八・赤染櫻−二
 
 未だかすかに冷たさを引きずる朝の空気の中、教室に向かいながら朋花が心底驚いたような声を上げた。
「……はぁ〜!一体何をどうしたのよ、翔くん。あの志貴さんが自分から挨拶するなんて、ビックリだわ」
「別に何もしてないぞ。……大体、朝、学校でクラスメイトに挨拶するのって、そんなにおかしい事か?」
 すると朋花は大きく首を振りながら言った。
「だって、私の知ってる限り、志貴さんって自分から声かけるなんて一度も無かったわよ?もちろんこっちから挨拶すれば答えてくれるけど、それも一単語程度。さっきみたいに、挨拶以外に話題を出すなんて、すっごく珍しいんだから!」
「話題って……『いい天気だな』の一言だけだろ……」
「いや、だが実際彼女にしては珍しいぞ、翔。志貴さんはその美しさはもちろん、際立った無口さでもつとに有名なのだ。その辺りの徹底さぶりが彼女の魅力でもあるのだが」
 ウンウンと頷きながら東までもが朋花に同調するが、俺はそんなもんなのか?という程度にしか思わなかった。
 なんという事はない。単に今朝廊下であった志貴が、俺の姿を目にした際に「はよ、天原」と声をかけて来ただけの事だ。挨拶はコミュニケーションの基本。深い意味なぞある筈もない。
 しかして朋花も東も非常に驚いたようだ。朋花の言葉を聞くと、なるほど、とも思えるが。
 そして向こうから声をかけるきっかけと言えば……やっぱり昨日の事が原因だろうな。と言っても、あの会話でどうやったら友好度が上がるのかは俺にはサッパリ解らないが。
 そんな事を考えている横で、朋花がなおも言う。
「翔くんの中に何か志貴さんの心に訴えるものでもあったのかしら。出会いが出会いだもんねぇ。ドンとぶつかって始まる何とかってやつ?翔くんも隅に置けないな〜」
「んな訳あるかっての」
「何を言うか翔よ。人の心の襞や機微というものは、余人には解する事の出来んものだぞ。あんな傍目にも無礼千万な出会いでも、人によっては運命の出会いになっているやも知れんのだ。軽々しく判断するべきじゃないぞ。ひょっとしたら、志貴さんの心の中にはお前の面影が既に強く刻まれているやも知れんのだ。オレにはさっぱり理解出来ないがな」
「あのなー、お前も何そんな畳み掛けるように朋花に合わせるんだぁ?」
「もう……朋花も東くんも、翔ちゃんからかうのそれくらいにしておきなよ」
 呆れた顔で、それまで成り行きを見守っていた歩が止めに入る。
「あ、バレちゃった?」
「バレいでか」
 悪戯っ子な表情を浮かべた二人を軽く睨む。こいつらはこういう話で俺をからかうのが昔から好きときている。親友なりに俺のシスコンぶりを心配しての事かも知れないが、ま、9割方はオモチャだな。
「でも、私も珍しいと思ったな。志貴さんの噂は私も少し聞いてるけど、確かに自分から声かけるのって少ないって話だったから。始業式の日の事、謝り直したかしたの?」
 歩が小首をかしげながら訊いてきた。
「始業式の……あ〜、それは忘れてたけど。ただちょっと昨日……世間話って言うのか?それ、する羽目になったから」
「世間話?」
「ん。美術の時間に、ちょっと、な」
「そういや彼女も美術選択だったな。午前は見なかったけど、その時間は出席してたのか」
「いや、出席扱いにはなって無いんじゃないか?出欠取ってた時はいなかったし。どうやらサボって花見してたんだ。その場に偶然かち合って、そんでちょろっと桜の話した。その程度だけど」
 ……間違ってはいないだろう、うん。
「ふむ、確かに花に見惚れる気持ちは解るな。今年の桜も見事なものだからな。桜の木の下に佇む寡黙な黒髪の美姫一輪……絵になるなぁ」
「東くん、おじさんくさいよ、それ。……解るけどね。志貴さん、美人だもんねぇ。何て言うか、孤高の美女って感じ。深いところで凛としてるっていうのかな。ああいう人って憧れるなぁ」
 ホゥッと歩が嘆息する。そこには過日に見た昏さはなく、ひたすら同性の美貌に憧れる表情のみが浮かんでいた。
 俺は表面上呆れたように笑って、歩に言う。
「歩は歩で充分いい線行ってるだろ。他人と比べんなって」
「そう?」
「少なくとも、気立ての良さでは圧倒的に勝ってるし。しっかりしてるんだかボケてるんだか解らんところはそれはそれで面白いしな」
「ボケって……翔ちゃん!」
「ハイハイ、バカップルチックな兄妹ゲンカはそこまで。歩、教室こっち側」
「あ、うん。運が良かったね、翔ちゃん。でも……今日の夕御飯、楽しみにしててね?」
 にっっこりと笑って歩は予告の言葉を口にした。それはもう楽しそうに。そしてくるりと身を翻して、
「それじゃまた後でね、二人とも♪」
「え、あ、オイ歩!食事に復讐要素を入れるのは止めてくれ!」
 慌てて引き止めるが、歩はそそくさと逃げるように自分の教室に向かってしまった。
「……とほほ……あいつ、こういう事は凝るからなぁ……」
「ハッハッハ、自業自得だな、翔。まさに口は禍の元、オレはしっかとお前の冥福を祈っててやるからな。祈るだけだけど」
「……呪われるよりゃマシって事で、気持ちはありがたく受け取っとくよ。ホントは要らんけど」
 わざとらしくガクリと頭を垂れながら、俺は大きく息を吐く。なんか最近溜息が多いよなぁ、我ながら。
 いつまでも管を巻いている訳にもいかないので、俺は東を促して自分のクラスへ向かう。
 窓の外を見れば、朝特有の冷涼な空気を桜がやんわりと包み込むような色合いである。ここ数日くらいが見頃かな、と思いつつ視線をずらすと、職員用玄関に一台の車が横付けされた。左ハンドルの車の助手席から降り立ったのは、紗楽先生のようだった。運転席の男性に丁寧にお辞儀をしている。
「どした、翔?……あれ、紗楽先生じゃないか」
「ああ。自分の車、どうしたんだろな」
「車検じゃないか?先日それらしい事をお聞きしたぞ。知人の車に便乗させてもらう予定だと仰っていたしな」
「……お前ってホント情報早いっつーか……。将来は探偵になれ、いっそ。コックじゃなくて」
 空手一直線に見える東だが、意外にも(いや、お約束かもしれないが)特技は料理で、将来の希望職種はコックである。実はこいつの作る飯はかなり美味い。常々朋花が兄に対して嘆いている点の一つである。我が父に感化された部分が大きいとは本人談。もっとも直接的な動機は以下の奴のセリフ通りだが。
「何を言うか。探偵では女性に喜んでもらう事など出来んだろうが。第一オレのこの優れたスキルを埋もれさせるのは、料理界にとって大いなる損失だぞ……と、こちらに気がついたみたいだな」
 東の言った通り、紗楽先生は俺達の方を見上げてにっこりと笑った。俺も東も、応えるように会釈をする。
 ふと見れば、運転席にいた男性も、こちらの方を見ていた。歳は30代後半、遠目ではっきりとは判らないが、理知的な印象の受ける人だった。
 彼は紗楽先生に声をかけて二言三言交わしてから、再度俺達の方を見て、何故か軽く頭を下げる。つられて俺も頭を下げたが……知らない人、だよなぁ?まぁ、知らない人だろうと礼儀を守っておいて損はないと思うが。
 ややあって走り出した車を見送ってから、紗楽先生は玄関の中に姿を消した。
「ふ〜む、紗楽先生の恋人かな?なかなか好感の持てる面差しに見えたが。チタンフレームの眼鏡が似合うインテリジェンスな男のようだ」
「お前、この距離でそこまで見えたのか?」
「オレの視力は視力測定表では計り知れん奥深いものなのだ。大概の場合、男は視界に入ってないがな。今の場合は紗楽先生のお供と見えたから、認識したまでの事だ」
「ひどい話だなー。そりゃまぁ、俺だって男に熱い視線で見詰められるのなんて鳥肌モンだけどな」
 そして俺達はそんな他愛もない事を喋りながら、教室への境界線をくぐった。
 
 
「そんじゃ明日、土曜日の午後1時集合でOKだね、お花見〜」
 昼食を摂りながら、幼馴染4人組+美采の総勢五人で、恒例の花見の打ち合わせをしていた。明日は学校が休みなので、のんびり花見と洒落込むにはもってこいだ。天気予報もここ数日は降水確率0%……の筈。
「寝坊すんなよ、美采。お前放っとくと午後まで惰眠を貪るからな。モーニングコールは自分で責任持って仕掛けろや」
「イベント時に寝坊なんてしませんよーだ。ずまっぴってば、付き合い長いくせにまだまだ甘いのぅ」
「つまり、お前っていつもはまったく人様を舐め切ってる訳だな。あくまでも自分が楽しくなけりゃ、人を待たそーが何だろーが知ったこっちゃない、と」
「おっとペケちゃん、そりゃ聞きづてならないなぁ。いくら何でもあたしだって相手を見て行動するさね〜」
「それってやっぱり俺らの事舐めてんじゃねーか」
 俺達の会話を聞きながら、歩と朋花は横でクスクス笑っている。美采との会話ははっきり言って男女間の垣根を越えているようなもので、お互い全く気を使う事などしない。それぞれどこまでなら言っても許容範囲かが理解出来ているから成せる技、とも云える。
「――あ、そうだ。ねえみんな、思ったんだけど、綏月先輩も誘ってみない?」
 ふと朋花が口を挟んだ。
「先輩を?」
「うん。人数多い方が楽しいと思うし、何より先輩ともっとお話してみたいし」
「朋花、お前随分と先輩の事を気に入ったようだなぁ。確かにあの方ならば解らなくもないが、しかしお忙しいのではないか?」
 牛乳を飲みながら東が返す。
「でも、一緒にどうですか、って訊いてみるだけでも構わないじゃない?ね?」
「あたしも賛成。あの先輩ってタダモンじゃないよねー。何しろずまっぴの初対面の挨拶を、あんなにあっさり笑ってスルーしちゃえるんだから。それにさ、知ってる?転校一週間ちょいだってのに、下級生女子の間でファンクラブ出来てるんだよ〜」
「ファンクラブ……一体いつの時代の話だ、オイ。しかも女子って、ここ共学だろ」
「ん〜、でも解る気はするなぁ。綏月先輩って中性的で格好いいし。姿勢とか綺麗だよね、スラッとしてて」
「そう思うでしょ、歩も。一昨日だかもね、他校性に絡まれてる一年の子助け出して、一躍王子様扱いだってさ」
「王子様って……なんか間違ってないか、それ。――でも、誘ってみても良いかもな。こないだ見に行ったけど、かなり良い具合に咲いてたし」
「先輩がご迷惑でないようなら、オレには異存は無いが」
「じゃあ決まり!まだ時間あるし、先輩の教室まで行ってみようよ。善は急げって言うし」
 朋花が締めて、俺達はガタガタと椅子を仕舞いつつ立ち上がる。
 ぞろぞろと食堂を出て教室棟へ向かおうとすると、途中職員玄関の方から来たらしい嵯峨先生と会った。
「おや、皆さん。相変わらず仲が良いですね」
「ええ、まあ。先生は花見ですか?肩に桜の花びらついてますよ」
「ん?――ああ、本当だ。うん、今が一番見頃ですからね。週末を過ぎれば散ってしまうでしょうし、桜の下でお弁当というのも風情があるでしょう」
 その言葉が示す通り、嵯峨先生は左手に弁当箱らしき包みを持っていた。
「それじゃ、私はこれで。ああ、如月さん。手隙なようならちょっとプリントの印刷を手伝って欲しいんですが、良いですか?」
「え?あ、は、ハイ!――あ、じゃあ先輩誘うのは皆に任せるね〜」
「おう。じゃな」
 そう言って俺達は美采と別れた。
 窓の外で舞う風は、確かにあちこちから花びらを掠め取って来ていて、春の宴が週明けまでは持たないだろう事を予感させる。明日が休みだというのは大変幸運な事と言えるだろう。学校帰りにせかせかと観桜というのは哀しいからな。
「そういや先輩って何組だったっけ?歩、お前憶えてる?」
「えーと、確かC組だったと思うよ。柳瀬先輩が超好みの転校生が来たって喜んでたし」
 柳瀬先輩というのは、歩が所属している図書委員会の委員長。姐御肌な女性だが、多分に女好きな性分の持ち主で、その分男にはこの上なく容赦ない御方だ。幸いお気に入りの後輩である歩の身内たる俺にはそれほどキツクないのだが。
「そっか。――と、着いたな。歩、朋花、お前ら行ってこいよ。俺達はここで待ってるから」
 3−Cの教室前に来て、俺は二人を促す。いきなり下級生の男子が女の先輩を呼び出すのは、何となく気恥ずかしい。
 歩達は近くにいた女生徒に声をかけたが、どうやら先輩は在室していないらしい。何言か会話を交わして、すぐに戻って来た。
「いらっしゃらなかったのか?その様子だと」
「うん。飲み物買って来るって言って、食堂行ったんだって。すれ違っちゃった」
「授業終わったらまた来ます、って伝言お願いして来た。知ってる先輩だからちゃんと伝えてくれるわよ。なんかねぇ、ファンや剣道部の人がしょっちゅう来るんで逃げ回ってるみたいよ」
「あぁ、そういやこないだ会った時も部活の勧誘から逃げてたな。有名になるほど実力があるってのも大変だな」
「翔ちゃんだって去年の今頃は逃げてたじゃない。――とりあえず、先輩がいないんじゃ仕方ないし、戻ろっか。途中で会うかもしれないし」
「だな」
 この階には渡り廊下がないので、俺達は階段の方面へと歩き始めた。
 うららかな春の日差しが差す校舎内は、昼休みの喧騒で賑わっている。週末のデートの話、放課後の部活のミーティング連絡、午後の数学小テストのヤマの相談。ありふれた、けれど穏やかな昼下がりの一時。
 生き生きとした、たまにくたびれたような声の洪水があふれる中、俺は階下へ至る階段を一歩踏み出した。
 その時だった。
 
 ――――――――ドクン――――――――
 
 一つ、大きく鼓動が意識を支配した。
 同時に―――。
『キャァアーーーーーッッッ!!!!!』
 今まさに向かおうとしていた下の階の方から、女生徒の悲鳴が聞こえてきた。
「な、何!?」
 一歩後ろを歩いていた歩がビクッとしたように声を上げる。東と朋花も一瞬にして緊張する。
「今の、悲鳴だよね……?」
「うむ、しかもなにやら恐怖に満ちた悲鳴だった。女性の悲鳴とあれば放ってはおけん。翔、オレは先に行くぞ!」
「あ、ちょっとお兄ちゃん!」
 颯爽と駆け下りようとする東に朋花が声をかけるとすぐに、またも下から何か声が聞こえてきた。何かがドサドサッと崩れ落ちるような音も。
『うわっ、何だこれ!!』
『え!?何、何なの!?―――っ!!』
『ちょっと、しっかりして!どうしたの!?』
『う……っ……な、なんだよ、今の……!』
 恐怖、焦燥、疑問、不安、混乱。
 それらの感情が入り混じって、ただならない喧騒を伝えてくる。
「何だ……?何か起こってるのか?」
 そう呟くと、今度は同じような騒ぎが中庭を隔てた向かい側の校舎からも届いた。ほんの数秒、気を取られていると、また別の方からも同様に――。
「ど、どうしたの、一体何が……」
「解らない。けど、何が起こってるのか確かめた方が良さそうだな。――東!単独行動はするな。状況がつかめない中じゃ、俺一人で歩と朋花を守れるか判らない」
「そうだな、解った。朋花、オレの傍についてろ。一応周りに注意は払っとけよ」
「う、うん」
「歩、お前はこっちだ」
「うん!……でも、本当に何なんだろ……」
 数言交わす間にも、騒ぎは拡大している。俺達は警戒しながらゆっくりと階段を降りていった。
 窓が開けられ風が廊下に吹き込んでいる2階に辿り着き、周りを見渡すと、ここかしこに狼狽した様子の生徒に混じって、何人、いや何十人もの生徒が倒れ臥していた。
 そして倒れている人間は皆、外傷はない様だが蒼白な顔をして意識を失っている。
「な……っ!おい、一体何があったんだ!?」
 俺は近くで腰を抜かしている男子生徒に尋ねた。ガタガタと体中を震わせたそいつは、俺の顔を見てハッと我に帰ったようだ。
「おい!一体どうしたんだ?何で皆倒れてんだ!?」
「そ、それが、俺にもよく判んないんだよ。なんか、いきなり悲鳴、聞こえてさ、何だろと思ったら、周りにいた奴とか、バタバタ倒れてくんだよ。慌てて誰か先生でも呼ぼうと思ったら、廊下に出たら、やっぱ、皆、倒れててさ、俺、怖くなって、そしたら、なんか、変なの、見えてさ、慌てて、そんで……っ!!」
「変なの?」
「ああ、なんか、よく判んないけど、それ見たら、すっごく気持ち悪くなって、そんで、俺、俺ェ……ッ!」
「分かった、もういい。落ち着け……っつっても無理か。とりあえず深呼吸してろ、深呼吸。少しはマシに……」
 ゾクッ。
 突然、背後に何かの気配を感じ、背筋が泡立った。その気配を感じた瞬間、男は「ヒイッ!!」と叫んで気を失った。
 歩と朋花は……東と一緒に倒れた生徒達を廊下脇に運んでいる。まだ、この気配に気がついてはいないみたいだ。今のところ、感じる気配は一つだけだが、同じような気配は別の騒ぎの元からも感じられる。
 ……複数いる訳か、『コレ』は。
 俺は早鐘のように全身を支配する鼓動を極力押えながら気配を探り、拳を握る。
 油断は出来ない。少なくとも、歩達に矛先が向かないようにしなければ。
 ゆっくりと、少しづつ、体ごと背後を振り返る。後ろ手に男を隅に寄せながら、視線の先に捕らえたものは――――。
 
 『陰』だった。
 『翳』といってもいい。
 現実にはありえない、『モノ』。
 そう、それは――――――『妖魅』。
 
 …………妖魅、だって?
 何だよ、それ!?
 だが、実際目の前にいる『モノ』は、そう表現するしか無いものだった。
 開け放たれた窓枠に立つ『ソレ』は30pにも満たないのに、その本体らしき陰を覆う瘴気がユラユラと立ち昇って何倍もの大きさに見える。本体の形はどこか人のようでもあるが、捻れた輪郭と暗灰色のうねる様な表皮の色がまったく人とは異なると主張していた。
 
(―――ヨコセ)
 
「――は?」
 
(―――ヨコセ オマエノ ソレ ヨコセ)
 
「な…………!?」
 喋った訳ではない。突然、頭に直接響いて来た。皺枯れた響きで、頭の中に擦り付けられるかのように。
 
(―――オマエノ チカラ ワタシ ホシイ―――)
 
 !!!
 俺の『力』だって!?
 俺がその言葉の意味するものを悟った瞬間、奴は窓枠を蹴って俺の方へ襲いかかって来た。
 奴の影が触れる寸前、俺は咄嗟に横に転がってその手を逃れる。すぐさま体勢を整え、背後で生徒を動かしている東に叫んだ。
「東!!歩と朋花連れて逃げろ!!」
「え?どうした翔!?」
「翔ちゃん!?」
 俺の声を聞き止めて、歩が近寄って来ようとするが、俺は更に大声を上げてそれを制した。
「来るな歩!いいからとにかく逃げろッ!」
「翔!?――――ッ!お前、そいつは!?」
 東にも解った様だ、目の前にいる奴が、どんな危険な存在なのかが。
「話は後だ、早く二人連れて逃げろ!!」
 言い切らない内に、奴は再び俺に向かってその触手のような影を伸ばす。そのスピードは気配の重さとは著しく反比例していて、躱せたのが自分でも驚いたほどだった。よろけた身体を急いで立て直す。
「翔――分かった!二人とも、こっちだ!」
「え、でも東くん、翔ちゃんが」
「その翔が逃げろって言ってるんだ!今はとにかく安全確保が先だろう!!」
「でも――」
「歩、私達がここにいる方が危険なんだって!足手まといになるんだってば!」
 後ろで東達が遠ざかっていく気配を感じた。東もそういう勘の利く方だ、みすみす危険な気配の方には近寄らずに二人を守ってくれるだろう。
 だが、今はそれに気を取られている場合じゃない。二度も獲物に逃げられた奴は、ザラザラと引きずるような唸り声――声と言っていいのなら、だが――を立てて俺を見据える。汗が額を伝うのを感じた。
(―――ヨコセ)
 またも、奴が言った。
「……やれるかよ。少なくとも、お前には御免だ」
 何を求めているのかは解った。だが、自分でも訳が判ってないものを、ハイそうですかとくれてやれる訳がない。
 俺がそう言って我知らず口だけで笑うと、奴の気配は一気に凝縮した。
 跳躍する前の、一瞬の沈黙――そして、発露。
 影全体で覆い被さってくるその挙動を紙一重で躱し、俺は半身を捻りながら奴の本体部分に手刀を振り下ろす。
(―――ギャアァァッッ!!!)
 クリーンヒット。俺の手刀……いや、正確には手刀から吹き出した見えない『何か』が奴に見事命中した。
「まだまだぁッ!!」
 捻った体勢から即座に片足を振り上げ、回し蹴りを繰り出す。今度も的を過たず奴のどてっ腹の辺りを直撃し、奴はそのまま壁に叩きつけられる。
(―――ウギャァアアアッッ!!!!!)
 対象に当たって勢いを弱められた足をうまくバランスを取って地面に下ろすと、俺は再び構えを取った。
「何だよ。『これ』が欲しかったんじゃなかったのか?どうやらお前には過ぎた荷物だったみたいだけどな」
 ほんの少し、余裕が出た。
 通じるかどうかは判らなかった。だが、確かに奴にはダメージを加えられたようだ。今まではなるべく使わないようにしていたが、今はどうやら役に立つ。
 俺の……空手を辞めた原因が。
(―――キ……キサマ……ウグゥッ―――!!)
 奴はその虚ろに見える眼窩から血赤の光をぎらつかせた。
「まだ、来るか?容赦はしないぜ、今度はな。」
 挑発するように笑う。すると奴はギィ……と啼いた後、開いたままの窓に向かって駆け出した。
「チッ、逃げる気か!!」
 正直あまり相手はしたくないが、一体でも減らさない事には歩達への危険度が増す。何とかしてそれは回避したい。
 そう思ったのだが、奴は一目散に窓の方へ飛んでいく。
 くそっ、間に合わない!
 そう思った時、今まさに窓を越えようと宙に浮いた奴の横合いから、何か光るものが飛んで来るのが見えた。
(―――ギェェエエエェェェーーーーーーーーッッッ!!!!!!!)
 空中で凄まじい痙攣の波動と呻き声を挙げた奴は、一瞬にして掻き消えた。その跡の空間にチラッと刃の出たカッターが見えたが、それはすぐに引力に従って落下していった。
「……消えた……のか?」
 思わず呆気に取られていると、駆け寄って来る足音が聞こえた。その足音の持ち主を見ると、それは先ほどまでの捜し人だった。
「――綏月先輩!?」
「翔君、大丈夫だったかい!?」
 息を切らして、切羽詰った表情で先輩は訊いてきた。
「はい、俺は。今のカッター、先輩が?」
「ああ、とりあえず校内にあってもおかしくないのはあれだったからね。間に合ったようで良かった」
「間に合ったって……」
「東君達に途中で会った。ざっと聞いてすぐに来たんだが、まだまだ数が多い。無事なようなら私は行くよ。――まさか、こんなに早く動いてくれるとはね」
「ま、待って下さい先輩!」
 行きかけた先輩を慌てて呼び止める。
「さっきの奴、何者だか判るんですか!?あいつ、俺の……その、力が欲しい、とか言ってたんです。技かけたらかなり効いたみたいなんで、逃げられるとこだったんですけど」
 すると先輩は僅かに眉を顰めた。
「……君の力……そうか。翔君、何かあったら力を貸す、と言っていたね?」
「え?あ、はい」
「じゃあ早速貸してもらうよ、君の力を。本当は望まないところだけど、こうも派手にやられていると流石に手が回らない。話はあとだ、付いて来てくれ!」
 先輩はそう言って、駆け出した。俺も慌てて彼女の後を追う。遅滞の無い走りは、男の俺にも劣らない敏捷さで校内を駆け抜けていく。
「先輩!?待って下さい、どこに行くんですか!?それに、歩達はどこにいるんですか!?」
「彼女達なら保健室に行って貰ってる。あそこだけは確保したけど、手も場所も足りない。これ以上被害を広める訳には――っと、ここにもいたか!!」
 綏月先輩は突然立ち止まって、右手の教室に入る。俺も続いて入ろうとすると、いきなり目の前にさっきと同じ気配が飛び込んできた。
「うわっ!!」
(―――ギャアァァッ!!!)
 反射的に掌底を繰り出すと、上手い具合に当たったらしく、一瞬にして奴が消え失せる。一瞬ポカンとしていると、先輩の賞賛の声が聞こえた。
「上出来!――さ、しっかり立って!ここにいたら、また奴らが来る」
 先輩が奥の方で震えている何人かの生徒達を次々と引き起こす。それでも教室に倒れている数の方が圧倒的に多い。
「次行くよ、翔君!」
「は、はいっ!」
 訳が判らないながらも、俺は先輩の後に従って校内を駆け巡る。奴らを見つけると、その都度一体づつ確実に倒していく。そして無事な生徒を引っ立てるように保健室へと向かわせる。昼休み終了のチャイムが校内の喧騒を一層掻き立てていた。
 その慌しい短時間の内に、幾つかの事が見えてきた。
 生徒が、中には教師も混ざっていたが、彼らが多く倒れている辺りは、おおよそ窓が開けられている事。
 窓が開けられている辺りには、風で桜の花びらが多く吹き込んでいる事。
 奴らの姿を見た、というのは割と少数で、大体の生徒が何も見えずにただ倒れていったらしい事。
 そして、どうやら素手で奴らを倒せるのは、俺と先輩だけだという事。
 奴らが見えている生徒の中には、それなりに腕の立つ連中も混ざっていたのだが、誰一人連中には触れられず、ただ自分が触れられた時だけ異常な脱力感を感じたらしいのだ。救出した生徒の一人がそう口走っていた。
「――――!先輩、こっちにもいます!!」 
「わかった!」
 クラブ棟の一角、文芸部の部室内で女生徒に覆い被さる影を見つけて俺は先輩に示唆する。何故か先輩を見ると連中は逃げようとするので、俺はその退路を塞いで迎撃する役になっていた。今度も部屋に入った先輩から逃れるように影が女生徒から離れ、唯一の脱出路、つまり俺のいる部室入口のドアに向かって突っ込んでくる。
「――のやろッ!!」
 半狂乱に逃げてくる影に手刀を叩き込み、床に落ちたところで踵落としを喰らわせる。「グギャア!!」と耳障りな声を立てるとすぐに掻き失せる。既に数え切れないほど同じ行為を繰り返しているのに、まだまだ気配は外に溢れている。
「おい、大丈夫か!?しっかりしろ!」
 先輩が女生徒を抱き起こして軽く頬を叩くと、まだ意識があるようで、うっすらと彼女は目を開けた。
「あ……私……一体……。ま、はら……くん……?」
「気が付いたか、五十嵐。立てるか?立てるようなら保健室に行った方が良い。出来るなら付いてってやりたいが、そうもいかないんだ」
 女生徒は同じクラスの五十嵐だった。去年委員会が一緒で、比較的よく話す女子の一人だ。知った顔が覗き込んだのに少し安心したようで、すぐに目の焦点がしっかりしてきた。
「何だったの、今の……。何だか、物語に出てくる……そう、鬼……みたい感じだったけど……」
「喋らなくていいから、とにかく立って保健室に行くんだ。そこならまだ安全だから」
 先輩が遮って五十嵐を促す。五十嵐はフラフラとしつつも、立ち上がって俺達を見る。
「はい。その……助けてくれて、ありがとう……」
「気にすんな。ほら、早く行くんだ。気をつけろよ!」
「うん」
 どう気をつけろというのか判らないが、とにかく声をかけると五十嵐は部屋を出ていった。
「良かった、間に合って」
「ああ、でも、倒れた生徒達も大事には至らないとは思う。あいつらの能力では、そこまで喰い尽せない様だからね。さぁ、行くよ」
 先輩はそう言って部屋を出る。俺もすぐに後を追おうとして、何かが引っかかった。
『―――喰い尽せない様だからね―――』
 たった今、先輩が言った言葉の一部。
 その『喰う』という言葉が、どこかで聞いた様な気がして、ふと立ち止まった。
 誰かが、同じよう事を言っていた。
 そうだ、確か昨日、志貴がそんな事を―――。
 数秒の間それに意識を取られていると、横の廊下から人影が飛び出して来た。
「わっ!!」
「――チッ、テメェ、天原か!」
「……久賀!?」
 人影は久賀だった。どういう風の吹き回しか、こいつは新学期に入ってから、ずっと学校をサボりもせず登校していた。今日もそういえば居たっけか。
「テメェ、あの人はどこだ!?」
「あの人?」
 苦虫を噛み潰した表情で、久賀は俺に食って掛かる。同時にひどく焦っている様子も窺えた。
「とぼけんな!!あの人に何かあったらタダじゃ済まねェからな!どうせこれだってお前が引き起こした事に決まってんだからよ!!」
「何の事だよ!?あの人って、……紗楽先生の事か、もしかして?」
「それ以外に誰がいるってんだ!!」
「待て!」
 俺の胸倉に掴みかかろうとする久賀の腕を、横から綏月先輩が掴んで止めた。
「何だよ、テメェには関係ないだろ!」
「彼女なら保健室だ。今、病院への連絡や倒れた生徒の介抱で忙しい筈だから、君も行って手伝ってやってくれ。ここで喧嘩している場合じゃないんだ!」
「――本当だろうな?あの人は、無事なんだろうな!?」
「嘘を言ってどうする?早く行け!」
 先輩の気迫に押されたように、久賀は歯軋りの音を立てた後、彼女の手を振り解いて走り去って行く。
「ありがとうございます、先輩。また助けられちゃって……」
「いや、構わない。……彼の気持ちは何となく解る。行動は理解出来ないけどね。それに、どうやら彼も……いや、それよりもやっぱり数が多過ぎるな。本体の気配が紛れて見えない。このままだと本体の方が動き出しかねない。そうするともっと厄介な事になるな……」
「本体?」
「ああ、連中はいわば端末だ。操ってる親玉がどこかにいるんだ。仕方ない、翔君、一旦保健室に行ってくれ。私もすぐに追いかける」
「保健室にですか?一人でも大丈夫ですか、先輩?」
「ああ。奴らは私にはそうそう寄って来ない。今の内に何かしら武器になるものを見繕ってくる。それに君も、歩君達の無事を確認したいだろう?」
「はい、それは。――じゃあ、俺は先に保健室に行ってます。気をつけてください」
「君もね」
 先輩は再び身を翻して駆けり去って行く。俺は先輩の言葉の意味が解らないながらも、酷使している足を奮い立たせて保健室へと向かった。
 
 

 
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