオで全工程をやっていた初期の東映動画に参加してた世代って、なんだかズルいなあと思えてきたりもして。「作画汗まみれ」には、仕上げを手伝ってるうちに仕上げ担当の女性を奥さんにしちゃった男性アニメーターの話が載ってたりするし…。出会いの機会もあったのだよなあ…。なんだかズルい。
と言うのは冗談としても、分業が進むとそれはそれで色々デメリットがあるんだろうな、みたいなことを思ったり。制作システムの柔軟性は失われるだろうし…。誰かが言ってたけど、アニメの1カットは工業製品じゃなくて、本来は全カットが特注品・一品モノなのだ、それを工場のラインのような感覚で作ろうとするから話がおかしくなってくるのだ、みたいな。しかし、そういった妙な分業を推し進めちゃったのが東映動画・東映アニメーションってあたりがなんだか皮肉な状況だけど。
東映動画ではなくて、スタジオぴえろの話だけれど…。「うる星やつら」劇場版第1作の時は、時間も人手も足りなくて、押井監督までセルの仕上げをやってたらしいけど。本来なら、そのぐらい柔軟なことができる環境で作ったほうが、伸び伸びとした作品が出てくるのかなと…。 *1 と言っても当人達は「あんなのは二度とゴメン」「伸び伸び云々以前の悲惨な状況だよ」と絶対言い出すだろうけど。
とかなんとか考えちゃう機会すら与えてくれるあたり、やはり宮崎アニメは名作揃いだなーと思いました。(小並感)
「紅の豚」の飛行機工場のシーンについて思い返しているうちに、アレは宮崎駿監督が初期の東映動画に属していたから思いついたシチュエーション、自身の体験から生まれたシーンだったりするのかなと思えてきたり。
東映動画時代は、作品制作の終盤になると、原画マンや動画マンも仕上げ部に手伝いに行ってた、みたいな話が大塚康生氏の「作画汗まみれ」に書かれてたような気がするわけで。おそらく、女性ばかりがずらりと並んでる仕上げ部の光景を見て、当時の宮崎駿氏は何かを感じていたのではあるまいか…。そしてそれが、後に自作の中で、ひょっこり芽を出したのでは、と…。
「紅の豚」の主人公は、最初、「オイオイ大丈夫か」と不安がってるけれど。工場長は「まかせとけ」なノリだし、そのうち顔を知ってる婆ちゃん達も出てくるし、「モリモリ食べて、ビシバシ働こう」というスローガン通りに立派な働きを見せる作業員の姿を目にするしで。「コイツラに任せとけば大丈夫だ」という気持ちに変わってくる…。そこらへんも、東映動画時代の宮崎駿監督の体験から出てきた流れ、だったりしないかと…。「この娘さん達、スゲエな。頼りになるな」「仕上げに関しては俺より上手いやん」みたいな。
だとしたら、マズイ。若い作り手世代は分業が進み過ぎていて、部署間の交流がほとんど無いらしいから、宮崎駿監督が目撃したそういう風景を、自身の体験として得る機会が無いだろう。ということは、宮崎アニメのような作品を作ろうとしても、コレは作れない。実体験に基づく引き出しが少ないから。
であれば…。時々強制的に、演出、原画マン、動画マンを、仕上げの手伝いに行かせないとマズいのでは…。って短絡的過ぎるか。というか、そんな余裕が今のアニメ業界にあるわけ無いし。そもそも、それぞれ、別スタジオ・別会社になってるだろうから無理だよな。おそらくはスタジオがある国自体も違ってそう。
などと考えると、一つのスタジオで全工程をやっていた初期の東映動画に参加してた世代って、なんだかズルいなあと思えてきたりもして。「作画汗まみれ」には、仕上げを手伝ってるうちに仕上げ担当の女性を奥さんにしちゃった男性アニメーターの話が載ってたりするし…。出会いの機会もあったのだよなあ…。なんだかズルい。
と言うのは冗談としても、分業が進むとそれはそれで色々デメリットがあるんだろうな、みたいなことを思ったり。制作システムの柔軟性は失われるだろうし…。誰かが言ってたけど、アニメの1カットは工業製品じゃなくて、本来は全カットが特注品・一品モノなのだ、それを工場のラインのような感覚で作ろうとするから話がおかしくなってくるのだ、みたいな。しかし、そういった妙な分業を推し進めちゃったのが東映動画・東映アニメーションってあたりがなんだか皮肉な状況だけど。
東映動画ではなくて、スタジオぴえろの話だけれど…。「うる星やつら」劇場版第1作の時は、時間も人手も足りなくて、押井監督までセルの仕上げをやってたらしいけど。本来なら、そのぐらい柔軟なことができる環境で作ったほうが、伸び伸びとした作品が出てくるのかなと…。 *1 と言っても当人達は「あんなのは二度とゴメン」「伸び伸び云々以前の悲惨な状況だよ」と絶対言い出すだろうけど。
とかなんとか考えちゃう機会すら与えてくれるあたり、やはり宮崎アニメは名作揃いだなーと思いました。(小並感)
*1: いや、「うる星やつら」劇場版第1作は、押井監督からすると伸び伸びとは程遠い作品だったのだろうけど…。「ビューティフルドリーマー」のほうが伸び伸びしてるよな…。
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以上、1 日分です。