2012/05/13(日) [n年前の日記]
#2 [game] ゲームの肝はインタラクティブであること、ではないかとなんとなく思ったり
PCエンジン版のイースを作った方が、興味深い記事を書いていた。
_Colorful Pieces of Game::ゲームにムービーは必要なものか?
この方は、ゲームにおけるムービーとは表現力の追加に過ぎず、ムービー不要論は好みの問題でしかないと切って捨てていて。なるほどそうかも、と思いつつ、自分はちょっとずれたことをもやもや考えてしまったり。
_Colorful Pieces of Game::ゲームにムービーは必要なものか?
この方は、ゲームにおけるムービーとは表現力の追加に過ぎず、ムービー不要論は好みの問題でしかないと切って捨てていて。なるほどそうかも、と思いつつ、自分はちょっとずれたことをもやもや考えてしまったり。
◎ 自分が考えたことをメモ。 :
ただの思考メモです。
どうしてムービー不要論が出るのかというと、それはインタラクティブではないからだろうなと。
TVは元々、既に出来上がった映像を垂れ流すだけの機器に過ぎなかった。利用者・ユーザは、自分から能動的に、TV映像を変化させることができなかった。チャンネルを変えたり、電源をON/OFFするのが関の山だった。
それを変えたのがTVゲームという玩具。ユーザの操作がTV映像を変化させる。TVの中に自分が入る(ような錯覚をさせる)。当時はそこに新しさがあったので、皆がこぞって「これは面白い」とプレイした。TVゲームの原始的な面白さとは、「自分達には変えられないと皆が思い込んでいたものを、変えてみせた」こと。てなことを自分は思っているのだけど。
しかし、ゲーム中のムービーは、ユーザの操作で変化しない。ムービーが流れ始めると、TVゲームが提示した「TVの中に貴方も入れますよ」という新しい娯楽を殺してしまい、その瞬間だけ過去の娯楽装置、ただのTVに戻ってしまう。だから不満が出てくるんだろうなと。 *1
最近流行っているゲームは、決定キーを押すだけとか、画面をタップするだけとか、それだけでもゲームとして扱われているらしいけど。それらも、「ユーザの操作で画面が変化する」という点は共通している。件の記事で出てきた電卓インベーダーも、キーだかボタンだかを押せば変化がある。インタラクティブ性がそこにあるので、それらもゲームとして扱われてしかるべき、なのだろう。
また、子供の頃の自分が、どうして文字しか表示できない8bitPCにあれほど夢中になったのか。それもインタラクティブ性がそこにあったから、だろうと思う。キーボードを打てば文字が出る。コマンドを打ち込むと反応がある。何かをすると、何かが返ってくる。それが面白かったのだろう。たぶん。
ということで、○○が要らないという話が出てくるのは、そこがインタラクティブになってないからではないか、と想像するわけで。ゲームにとっては、いや、ゲーム以外のデジタル機器でも ―― 例えば、TVやHDDレコーダの操作画面すら ―― 肝はインタラクティブであり、インタラクティブじゃないものが出てきてしまった時に「これは違うんじゃねえの」と思われちゃうんじゃないかなあ、と自分はなんとなく思ったのでした。
それはともかく、インタラクティブ云々なんて今はどの機器でも当たり前なわけで、新規性を感じてる人など居ないだろうから、ゲームを作るのはかなり前から面倒な時代になってるのかもしれないなあ、と思ったり。そんな状態だから、何が新規性だったのかうっかり忘れてしまい、ムービーの類を入れてしまうことに何ら危機感を持たない場面もあったりするのかもしれないと。 *2
インタラクティブであるかどうかで言えば、けん玉や竹馬やメンコなどの玩具も、条件を満たしている気がする。視覚、聴覚、触覚で反応が返ってくる、と考えればだけど。あくまで狭い定義だけど、TVゲームを作るという行為は、手で触れて遊べる玩具の面白さを抽象化・記号化して、ほんの一部のみを再現し、TV画面の中に無理矢理押し込める作業なのかもしれない、と思ったりもして。するとムービーは何に相当するのだろう。絵本だろうか。けん玉の玉が一番高く上がったところで急に絵本の読み聞かせが始まったら、やっぱり不満が出るような気もする。現実世界ではそんな玩具を作りようもないけれど、TVゲームの中では作れてしまうので、気を付けないといけない。…いや、もしかすると、そこに新しい遊びが生まれる余地があるのかもしれず。ちょっとイメージできないけれど。
全然関係ないけれど。インタラクティブという単語について検索したら、反対の意味として、バッチ処理という言葉があった。バッチ処理でメッセージがずらずら表示される様子を眺めて、それが面白いかというと微妙な気がする。ただ、インタラクティブ・対話性を要したものを、バッチ処理に変えていく面白さもありそうな気もしたり。そのあたり、ゲームにならないかしら。いや、既に山ほどありそうな。スケジュールを組んでパラメータが上がっていくのを眺める、とか。…それって面白いのかな。でも、ユーザの操作で何かが変わっていくわけだから、原始的な面白さはありそうな。
以上、ただの思考メモでした。
どうしてムービー不要論が出るのかというと、それはインタラクティブではないからだろうなと。
TVは元々、既に出来上がった映像を垂れ流すだけの機器に過ぎなかった。利用者・ユーザは、自分から能動的に、TV映像を変化させることができなかった。チャンネルを変えたり、電源をON/OFFするのが関の山だった。
それを変えたのがTVゲームという玩具。ユーザの操作がTV映像を変化させる。TVの中に自分が入る(ような錯覚をさせる)。当時はそこに新しさがあったので、皆がこぞって「これは面白い」とプレイした。TVゲームの原始的な面白さとは、「自分達には変えられないと皆が思い込んでいたものを、変えてみせた」こと。てなことを自分は思っているのだけど。
しかし、ゲーム中のムービーは、ユーザの操作で変化しない。ムービーが流れ始めると、TVゲームが提示した「TVの中に貴方も入れますよ」という新しい娯楽を殺してしまい、その瞬間だけ過去の娯楽装置、ただのTVに戻ってしまう。だから不満が出てくるんだろうなと。 *1
最近流行っているゲームは、決定キーを押すだけとか、画面をタップするだけとか、それだけでもゲームとして扱われているらしいけど。それらも、「ユーザの操作で画面が変化する」という点は共通している。件の記事で出てきた電卓インベーダーも、キーだかボタンだかを押せば変化がある。インタラクティブ性がそこにあるので、それらもゲームとして扱われてしかるべき、なのだろう。
また、子供の頃の自分が、どうして文字しか表示できない8bitPCにあれほど夢中になったのか。それもインタラクティブ性がそこにあったから、だろうと思う。キーボードを打てば文字が出る。コマンドを打ち込むと反応がある。何かをすると、何かが返ってくる。それが面白かったのだろう。たぶん。
ということで、○○が要らないという話が出てくるのは、そこがインタラクティブになってないからではないか、と想像するわけで。ゲームにとっては、いや、ゲーム以外のデジタル機器でも ―― 例えば、TVやHDDレコーダの操作画面すら ―― 肝はインタラクティブであり、インタラクティブじゃないものが出てきてしまった時に「これは違うんじゃねえの」と思われちゃうんじゃないかなあ、と自分はなんとなく思ったのでした。
それはともかく、インタラクティブ云々なんて今はどの機器でも当たり前なわけで、新規性を感じてる人など居ないだろうから、ゲームを作るのはかなり前から面倒な時代になってるのかもしれないなあ、と思ったり。そんな状態だから、何が新規性だったのかうっかり忘れてしまい、ムービーの類を入れてしまうことに何ら危機感を持たない場面もあったりするのかもしれないと。 *2
インタラクティブであるかどうかで言えば、けん玉や竹馬やメンコなどの玩具も、条件を満たしている気がする。視覚、聴覚、触覚で反応が返ってくる、と考えればだけど。あくまで狭い定義だけど、TVゲームを作るという行為は、手で触れて遊べる玩具の面白さを抽象化・記号化して、ほんの一部のみを再現し、TV画面の中に無理矢理押し込める作業なのかもしれない、と思ったりもして。するとムービーは何に相当するのだろう。絵本だろうか。けん玉の玉が一番高く上がったところで急に絵本の読み聞かせが始まったら、やっぱり不満が出るような気もする。現実世界ではそんな玩具を作りようもないけれど、TVゲームの中では作れてしまうので、気を付けないといけない。…いや、もしかすると、そこに新しい遊びが生まれる余地があるのかもしれず。ちょっとイメージできないけれど。
全然関係ないけれど。インタラクティブという単語について検索したら、反対の意味として、バッチ処理という言葉があった。バッチ処理でメッセージがずらずら表示される様子を眺めて、それが面白いかというと微妙な気がする。ただ、インタラクティブ・対話性を要したものを、バッチ処理に変えていく面白さもありそうな気もしたり。そのあたり、ゲームにならないかしら。いや、既に山ほどありそうな。スケジュールを組んでパラメータが上がっていくのを眺める、とか。…それって面白いのかな。でも、ユーザの操作で何かが変わっていくわけだから、原始的な面白さはありそうな。
以上、ただの思考メモでした。
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以上です。