2014/01/31(金) [n年前の日記]
#2 [anime] ヴァルヴレイヴ2期、虐殺回の次の回ぐらいまで視聴
虐殺シーンが出てきて、「この黒さ…。これはきっと大河内脚本に違いない! 相変わらず黒い! さすがだ!」と予想してたら熊谷脚本だったのでビックリでした。このアニメ、黒い脚本家さんばかり集まってる…! いや、考えてみれば一期の熊谷脚本も相当黒かったっけ。 今になって驚くことでもないですわな。
気になってググってみたら、「ガリレイドンナ」の虐殺回も熊谷脚本だったそうで。また、当人曰く、「戦争描写等はトラウマレベルであるべき」「皆で火垂るの墓を見習おう」的信念をお持ちだそうで。なるほど、それもたしかに一理あるなー、と。
考えてみれば、世の中の娯楽映像作品においては、人が死なない戦争・戦闘描写ってのもあって。明るく楽しくハラハラドキドキでキャッキャウフフな戦争・戦闘描写のほうが、実は本質的によほど怖いような気もしてきたり。見ていて「うわ、酷い」と思う映像のほうが、むしろ健全な映像と言えるのかもしれないと。
また、殺人を行う敵側の非道さを、しっかり伝えることを目的としているシーンであれば、目を覆うような描写をそこに盛り込まないと意味が無いよな、とも。敵が非道だからこそ、敵をやっつけた時に視聴者側もスッキリするのだろうし。であれば、そういうシーンでブレーキ踏んじゃいかんよなと。
何にせよ、「酷いシーンにするぞ」と意識して、見事に酷いシーンが出来上がったのだから、これは良い仕事ぶりではないのかな、と思いました。
気になってググってみたら、「ガリレイドンナ」の虐殺回も熊谷脚本だったそうで。また、当人曰く、「戦争描写等はトラウマレベルであるべき」「皆で火垂るの墓を見習おう」的信念をお持ちだそうで。なるほど、それもたしかに一理あるなー、と。
考えてみれば、世の中の娯楽映像作品においては、人が死なない戦争・戦闘描写ってのもあって。明るく楽しくハラハラドキドキでキャッキャウフフな戦争・戦闘描写のほうが、実は本質的によほど怖いような気もしてきたり。見ていて「うわ、酷い」と思う映像のほうが、むしろ健全な映像と言えるのかもしれないと。
また、殺人を行う敵側の非道さを、しっかり伝えることを目的としているシーンであれば、目を覆うような描写をそこに盛り込まないと意味が無いよな、とも。敵が非道だからこそ、敵をやっつけた時に視聴者側もスッキリするのだろうし。であれば、そういうシーンでブレーキ踏んじゃいかんよなと。
何にせよ、「酷いシーンにするぞ」と意識して、見事に酷いシーンが出来上がったのだから、これは良い仕事ぶりではないのかな、と思いました。
◎ 残虐行為の見せ方についてなんだか考えてしまったり。 :
「戦争・戦闘シーンはトラウマレベルであるべき」という考え方に同意するところもあるのだけれど。しかし、個人的には、「見せ方は工夫したほうが」とも思ったりして。その手の直接描写ってどうなんだろう、みたいな。イデオン発動編が好きな自分ではあるのだけど。おじさんになった今現在は、そういう見せ方は好みではないというか。
*1
と言うのも、視聴者一人一人は、その手の描写に対する耐久力が異なるからで。その視聴者の、耐久力のしきい値を超えた直接描写を提示してしまうと、下手すると、一シーンが原因で、作品全体の視聴すら拒否される展開に。それは娯楽『商品』として、よろしくないだろうなと。
なので、直接見せず、間接的にその周辺を描いて、視聴者の想像力を引き出す見せ方が可能なら、そっちのほうが美味しいのではないか、てなことを最近は思っているのでした。
視聴者に想像させるタイプの見せ方なら、各視聴者が、自分の想像できる範囲・しきい値を超えない範囲で、その人にとって一番キツイ残虐行為を思い浮かべてくれる。つまり、各視聴者のレベルに合わせて、作品がカスタマイズされるも同然。これは、直接描写では、けして得られない効果のはず。
以前、「PSYCHO-PASS」で、「獣の奏者エリン」の監督さんのコンテ担当回を見たのですけど。「エリン」と同様、直接描写は最低限にして、間接的描写を多用していて。「なるほど、これなら誰にでも見せられるなあ…。それでいて、犯罪者の非道ぶりが、しっかり伝わってくる。これは上手い」と感心した記憶が。…おそらく、公共の電波に乗せる作品ってのは、そういうところも意識できるか、工夫してるかが問われたりするのかなと。そこまで考えて作る人が、プロなのだろう、と。 *2
とは言うものの。
このあたり、脚本より、コンテを描く人の意識・技の数が重要では、とも思うので、もしかすると脚本レベルで考えることではないのかもしれないのですが。脚本で工夫してもコンテで無視される場面もありそうだし、脚本で考えてなくてもコンテで付加してくれる場面もありそうだし…。
とりあえず、そんなことをぼんやり考えてしまったのでメモ。
と言うのも、視聴者一人一人は、その手の描写に対する耐久力が異なるからで。その視聴者の、耐久力のしきい値を超えた直接描写を提示してしまうと、下手すると、一シーンが原因で、作品全体の視聴すら拒否される展開に。それは娯楽『商品』として、よろしくないだろうなと。
なので、直接見せず、間接的にその周辺を描いて、視聴者の想像力を引き出す見せ方が可能なら、そっちのほうが美味しいのではないか、てなことを最近は思っているのでした。
視聴者に想像させるタイプの見せ方なら、各視聴者が、自分の想像できる範囲・しきい値を超えない範囲で、その人にとって一番キツイ残虐行為を思い浮かべてくれる。つまり、各視聴者のレベルに合わせて、作品がカスタマイズされるも同然。これは、直接描写では、けして得られない効果のはず。
以前、「PSYCHO-PASS」で、「獣の奏者エリン」の監督さんのコンテ担当回を見たのですけど。「エリン」と同様、直接描写は最低限にして、間接的描写を多用していて。「なるほど、これなら誰にでも見せられるなあ…。それでいて、犯罪者の非道ぶりが、しっかり伝わってくる。これは上手い」と感心した記憶が。…おそらく、公共の電波に乗せる作品ってのは、そういうところも意識できるか、工夫してるかが問われたりするのかなと。そこまで考えて作る人が、プロなのだろう、と。 *2
とは言うものの。
- 直接見せず、しかし、直接見せるより強烈な、トラウマレベルのシーンを作れてしまう人なんてそれほど居ないだろう、難易度高過ぎてフツーはできないだろう、とも思うし。
- 間接的なソレって、やり過ぎちゃうとギャグになってしまう時もあるし。
- 視聴者の中には、想像力が全く働かない人もたまに混ざっていて面倒だし。
このあたり、脚本より、コンテを描く人の意識・技の数が重要では、とも思うので、もしかすると脚本レベルで考えることではないのかもしれないのですが。脚本で工夫してもコンテで無視される場面もありそうだし、脚本で考えてなくてもコンテで付加してくれる場面もありそうだし…。
とりあえず、そんなことをぼんやり考えてしまったのでメモ。
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以上です。