2021/02/19(金) [n年前の日記]
#3 [anime] 「アーヤと魔女」を再視聴
HDDレコーダから消す前に再視聴。スタジオジブリ制作のCGアニメ。宮崎吾朗監督作品。たしか去年(2020年)の年末にNHK総合で放送された、ような気がするけどどうだったかな…。
初見時も思ったけれど、キャラの表情が実にいいよなと。「エクスアーム」という、登場キャラがほぼ無表情なCGアニメを目にしてしまった後だから特にそう思うのかもしれんけど、キャラの心情に合わせて、キャラの表情がちゃんとしっかり変わるというのはとても大事なことなんだなと改めて痛感。
更に、ジブリアニメの中で、最も邪悪
意地悪な表情を見せるヒロインなわけで…。そこに新規性があるようにも感じるというか。
さておき。いずれ劇場公開されるという話も目にしたけれど、どういう結果になるのだろう…。TV放送されたソレを劇場公開してもそれほど客は入らないのではと一瞬思ったけれど、考えてみたら宇宙戦艦ヤマトやガンダムの事例もあるのだよな…。もっとも、ヤマトやガンダムはブームになったから劇場公開しても商売になったところがあるのだろうけど。
初見時も思ったけれど、キャラの表情が実にいいよなと。「エクスアーム」という、登場キャラがほぼ無表情なCGアニメを目にしてしまった後だから特にそう思うのかもしれんけど、キャラの心情に合わせて、キャラの表情がちゃんとしっかり変わるというのはとても大事なことなんだなと改めて痛感。
更に、ジブリアニメの中で、最も
さておき。いずれ劇場公開されるという話も目にしたけれど、どういう結果になるのだろう…。TV放送されたソレを劇場公開してもそれほど客は入らないのではと一瞬思ったけれど、考えてみたら宇宙戦艦ヤマトやガンダムの事例もあるのだよな…。もっとも、ヤマトやガンダムはブームになったから劇場公開しても商売になったところがあるのだろうけど。
◎ 人形劇と表情。 :
思考メモ。
「アーヤと魔女」を眺めているうちに、ふとなんとなく、人形劇との関係を考え始めてしまったり。
昔のCGアニメの中には、「アニメではなくて人形劇のつもりで作ります」というスタンスを打ち出しながら作っていたCGアニメ企画がいくつかあったなと…。何せ当時のPCは、スペック面で今ほど恵まれてなくて、静止画ならともかく動画を制作するとなるとなかなか厳しい部分があり、結果的に見た目がちょっとアレな出来になってしまって…。そこで出てきたのが、「コレは人形劇なのだ」という言い訳(?)だったのだろうと邪推をしているのだけど。「コレはアニメです」と胸を張って言えるほどのものは作れてないんだけど、人形劇として眺めればそこそこイケてませんかね、どうですかね、みたいな。まあ、人形劇というジャンルに対してちょっとソレは失礼な認識じゃないですかと思わないでもないけど。
更に、ゴロー監督は、学生時代に人形劇サークルに所属していた、という話もどこかで目にしたわけで…。
そして、人形劇に登場する人形は、種類にもよるだろうけど基本的にはそれほど表情を変えられないものがほとんどだろうと想像するわけで…。
それらを踏まえると、ゴロー監督の中で、「人形劇は表情が変わらないのに見ている人達を楽しませることができる」「ならばアニメも同じだったりしないか」「アニメだって表情が変わらなくても全然通用するのではないか」という仮説が誕生してしまって、結果的にドヤ顔で「エクスアーム」を作ってしまう世界線だって十分あり得たかもしれないのだよなと。
でも、ゴロー監督はそうはならなかった。「表情は大事でしょ」と思ってくれた。ゴロー監督自身がそういう認識に至る思考をしたのか、あるいは一緒に仕事をしている近藤勝也さんあたりが口を酸っぱくして「表情は大事ですよ」と言い続けてゴロー監督も感化されたのか分からんけど、何にせよ「表情は大事」という、ピクサーやディズニーのCGアニメスタッフと同じような、フツーの認識になってくれた。
つまり、ゴロー監督は、「エクスアーム」を作ってしまう世界線から、「アーヤと魔女」を作る世界線に移動することができたのだと ―― そう捉えることもできなくもないよなと。ゴロー監督はα世界線からβ世界線への移動に成功したアニメ監督なのである。
というのは冗談なのだけど、人形劇と表情について考えていくと、娯楽コンテンツにおいて表情の表現は本当に必要なのか? という疑問も浮かんでくるよなと。
例えば、自分が子供の頃に見ていた「プリンプリン物語」。あるいは、虚淵脚本の面白さを堪能できる「Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀」。どちらも、人形の表情は全く変わらない。では、全然見れたものではないのかというと、そういうわけでもなく。「プリンプリン」は楽しんで見ていた記憶があるし、「サンボル」は毎回面白いなーと思いながら視聴してたわけで。
人形劇は表情が変わらない。なのに、ちゃんと楽しんで見れる作品が多々ある。それは何故か? 一体どこを抑えておけば、表情が変わらないキャラ達を使っても、見る側が面白いと感じる作品を作ることができるのだろう?
てな感じの問いに対して、おそらく各人、色々な答えを出せるだろうと思うけど…。
個人的には、抑えておくべき点は、キャラ設定じゃないのかなー、と思ったりもして。例えば、「プリンプリン」も「サンボル」も、出てくるキャラがどれも個性的なわけで…。
そう考えると、「エクスアーム」を見ていてツライと感じる理由もなんとなく分かるというか。あの作品に登場するキャラは、例えば「攻殻機動隊」の映像の中に混ぜてみても、ほとんど違和感が無い…。それはつまり、それほど個性的な見た目のキャラが並んでるわけではない、と言えるのではないか。
仮に、「エクスアーム」の中に、「ジビエート」の忍者や坊さんを並べてみたらどうなるだろう。それはそれで、あのCG映像であっても、十分楽しめそうな雰囲気になりそうな気もするわけで。見た目からして強烈なキャラが並んでいれば、表情の変化が無くてもどうにかなってしまうのではないか。
逆に考えれば、どこかで見たようなキャラが並ぶ作品なら、キャラの表情をちゃんとつける行為をサボってはいけないですよ、ということになってしまうのだろうか…。
まあ、そんなどうでもいいことを色々考えてしまったのでメモ。思考メモです。実際には、強烈なキャラ+豊かな表情のCGアニメがほとんどなので、わざわざ表情を削り落とす縛りプレイをしなくても、みたいな。
それはさておき、「アーヤと魔女」はジブリ内で人形劇も用意してる、という話も見かけたわけで。ジブリ制作の人形劇…。なんだか気になるよなあ。昔に比べると、TVその他で流れる人形劇ってめっきり少なくなったので、ジブリのブランドを使って少しでも復権してくれると嬉しいのだけど、そういう展開は無いのだろうか。「スタジオジブリ? 人形劇のスタジオでしょ?」「えっ。あそこって昔はアニメを作ってたの?」…そんな未来も全然アリかも。みたいな。要は、子供さんが笑顔になる何かしらを作り続けるスタジオ、それがスタジオジブリ、という定義(?)だってアリだったりするのだろうなと。ていうか、考えてみたらディズニーが既にそういうアレなんだよな…。
「アーヤと魔女」を眺めているうちに、ふとなんとなく、人形劇との関係を考え始めてしまったり。
昔のCGアニメの中には、「アニメではなくて人形劇のつもりで作ります」というスタンスを打ち出しながら作っていたCGアニメ企画がいくつかあったなと…。何せ当時のPCは、スペック面で今ほど恵まれてなくて、静止画ならともかく動画を制作するとなるとなかなか厳しい部分があり、結果的に見た目がちょっとアレな出来になってしまって…。そこで出てきたのが、「コレは人形劇なのだ」という言い訳(?)だったのだろうと邪推をしているのだけど。「コレはアニメです」と胸を張って言えるほどのものは作れてないんだけど、人形劇として眺めればそこそこイケてませんかね、どうですかね、みたいな。まあ、人形劇というジャンルに対してちょっとソレは失礼な認識じゃないですかと思わないでもないけど。
更に、ゴロー監督は、学生時代に人形劇サークルに所属していた、という話もどこかで目にしたわけで…。
そして、人形劇に登場する人形は、種類にもよるだろうけど基本的にはそれほど表情を変えられないものがほとんどだろうと想像するわけで…。
それらを踏まえると、ゴロー監督の中で、「人形劇は表情が変わらないのに見ている人達を楽しませることができる」「ならばアニメも同じだったりしないか」「アニメだって表情が変わらなくても全然通用するのではないか」という仮説が誕生してしまって、結果的にドヤ顔で「エクスアーム」を作ってしまう世界線だって十分あり得たかもしれないのだよなと。
でも、ゴロー監督はそうはならなかった。「表情は大事でしょ」と思ってくれた。ゴロー監督自身がそういう認識に至る思考をしたのか、あるいは一緒に仕事をしている近藤勝也さんあたりが口を酸っぱくして「表情は大事ですよ」と言い続けてゴロー監督も感化されたのか分からんけど、何にせよ「表情は大事」という、ピクサーやディズニーのCGアニメスタッフと同じような、フツーの認識になってくれた。
つまり、ゴロー監督は、「エクスアーム」を作ってしまう世界線から、「アーヤと魔女」を作る世界線に移動することができたのだと ―― そう捉えることもできなくもないよなと。ゴロー監督はα世界線からβ世界線への移動に成功したアニメ監督なのである。
というのは冗談なのだけど、人形劇と表情について考えていくと、娯楽コンテンツにおいて表情の表現は本当に必要なのか? という疑問も浮かんでくるよなと。
例えば、自分が子供の頃に見ていた「プリンプリン物語」。あるいは、虚淵脚本の面白さを堪能できる「Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀」。どちらも、人形の表情は全く変わらない。では、全然見れたものではないのかというと、そういうわけでもなく。「プリンプリン」は楽しんで見ていた記憶があるし、「サンボル」は毎回面白いなーと思いながら視聴してたわけで。
人形劇は表情が変わらない。なのに、ちゃんと楽しんで見れる作品が多々ある。それは何故か? 一体どこを抑えておけば、表情が変わらないキャラ達を使っても、見る側が面白いと感じる作品を作ることができるのだろう?
てな感じの問いに対して、おそらく各人、色々な答えを出せるだろうと思うけど…。
個人的には、抑えておくべき点は、キャラ設定じゃないのかなー、と思ったりもして。例えば、「プリンプリン」も「サンボル」も、出てくるキャラがどれも個性的なわけで…。
そう考えると、「エクスアーム」を見ていてツライと感じる理由もなんとなく分かるというか。あの作品に登場するキャラは、例えば「攻殻機動隊」の映像の中に混ぜてみても、ほとんど違和感が無い…。それはつまり、それほど個性的な見た目のキャラが並んでるわけではない、と言えるのではないか。
仮に、「エクスアーム」の中に、「ジビエート」の忍者や坊さんを並べてみたらどうなるだろう。それはそれで、あのCG映像であっても、十分楽しめそうな雰囲気になりそうな気もするわけで。見た目からして強烈なキャラが並んでいれば、表情の変化が無くてもどうにかなってしまうのではないか。
逆に考えれば、どこかで見たようなキャラが並ぶ作品なら、キャラの表情をちゃんとつける行為をサボってはいけないですよ、ということになってしまうのだろうか…。
まあ、そんなどうでもいいことを色々考えてしまったのでメモ。思考メモです。実際には、強烈なキャラ+豊かな表情のCGアニメがほとんどなので、わざわざ表情を削り落とす縛りプレイをしなくても、みたいな。
それはさておき、「アーヤと魔女」はジブリ内で人形劇も用意してる、という話も見かけたわけで。ジブリ制作の人形劇…。なんだか気になるよなあ。昔に比べると、TVその他で流れる人形劇ってめっきり少なくなったので、ジブリのブランドを使って少しでも復権してくれると嬉しいのだけど、そういう展開は無いのだろうか。「スタジオジブリ? 人形劇のスタジオでしょ?」「えっ。あそこって昔はアニメを作ってたの?」…そんな未来も全然アリかも。みたいな。要は、子供さんが笑顔になる何かしらを作り続けるスタジオ、それがスタジオジブリ、という定義(?)だってアリだったりするのだろうなと。ていうか、考えてみたらディズニーが既にそういうアレなんだよな…。
[ ツッコむ ]
以上です。