保健室の周辺は、予想通り混乱の真っ只中にあった。
無事な生徒だけでもかなりの数だが、それに加えて倒れた生徒の収容や、介抱に追われた教師達や保健委員らの動きも相当に慌しい。狭い廊下は人に溢れ、前に進むのが困難なほどだった。
「――翔ちゃん!よかった、無事だったんだね!」
聞き慣れた声が脇から聞こえ、振り向くと歩が何とかしてこっちに来ようともがいているところだった。
「歩!そっちも無事だったか!?東と朋花は!?」
「みんな無事、安心して」
人を掻き分けて歩の傍に行くと、心底安堵した顔で俺を迎えながら言った。
「綏月先輩からここに行けって言われたんだけど、この状態でしょ?保健室じゃ納まりきらなくて、隣の部屋や体育館の方まで溢れてるの。無事な人はそっちに倒れた人運んでる。二人もそこよ」
保健室のすぐ隣は体育館への渡り廊下だ。確かにそちらの方がたくさんのマット類があるし、人を寝かせるのに充分な面積を確保できるだろう。
ただ、綏月先輩が殊更保健室にこだわっていたのが気になった。
「おっ、翔!生きてたようで何よりだ!」
視線を巡らせていると、渡り廊下の方から東の姿が見えた。そのすぐ後ろには朋花と雅先生がついて来る。
「翔クン!どうやらあなたも元気そうね」
「はい、雅先生も無事で何よりです。東、そっちは大丈夫か!?」
「ああ、何とかな。どうも奴ら保健室周辺には寄って来れないらしい。体育館の方は微妙だが、他に場所がないしな。今のところ一・二匹しか見とらんが、蹴り入れたら消えたんで大事には至ってないぞ」
「……へ?お前、連中倒せたのか?」
「うむ。倒そうとしてた男がいたんだが、どうも外してばかりなんでな、見かねて中段蹴り入れたら簡単に当たった。男なんぞ放っておいても良かったんだが、そいつが倒れて哀しむ女性もいるかも知れんからな」
俺と綏月先輩以外にも、素手で奴らを倒せる人間がいたのに少なからず驚いた。しかもそれが東とは。
「羽束先生、こちらにいましたか!」
後ろの方から嵯峨先生が走ってきた。いつもの穏やかな様子は既になく、汗で額に張り付いた前髪が非常に切迫した空気を漲らせている。
「嵯峨先生!B棟やC棟の方はいかがですか?」
「こちらよりも被害が大きいようです。特にC棟の方ですね。無事な生徒にも手伝ってもらって運んでいるんですが、その生徒達の方まで倒れる始末で。救急車はもうすぐ来ると思いますが、状況的にそちらまで行けるかどうか判りません。私はB棟の方にもう一度行って来ますんで、羽束先生は引き続きこちらで生徒の様子を見ていてください」
「でも、お一人では危険じゃないんですか?私も行きます!」
「危険だからこそ、尚更です。それに人を運ぶとなると女性では荷が勝ち過ぎますから。羽束先生は救命講習を受けた事もおありでしょう?こちらをお願いします」
心配そうに見上げる雅先生にそう言って、嵯峨先生は再び数人の男子生徒とB棟の方向へ向かう。
俺は一瞬付いて行こうかと思ったが、綏月先輩が先に行っていろと言った場所を動くのは得策ではないと考え直し、東と一緒に運ばれて来る生徒を体育館にリレー式に運ぶ役目を引き受けた。歩や朋花も、女子数人がかりで同じ行動を取る。
「そういや美采は見てないが、あいつ無事なのか?それに他の人――紗楽先生は、どうした?」
「紗楽先生はヒス起こしてる連中を落ち着かせるのに保健室行ってる。美采はピンピンして保健の先生と一緒に患者を看て回ってるぞ。毒ガスでも撒かれたんなら、判別は任せろとか言って」
「……そういやあいつ、そういうの調べんの大好きだったな。人体の急所とか、毒の致死量とか。こういう時には役に立つ……のか?一応」
「まぁ先生の診立てでは、毒ガス等による症状ではないらしい。どっちかって言うと重度の貧血に近いみたいだな。美采の表現によるとマジックポイントがゼロになったようなもんだとさ。外傷があっても倒れた時の擦り傷や打ち身くらいだ」
「MP、ね。つまり今ンとこ生命に別状はそれほど無しって訳か」
学校という空間に毒ガスを撒く、というのもテロ的手段としては有効だろう。だが、現在の状況がそんな現実的なものではない事は、俺自身がよく承知していた。承知していたからといって解決策が見つかるは訳ではないが。
体育館の中は、入口付近から横たわった人間で埋め尽くされていた。その合間を縫う様に動き回るのは搬送者と看病の教師や生徒。だだっ広いフローリングの空間が人に支配されていく様は、避難所か野戦病院のイメージを彷彿とさせる。違うのは、大部分の人間が苦痛の呻き声も挙げず沈黙の淵にある事くらいだ。
そんな中、俺はふと気がついた。
「……おい東、なんか変じゃないか?入口から離れてくに従って、空気が変わってく感じがする。さっき言ってた『体育館は微妙』ってこの事か?」
「お前も解ったか?どうも保健室を中心にして清々しい空気が作られてると思っててな。しかし人が多くなった分その範囲は狭まってる。とはいえ、やはり場所がないから致し方ないんだが。――よっと」
抱えていた生徒を横たえて、再び入口へと戻る。全く一体どれだけの人間が被害に遭っているのか判らない。次々に運び込まれて来る制服の群れを見て、内心頭が痛くなった時、またも『奴』の気配を感じた。
「――近くにいるぞ、あいつ!」
感じた気配を捉えようと、入口の扉に手をかけた瞬間、歩の声が聞こえた。
「朋花ッ!?どうしたの、朋花!しっかりして!!」
緊張した東と共に慌てて外に出ると、校舎への入口の前で、歩が今にも倒れ込む朋花をその細腕で支えようとしていた。
「何があった、歩!?」
「ッ!朋花、おい、どうしたのだ!?」
近寄ろうとしたその寸前、視界の端に『陰』が映った。――こいつか!?
奴は朋花を支えてふらついている歩を目に捕らえたように、そのまま歩に向かって飛びかかろうとしていた。だが歩の方は奴が見えているのかどうか解らない。そのまま戸惑った様に朋花に寄りそっている。
「――逃げろ、歩ッ!!」
「え!?で、でも、朋花が――!」
「朋花の兄たるオレが許す!朋花置いてとにかく逃げろ!!」
全力で走っても、この距離では奴の一撃目には間に合わない。
俺達の切迫した様子を見て、歩は咄嗟に従おうとするが、朋花をずらそうとするその一瞬の隙に奴は奇声を上げて歩に突っ込んでいた。
「歩――――ッッ!!!」
駄目だ、間に合わない!!
そう思った時、誰かが歩を横合いから引き寄せ後ろ手に庇った。
――ギイィィン!!
(―――グギャッ!!)
重い物が擦れ合った様な音がした。目を瞠ると、奴は歩と歩を庇った人物の数十cm前で止まり、そのまま宙をずり落ちて行った。
そう、まるで見えない壁に弾かれたように。
「――志貴!?」
飛び込んできた人物の制服が女子用だった為、綏月先輩が来たのかと思ったのだが、その長い黒髪は全く別の人物である事を示していた。
「……ったく、逃げろって言っただろうが、あいつ!」
「え……志貴、さん?」
不愉快な表情で歩に呟いている志貴は、目の前の奴から視線を逸らさない。そのまま奴の眼窩の昏い光を見据える。
するとどうした事か、奴は躊躇した様に後退った。まるで志貴の『眼』に何かを暴かれたように。
その場に満ちる奇妙な空気を破ったのは、何かが落下するような音。
ハッと我に帰れば、渡り廊下の屋根から綏月先輩が文字通り降って来た。
それも、立ち竦んだままの奴の真上に。
「せ、先輩ッ!?」
避ける間も、それこそ叫ぶ間もなく、奴は先輩の足に見事潰され……あっけなく霧散した。
「ふぅ、セーフか」
ザッ、と信じられない身軽さと絶妙のバランスで地面に降り立った先輩は、その手に細長い竹刀袋のような物を持ちながら事も無げに言って俺達の方を見た。
「ごめん、途中で遭った奴を片付けてたら遅くなった。怪我はなかったかい?」
「……そういう問題じゃないと思うんですが」
「そう?――ああ、平気だよ。スパッツ穿いてるし」
いや、そういう問題でもなくて……って、あるか、少しは。
と、歩達の方に注意を向けた。どうやら無事だったらしい、大きな安堵の息を吐いているのが見えた。
「良かった……。歩、朋花はどうだ?意識ありそうか?」
気を取り戻して、歩達に近付いて問う。周囲にいた生徒は、先輩のアクションに感動しているやら呆気に取られているやらで、とりあえず恐慌状態にはならずに済んだようだ。
「……駄目みたい。呼吸や脈は多分普通だけど」
「どれ……ああ、これなら大丈夫。中てられただけだろう、軽いショック状態になってるだけだ。しばらく寝ていれば目を覚ますよ」
東の手に委ねられた朋花を診て、先輩が言った。
「本当ですか、先輩?」
「ああ。――やっぱり体育館の方も何とかしないと駄目だな。東君、朋花君を運ぶついでに、体育用具室の場所を教えてくれないか?」
「え?あ、じゃあ私が案内します。――あ、志貴さん。その、良く解らないんだけど、助けてくれたみたいで、どうもありがとう」
「……別に」
深々とお辞儀をする歩を大した感慨も無く見送って、志貴は自分のスカートを叩く。歩を庇った時に扉の鉄サビに触った様で、赤茶けた付着物が付いている。
「志貴、ホントにサンキュ。歩の事、助けてくれて」
「……原因、アレ」
「――は?」
脈絡も無いセリフに面食らっていると、志貴は眉を寄せ、面倒そうに言葉を発する。けれどその言葉には、強い真剣な響きがあった。
「騒ぎの原因。アレが暴走して精気喰いまくってんの。何でか知らないけど、いきなり。アンタ視えるし、なんか方法ないかと思って」
「精気を喰う…………って、まさか、あの昨日の――!」
「そう、あの桜」
引っかかっていたものが、スッと氷解した。
精気が失われたような倒れた生徒達。そして、精気を喰う桜。――赤染の、血染の桜。
不安の予感は現実になったって事か!?
畜生、こういう予感なんて当たらなくて良いってのに!
「翔君、どうしたんだ?手が空いてるならまだ――――」
体育館の方から綏月先輩の声が聞こえ、俺は振り向いて叫んだ。
「先輩、桜です!」
「え?」
「昨日、校舎裏の方である桜を見たんです、赤い色の。多分それです。こいつ――志貴が言ってました。喰われるから近付くなって」
そう言うと、先輩は瞠目し、次いで得心したように頷いた。
「それか……!翔君、その場所は分かるんだね?案内してくれ!ここはしばらくは大丈夫だから」
「はい!志貴、悪いけど、歩達に付いててやってくれないか?あいつは連中の事見えないみたいだから」
「……わかったよ」
「すまない。先輩、こっちです!」
上履きで走り難いのは承知だが、履き替えている時間は無い。俺と先輩は渡り廊下の側面から校舎を抜けて、全速力で校舎裏、そしてその先の裏山へと向かう。その間にも、未だ校舎内からは騒ぎが聞こえて来ていた。
そう言えば、嵯峨先生がC棟の被害が一番多いと言っていた。C棟は一番裏山に近い。そして開けられた窓からは裏山方向からの風が吹き込んでいた。そういう事だったのか。
「確か、こっちの方――――」
「!危ない!!」
方向が間違ってないか確認しようと、やや速度を緩めた刹那、先輩の警告が飛んだ。そして間をおかずに断末魔の悲鳴。振り向いたほんの数十cm先で、先輩が手に持っていた袋に払われた奴が一気に消え失せるのが見えた。
「す、すみません」
「構わない。君は奴らを呼びやすい体質みたいだし。それに連中、私達の目的が何なのか気が付いたようだ。私への忌避感はこの際無視ってところかな――――来るぞ!」
先輩の言った通り、つい先刻まで校舎に集中していた奴らの気配が、一気に俺達に向かって押し寄せて来た。その数はおそらく40〜50は下らない。
「手加減はするな!私はともかく、君の力は喰われると冗談じゃ済まないからな!!」
「はい!!」
最早先輩に理解できない事を言われても気にする余裕は無かった。俺が騎馬立ちで構えを取り、先輩が袋から木刀のような物を取り出す。そして同時に、立ち枯れた木々の間から奴らが襲いかかって来た。
(―――ギシャァァアアアーーーッッ!!)
サラウンドで頭にこびりついて来る声の勢いそのままに、奴らがその触手を鉄爪のように鈍く光らせて飛びかかる。
「ハァッ!!」
最初に飛びついて来た一体をしゃがんで避け、すぐさま手刀を繰り上げ貫くと、もう片方の腕と左足を軸にして右足で下段回し蹴りを放つ。その勢いに地を這うように襲って来た数体が巻き込まれて飛散、そのまま消える。
「フンッ!!」
すかさず回転しながら正拳を突き上げてまた一体倒し、反動をつけて左裏拳で中段を払ってやや間が開いたところで立ち上がりざま上段後ろ回し蹴り。それでまた数体が霧散した。
一年以上のブランクはあったが、体は思った通りに動いてくれる。息の揚がり方もひどくない。
数の多さ故に途切れないコンビネーション攻撃を放ちながら先輩の方を見ると、手に持った武器のリーチの有利を最大限生かし、一振り毎に数体を屠っている。左右の手に、武器を臨機応変に持ちかえて攻撃に転ずるその様は、豪快でありながら華麗。体重を感じさせない身のこなしで、しかし繰り出される閃光は凄まじい音と重みで空を裂く。剣神と評されるのも納得の剣捌きだ。
体は反射的に敵を倒し、目は思わず先輩の動きに見惚れていると、何となくその動きに見覚えがあるような気がした。
脳裏に一瞬、やや色褪せた萌黄色が翻る。
――ふと、その様が思い浮かんでからハタと気が付いた。
ん?あれ?そういえば、閃光って……先輩、その木刀!!
その時、先輩の右後方から、そっと近寄る影が目に映った。気配を落としてジワジワと接近していく。
先輩、気が付いてない!?
俺は眼前に迫った爪を躱しながら咄嗟に叫んだ。
――先輩を示すものではない、違う人間の名前を。
「楓、右―――ッ!!」
その呼びかけを聞いた先輩は、しかし何の躊躇いもなく右手でそいつを振り払った。いや、振り払ったように見えたが、実際は何かの光ががそいつを引き裂いたように見えた。目を凝らせばどこから取り出したのか、先輩の右手には鉄の短剣のようなものが握られている。
「まったくキリがないな!そっちは大丈夫か?」
連中の波が少しだけ治まったのを見て、先輩は俺の方に駆け寄って来た。
「ええ、俺は……っていうか先輩、その木刀って仕込み杖じゃないですか!どうしてそんな物持ってんですか!?」
「ああ、これか。友人からの餞別だよ。あいつ、暗器の類好きでね。好きなの持ってけって言うからこれ貰った。もちろん模造品だけど、案外役に立つもんだな」
「役に立つとかって、そういう問題ですか!?それに、その短剣みたいなの、それ苦無じゃないですか、ひょっとして」
苦無。忍者物などに出てくる日本の隠し武器の代表例だ。どっちの代物も一般の女子高校生が持ち合わせているものじゃない。少なくとも学校には持って来ないのが常識だろう。
「よく知ってるね。これはちょっとした訳有り品。――っと、第二波が来そうだな」
「!」
見れば校舎側から、まだまだ奴らが迫る気配が来る。本当に一体どれだけいるんだよ!?
「どうやらほとんどの端末は本体を離れてるみたいだな。翔君、例の桜の場所は判るんだよね?」
「はい」
「じゃあ、ここは私が引き止めるから、君は先に行ってこれをその幹に打ち込んでくれ。そうすればしばらくの間は連中を止められるはずだ」
そう言って先輩は右手に持っていた苦無を俺に渡す。
「え?でも――――つッ!」
渡された瞬間、一瞬だけ指に強い静電気を感じた気がしたが、すぐにそれは治まった。手に取ってよく見ると、その苦無がかなり古い物だと判った。観光地のレプリカなんかとは違う、ズッシリとした存在感が皮膚越しに伝わって来る。
これは本物の武器だ、そう直感した。
「ああ、悪い。でもそれが君を害する事はないから。さ、早く行って!」
「でも、先輩一人じゃ危険ですよ!?」
「近くにいると巻き込まれるよ。それに奴らを止めないと、歩君達も遠からず餌食になりかねない。そんな事態は嫌だろう?」
鶴の一声というか、とどめの一撃を口にされて、俺は渋々頷いた。先輩の言う通り、これ以上歩達に危害を加えさせる訳にはいかなかった。
俺は渡された苦無をしっかりと握って、先輩を見返した。
「――――分かりました。ここはお願いします」
「君も、頼んだよ」
先輩の『気』が変わった。それと同時に俺は地を蹴って、赤染桜の方へと駆け出す。
やや走ると背後の方で大気がひび割れたように震撼する強い気配が立ち昇ったが、俺は振り向かずにそのまま走り続けた。
無残だった。
ほんの数刻前まで、木々は生きる歓びを体現するように咲き誇り、枝を空に踊らせていた。まだ満ちていない緑銀の芽も、大地を覆う柔かな繊毛のような草花も、皆春の日差しの中で歌っていた。そう、ほんの数十分前までは。
けれど、今は。
瑞々しさの欠片もなく立ち枯れたオブジェが、無機質なほどに連なるだけだ。
春淡色の花は全て散り、腐った色で大地を侵食している。
過日に見た綺麗な世界の全部が、ただ一つの貪欲な存在に喰い尽されていた。
その死の世界の中心にある、ただ一本の櫻の樹に。
「マジかよ、これ……!」
俺は視界に赤い桜を捉えると、漂ってくる気配に思わず口を覆った。
先程の連中とは比べものにならないそれは、夥しい瘴気を放ってそこに在った。
桜に纏わりついた『気』。それが示すのは、底知れないほどの『陰』。
その奥深くに根ざした陰気の源は、言葉にするなら――――『怨念』と『貪欲』。
ゆらゆらと立ち昇る煙のような瘴気の狭間から、昨日より遥かに濃い色をした赤が覗く。綺麗なんて言葉は最早当てはまらない。ただ、おぞましさだけがその空間を支配していた。
「……何があったんだ、一体――とか言ってる暇はないか」
右手の苦無を握り直して呟くと、まるでその声が聞こえたかのように、瘴気がこちらを『向いた』。
形なんて定まっていない、ただ無形性を主張するだけの筈の瘴気が、鎌首を擡げるように俺を『見る』。
「……ま、そりゃそうだろうな。むざむざやられる訳にはいかないって事か。でもな、こっちだって同意も無しに喰われたりする訳にゃ行かないんだよっ!!」
鎌首が鞭のように撓って、襲って来た。そのスピードも尋常じゃない。
「くはっ!!」
かろうじて避けたものの、僅かながら余波が左腕を掠った。その瞬間、腕に妙な脱力感が走った。
「ちっ……これが志貴が言ってた『喰われる』って奴か?あんまり愉快じゃないな」
あんまりどころじゃない。脱力感と同時に、体中に虫が這いずった様な凄まじい悪寒が伴った。悪寒なんて表現じゃ生温いくらいだ。二度と食らいたくない気分だった。
「これならまだ、真夏の炎天下で校長の長講談聞かされてぶっ倒れた方がマシかもな――ッ!!」
軽口を叩く間も有らばこそ、奴の瘴気は次々と俺に襲い掛かり、それを避けるので精一杯だ。けど、こんなとんでもない状況では、軽口でも言ってないとやってられない。
なかなか幹に近づけない状況で、俺は数歩後ろに下がる。どうやら奴の手はそれほど長くは無いらしい、端末が無ければ届かないようだ。そしてその端末の気配は今のところここにはいない。多分近付けば端末さえも喰うんじゃないだろうか、何となくそう思った。
「端末――桜の花弁が、かよ。魅入るくらいなら可愛いもんだけど、こういうのは勘弁願いたいな。どうせならお互い幸せな気分で宴の季節を楽しんだ方が得だろ?」
力の抜けたままの左腕を押え、荒い息の間からぼやく。
それにしたって、植物だけじゃ飽き足らずよくまあ人間にまで手を広げられるもんだよ、こいつ。
≪人の『気』はそれだけ強いという事だ。『気』であろうと『念』であろうと、その力は尋常でないから――≫
ああ、そうだな。人に限らず動物は、行動範囲や接触する存在が多大な分、溜め込む『想い』も多いんだよな。
頭に響く声と自問自答しながら、桜を凝視する。赤く、黒く、うねるように大気を捻じ曲げる桜の樹を。
綺麗だと思ってた。
その、生への渇望が。
それが今はこの上なく醜いものに見えて、俺はそれがひどく哀しかった。
解ってる。
生きたいんだよな、お前も。
けど、そうまでしても生きたいのか?
そんな、哀しい姿になってまで、生きたいって思うのか?
『お前』は、そんなふうに生きたかったのか?
本当に、そんなふうにしか、生きたくなかったのか?
「………………?……な、んだ?」
見据えた先の桜が、僅かに揺らいだ。瘴気の狭間、赤い雲のような花弁の更に真奥から、何かが揺らいだ。
(―――……ス……テ…………)
「―――!?」
かすかに、声が聞こえた。
(―――……チ……ガウ……)
(―――……チガ……ウ…………ワタ……シ……ハ…………)
途切れがちに、弱々しく頭の中に伝わってくる、声の波。
チガウ―――そう幾度も繰り返し、そして最後に聞こえたのは。
(――――――ワタシヲ、トメテ)
――――ギャァァアアアアアッッッ――――!!!!
「!!」
確かに聞こえた言葉を遮るかのように、瘴気が絶叫し、その叫びと共に再び瘴気の触手が襲って来た。
「バカな、伸びてるッ!?」
咄嗟に横に転がって触手を避ける――が、その幅広い半透明の鞭は僅かに足を掠めた。
「グッ!!」
続く攻撃こそは防いだものの、足に走った脱力感は凄まじく、転がりながら抱え込むほどだった。背に当たった立ち枯れた樹の幹を頼りに必死で立ち上がると、桜は瘴気を宙にうねらせていた。何かに苦しめられているように足掻いている、そんな感じに見えた。
「何か知らないけど、あちらさんも現状には困ってるって解釈で良いみたいだな。……実はちょっと迷ってたんだけど、やる方が良さそうだ」
手に持った苦無を逆手に持って、痺れが取れてきた左手で柄尻を支える。足の方は……動かせなくはない。精神論者ではさらさらないが、根性で何とか出来る程度だ。
本当は幹に苦無を打ち込む事には抵抗があった。歩達の事があっても、それでもどこかで躊躇っていた自分を知っていた。
でも――。
違う、と。
止めてくれ、と言った。
かすかに、けれど確かにそう言ったあの『樹』が、あの瘴気の最奥にいる。
なら、俺は――やるしかない。
「少し痛いだろうけど、我慢しろよッ!!」
背後の幹を蹴った勢いを殺さずに、俺はそのまま桜に向かって突進した。
気がついたように桜の瘴気が俺に向かって来る。何筋にも分かれたその触手が、俺の走り抜けた空間を貫いていく。
紙一重で触手を躱しながら桜に肉薄した俺は、その節くれだった赤黒い幹に向かって苦無を振り上げる。
そして、全身の力を込めて幹に突き立てようとした、その時―――。
「駄目ェッッッ――――!!!」
風が、止まった。
いや。
そこにある全てのモノが、止まった。
振り上げた俺の腕が空中に縫いつけられたように、俺を襲う瘴気の触手も止まっていた。
あらゆるものの動きを押し止めたその声は、背後から、苦しそうな息遣いを伝えて届いた。
振り向いて認めたその人が誰か悟って、俺は目を瞠いた。
褐色のオブジェを掻き分けて現れたのは、一人の女性。
――――紗楽先生だった。
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