mieki256's diary



2015/03/08() [n年前の日記]

#1 [anime] 「魔法の映画はこうして生まれる」を視聴

NHKで放送されてた、ディズニーのアニメ制作現場の取材映像番組、「魔法の映画はこうして生まれる ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション」を視聴。HDDレコーダに録画したままだったけど、ようやく見れた。

面白いというか、興味深い内容ばかりの番組でした。ベイマックス、ヒットするといいなあ。ってググってみたらかなりヒットしてるようで。良かった良かった。

お客さんの顔を想像しながら作る人達。 :

最初のあたりで、ラセター監督が、「これじゃお客さんが混乱するよ」とリテイクを出したのを見てなんだか感心。お客さんがそれを見てどう思うか、そのあたりを想像しながら仕事をするのがプロだよなと。

「アナと雪の女王」のネタバレがあってガックリ。自分、まだ見てないのに。どうして日本のマスコミは、日本人全員が既にあの映画を見てるはずという前提で番組を作りやがるのですか…。

しかし、その「アナ雪」のシナリオ改変と、その改変シーンの観客の反応を説明するラセター監督の姿を見て、これはネタバレしてでも説明しておかないといかん場面だなと。

ラセター監督の身振り手振りの説明を見て、なんとなくナムコのゲームデザイナーさんの話を思い出したり。昔のナムコは、会社のお金を使って映画を見ることができたらしいのだけど。新人時代のそのデザイナーさんが「映画をいくらでも見れちゃうぞ。ウッヒョー」と実際に映画を見て会社に帰ってきたら、先輩から「観客の表情はチェックしてきたか?」と言われて「えっ?」となった、てな話で。要するに、これこれこういうものを見せた時にお客さんはどう反応するのか、そこをしっかり把握してゲーム制作に活かせと。そのために会社のお金で映画を見てもいいことになっていたのです、というお話。

ラセター監督も、劇場のお客さんの表情を見て、自分達の試みが正しかったか、それとも間違ってたか、その都度しっかり確認しているのだなと。そこはもう、娯楽作品を生み出すことで飯を食う人なら、当たり前のことなんだろうなと。…まあ、天然で好きなように描いてもガンガン当たる天才はまた別なのだろうけど。

現場の風景。 :

立ったまま仕事をしてる人の姿がチラチラあって興味が湧いたり。何か効能があるのだろうか。でも、一日中立ったまま仕事をしていたらツラいのでは…。どんな理由がそこにあるのだろう…。実は経営者側から強制されたルールだったりして? 頻繁に席をシャッフルされちゃうとか?

ピクサースタジオ内のカオスぶりが凄かった。そして、ピクサーのソレに比べるとディズニースタジオ内のスッキリぶりが逆に引っ掛かるというか。まだ何か抑圧されてる部分がありそうな。…いや、これはピクサーが異常過ぎるだけかも。

皆が普通に液晶タブレットやペンタブレットを使ってて、やっぱりそうだよなあ…と。手描きアニメーターさんも液タブを使ってたし。

何度も何度も仮映像を作って、会議の中で確認して修正方向を決めていくあたり、デジタル制作をフル活用、なのだなと。トライ&エラーがしやすいCGのメリットをちゃんと認知していて制作フローに組み込んでるというか。合理的な思考がそこにないとこうはならないのだろうなと。それでいて、デジタル制作の仮映像の上に、手描きアニメーターさんがグイグイと線を引いて修正方向を指示していくあたりが…。

そういや日本のアニメスタジオの中には、QAR(Quick Action Recorder)すら使うなと言われたところもあるらしいけど。 *1 それとは真逆な作り方、のような気もしたり。もっとも、リターンの額が全然違うし。日本はお金が無いから試行錯誤してる時間的余裕が無いだろうし。比較してもアレだなと。

周囲の理解を得られない監督達。 :

3DCGを推してたらディズニーをクビになったラセター監督と、Appleから追い出されたジョブズが、なんだかどこかで重なって見える気もしたり。もっとも、未来の制作技法が見えていたラセター監督に対して、ジョブズは未来が見えてたから追い出されたわけではないし、追い出されたからこそ見え始めた部分もあるだろうから、重なって見えたとしても中身は全然違うのだろうなと。

もしかすると、ラセター監督のソレは、業界から干されてた時期の宮崎駿監督と重なったりするのだろうか。宮崎駿監督は鈴木Pが居なかったらメジャーになってないと思うのだけど、ラセター監督にとっては _キャットムル氏 が鈴木Pのような役割だったりして。

と思ったりもしたけど細分割アルゴリズムを発明したキャットムル氏と実制作能力を持たない鈴木Pを並べるのも無茶な話だなと思い直したり。何にせよ、それぞれに良い出会いがあったおかげで、こうして面白い作品が見れるようになったわけで。運って大事だなと。

ヒット作品の三原則。 :

ラセター監督がヒット作品の三原則を語っていて。
  • 観客が夢中になるような予測のつかない物語を作り上げること。
  • 登場人物が魅力的であること。悪役であっても魅力的でなくてはなりません。
  • ストーリーもキャラクターも、作り物なのに真実味があること。
その後、番組は、「まずは魅力的なキャラクター作りの秘密から〜」と映画の宣伝に入っちゃうけど。監督が言ってるのは「まとめ」であって、そこに至る思考も説明しないと一般の視聴者には何がなんだか分からないかもしれないなと。このまとめだけでうっすら分かっちゃう人は、ヒット作品に不可欠な要素について自分自身でそれなりに考えたことがある人、だったりするのかもと。

だけど、それぞれについて参考事例も交えながら説明してたら、たぶん30分ぐらい番組の尺が無くなってしまいそう…。それに、ピクサーにしろディズニーにしろ、ヒット作を生む本当の秘訣を説明したってメリットどころかデメリットしか無いし。学校の類でもないし。番組だって教育番組ではないし。

などと考えてたら、もしかして番組内にフェイクも結構入ってたのかなと思えてきたり。いや、そういうのはほとんど入ってないかも。「どれも本物だよ? 君達も真似できるならどうぞどうぞ」とニコニコしながら言われそう。

*1: ググってみてもソースが見つからず。偽記憶かな…。某監督がお触れを出したとかそういう話があったような…。

#2 [anime][neta] リアルを追求することについてもやもや

以下、思考メモ。

ベイマックスの制作風景の中で、猫のような立体看板に、雨水の汚れ、鳥の足跡までつけてる様子を見て、ここまでやらなきゃいかんのかとクラクラ。

アメリカの場合、映像作品はとにかくリアルであることを要求されるので、日本のアニメと同じような感覚で作業風景を見れないよなと。手描きアニメより3DCGのほうがリアルに見えるからアメリカでは3DCGアニメ全盛になったし。アニメより実写のほうがリアルに見えるから、アメコミ原作の実写化企画も通るし金もかけるしヒットもするし。だから、そこまでやるかと思われる作業も、間違いなく無駄な作業ではなくて。粗が見えただけで商品価値が下がる市場に向けて作ってるわけだから…。

もっとも、脚本を何度も練り直したり、事前に仮映像を色々作ってテストしてから本番映像を作ったり、つまりは作品の本質的な面白さについても全然手を抜いてないからそういうことができるんだろうなと。そっちはそっちで会議を開いて何度も何度も練り直すから、モデルを作ったり、照明・色彩を設計したり、テクスチャを描く人 ―― 細部を作り込むスタッフは、ひたすら自分の守備範囲についてこだわり続けるべし、てな状況も許される、ような気がしたり。

日本の場合は、そもそも時間もお金も無くて、ほとんど一発勝負だから、作品の面白さを追求できてない状態がほとんどだろうし。また、アメリカと違って、リアルであることをひたすら要求されるわけでもないし。だから、ピクサーやディズニーの真似をしても意味があるのか、てなところがありそうだなと思ったりして。もちろんアメリカにも売り込みたいなら、どこかしら真似しなきゃいかん部分が出てくるのだろうけど。

話が少しずれるけど。日本は、「リアル」を追求することに関して、ちょっと特殊な感覚があるなと思っていて。

どこかで見かけた話なのでうろ覚えだけど…。欧米では写真の発明が絵画の存在を脅かしたという歴史があって。欧米における絵画・各種技法は、そこにある風景を正確に記録するという側面を持って発達してきたけれど、写真の登場で絵画の存在意義が揺らいでしまって。こんな正確無比な記録装置が生まれてしまったら俺達絵描きは廃業するしかないぞ、さあどうしよう、てな空気になったものだから、それでも絵で飯を食うために、欧米の絵描きさんは「何故わざわざ絵で描かねばいかんのか」「絵で描く意味は何か」について理論武装する必要に迫られた、とかなんとか。

日本はちょっと状況が違ってて。線画中心で絵画を描いてきたものだから、江戸時代末期・明治にかけて欧米のリアルな描き方が、「今まで見たことない新表現」として安易に受け止められちゃって。「どうしてその描き方をしなきゃいけないのか」の部分、その描き方をわざわざ選ぶ目的・思想・必然性がスポンと抜けたまま、技法だけを真似して悦に入る状態に。

そして、各国におけるそんな状況の違いが、今のアニメにも反映していて。

故・今敏監督が、リアルな画作りの「PERFECT BLUE」を作って海外に持っていったとき、海外の記者から二言目には「どうして実写で作らなかったのですか?」と質問されたというエピソードがあって。当時の今監督は、どうしてそんな質問を必ずされてしまうのか全く理解できず、「自分が使える映像化手法はアニメしか無かったからアニメで作っただけ」と答えたのだけど、記者達は怪訝な顔をするだけ、だったそうで。

欧米では、写真と絵画の生存競争があったから、「わざわざ絵で描いて映像化するということは、そこに監督の確固とした目的・思想があるはず」と当たり前のように考えるのだろうなと。ところが日本人は、アニメで作る目的なんか考えたことがない。見たことがない手法だからやってみようとか、今使える手法はこれしかないからこれでやろうとか、そんなノリでアニメを作ってしまう。そこが海外では奇異に見えるし、故に注目されて妙な商品価値が生まれたりもするのだけど…。

何にせよ、国毎に絵画に対する歴史が違うので、「リアル」を追求する姿勢についても違いが出てくるのが必然で。だから、「アメリカでこうやってるから日本でもやるべき」とか、「アメリカではこれをやってないから日本でもやっちゃダメ」とか、そういう安易な考えは危ないかもしれない、てなことを素人考えで思ったりしました。

でも、そう考えていくと、どうしてアメリカでは「リアル」を要求されるのか、そこが分からない…。

アニメなんだからどんなに頑張ってもリアルになるわけがない。「リアルにしたいなら実写でええやん」と一番言われそうな国なのに、どうしてアニメにすらリアルを要求されるんだろう。

まあ、監督・作家さんレベルではそういう思考をするように思えるけど。あちらでもトリガー作品が好まれるのは、どう見ても実写じゃ無理な映像だから、らしいし。高畑監督の「かぐや姫」が高評価なのも、「実写でこの映像は無理だわ」が根本にあるんじゃないかと。だから、あちらの監督・作家さん・評論家は、「アニメで作る意味は何か」」を問いながらアニメ作品を見てそうな予感。

しかし、一般の観客がそういう思考にならないのは…。アメコミの規制とか、アニメは子供向けコンテンツと思われ続けてきたとか、そのへんが関係してるのかな。それとも、アメリカのアニメがひたすらリアルを排除してきた反動なのかしら。…そのへんよくわかりません。

以上、1 日分です。

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