2008/10/02(木) [n年前の日記]
#1 [jiji][zatta] 「関係ない人を道連れにするな」論は何か危うい気がしてきた
一昨日、NHKの爆笑学問を見ていたら、政治学の先生が、秋葉原大量殺人事件に触れて「他人を巻き込むなという感想しか出てこない社会は〜」云々の話をしていたのだけど。
で、昨日、NHKの夜9:00のワイドショーを流してたら、大阪のビル放火のニュースが流れてて。画面にいつも映ってる・常駐してる男性コメンテーター?が、「生きていくのが嫌になった」と動機を語ってるらしい犯人に対して、「関係ない人を道連れにするなと言いたい」となんだか憤慨してるような感じでコメントをしていて。自分はそれを見て、「この人、昨日の爆笑問題の番組は見てないんだろうな。見てないから、こういうコメントを平気で出せるんだろうなあ」などとぼんやり思いつつスルーしちゃってたのだけど。
今日になってよくよく考えてみると、その夜9:00のワイドショーのコメンテーターの発言は、なんだかやっぱり危ないものがあるような気がしてきたり。
コメンテーターが望んだとおり、誰も道連れにせず自身の命を断つ人は、この日本には年間ン万人居るわけで。コメンテーターは、そういう人達が「この日本社会に存在する」という事実を認識していない・そういう人達がこの世界に居ることを無視してるからこそ、ああいった発言ができるのだろうなと。また、仮に、そのコメンテーターの物言いが正しいことなのだとすれば、それら、誰も道連れにすることなく自身の命を断ってる人は、ある意味社会から称賛されるべき行動を取ってる人にもなってしまわないか、みたいな。でも、実際は、それは褒められる行為ではないわけだから、コメンテーターの「道連れにするな」論は、何かがおかしい気もするわけで。
それはそれとして。もし、そのン万人の中の10人に1人が、「自分がこんなに苦しい思いをしてるのは、自分にのみ原因があるのではなく、いくらかは社会にも責任がある。だから、どうせ自分の命を失うなら、少しでもこの社会に復讐をしよう」と思うのが当たり前な風潮になったら、この社会はもっと大変な事件がバンバン起きるようになるんだろうなと妄想してしまったり。…そういえば、硫化水素によるソレも、電車に飛び込むのも、そういう状態に近いかもしれないなと。それら手法を選択した当人には、周囲を巻き込もうとする意思などなかったであろうとは思うのだけど。それでも、そういった面倒な事態になっているのだから…。これが多少なりとも復讐心を持って、意図して効果的な手法を選んでいたら、社会を混乱に貶めることはおそらくかなり容易だったりもするのだろう ―― それこそ秋葉原で起きたソレのような状況があちこちに見られるようになるのだろうと。つまり、コメンテーターが存在を無視している人種が、ちょっと考え方を変えて行動を起こせば、コメンテーターのような人種 ―― おそらくは「恵まれている人達」に、トラブルをプレゼントすることは簡単なんだろうなと。
そんなことをもやもや考えると、「道連れにするな」論を語ることは、道連れにされたくない人種にとって、自衛になるどころか、むしろ自分達に更なる混乱を招きかねない、ある種の煽りになっていたりはしないか、てなこともなんとなく思ったり。問題を抱えて困ってる人達を、更にますます、精神的に追い込む悪しき効果しかそこにはないのではないか。そんな論を振りかざすことにどんな意味があるのか。それを語ることで、この日本社会を、いや、自分達を取り巻く環境を、良い方向に改善していくことができるのか。どうなんですか。そこまで考えて「道連れにするな」と貴方は語っているのですか。
てなことを考えた時に、「道連れにするな」論“だけ”を発するのは、なんだか危うい感じがしてきたのでした。
となると、じゃあどうすればいいのか、どんな論を語ればいいのか、と問われそうなのだけど。
これは外してる・間違ってるかもしれないけれど。たぶん、「そんな道を選ばなくても、他にこれだけ選択肢はあるんだよ。わざわざそんなデメリットの多い道を選ぶ必要はないよ」と語ることだったりするのかなと夢想したり。
たとえば、精神的な病気でそういう状態に陥ってるなら、それは脳と言うハードウェアに障害が起きてるだけの話に過ぎないのだから、まずは病院で薬貰って治療に専念したほうがいいわけだし。経済的に貧窮してるのであれば、ひとまず社会復帰するまでバックアップできる何かのシステムが社会に必要になるだろうから、そういったシステムの在り方について議論したほうがいいだろうし。
精神的に追い込まれて視野が狭くなってる状態から、他にも選択肢があることを、少なくとも「頭では判るんだけど…」なレベルまで持っていけるだけの、具体的な事例を紹介する、とでもいうか。そういう語りがそこでは必要なのではないか ―― 「道連れにするな」論を語るより「まだマシ」なのではないか、てなことも思ったけど、まあよくわかりません。
いやまあ、特にTVの場合は、コメンテーターに与えられた時間は数秒だから、そこまで語れるわけないけど。だからといって、「道連れにするな」論を語っていい、とも言えない気もするけれど。たった数秒で更なる害悪を撒き散らかしていないだろうか。てな不安もあるのだけど、さてはてどうなんだろう。よくわかりません。
で、昨日、NHKの夜9:00のワイドショーを流してたら、大阪のビル放火のニュースが流れてて。画面にいつも映ってる・常駐してる男性コメンテーター?が、「生きていくのが嫌になった」と動機を語ってるらしい犯人に対して、「関係ない人を道連れにするなと言いたい」となんだか憤慨してるような感じでコメントをしていて。自分はそれを見て、「この人、昨日の爆笑問題の番組は見てないんだろうな。見てないから、こういうコメントを平気で出せるんだろうなあ」などとぼんやり思いつつスルーしちゃってたのだけど。
今日になってよくよく考えてみると、その夜9:00のワイドショーのコメンテーターの発言は、なんだかやっぱり危ないものがあるような気がしてきたり。
コメンテーターが望んだとおり、誰も道連れにせず自身の命を断つ人は、この日本には年間ン万人居るわけで。コメンテーターは、そういう人達が「この日本社会に存在する」という事実を認識していない・そういう人達がこの世界に居ることを無視してるからこそ、ああいった発言ができるのだろうなと。また、仮に、そのコメンテーターの物言いが正しいことなのだとすれば、それら、誰も道連れにすることなく自身の命を断ってる人は、ある意味社会から称賛されるべき行動を取ってる人にもなってしまわないか、みたいな。でも、実際は、それは褒められる行為ではないわけだから、コメンテーターの「道連れにするな」論は、何かがおかしい気もするわけで。
それはそれとして。もし、そのン万人の中の10人に1人が、「自分がこんなに苦しい思いをしてるのは、自分にのみ原因があるのではなく、いくらかは社会にも責任がある。だから、どうせ自分の命を失うなら、少しでもこの社会に復讐をしよう」と思うのが当たり前な風潮になったら、この社会はもっと大変な事件がバンバン起きるようになるんだろうなと妄想してしまったり。…そういえば、硫化水素によるソレも、電車に飛び込むのも、そういう状態に近いかもしれないなと。それら手法を選択した当人には、周囲を巻き込もうとする意思などなかったであろうとは思うのだけど。それでも、そういった面倒な事態になっているのだから…。これが多少なりとも復讐心を持って、意図して効果的な手法を選んでいたら、社会を混乱に貶めることはおそらくかなり容易だったりもするのだろう ―― それこそ秋葉原で起きたソレのような状況があちこちに見られるようになるのだろうと。つまり、コメンテーターが存在を無視している人種が、ちょっと考え方を変えて行動を起こせば、コメンテーターのような人種 ―― おそらくは「恵まれている人達」に、トラブルをプレゼントすることは簡単なんだろうなと。
そんなことをもやもや考えると、「道連れにするな」論を語ることは、道連れにされたくない人種にとって、自衛になるどころか、むしろ自分達に更なる混乱を招きかねない、ある種の煽りになっていたりはしないか、てなこともなんとなく思ったり。問題を抱えて困ってる人達を、更にますます、精神的に追い込む悪しき効果しかそこにはないのではないか。そんな論を振りかざすことにどんな意味があるのか。それを語ることで、この日本社会を、いや、自分達を取り巻く環境を、良い方向に改善していくことができるのか。どうなんですか。そこまで考えて「道連れにするな」と貴方は語っているのですか。
てなことを考えた時に、「道連れにするな」論“だけ”を発するのは、なんだか危うい感じがしてきたのでした。
となると、じゃあどうすればいいのか、どんな論を語ればいいのか、と問われそうなのだけど。
これは外してる・間違ってるかもしれないけれど。たぶん、「そんな道を選ばなくても、他にこれだけ選択肢はあるんだよ。わざわざそんなデメリットの多い道を選ぶ必要はないよ」と語ることだったりするのかなと夢想したり。
たとえば、精神的な病気でそういう状態に陥ってるなら、それは脳と言うハードウェアに障害が起きてるだけの話に過ぎないのだから、まずは病院で薬貰って治療に専念したほうがいいわけだし。経済的に貧窮してるのであれば、ひとまず社会復帰するまでバックアップできる何かのシステムが社会に必要になるだろうから、そういったシステムの在り方について議論したほうがいいだろうし。
精神的に追い込まれて視野が狭くなってる状態から、他にも選択肢があることを、少なくとも「頭では判るんだけど…」なレベルまで持っていけるだけの、具体的な事例を紹介する、とでもいうか。そういう語りがそこでは必要なのではないか ―― 「道連れにするな」論を語るより「まだマシ」なのではないか、てなことも思ったけど、まあよくわかりません。
いやまあ、特にTVの場合は、コメンテーターに与えられた時間は数秒だから、そこまで語れるわけないけど。だからといって、「道連れにするな」論を語っていい、とも言えない気もするけれど。たった数秒で更なる害悪を撒き散らかしていないだろうか。てな不安もあるのだけど、さてはてどうなんだろう。よくわかりません。
[ ツッコむ ]
以上です。