2008/09/18(木) [n年前の日記]
#2 [zatta][neta] 昨日の朝方、自転車で街中を走ったのだけど
人間ドックを受けるために、朝御飯を食べるわけには行かない、が、家族が朝食の用意をしてるのを見ているとお腹が減ってるのと相俟って実にツライ。ので、1時間ぐらい早目に家を出発して、街中を自転車でウロウロと探索してたわけで。
街の中心部にある、とある公園の近くを通った時に、なんとなく昔を思い出したり。小学生の頃の自分にとって、その公園は、自分が滅多に踏み入れることのできない領域として認識されていたなと。
小学生の頃は、何かそういった、「ここから先は踏み入れたことのない空間」「ここから先は異世界」てな印象の強い場所がたくさんあったような気がする。小さい頃は、人の形はしていても、まだ動物みたいなものだから、そういう意識 ―― ナワバリみたいなものを意識することも強かったりしたのだろうか。
そこまで考えて、ふと、なんとなく、電脳コイルを思い出したりして。アレも「駅向こうの〜」という単語が出てきたけど。大人になったらなんてことのない空間も、小学生の頃は外国みたいなもの、ということに気づいて話に組み込んでいたあの作品の監督さんの目の付けどころに今頃感心というか。や、そういうところにまで気を配って作っている作品より、全然そういうところに気を配ってない後番組、「テレパシー少女ナントカ」のほうが子供に受けがいいらしいという話を見かけてちょっとガックリくるけど、まあそれはそれとして。
街の中心部にある、とある公園の近くを通った時に、なんとなく昔を思い出したり。小学生の頃の自分にとって、その公園は、自分が滅多に踏み入れることのできない領域として認識されていたなと。
小学生の頃は、何かそういった、「ここから先は踏み入れたことのない空間」「ここから先は異世界」てな印象の強い場所がたくさんあったような気がする。小さい頃は、人の形はしていても、まだ動物みたいなものだから、そういう意識 ―― ナワバリみたいなものを意識することも強かったりしたのだろうか。
そこまで考えて、ふと、なんとなく、電脳コイルを思い出したりして。アレも「駅向こうの〜」という単語が出てきたけど。大人になったらなんてことのない空間も、小学生の頃は外国みたいなもの、ということに気づいて話に組み込んでいたあの作品の監督さんの目の付けどころに今頃感心というか。や、そういうところにまで気を配って作っている作品より、全然そういうところに気を配ってない後番組、「テレパシー少女ナントカ」のほうが子供に受けがいいらしいという話を見かけてちょっとガックリくるけど、まあそれはそれとして。
◎ 自分の認識できた領域を広げていくことも快楽、なのだろうか。 :
RPG(TVゲーム系。テーブルトーク系に非ず)の面白さが全然判らない自分も、高校生の頃は、ブラックオニキスなる、非常に原始的なダンジョン系RPGを楽しんでたりしたわけで。あのゲームの何を楽しんでいたかと言えば、マッピング作業だよなと。方眼紙ノートにマップを描いていく作業を楽しんでいた、ような気がする。
つまるところ、自分の知らない空間を訪れ、地図を描くという行為で、その空間は自分が既に認識を済ませた空間である、と認知する快楽を得ることによりゲームを楽しんでいた、のだろうと思える。…そういえば、PS版のドラキュラもそうだったか。アレは地図が出てくるのだけど、プレイヤーが行ったことのある部屋と、行ったことのない空間が示されることで、まだここから先は行ってないな、的にゲームを続けようという気になる、みたいな。
ビジュアルノベル系のADVなどもその方向の快楽がある故にゲームとして成立するのかなと。空間が、ストーリーやエピソードに置き換わっている、とでも言うか。自分の知らない選択肢、別のストーリー、エピソードを知ることで、ここは自分が占領したぞ、と。…それを考えると、ストーリーに関しても「マッピング」を明確に示すことのできるシステムがあったほうが面白いのかもしれない。や、たしかそういうゲームが昔あったような気もするのだけど。
このあたり、以前友人が話していた、「ゲームにはコレクション性が必要」という話にまで単純化できるのかもしれない。空間認知も、ストーリーやエピソードを知るのも、自分の脳内にコレクションをしてるのと同じこと、なのではないか。…となると、それは必ずしもゲームでなければ体験できないものでもなくなってくる。Webサーフィンをしたり、ニュースサイトを作ったりするのも、情報をコレクションしてるのと同じこと。しかも、ゲーム内でしか通用しない知識ではなく、別のどこかで使える実用的な情報のコレクション作業なのだから…。そりゃゲームが売れなくなるわけだな、という気もしてきたり。
つまるところ、自分の知らない空間を訪れ、地図を描くという行為で、その空間は自分が既に認識を済ませた空間である、と認知する快楽を得ることによりゲームを楽しんでいた、のだろうと思える。…そういえば、PS版のドラキュラもそうだったか。アレは地図が出てくるのだけど、プレイヤーが行ったことのある部屋と、行ったことのない空間が示されることで、まだここから先は行ってないな、的にゲームを続けようという気になる、みたいな。
ビジュアルノベル系のADVなどもその方向の快楽がある故にゲームとして成立するのかなと。空間が、ストーリーやエピソードに置き換わっている、とでも言うか。自分の知らない選択肢、別のストーリー、エピソードを知ることで、ここは自分が占領したぞ、と。…それを考えると、ストーリーに関しても「マッピング」を明確に示すことのできるシステムがあったほうが面白いのかもしれない。や、たしかそういうゲームが昔あったような気もするのだけど。
このあたり、以前友人が話していた、「ゲームにはコレクション性が必要」という話にまで単純化できるのかもしれない。空間認知も、ストーリーやエピソードを知るのも、自分の脳内にコレクションをしてるのと同じこと、なのではないか。…となると、それは必ずしもゲームでなければ体験できないものでもなくなってくる。Webサーフィンをしたり、ニュースサイトを作ったりするのも、情報をコレクションしてるのと同じこと。しかも、ゲーム内でしか通用しない知識ではなく、別のどこかで使える実用的な情報のコレクション作業なのだから…。そりゃゲームが売れなくなるわけだな、という気もしてきたり。
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以上です。