2011/09/02(金) [n年前の日記]
#1 [comic] 「うさぎドロップ」のラストのあたりを読んでガッカリした理由についてメモ
以下ネタバレ。未読の人は読まないでくださいな。
この作品の初期設定として、「ダイキチ」という独身男性が、親戚の子供 ―― 「ダイキチ」の祖父「宗一」の娘「りん」を引き取る、という設定があるわけですが。
そこから、「そういうラスト」に持っていくために、最終巻9巻の中で、初期設定を破壊しているシーンがあるわけですな。以下の2つがソレ。
母親が真実をバラすあたりは、これは問題無い。読者にまだ開示されていなかった情報、読者が知るはずのない情報を、母親キャラが隠し持っていたわけだけど、これまでもそういうことをしそうなキャラとして描かれてきたので、土壇場になって「実はこうでした」と母親キャラが言い出しても矛盾点は無いだろうと。突然そういう設定が出てきて、読者から御都合主義だなと思われる可能性は高いのだけど、まだこのくらいは大丈夫な範囲じゃないかな、と自分には思えたので…まあ、ここはオッケーだよなと。
しかし。ダイキチが「もちろん知ってた」と言ってしまうのは…。これはマズかった。
最初に読んだ時、「へ? そんなシーンあったっけ?」と、自分は思ったのです。どうやら自分は途中で何か見落としていたらしい。「俺ってダメだなあ、ちゃんと読めよ」と思いながら、1〜4巻を何度も読み返した。特に、爺さんの遺書のあたりは念入りに。
ところが。それらしいシーンや台詞が見つからない。変だな。おかしいな。これはアレか。読者のミスリードを誘うよう構成しておいて、しかし伏線がこっそり挿入されているのかもしれんぞなもし。と意識しながら、また何度か読み返してみたけれど。やはり見つからない。
どうも、1〜4巻を読む限りでは、りんは宗一の実の娘にしか見えないのですよ。それどころか母親すら、宗一に対してそういう感情を持っていたようにしか見えない。そう見えてしまう程度の情報開示しかされてない。これでダイキチが「もちろん知ってた」と台詞を吐くのは、ちょっと無理があるんじゃないのか? と。
さらに、おかしな点が後半にもあるなと。そもそもダイキチがその事実を知っていたなら、5巻以降でもそれに絡んだ苦悩を見せるはずだと。しかしこれまた、5巻以降を何度読み返しても、そういうシーンが無い。
例えば、りんを慕う「コウキ」がダイキチに対し、「りんの気持ちを受け入れろ」と迫って、ダイキチが「三親等だぞ」「そもそも結婚できないソレだよ」と言い聞かせるシーンがあるけれど。もし、ダイキチが真実を知っていたなら、そういったシーンでも少しは真実に絡んだ苦悩が挿入されてしかるべきではないかと。でも、やっぱりそういう描写は何も無い。ダイキチが完全に父親モードになってるとしても、まるっきり出てこないのは妙だなと。
で。邪推しちゃうわけですよ。
この作家さん、作品を無理矢理終わらせるために ―― どうにかしてハッピーエンドに漕ぎ着けるために、“キャラの台詞だけを駆使して、初期設定を上書きしよう”と試みたんじゃないのかと。
本当はそんな設定、最初から無かったんでしょ。何度読んでも、それらしい部位が見当たらないもの。ギリギリまで解決策が見つからなくて、うわーもうダメだ、これしかねえや、とやっちまったんじゃないのかと。
そのような邪推が一旦脳裏に浮かんでしまうと…。これはもう、その後のアレコレは全然楽しめなくなるわけですよ。
キャラ達が居たはずの世界が、二言三言の台詞で、異なる世界にシフトしてしまった。本来存在しなかったはずのパラレルワールドに、キャラ全員が…いや、違う、読者が運ばれてしまった。それまで作家が、まるで生きているかのようにキャラを描こうと、必死に努力してきたはずなのに。所詮はこんなの作家の駒に過ぎないのだと明確に意識させられてしまった。
それまでのキャラが生者だったとするならば、一瞬で彼等は死者に成り果てた。あるいは人形。もしくは傀儡。…そして作品のラストでは、死者が、未来の夢を語り合っている…。
ラスト近辺だけは、ある種のホラー漫画ですよ。見ようによっては。
それなりに上手に作ってあれば、ラスト近辺は、ニヤニヤ、ニンマリしながら楽しめたであろう、珠玉な台詞の数々が散りばめられているのに…。うわー、もったいねえ、何やってんの、この作家さんはー、と。清く正しく鍛え上げた肉体で、延々とマラソンしてきて、もうすぐゴール直前だと言うのに。なんだこの人、いきなりコースの真ん中で怪しげな薬飲み始めたー、あからさまなドーピングじゃねえのか、こりゃ失格だろ、どうしてここまで来てそんなことするんだ、うわーん、みたいな。
もちろん漫画なんて所詮全てが絵空事だし。漫画の中に登場するキャラなんて最初から終わりまで作家の駒なのは間違い無いし。今更何言ってんだよ、という気もしますが。でも、それを上手いこと勘違いさせてみせるのが、小説とか漫画とか映画とかゲームとか、作り話系の娯楽コンテンツに求められる、製品品質、商品品質ってものじゃないのかなと。せっかくここまでイイ感じに頑張ってきたのに、最後の最後で手を抜いて台無しにしてたらもったいないでしょう、と。
構成が甘かったのかなと思ったりもするのです。連載開始時から構成ができていたら、途中で伏線を入れることも容易にできたのかもしれないと。もしかするとこの作家さんは、連載しながら話を考えていたのかもしれない。その場その場でヒイヒイ言いながら辻褄合わせをしていたのかもしれない。
あるいは初期設定を上書きするにしても、もうちょっとやり方があったのではと。…ダイキチは真実を知らなくても良かったじゃないかと。母親が真実をバラして、「なんだソレー、俺は聞いてねえよー」と困惑・憤慨して、真っ白に燃え尽きたダイキチの横でニコニコしてるりん。そんな流れでも整合性は得られたはずで。
それとも、作家さんとしては、ちゃんと伏線を入れてあるつもりなんでしょうか。だとしたら単にテクニック不足、あるいは不親切なだけかもしれない。真実の設定を開示した後に、伏線を張っていたコマを回想として挿入するだけでも違ったはずで。たった1コマ見せるだけで ―― 昔の原稿の1コマをコピーして貼り付けて上からトーンを貼るだけで、読者は「ああ、アレが伏線だったのか」と気づくでしょう。でも、ソレすらしない。ここまで面白いネームを描ける漫画家さんが、そういう見せ方に気付かないはずがない。ということは、やっぱり伏線は入ってなかったんでしょう。回想を見せようにも、伏線入れてたコマが存在しないのでは、そりゃ見せようがない。
きっと連載で疲労困憊してたんだろう、頭が回らなくなってたんだろう、このへんが限界だったんだろう。そのように勝手に想像して同情したりもするわけですが。しかし…もったいない。実にもったいない。
でもまあ、全体を眺めれば面白い作品だと思うので、そのくらい大目に見て楽しんでやれよ>俺、という気もしますが。でも…やっぱり…もったいないなあ…。
いやね…何せ、りんというキャラが、とにかく可愛かったので! 何も引っ掛かるところもなく、「りんちゃん、良かったねえ。良かったねえ」と手放しで喜んでやれる、そんなラストを見たかったわけですよ! でも、これじゃダメなんだ。ダイキチが「もちろん」と吐いた瞬間に、自分が「可愛いなあ、可愛いなあ」と愛でてきたりんちゃんは、作品世界の消滅と誕生に巻き込まれて消滅してしまったのであります。嗚呼、俺のりんが! いや、俺のじゃねえ! ダイキチのか! 何にせよ、そりゃねえよ…。
まあ、そこまで入れ込んでしまうほどに、それまでのりんちゃんは可愛かったということで、やっぱりこの作品は破壊力があるなと。うむ。また読み返すとしよう。ダイキチがあの台詞を吐く直前まで読んで、そしてまた第1巻から読み返す! ループを作ってやる! そのループの中で、あの可愛らしかったりんちゃんは永遠に生き続けるんだ! ってなんかおかしいぞ俺! 入れ込み過ぎだぞ俺!
というわけで絶賛オススメなんですよ、「うさぎドロップ」。…ダイキチがあの台詞を吐くまではな!
この作品の初期設定として、「ダイキチ」という独身男性が、親戚の子供 ―― 「ダイキチ」の祖父「宗一」の娘「りん」を引き取る、という設定があるわけですが。
そこから、「そういうラスト」に持っていくために、最終巻9巻の中で、初期設定を破壊しているシーンがあるわけですな。以下の2つがソレ。
- 母親が、りんに、「お前は、宗一(おじいちゃん)の実の娘ではない」「ダイキチと血の繋がりはない」と伝える。
- ダイキチが、りんに、「もちろん、血が繋がってないことは知ってた」「爺さんの遺書に書いてあった」と伝える。
母親が真実をバラすあたりは、これは問題無い。読者にまだ開示されていなかった情報、読者が知るはずのない情報を、母親キャラが隠し持っていたわけだけど、これまでもそういうことをしそうなキャラとして描かれてきたので、土壇場になって「実はこうでした」と母親キャラが言い出しても矛盾点は無いだろうと。突然そういう設定が出てきて、読者から御都合主義だなと思われる可能性は高いのだけど、まだこのくらいは大丈夫な範囲じゃないかな、と自分には思えたので…まあ、ここはオッケーだよなと。
しかし。ダイキチが「もちろん知ってた」と言ってしまうのは…。これはマズかった。
最初に読んだ時、「へ? そんなシーンあったっけ?」と、自分は思ったのです。どうやら自分は途中で何か見落としていたらしい。「俺ってダメだなあ、ちゃんと読めよ」と思いながら、1〜4巻を何度も読み返した。特に、爺さんの遺書のあたりは念入りに。
ところが。それらしいシーンや台詞が見つからない。変だな。おかしいな。これはアレか。読者のミスリードを誘うよう構成しておいて、しかし伏線がこっそり挿入されているのかもしれんぞなもし。と意識しながら、また何度か読み返してみたけれど。やはり見つからない。
どうも、1〜4巻を読む限りでは、りんは宗一の実の娘にしか見えないのですよ。それどころか母親すら、宗一に対してそういう感情を持っていたようにしか見えない。そう見えてしまう程度の情報開示しかされてない。これでダイキチが「もちろん知ってた」と台詞を吐くのは、ちょっと無理があるんじゃないのか? と。
さらに、おかしな点が後半にもあるなと。そもそもダイキチがその事実を知っていたなら、5巻以降でもそれに絡んだ苦悩を見せるはずだと。しかしこれまた、5巻以降を何度読み返しても、そういうシーンが無い。
例えば、りんを慕う「コウキ」がダイキチに対し、「りんの気持ちを受け入れろ」と迫って、ダイキチが「三親等だぞ」「そもそも結婚できないソレだよ」と言い聞かせるシーンがあるけれど。もし、ダイキチが真実を知っていたなら、そういったシーンでも少しは真実に絡んだ苦悩が挿入されてしかるべきではないかと。でも、やっぱりそういう描写は何も無い。ダイキチが完全に父親モードになってるとしても、まるっきり出てこないのは妙だなと。
で。邪推しちゃうわけですよ。
この作家さん、作品を無理矢理終わらせるために ―― どうにかしてハッピーエンドに漕ぎ着けるために、“キャラの台詞だけを駆使して、初期設定を上書きしよう”と試みたんじゃないのかと。
本当はそんな設定、最初から無かったんでしょ。何度読んでも、それらしい部位が見当たらないもの。ギリギリまで解決策が見つからなくて、うわーもうダメだ、これしかねえや、とやっちまったんじゃないのかと。
そのような邪推が一旦脳裏に浮かんでしまうと…。これはもう、その後のアレコレは全然楽しめなくなるわけですよ。
キャラ達が居たはずの世界が、二言三言の台詞で、異なる世界にシフトしてしまった。本来存在しなかったはずのパラレルワールドに、キャラ全員が…いや、違う、読者が運ばれてしまった。それまで作家が、まるで生きているかのようにキャラを描こうと、必死に努力してきたはずなのに。所詮はこんなの作家の駒に過ぎないのだと明確に意識させられてしまった。
それまでのキャラが生者だったとするならば、一瞬で彼等は死者に成り果てた。あるいは人形。もしくは傀儡。…そして作品のラストでは、死者が、未来の夢を語り合っている…。
ラスト近辺だけは、ある種のホラー漫画ですよ。見ようによっては。
それなりに上手に作ってあれば、ラスト近辺は、ニヤニヤ、ニンマリしながら楽しめたであろう、珠玉な台詞の数々が散りばめられているのに…。うわー、もったいねえ、何やってんの、この作家さんはー、と。清く正しく鍛え上げた肉体で、延々とマラソンしてきて、もうすぐゴール直前だと言うのに。なんだこの人、いきなりコースの真ん中で怪しげな薬飲み始めたー、あからさまなドーピングじゃねえのか、こりゃ失格だろ、どうしてここまで来てそんなことするんだ、うわーん、みたいな。
もちろん漫画なんて所詮全てが絵空事だし。漫画の中に登場するキャラなんて最初から終わりまで作家の駒なのは間違い無いし。今更何言ってんだよ、という気もしますが。でも、それを上手いこと勘違いさせてみせるのが、小説とか漫画とか映画とかゲームとか、作り話系の娯楽コンテンツに求められる、製品品質、商品品質ってものじゃないのかなと。せっかくここまでイイ感じに頑張ってきたのに、最後の最後で手を抜いて台無しにしてたらもったいないでしょう、と。
構成が甘かったのかなと思ったりもするのです。連載開始時から構成ができていたら、途中で伏線を入れることも容易にできたのかもしれないと。もしかするとこの作家さんは、連載しながら話を考えていたのかもしれない。その場その場でヒイヒイ言いながら辻褄合わせをしていたのかもしれない。
あるいは初期設定を上書きするにしても、もうちょっとやり方があったのではと。…ダイキチは真実を知らなくても良かったじゃないかと。母親が真実をバラして、「なんだソレー、俺は聞いてねえよー」と困惑・憤慨して、真っ白に燃え尽きたダイキチの横でニコニコしてるりん。そんな流れでも整合性は得られたはずで。
それとも、作家さんとしては、ちゃんと伏線を入れてあるつもりなんでしょうか。だとしたら単にテクニック不足、あるいは不親切なだけかもしれない。真実の設定を開示した後に、伏線を張っていたコマを回想として挿入するだけでも違ったはずで。たった1コマ見せるだけで ―― 昔の原稿の1コマをコピーして貼り付けて上からトーンを貼るだけで、読者は「ああ、アレが伏線だったのか」と気づくでしょう。でも、ソレすらしない。ここまで面白いネームを描ける漫画家さんが、そういう見せ方に気付かないはずがない。ということは、やっぱり伏線は入ってなかったんでしょう。回想を見せようにも、伏線入れてたコマが存在しないのでは、そりゃ見せようがない。
きっと連載で疲労困憊してたんだろう、頭が回らなくなってたんだろう、このへんが限界だったんだろう。そのように勝手に想像して同情したりもするわけですが。しかし…もったいない。実にもったいない。
でもまあ、全体を眺めれば面白い作品だと思うので、そのくらい大目に見て楽しんでやれよ>俺、という気もしますが。でも…やっぱり…もったいないなあ…。
いやね…何せ、りんというキャラが、とにかく可愛かったので! 何も引っ掛かるところもなく、「りんちゃん、良かったねえ。良かったねえ」と手放しで喜んでやれる、そんなラストを見たかったわけですよ! でも、これじゃダメなんだ。ダイキチが「もちろん」と吐いた瞬間に、自分が「可愛いなあ、可愛いなあ」と愛でてきたりんちゃんは、作品世界の消滅と誕生に巻き込まれて消滅してしまったのであります。嗚呼、俺のりんが! いや、俺のじゃねえ! ダイキチのか! 何にせよ、そりゃねえよ…。
まあ、そこまで入れ込んでしまうほどに、それまでのりんちゃんは可愛かったということで、やっぱりこの作品は破壊力があるなと。うむ。また読み返すとしよう。ダイキチがあの台詞を吐く直前まで読んで、そしてまた第1巻から読み返す! ループを作ってやる! そのループの中で、あの可愛らしかったりんちゃんは永遠に生き続けるんだ! ってなんかおかしいぞ俺! 入れ込み過ぎだぞ俺!
というわけで絶賛オススメなんですよ、「うさぎドロップ」。…ダイキチがあの台詞を吐くまではな!
◎ どうしてこんなに、このあたりに拘るのかと言うと。 :
自分がモヤモヤと夢想してた時も、このあたりは障害になるよな、と予想していたからで。
独身男性が幼女を引き取るというシチュエーションを見せるにあたって、一番楽な設定は、「親戚だから」という設定じゃないか、とは自分も思ってたのです。親戚なんだから、引き取っても世間様から後ろ指をさされる場面は少ないだろう。親戚なんだから、どこで出会わせるかも考えやすいだろう。そんな風に安直?に考えた。
でも、そういうラストに持っていく際には、親戚設定は障害になるよな、と。
なので、その解決策も、いくつか考えていた。と思う。たしかそのはず。
でも…。
C.はねえよなと。例えば、源氏物語のソレは、今の日本の感覚からすると犯罪的だけど、その犯罪的なところに惹かれるからアレじゃないのかと。やっぱりそういうラストにするからこそ、アレがソレだよなと。でも、「御都合主義」と思われるのもアレだし、「なんて反道徳的なモノを描いてるんだ!」と糾弾されるのもアレだし。
であれば、スタート地点で苦労するしかない。
スタート地点で楽をしちゃうから、ダメなんだ。親戚設定は禁止。それを使っちゃダメ。あくまで、赤の他人の独身男性と幼女が一緒に暮らし始める、という設定をどうにかしてでっち上げる。「そういう状況に遭遇したら、そういう展開になるのは自然だよな、自分がその立場だったらやっぱり引き取るし、周りも認めるわ」と読んだ人がすんなり思うぐらいに工夫した設定を。…これは難しい。何か思いつきますか? 自分はダメだった。スタート地点すら作れないのでは、本編なんかとても作れないんじゃないか。そして、挫折。
で。今になって考えると、例えば「よつばと!」は、ソレをクリアした作品の一つなんだなと思ったりもするわけで。いや、当時、読んでなかったから、そんなやり方があるとは気付かなかったし、そもそも連載が始まってたのかどうかすら知らないのだけど。
「よつばと!」の上手いところは…。
このあたり、「経緯なんてどうでもいいじゃないか」「そういう人間関係がそこにある、ということが最重要。それさえあれば話は作れる」と割り切った賢さがあるように思える。もしかすると、「どうしてそうなったのか」ではなく、「こういうキャラが居るのだ」「こういうキャラがこういうことをするのだ」だけで読者を楽しませてしまう、4コマ漫画というジャンルで活躍してみせた作家さんならではの卓逸したセンスがあるのかもと。だからそこに辿り着けるのかも、と思うのだけど。
何にせよ、「よつばと!」方式ではないやり方で、その手の初期設定と、そういうラストを繋げるためには、
「うさぎドロップ」は前者でしょう。そして予想通り、ラスト近辺で苦労してた。自分は、「ああ、その手があったのか」と感心したかったのだけど…。予想範囲の中の A になって、しかも、Aにするための準備が抜けてるようにも見えた。自分には分からなかった正解が見れるかもと期待していたけど、どうも途中で計算ミスをしている誤答が出てきてしまったような、そんな印象を受けて、うーん、となったわけで。
そんなモヤモヤがまだ残ってるので、そのあたりの設定だの繋げ方に、なんだか拘ってしまう自分なのでした。
独身男性が幼女を引き取るというシチュエーションを見せるにあたって、一番楽な設定は、「親戚だから」という設定じゃないか、とは自分も思ってたのです。親戚なんだから、引き取っても世間様から後ろ指をさされる場面は少ないだろう。親戚なんだから、どこで出会わせるかも考えやすいだろう。そんな風に安直?に考えた。
でも、そういうラストに持っていく際には、親戚設定は障害になるよな、と。
なので、その解決策も、いくつか考えていた。と思う。たしかそのはず。
- A. 少女漫画的解決策。「血は繋がっていませんでした! だからオッケー!」にしちゃう。でもこれは「あー、またか」「ありがちありがち」「出たよ御都合主義」「血が繋がってないだけで本当に大丈夫なの? 法的に問題が残ってるんじゃないの? ちゃんと調べてみた?」等々の問題が。
- B. エロ漫画的解決策。「当人達が幸せなら、それでいいじゃん。法律? んなの知らねえよ」にしちゃう。でもこれは、世間様から後ろ指をさされる。後味が悪い。反社会的。背徳的。それを避けるためには、「そういう家族のあり方も、もしかしたらアリなのか…?」と読者が悩んじゃうぐらい、そこに至る過程をキッチリ作り込まないといけない。そのへんが薄っぺらいと、シチュエーションだけ羅列してハイ終わりの16ページぐらいのエロ漫画と違いが無くなってしまう。
- C. ホームドラマ的解決策。そういうラストは綺麗さっぱり諦める。「お父さん、今まで育ててくれてありがとう。今日、私はお嫁に行きます」的な。これなら誰にでも見せられる話になる。どこにお嫁?に出しても恥ずかしくないラストになる、はず。
でも…。
C.はねえよなと。例えば、源氏物語のソレは、今の日本の感覚からすると犯罪的だけど、その犯罪的なところに惹かれるからアレじゃないのかと。やっぱりそういうラストにするからこそ、アレがソレだよなと。でも、「御都合主義」と思われるのもアレだし、「なんて反道徳的なモノを描いてるんだ!」と糾弾されるのもアレだし。
であれば、スタート地点で苦労するしかない。
スタート地点で楽をしちゃうから、ダメなんだ。親戚設定は禁止。それを使っちゃダメ。あくまで、赤の他人の独身男性と幼女が一緒に暮らし始める、という設定をどうにかしてでっち上げる。「そういう状況に遭遇したら、そういう展開になるのは自然だよな、自分がその立場だったらやっぱり引き取るし、周りも認めるわ」と読んだ人がすんなり思うぐらいに工夫した設定を。…これは難しい。何か思いつきますか? 自分はダメだった。スタート地点すら作れないのでは、本編なんかとても作れないんじゃないか。そして、挫折。
で。今になって考えると、例えば「よつばと!」は、ソレをクリアした作品の一つなんだなと思ったりもするわけで。いや、当時、読んでなかったから、そんなやり方があるとは気付かなかったし、そもそも連載が始まってたのかどうかすら知らないのだけど。
「よつばと!」の上手いところは…。
- 引き取る経緯を描かず、引き取ってから随分経ったであろう時期から、いきなり描き始めている。
- 引き取った経緯をぼやかしている。
このあたり、「経緯なんてどうでもいいじゃないか」「そういう人間関係がそこにある、ということが最重要。それさえあれば話は作れる」と割り切った賢さがあるように思える。もしかすると、「どうしてそうなったのか」ではなく、「こういうキャラが居るのだ」「こういうキャラがこういうことをするのだ」だけで読者を楽しませてしまう、4コマ漫画というジャンルで活躍してみせた作家さんならではの卓逸したセンスがあるのかもと。だからそこに辿り着けるのかも、と思うのだけど。
何にせよ、「よつばと!」方式ではないやり方で、その手の初期設定と、そういうラストを繋げるためには、
- スタート地点で手抜きをして、ラスト近辺でどツボにハマる。
- スタート地点で苦労して、ラスト近辺はスムーズに進める。
「うさぎドロップ」は前者でしょう。そして予想通り、ラスト近辺で苦労してた。自分は、「ああ、その手があったのか」と感心したかったのだけど…。予想範囲の中の A になって、しかも、Aにするための準備が抜けてるようにも見えた。自分には分からなかった正解が見れるかもと期待していたけど、どうも途中で計算ミスをしている誤答が出てきてしまったような、そんな印象を受けて、うーん、となったわけで。
そんなモヤモヤがまだ残ってるので、そのあたりの設定だの繋げ方に、なんだか拘ってしまう自分なのでした。
この記事へのツッコミ
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以上、1 日分です。
MZ-731懐かしいですね、私も使っていました。
うる星やつらは送り出す側としての立場にいました。
うる星やつらを例にしてとると作品の内容は作る前に担当との話し合いで決められていました。読者からのアンケートとかPTAとかを意識して内容を決めるのです。
ラムのほうが人気があったのでしのぶの出番は少なくなりました。
ここらへんの事については少年サンデーグラフイックに描かれています。
うさぎドロップも連載だったので編集の意向に沿って作られたもので作者にとっては不本意であったかもしれません。
エロ漫画ばかり描いている人でも本人の意向ではなくはじめの担当者がたまたまエロを描かせて、それが続いているという人もいるそうです。