2008/08/01(金) [n年前の日記]
#1 [anime] アンネの日記アニメ版を鑑賞
NHK-BSで放映されていたものを録画してたので鑑賞。マッドハウス制作らしい。恥ずかしながら原作は読んだことがなかったり。>自分。
捕まるまでの日常を、1時間半ほど、ただひたすら淡々と描写するだけの作品。であるが故に捕まった時の理不尽さというか不条理さというかやるせなさというかそのあたりが実に際立つわけで。なるほどこういう作りが正解なんだろうな。と一瞬思ったものの。この映像作品単体を見ただけでは ―― 観客側に関連知識がまったくなければ、この作品は見ていてただ退屈なだけの作品になってしまうのでは、という不安も湧いてしまったり。
というか、この作品の制作にあたって想定した観客層と言うのはどのへんなんだろうという疑問も。コレ、商売になったのかな。いや、商売云々で考えるべき・作るべき作品ではないのだ、と言われるかもしれんけど。仮にそうだとしても、構成としてコレは本当に正解だったのだろうか。
おそらくは、この作品を学校その他で子供達に見せようとする人達も居るのかなと思うのだけど。その場合、鑑賞させる前に、あるいは鑑賞後に、それなりの解説が必須だよなと。しかし、それら解説をするだけの時間的余裕が大人達になかったら、子供達はこの作品を見てどういう状態に置かれてしまうのだろうと。てなことを想像すると、もしかすると、冗長・蛇足・改悪になってしまうかもしれないけれど、何故隠れねばいけないのか、収容所送りになった後でどんな目に会うのか、といったところまで事細かな解説を付加したほうが、現場(?)での使い勝手(?)が良くなったかもしれないと。
少し検索した範囲では、実写で映像化された作品の中には、収容所の悲惨な様子まで描写した作品もあるらしく。もちろんそれは、当時の関係者の証言その他から推測、あるいはスタッフが独自に想像して作ったシーンであろうから、原作に対して大きな改変を伴う映像化になってしまうだろうし、場合によっては悪趣味云々と不評を買う可能性もあるだろうしでなんだか判断が難しいのだけど。でも、個人的には、そこまで描いてしまうほうが、映像化する意味がさらに増すのでは、という気もしたわけで。
演出家にとっての正解の構成と、プロデューサーあるいは運用側(?)にとっての正解の構成は違うのかもしれない。てなことを、この作品を見ながらなんとなく思ったりもしたのだけど、まあ、そのへん、何がいいのかはよくわからんです。
捕まるまでの日常を、1時間半ほど、ただひたすら淡々と描写するだけの作品。であるが故に捕まった時の理不尽さというか不条理さというかやるせなさというかそのあたりが実に際立つわけで。なるほどこういう作りが正解なんだろうな。と一瞬思ったものの。この映像作品単体を見ただけでは ―― 観客側に関連知識がまったくなければ、この作品は見ていてただ退屈なだけの作品になってしまうのでは、という不安も湧いてしまったり。
というか、この作品の制作にあたって想定した観客層と言うのはどのへんなんだろうという疑問も。コレ、商売になったのかな。いや、商売云々で考えるべき・作るべき作品ではないのだ、と言われるかもしれんけど。仮にそうだとしても、構成としてコレは本当に正解だったのだろうか。
おそらくは、この作品を学校その他で子供達に見せようとする人達も居るのかなと思うのだけど。その場合、鑑賞させる前に、あるいは鑑賞後に、それなりの解説が必須だよなと。しかし、それら解説をするだけの時間的余裕が大人達になかったら、子供達はこの作品を見てどういう状態に置かれてしまうのだろうと。てなことを想像すると、もしかすると、冗長・蛇足・改悪になってしまうかもしれないけれど、何故隠れねばいけないのか、収容所送りになった後でどんな目に会うのか、といったところまで事細かな解説を付加したほうが、現場(?)での使い勝手(?)が良くなったかもしれないと。
少し検索した範囲では、実写で映像化された作品の中には、収容所の悲惨な様子まで描写した作品もあるらしく。もちろんそれは、当時の関係者の証言その他から推測、あるいはスタッフが独自に想像して作ったシーンであろうから、原作に対して大きな改変を伴う映像化になってしまうだろうし、場合によっては悪趣味云々と不評を買う可能性もあるだろうしでなんだか判断が難しいのだけど。でも、個人的には、そこまで描いてしまうほうが、映像化する意味がさらに増すのでは、という気もしたわけで。
演出家にとっての正解の構成と、プロデューサーあるいは運用側(?)にとっての正解の構成は違うのかもしれない。てなことを、この作品を見ながらなんとなく思ったりもしたのだけど、まあ、そのへん、何がいいのかはよくわからんです。
◎ もしかすると不遇の作品なのかな。 :
95年に公開されたアニメ映画「アンネの日記」がフランスでも23日から公開されたが、なぜか日本製であることを伏せて欧州共同製作作品と宣伝されていたという。プロデューサーは日本版との関連を認めている。配給会社が確認したところ日本公開版とは編集だけが異なっていた。同社ではクレジットに日本版の翻案である旨注釈を入れることを決めたという。 →(朝日新聞)
しかし出版当初は、日本がこの書物を発行する事に対する風当たりが極めて強かった。なぜなら日本は、ナチスドイツの同盟国でありアムステルダム市民からは「アンネを殺したナチスと日本は同罪だ」という考えを持たれていたからである。現に訳者の1人がアムステルダムの本屋でアンネに対する文献を探していたところ、市民連中から「お前ら日本人に、アンネの事が分かってたまるか!」と店からつまみ出されたり、本屋によっては「日本人にはアンネの書物は売れない」と拒否されたりしている。ドイツと同盟を結んでいた日本、が作ったアンネの日記の映像作品、という位置づけではかなりの反感を買ってしまう、と判断されたのだろうか。わからんけど。
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