2003/07/11(金) [n年前の日記]
#7 議論について思う事
自分は、議論というものを、自身に欠けてるものを誰かの意見によって補完する行為、と捉えていて。
◎ どちらも勝者になれる行為 :
人は誰でも、自分の視点でしか物事を見れないし、持っている知識の量も完璧ではなく。真実に辿りつこうとした場合、大きさや方向は人によって違うけど、必ずどこかが欠けている。だから、その欠落部分を、他者の意見を参考にする事で補完する。お互いの持ってる視点や知識を出し合って、自身に欠けてるものを埋める。…それが議論じゃないのかな、と思っていて。議論の後は双方共にレベルアップしてる。得たものの大きさの違いはあったとしても、欠けていたものを得る事ができたのだから、結局はどちらも得をしている。不適切な喩えではあるけど、仮に勝負事として捉えれば、どちらも勝者に成り得る可能性が高い行為…と思うのですよ。
◎ 椅子取りゲームと思ってる人々 :
とはいえ、あちらこちらを見てると、議論を椅子取りゲームか何かに捉えてる人達もたくさん居るようで。
*1
だから、いかにして相手を座らせないか、つまり相手の意見を否定する事ばかり考える。…別に相手の意見が否定できたからと言って自分の意見が肯定される・真実であると確定するわけではないのだけど。しかし彼等は、議論=戦い、で捉えているので、その事には気付かない。彼等は、相手の意見を否定すると気持ちが良くなり、自分の意見が否定されると悔しがる。例えば議論しているウチにキレ始める人はそのタイプで、とにかく「負けたくない」の一心しかないので、感情的に振舞う事…ゲーム盤をひっくり返してしまう事で
*2
相手より優位に立とうとする。そこには真実に辿りつきたいという動機はなく。ただ、人の上に立ちたいという欲求しか、彼等は持ち合わせていない。そんな行為によって得られた結論にどれだけの信憑性・真実味が期待できるというのだろう。
*3
◎ 凹んだときは、得してる :
仮に真っ当な議論ができているとして。その過程で自分が感情的に凹んだ場合、それは自分の気付いてなかった何かに気付けたという事ではないかと思う。自分の意見・知識に欠落してるものを感じたからこそ凹んでるのだろうと。だから、そういう場面では、実は得をしてる。意識できたかできないかは別として、相手の発言の中から自分に欠けていた部分をゲットして、欠けていた部分を埋める事ができている。
しかし大抵の場合、議論で凹むと、自分が何か損をしているかのように感じてしまう。本当は得をしてるのに、なぜだろう。たぶん…最初から、自分の意見は完璧だと、どこも間違ってるはずがないと、自分には欠けているものなどあるはずがないのだと、信じ込んでしまっているからではないだろうか。そして議論の中で、自分の信じてた完璧さが、実は完璧では無かった事に気付かされる。100%が、90%や80%になれば、これは何かを失ってしまった…損をしてしまったように感じるのも当たり前だろう。…でも、最初から勘違いをしてる。最初は100%じゃない。70%や80%からスタートしてるかもしれないし、もしかすると0%からスタートしてるのかもしれない。100%にする為の残りは、相手が持ってる。相手の意見を耳にして参考にしなければ、100%にはならない。…最初から100%完璧な意見を出せるのは神様だけ。私達は、はたして神様だろうか。
しかし大抵の場合、議論で凹むと、自分が何か損をしているかのように感じてしまう。本当は得をしてるのに、なぜだろう。たぶん…最初から、自分の意見は完璧だと、どこも間違ってるはずがないと、自分には欠けているものなどあるはずがないのだと、信じ込んでしまっているからではないだろうか。そして議論の中で、自分の信じてた完璧さが、実は完璧では無かった事に気付かされる。100%が、90%や80%になれば、これは何かを失ってしまった…損をしてしまったように感じるのも当たり前だろう。…でも、最初から勘違いをしてる。最初は100%じゃない。70%や80%からスタートしてるかもしれないし、もしかすると0%からスタートしてるのかもしれない。100%にする為の残りは、相手が持ってる。相手の意見を耳にして参考にしなければ、100%にはならない。…最初から100%完璧な意見を出せるのは神様だけ。私達は、はたして神様だろうか。
◎ このページにツッコミ機能がある意味 :
…てな事をぼんやりと思ってるような自分なので、このページはツッコミ機能がonなのです。
*4
オイラの意見や知識は必ず欠けてる部分があるはずなので、他者から自分に欠けている何かを、おこぼれで貰えないかとonにしてたり。まさしくオイラも
_スケベ
です。ビバ。スケベ。神様であるより、スケベでありたいです。
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以上です。
ネット上での発言のやり取りを「なれあい」と「ヘコむ議論」に分離して考えるというのは有効だと思いました。
特に自分で設置しているWebサイトで、訪れた人から「○○○という理由であなたの考えはこう間違っている」と言われる事は、それが納得できれば説得力が有るほど、本人には耐えられないのかも。
>どちらも勝者になれる行為:
→ディスカッション( discussion )
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%83f%83B%83X%83J%83b%83V%83%87%83%93&kind=jn
>椅子取りゲームと思ってる人々:
→ディベート( debate )
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%83f%83B%83x%81%5B%83g&kind=jn
だから、どっちにも意義はあると思うが、価値観が違うだけで。
「真の意味でのコミュニケーションは不快」というのは、たしかにそうだなぁという気がしますね。それでもあえて議論をする為には、参加する当人達に、冷静さなり、余裕なり、色々な条件が必要になるのだろうなぁ…
あの記事を書いてるうちに、なんとなく、「椅子取りゲーム=交渉?」とか思ったりもしてたのですが、「交渉…でいいのか?なんか違う気も」という不安があったのです。「ディベート」がそこのところに相当するのですな。たぶん。
話に参加する際に、そこで行われているのが、ディスカッションとディベートのどちらなのかを判断をした上で話をしていかないといかん、ということなんでしょうな。ディスカッションの場でディベートのつもりでいたり、ディベートの場でディスカッションのつもりでいたりすると頓珍漢な事になると。
2chとかを覗くと、そのへんがゴチャゴチャになってる場面を時々見かけますが、それはもしかすると匿名で話をしている故の弊害かもしれんなぁ。特定の結論が出る事で相手にとって何か具体的な利を得る事が出来るなら、その相手はディベートとして話に参加する可能性が高い。でも匿名だと、相手がどんな立場の人間かがわからないから、この話がディベートになるのか、ディスカッションになるのかの判断が難しい。(もっとも相手の立場・背景を知る事で、その2つを区別・判断してしまうのも危険な気もしますが。)だから話がゴチャゴチャしやすいのかも。
逆にそのへんがハッキリしてる場なら…例えばアニメ設定がどうとか、その手の話であればあまりゴチャゴチャしてこない。結論が出ても、参加してる人達にとって別段具体的な利が無い話だから、ディベートになりにくいので、ディスカッションになる。…とか? や、わかんないですけど。なんとなく思ったりして。