2017/09/15(金) [n年前の日記]
#2 [anime] 「異世界はスマートフォンとともに。」なるアニメがなんだか気になる
BS11で放送されてる、「異世界はスマートフォンとともに。」なるアニメを一応視聴してるのだけど。なんだか気になるというか、興味深い作品だなと思ってしまったのでそのあたりをメモ。
◎ テンプレ集合体としての個性。 :
原作はWeb小説発祥のラノベらしいけど…。作者さんの意図や背景が全く分からんので色々と断言するのは難しいのだけど、なんでも巷の評では、異世界転生モノのテンプレートをひたすらかき集めて列挙した、てな感じの作品だそうで。
テンプレ展開というのは、「あ、これテンプレだ」「こういうのは○○で見たぞ」と認知されると、その時点からえてして面白くない印象を受けるわけだけど。しかし全てがテンプレで構成されると、それはそれでまた違った印象を受けるのだと、この作品を通じて気づかされたというか。
たとえテンプレでも、次から次へと提示されれば、質はともかくそこには膨大な情報量がたしかに提示されているわけで、その情報量に対してある種のトリップ感、酩酊状態が発生してしまう、とでもいうか…。結果、瞬間瞬間で見ると何一つこれっぽっちも欠片も面白くないし正直なところ頭痛がしてくるぐらいに酷いレベルなのだけど、しかし全体を通してみると他の作品には無い独特な面白さが感じ取れなくもない、なんとも不思議な作品になってる、ような気がするわけで。面白くないのに、面白い。一体なんなんだろう、この作品は。こういう作り方もあるのか、これはこれでアリと言えばアリかもしれないなあ、などと感心させられてしまったり。もっとも、こういう作り方をするためには、既存作品に対するテンプレの探索と発見の作業が必要になるわけで、それはそれで結構大変じゃないのかなと想像したりもするのだけど…。
まあ、庵野監督あたりが「自分達はコピー世代」と言ってたりするけれど、コピー世代にはコピー世代なりの作り方・戦い方がある、てな話でもあるのかなあ…。あるいは、どんな手法も本気で取り組めば見世物になるんだよ、てな事例なのかも。
テンプレ展開というのは、「あ、これテンプレだ」「こういうのは○○で見たぞ」と認知されると、その時点からえてして面白くない印象を受けるわけだけど。しかし全てがテンプレで構成されると、それはそれでまた違った印象を受けるのだと、この作品を通じて気づかされたというか。
たとえテンプレでも、次から次へと提示されれば、質はともかくそこには膨大な情報量がたしかに提示されているわけで、その情報量に対してある種のトリップ感、酩酊状態が発生してしまう、とでもいうか…。結果、瞬間瞬間で見ると何一つこれっぽっちも欠片も面白くないし正直なところ頭痛がしてくるぐらいに酷いレベルなのだけど、しかし全体を通してみると他の作品には無い独特な面白さが感じ取れなくもない、なんとも不思議な作品になってる、ような気がするわけで。面白くないのに、面白い。一体なんなんだろう、この作品は。こういう作り方もあるのか、これはこれでアリと言えばアリかもしれないなあ、などと感心させられてしまったり。もっとも、こういう作り方をするためには、既存作品に対するテンプレの探索と発見の作業が必要になるわけで、それはそれで結構大変じゃないのかなと想像したりもするのだけど…。
まあ、庵野監督あたりが「自分達はコピー世代」と言ってたりするけれど、コピー世代にはコピー世代なりの作り方・戦い方がある、てな話でもあるのかなあ…。あるいは、どんな手法も本気で取り組めば見世物になるんだよ、てな事例なのかも。
◎ スマートフォンに対する認知。 :
それとは別に、作中でのスマートフォンというアイテムの捉えられ方が非常に気になるというか。
主人公は、神様に、「異世界に行ってもスマートフォンが使えるように」とお願いして異世界転生する、という設定なのだけど。時々ふと思い出したようにスマートフォンを使いつつも、しかしそこで提供されている機能が、すべて回線の向こう側に存在するネットサービスだったりするあたりが実に興味深いなと。
このあたり、作者が天然でやってるのか、それともわざとやってるのかは分からんのだけど…。もしかすると今時の若い人は、スマートフォン=ネットサービスを利用するための端末、ではなくて、スマートフォン自体にネットサービスが提供している各機能がまるっと含まれていると捉えてるのではあるまいか、てな疑念が自分の中で生じてしまったわけで。
いやまあ、おそらく主人公の思考の安易さは読者にとってのツッコミどころとしてわざとらしく提示されているのだろうと想像もするし、若い人達は、スマートフォンの回線の向こう側に存在するサーバにアクセスして各種サービスを享受してることをちゃんと分かってるだろうと想像もするのだけど。だって、現実世界のスマートフォン利用者は、日常会話の中で「サーバが落ちてる」云々とつぶやいてるわけで。つまり大多数のユーザは、スマートフォンの本体機能としてそれが提供されてるわけではなく、サーバが実処理をやってるのだ、ぐらいの認識は当然あるはずで。故に、主人公のスマホの使い方を見て、「ねーよ」「なんでだよ」と笑うことができるのだろう、と。
ただ、物心ついた頃にはスマートフォンがあるのが当たり前だった世代にとって、スマートフォンが一体どんなアイテムに見えてるのか、そのあたりは気になるところだよなと…。
彼等は、Googleストリートビューがどうやって写真を集めてきたのか想像することはあるのだろうか。Wikipediaが集合知と寄付で存在できていることを知っているのだろうか。「いせスマ」の主人公のように、回線の向こう側で提供されてるアレやコレがスマートフォンの中に全てまるっと内包されている、スマホさえあれば全てが完結する、スマホはガチで単なる魔法の道具なのだ、と勘違いする可能性はないのだろうか…。
例えば、生まれた時から民放TVチャンネルが存在するのが当たり前だった世代の中には、うっかりすると「どうしてNHKは受信料を取るんだ」「民放のように無料で放送しろ」と言い出しちゃう輩が時々混ざってるわけだけど。どうして民放が放送するチャンネルを無料で視聴できるのか、その仕組みすら想像することもなく、同時に、その仕組みがもたらすデメリットを予想できない状態に陥ってる層が、現実世界では悲しいかな既に一定数存在しているわけで。
同じことが、「生まれた時からスマートフォンがあるのが当たり前」だった世代の中で発生しないと言えるのだろうか…。
彼等の手の中にある、スマートフォンと呼ばれるアイテムは、広大なネットをチラチラ覗くことができるだけの機器に過ぎず、さらにネットは、多くの人達が色んな形で努力することでかろうじて存続できている、どこか危うさを持った存在でもあるわけだけど。そういった認識を一体どの時点で持つことができるのだろうか。彼等は、「いせスマ」の主人公にはならないと、はたして楽観視できるのか…。
いや、自分達だって結構怪しい…。時と場合によっては、「いせスマ」の主人公のような錯覚をしている可能性はないか。ネットサービスを利用する際、回線の向こう側を想像することができているのか。そこにある仕組みだけではなく、向こう側の向こう側でサービスを利用している「相手」の姿を想像しながら、各種サービスを上手に利用していると言えるのだろうか。
今はまだ、読者視聴者がツッコミ入れつつ笑いながら見てるけど、そのうちツッコミ入れてもキョトンとしてる層が出てきたらどうしよう…。「いせスマ」はギャグ作品なのだろうと思うけど、見方によってはホラー作品にもなり得るよなあ、と。
てなあたりをついつい考えてしまうあたり、なんだか興味深い作品だなあ、などと思いながら眺めております。とメモ。
や。1話の冒頭で主人公が、神様に「スマートフォンを使えるように」とお願いした時、「スマホでモンスターに殴りかかるのだろうか…」「あるいはスマホの熱で玉子焼きでも作ったりするのかなあ」「そのぐらいしか使い道ねえよなあ」と想像していたらいきなりGoogleマップ異世界版を使い始めたのでビックリしちゃったんですよね…。ソレ、スマホじゃなくてGoogleのサービスだよね? スマホって…何なの…君達一体どういう認識してるの…。もしかして、俺の認識がおかしいの…? いや待て、これはいわゆる「ボケ」かな? ツッコミ待ちの場面なのか? 「ソレ、スマホじゃねー」って言っとけばいいのか? みたいな。とにかく各所で「スマホとは何ぞや」という命題を提示されて不安になってくる、妙な作品だなと…。
主人公は、神様に、「異世界に行ってもスマートフォンが使えるように」とお願いして異世界転生する、という設定なのだけど。時々ふと思い出したようにスマートフォンを使いつつも、しかしそこで提供されている機能が、すべて回線の向こう側に存在するネットサービスだったりするあたりが実に興味深いなと。
このあたり、作者が天然でやってるのか、それともわざとやってるのかは分からんのだけど…。もしかすると今時の若い人は、スマートフォン=ネットサービスを利用するための端末、ではなくて、スマートフォン自体にネットサービスが提供している各機能がまるっと含まれていると捉えてるのではあるまいか、てな疑念が自分の中で生じてしまったわけで。
いやまあ、おそらく主人公の思考の安易さは読者にとってのツッコミどころとしてわざとらしく提示されているのだろうと想像もするし、若い人達は、スマートフォンの回線の向こう側に存在するサーバにアクセスして各種サービスを享受してることをちゃんと分かってるだろうと想像もするのだけど。だって、現実世界のスマートフォン利用者は、日常会話の中で「サーバが落ちてる」云々とつぶやいてるわけで。つまり大多数のユーザは、スマートフォンの本体機能としてそれが提供されてるわけではなく、サーバが実処理をやってるのだ、ぐらいの認識は当然あるはずで。故に、主人公のスマホの使い方を見て、「ねーよ」「なんでだよ」と笑うことができるのだろう、と。
ただ、物心ついた頃にはスマートフォンがあるのが当たり前だった世代にとって、スマートフォンが一体どんなアイテムに見えてるのか、そのあたりは気になるところだよなと…。
彼等は、Googleストリートビューがどうやって写真を集めてきたのか想像することはあるのだろうか。Wikipediaが集合知と寄付で存在できていることを知っているのだろうか。「いせスマ」の主人公のように、回線の向こう側で提供されてるアレやコレがスマートフォンの中に全てまるっと内包されている、スマホさえあれば全てが完結する、スマホはガチで単なる魔法の道具なのだ、と勘違いする可能性はないのだろうか…。
例えば、生まれた時から民放TVチャンネルが存在するのが当たり前だった世代の中には、うっかりすると「どうしてNHKは受信料を取るんだ」「民放のように無料で放送しろ」と言い出しちゃう輩が時々混ざってるわけだけど。どうして民放が放送するチャンネルを無料で視聴できるのか、その仕組みすら想像することもなく、同時に、その仕組みがもたらすデメリットを予想できない状態に陥ってる層が、現実世界では悲しいかな既に一定数存在しているわけで。
同じことが、「生まれた時からスマートフォンがあるのが当たり前」だった世代の中で発生しないと言えるのだろうか…。
彼等の手の中にある、スマートフォンと呼ばれるアイテムは、広大なネットをチラチラ覗くことができるだけの機器に過ぎず、さらにネットは、多くの人達が色んな形で努力することでかろうじて存続できている、どこか危うさを持った存在でもあるわけだけど。そういった認識を一体どの時点で持つことができるのだろうか。彼等は、「いせスマ」の主人公にはならないと、はたして楽観視できるのか…。
いや、自分達だって結構怪しい…。時と場合によっては、「いせスマ」の主人公のような錯覚をしている可能性はないか。ネットサービスを利用する際、回線の向こう側を想像することができているのか。そこにある仕組みだけではなく、向こう側の向こう側でサービスを利用している「相手」の姿を想像しながら、各種サービスを上手に利用していると言えるのだろうか。
今はまだ、読者視聴者がツッコミ入れつつ笑いながら見てるけど、そのうちツッコミ入れてもキョトンとしてる層が出てきたらどうしよう…。「いせスマ」はギャグ作品なのだろうと思うけど、見方によってはホラー作品にもなり得るよなあ、と。
てなあたりをついつい考えてしまうあたり、なんだか興味深い作品だなあ、などと思いながら眺めております。とメモ。
や。1話の冒頭で主人公が、神様に「スマートフォンを使えるように」とお願いした時、「スマホでモンスターに殴りかかるのだろうか…」「あるいはスマホの熱で玉子焼きでも作ったりするのかなあ」「そのぐらいしか使い道ねえよなあ」と想像していたらいきなりGoogleマップ異世界版を使い始めたのでビックリしちゃったんですよね…。ソレ、スマホじゃなくてGoogleのサービスだよね? スマホって…何なの…君達一体どういう認識してるの…。もしかして、俺の認識がおかしいの…? いや待て、これはいわゆる「ボケ」かな? ツッコミ待ちの場面なのか? 「ソレ、スマホじゃねー」って言っとけばいいのか? みたいな。とにかく各所で「スマホとは何ぞや」という命題を提示されて不安になってくる、妙な作品だなと…。
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以上です。