十.赤染櫻−散華

 何故、あなたがここに――――。
 時間が止まったような空間で、俺は驚きの表情を隠せなかった。
 切迫した様子で現れた紗楽先生は、そのまま俺とその前にある桜を見つめていた。
「傷つけては、駄目」
 荒れた息の下から発せられた声に、ハッと我に帰る。
「先生!危険です、それ以上近付いちゃいけません!早く逃げてください!」
 桜は動きこそは止まっているが未だに生きている。自分の身一つなら守りきれるが、先生まで庇いきれるかは判らない。
 だが、先生は俺の言葉を聞いてもその場を立ち去ろうとはしない。
「……大丈夫、心配しないで」
 そう言って、ふと笑う。いつも浮かべている、優しげな微笑みで。
「お願い、傷つけないで。そんな事をしたら、本当に思い出せなくなってしまう」
「……思い出す……?」
 先生は息を整えて、一歩ずつ桜に近付いて来た。
「――先生!」
 その時、瘴気の触手が大きくうねって、俺にぶち当たろうとした。
「――――!」
「翔君!!」
 俺は咄嗟に後転でそれを避け、そのままの勢いで触手から逃れた。体勢を元に戻して再び苦無を構えるが、幹との距離がまたも開いた。
 くそ、リトライってか。
「大丈夫です、怪我はありません。それより早く逃げてください!」
 けれどやはり先生はその場を離れようとはせずに、俺の無事を確かめて頷いた後、桜を見据えた。
「お願い、傷つけないで!傷つけたら、あなた自身が壊れてしまう!それ以上惑わされたままにならないで!」
 桜に向かって、まるで人間に語りかけるように叫ぶ。意味が解らない言葉。解らないが、強い制止の想いだけは確かだった。
「先生――――!!」
「私は知ってるから。どうか思い出して」
 俺を無視するような形で、紗楽先生はなおも桜に向かって歩いて行く。ゆっくりとした歩みはしかし、恐怖を感じている様子ではなかった。
 そして桜の瘴気もまた、紗楽先生に向かって襲いかかる事はなかった。ただ樹の本体に絡まり、どこか戸惑っているふうに空を掻くだけ。
「……あなたの姿、知っているから。どうか見せて、一番綺麗なあなた自身を――――」
 瘴気にギリギリまで近付いて、紗楽先生はスッと両手を差し伸べた。誰かを抱き止めるような仕草。
 すると、注意深く見ていた桜の瘴気がかすかに違う色で揺らいだ。
「…………!?」
 揺らぎ、うねり、幾つもに分かれた瘴気が一つの影になり、大きな空気の固まりになる。
「……皆も憶えているわ。ずっとあなたを心配してた。もう大丈夫だから。――いらっしゃい」
 再び先生の面に微笑みが宿る。言葉に誘われるように、影が突然、矛先を紗楽先生に向けて振り落ちてきた。
「――――!先生ッ!!」
 そのまま瘴気に襲われ、倒れ伏す彼女の姿が脳裏に浮かんで、俺は駆け出した。この距離では間に合わないかも知れないが、突き飛ばせばあるいは――!
 だが、行動に移すその直前、視界に映る影が変化した。
 
 ……夢の続き、だろうか。
 信じられないものを、見ている気分だった。
 暗鉛色を混ぜた煙の形の影が、先生に近付くにつれ透き通る。
 白く。
 淡く。
 軽やかに。
 透きとおる。
 絹のような柔らかい空気に変化していく、朧気な影。
 桜の色だと、思った。
 山桜の、淡白い優しい色だと。
 
 黒い衣を脱ぎ捨てるように、螺旋の光に沿って形を変えていったそれは、一人の少女の姿を取った。そのまま、素直に紗楽先生の両腕の中に抱きついていく。
「!!…………何、が……どうして……」
 
 ……こんな光景を見た事が、ある。
 遠い、遠い昔に。
 無邪気に笑う少女と、彼女に抱きしめられて変わっていく存在。
 優しく、懐かしい夢のような現実を、俺は知っているような気がする。
 あれは、『何時』だ――?
 
 立ち止まり呆然とする俺の目の前で、紗楽先生は少女を愛おしそうに微笑みながら抱きしめる。
「ほら……思い出したでしょう?あなたの、一番深くにあったあなた。もう捕われなくても大丈夫。こんな事しなくても誰もあなたを一人にはしない。誰もあなたを傷つけたりしないわ」
 実体の無いはずの少女の影に囁き、その髪を撫でる。
 音も無く涙を流す少女が、僅かに先生を見た。その視線を受けて、先生がなおも言葉を続ける。
「皆が教えてくれた、あなたの一番綺麗だった頃。私も見てみたい。…………ねえ、笑って」
 囁きが止むと、光に包まれた影がふわりと立ち昇るように先生から離れた。
 ほんの少し天に溶け込むように微笑んで、そして――――。
 
 
 ――――――散華。
 
 
 少女の姿は掻き失せて、同時に一斉に桜の花弁が舞った。
 瞬きをする間もなく、赤かった全ての花が白に染まった。
 天に撒かれたような淡色の桜の一片一片が、まるで雪のように静かに大地に降り積もる。
 降り積もったその場所から再び芽生え出すのは、緑銀の生命。
 黒褐色のオブジェの群れは、瑞々しい色彩を蘇らせて、梢を揺らす。
 地を覆う草花は、さやさやとその腕を天に捧げる様に芽吹き出す。
 ……失われていた春の色が、静かに満ち戻った。
 奪われた生命が、豊かな温もりをもって舞い戻った。
 ほんの少しの間なのに、一帯が元通りになっていくのを、俺は放心して眺めていた。
「本当ね……とても綺麗……。…………良かった」
 幹にそっと触れた先生の声に我に帰る。
「先生、一体今のはどういう事、なんでしょうか……?」
 気を取り直して一連の現象を訊くと、先生の微笑みがほんの少し翳ったように見えた。
「……昔々、一人の男に恋をした桜がいたわ。その桜は山の神の娘で、人の姿をとる事が出来たの。二人は恋仲になり、里で幸せに暮らしていた。その頃、山には鬼が住んでいて、よく里に現れては人を襲っていたの。ある日、その鬼が里に現れて、男を襲おうとした。娘は男を助ける為に、封じていた力を使って逆に鬼を呑み込んだ。おかげで男も、そして里人も助かったけれど……それを見た里人が、娘が鬼の仲間だと言い出したの。ずっと鬼に怯えていた人々は、そういったものを強く忌避するようになっていたのね。男だけは娘を守ろうとしたけど、逆上した里人に殺されてしまって……娘は絶望のまま山に帰ってしまった。けれど娘の中には、呑み込んだ鬼がいた」
 愛しそうに幹肌を撫でながら、先生は続けて言った。
「人を喰う鬼、それはもともと娘と同じようなものだった。何かのきっかけでそうなってしまっただけ。けど、その生命に対する欲望は、愛する者を殺された桜の恨みや悲しみと混じり合って、やがて周りの存在を呑み込むものに変化していった。僅かづつ、徐々に、染み出すように。自分の本当の姿を見失うくらい、遠い時間の中で…………」
「……御伽話…………ですか?」
「…………そうね」
 未だ散華を続ける桜を仰ぎ、先生は呟いた。
「誰も知らない……そう、御伽話ね……」
 
 
「先輩、無事でしたか!」
 綏月先輩の姿を確認して、俺は安堵の声を上げた。
「ああ、そっちも上手くやってくれたみたいだね。いきなり連中が消えてくれたよ」
 かすかに息は荒いものの、余裕綽々といった感じで先輩が答えた。
「ええと、正確には俺は役立たずだったんですけどね。幹に近付くのが精一杯で。紗楽先生がいてくれたから何とか穏便に終わったようなものです」
「結城先生が?確かに先生が向かっていく姿はチラッと見えたんだが……何があったんだい?」
「それが俺にもよく判らなくて。ただ、先生を見たあいつが、変わっていったんです。戻ったっていうのかな、瘴気の塊から普通の桜に」
「変わった?……そうか、なるほど。でもその手段は私には無理だったし、結果オーライって事でいいか。で、当の先生は?」
「あ、はい、すぐに校舎に戻りました。俺は少し様子見てたんですが、何も起こらないようなんで大丈夫かなと思って。……あ、これお返しします」
「ああ」
 俺が持ったままの苦無を先輩に渡すと、先輩はそれを例の竹刀袋(仕込み杖袋か?)に入れた……ように見えた。
「一応私も様子を見ておきたいから、後で案内してくれると助かる。とりあえず今は校舎に戻ろう。歩君達も心配だし」
「はい。でも歩は大丈夫だと思います。東や志貴が付いてるし、それに倒れたとかそういうの、伝わってないから」
「伝わる?」
「あ、えーと……なんか、分かるんですよ。お互いの痛みとか感情とか、そういうのが。感応性っていうんですか?一卵性双生児にはたまにあるって聞きますけど、俺達の場合は極端に仲が良いからじゃないかって東が言ってました。ま、推測ですけどね」
「ふーん。なかなか面白い話だね。血縁的に双子じゃなくても繋がっている……か。そういうのも有りなんだね。ところで翔君。さっき私に呼びかけた時、私じゃない名前を呼んだよね?」
 言われて俺は思い出した。そういえばそんな風に呼んだっけ。
 おかしな話だ。『楓』と呼ばれる人物なんて、数日前に夢に出てきた女性しか知らない。少なくとも、容姿も何もかも違う綏月先輩に対しての呼びかけとしては不適当な事極まりない。
 しかしあっさり先輩が流していたから、大して頭に引っかかっていなかった。
「はい。……でもそれが、自分で解らないんです。先輩が危ないって思った瞬間、無我夢中で叫んでたんです。先輩の戦い方見てたら、他の知ってる誰かとダブったような気がして……って、俺、本当に訳解らないですね。すみません」
「謝る必要はないよ。でもそうか……その辺りは出て来る訳か。そこはまぁ仕方ないか」
 額に張りついた前髪を軽く掻き上げて、先輩は僅かに笑った。
「……楓、か。懐かしいな」
「え?」
「いや、何でもない。さ、校舎に戻ろう。多分皆の意識も戻ってると思うしね」
 そう言って先輩は俺を促して校舎に戻った。
 
 
 校舎に戻ると、喧騒は別のものに変わっていた。
 先輩の言った通り、連中に精気を喰われたらしき生徒はほぼ全員、意識を取り戻していた。倒れた前後の記憶が曖昧ではあったが、何とか病院送りにならずに済んだようである。大体の被害総数は、全校生徒+全教師の3分の2くらいだという話だ。
「桜が散ったと同時に蓄えられてた精気が元の持ち主に帰ったんだろう。取り込まれはしたものの融合まではいってなかったって事かな。多少のショックはあったとしても、皆後遺症も何もないはずだよ」
 先輩はそう言って、騒ぎの現場を眺める。
「……何だか先輩、色んな事知ってますよね」
「そうだね。知ってる事もあるし、知らない事もある。例えば今回の事件がどうして突然起こったか。そんなに精気を溜めて、一体どうするつもりだったのか。その辺はサッパリだな。とはいえ、怪しい先輩って印象だけはついただろうね」
 そう言ってクスッと笑う。そんな印象が付いたって気にもしないけど、というように。
「怪しいって……そりゃ否定はしませんけど、ね。でも多分後輩の、特に女子には、そういうのは少ないんじゃないですか?怪しい先輩どころか、むしろ感謝され好感持たれてる気がするんですけど。英雄扱いというか」
 生徒用玄関で上履きの土を落として建物の中に入ってから、保健室に至る道中。先輩の姿を見かけた生徒が次々にお礼を言いに来る。それも圧倒的に女子の方が多い。先輩言うところの『端末』の姿を見かけて真っ先に助け出したのが先輩だし、見事な飛び降りアクションなんぞも披露してたから、解らなくもないが……。
「先輩って、前の学校でも女子からモテてたんじゃないですか?」
「まぁそうだね」
 予想通りの返事。さもありなん。
「でもそれは私が女だからだよ。女は自分にとって危険じゃない者には甘いところがあるから。少なくとも、そういう危険はないからね」
 そういう危険というと……そういう事か。なるほど。
「おっ!綏月先輩、ご無事で何よりです!翔も健在そうで重畳重畳」
 俺達の姿を見つけて、東が保健室の方から走って来た。
「ああ、東君か。君も無事だったようだね」
「おう東、生徒の運搬ご苦労さん。朋花の具合はどうだ?目ェ覚めたか?」
 訊くと、東は実に複雑な表情をした。複雑といっても、どこかあっけらかんと云うか呆れてると云うか、まるっきり重みのないものだったが。
「それがなぁ。他の生徒達は大挙して目が覚めて、まぁそれはそれでいいんだが、朋花の奴はまだ寝てるんだ。何でもあいつ、昨晩ノリに乗って夜更かしして裁縫やってたらしくてな。一旦は目を覚ましたのだが、『まだ眠い〜』とか言って再度爆睡し始めてしまったのだ」
「おいおい」
「仕方ないんで、場所が空いた保健室で眠らせてもらってる。歩、それに志貴さんも付いてるぞ。それからこんな状況だし、午後の授業はお流れだ。病院から医師が来るんで、倒れた生徒を一応ざっと診てもらってから全員帰宅って事になるらしい。教師陣は早速今回の事故についての会議を設けてる。そんな訳で、とりあえず生徒は教室に戻ってろってお達しだ」
「そうか」
 事故……か。確かに『事件』と言うよりは座りがいいが、だがこの件は俺から見れば『事件』でしかない。
「ともあれ、歩達は保健室なんだろ?まずそっちに顔出すよ」
「うむ、それがいいぞ。歩のヤツ、見てて痛いくらいにおまえの心配をしていたからな。早く顔を見せて安心させてやれ」
「それじゃ私も同行していいかな。朋花君の様子も見ておきたいし」
「何とありがたいお言葉!朋花の兄として、先輩のお心遣い非常に嬉しく思います!ささ、どうぞご案内致します」
 ご案内も何も、同じ学校の生徒同士が同敷地内の保健室ごときで……と思ったが、こういう対女性仕様になっている東には何を言っても無駄なので、俺は内心で呟くにとどめた。この辺のセーブ加減が、友情を長続きさせるコツだ、うむ。
 教室待機命令が出ているとはいえ、さすがにこういう事件の後なので校内の雑然さは未だ収まらない。廊下を行き来する生徒も多く、先に進みにくい事この上ない――のではあるが。
「……何かあれだな、皆パニック引き摺ってるほどでもなさそうだな。割と落ち着いて動いてる気がする」
「それはおそらく紗楽先生のおかげだろう。真っ先にパニクってた連中をすぐに宥めてくれたんで、それが伝染せずに済んだのだ。集団心理が暴走しないで済んだからこそ被害も大した事が無かったんだ。それに他にも呆気に取られる事もあったしな」
「呆気に取られる事?なんだそりゃ?」
「久賀だよ。驚く事に、凄い形相で保健室にやってきた奴は紗楽先生に対して、生徒を運んで来る手伝いを自ら引き受けたのだ。それは勿論、かなり憮然とした表情ではあったが、それを見た生徒達の心境を思うとパニックになるどころではなかったろうな」
 俺は目を見開いて、思わず隣を歩く先輩の顔を見る。先輩は俺の視線に気付いて、ほんの少し苦笑した。
 アレか?もしかして久賀の奴、紗楽先生に気があるわけか?なんつーか……。
「確かにそりゃ呆気にとられるな……。まぁ騒ぎを助長させた訳じゃないから良いんだろうけど」
 ようやく保健室に辿り着き、扉を開こうと手を出したその時、ドアの方が先に横にスライドされた。
 出てきた女生徒を目に留めて、俺は数歩下がって道を開けた。
「……あんたか」
「ああ、志貴だったのか。今まで歩に付いててくれたのか?」
「付いてろって言ったの、あんただろ。もう用無しみたいだし、それじゃ」
「そっか……ありがとな、志貴。助かった」
「……別に」
 ほとんど表情も変えず、志貴はそのまま俺達の横を通り抜けて廊下の向こうへ去って行く。その後ろ姿を見送っていると、先輩が訊いて来た。
「確か彼女だったよね?本体が桜だって教えてくれたのは」
「ええ、はい。その……昨日そんな話をしたんです。詳しくは解らないんですが『自分は人より目がいいだけだ』って言ってました。その時は何を言ってるんだろうと思ったんですが……こういう事だったみたいですね」
 ついでに俺の事も何やら言い当ててはいたが、それは今は言う必要はないだろう。先輩は何か知っているというか感じ取っているようだが、何しろ横には東がいる。迂闊にあれこれ話せない。
「ふーん……。確かに常人とは違う気がするな、彼女は。本質は間違いなく人だけど。――志貴君、ね」
「あの……僭越ながら、志貴さんが人間以外のものに見えるとは思われませんが?それにどうも話が見えないのでありますが」
「ああそうか、すまないね。一言二言で話せる内容ではないから、今は聞き流してもらえると嬉しい。まとまれば話せる事もあると思うから」
「先輩がそう仰るのでしたら。――さ、どうぞ先にお入り下さい」
 あっさりと引き下がり、東は先輩を誘うように保健室へと手を伸べる。仕草こそは紳士的だが、学ランでそれやられても胡散臭いだけだぞ、東。もっとも先輩は何ら気にしたふうもなくさっさと部屋に進んでしまったが。
 美采の言ったとおり、別の意味でも只者ではないよな、綏月先輩も。
 そんな事を思いながら、俺も二人に続いて保健室に入った。保健室にはまだ何人もの生徒がいたが、ベッドを占領しているのはごく少数。朋花の他には倒れた際に頭を打ったらしい生徒が一人二人ほど寝かされているだけだった。保健の先生は保健委員と一緒に怪我人の手当てにまわっていて忙しそうだ。
「歩、朋花どうだ?」
 朋花の寝ているベッドに近付いて、脇に座っている歩にそっと声をかける。
「翔ちゃん!!――っと、いけない」
 喜色満面で振り返って、大声を出しかけた歩は慌てて自分の口を塞ぐ。上目遣いで恐る恐る俺を見上げてから、今度は静かに笑った。
「無事だったんだね、良かった……。大丈夫?怪我とかしてない?――うわ、制服土だらけじゃない。一体何があったの?」
「んーと、まぁ詳しい事はまた後でな。とりあえずピンピンしてるから安心しろよ」
 そう笑って、俺は歩の頭に軽く手を乗せた。……あ、ちゃんと手は洗ったぞ。
「……心配、かけて悪かった」
「……ううん、無事だったんならいい。帰ったらすぐにクリーニングに出さなきゃね、制服。いっそジャージに着替えて帰りに出して行こうか?」
「そうだなぁ。この際その方が早いか」
 手を戻して俺は横になっている朋花を見た。先輩もベッドの反対側に置かれた椅子に腰掛けて様子を窺う。
「……実に気持ち良さそうな寝息立ててるな、こいつ」
「そうだね。彼女も全然後遺症はないだろう。喰われるより中てられる方が時に始末に終えないんだが、この分だとその心配はなさそうだ。良かったよ」
 朋花の額にそっと手を乗せて、先輩が呟く。歩は何を言っているのか解らないようで、キョトンとした表情だ。東はと言えば前言通り、意味不明な事を言われても今は訊くまじという姿勢である。
「歩は……あいつらが見えなかったみたいだな」
「あいつらって……皆が言ってた、影みたいなの?幽霊か何かだって言ってた人もいたけど……」
 幽霊とは微妙に違うんだけどな。影だけならそう見えなくもないか。
「ああ」
「うん……皆騒いでたりしたけど、私何も解らなかったんだよね。少しだけ嫌な感じはしたけど、見えたり聞こえたりっていうのは全然なくて、その……だから逆に恐かったんだけど。朋花が倒れた時も、何だか解らなくて。志貴さんがあんたはここにいろって言って保健室に連れて来たから、後の事も全然」
「そうか……」
「見なくて済むなら、それに越した事はないさ」
 ふと、先輩が俺達、いや歩の方を見て語りかけてきた。
「中途半端に見えたり触れたりするとね、逆に火傷を負う事になりかねない。いっそ全然解らないくらいの方が、危険を近寄せない場合もあるんだよ。第一、見て気分のいい物じゃないんだし」
「そんなもの、ですか?」
「そういうものだよ。……もっとも、連中程度が本気で君達に手出しできるとは思えないけど」
「???」
 相変わらずの謎の物言いに、歩はすっかり混乱しているようだ。『君達』の中には俺、それから多分東も含まれているのだろうが、ニュアンス的には歩も数に入れているような気がする。
 今回の事件、それから俺の『力』の事やさっき叫んでしまった『楓』という名前を含めて、俺は先輩に話をもう少し訊きたいと思った。例の桜への案内ついでなら、何か聞き出せるかもしれない。
 それに何となくだが、先輩はそういう話をするのに最も信用できる人物だと、そういう気がしていた。
 俺は先輩に切り出した。
「先輩、歩達の無事も確認しましたし、一度あの場所に戻ってみませんか?何か変化が起きているかも知れないし、そうなっても俺じゃ対処し切れないと思うんで……」
「そうだね。早い内に見ておいた方がいいな。それじゃ悪いけど翔君、早速案内を――――」
 そう言って先輩が立ち上がるのとほぼ同時。
 空気の重さが――変わった。
 重く、冷たく圧し掛かるものに。
「どうしたの?翔ちゃん」
 突然変わった俺の顔色を察してか、歩が訊ねる。
「いや……今、なんか空気が……っ――――――!?」
 急に軽い耳鳴りがして、俺は頭を押さえた。すると、どこからか流れ込んでくるように声が響いた。
 脳裏に、直接。
 
    『知ら……ない…………ッ!』
 
 ―――!?
 今の声は…………志貴!?
 ひどく切羽詰ったような――――いや、何かをひどく怖れているような声だ。
 そう思った時、引き摺りこまれそうな、闇のイメージが突如として襲い掛かってくる、そんな気分に捕われた。
 そして聞こえてきた声は、志貴のそれではなく―――。
 
    ―――ソウカ……ナラバ、ヨウハナイ―――
 
    『――――――ッ!!』

 
「クッ!!」
 ブチッと、無理矢理回線をねじ切ったかのように声が途絶え、俺はその衝撃に思わず跪いてベッドにしがみついた。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
たった数瞬の事なのに、動悸が凄まじく胸を打つ。手の平を見れば一気に冷たい汗で湿っていて、呼吸も荒いものになっていた。
「翔ちゃん!?どうしたの、顔真っ青だよ!?」
「翔!?それに先輩もどうなさったのですか、そのようなお顔をなさって!」
 東の声に顔を上げて向かい側の先輩を見ると、彼女はどこか別の方向を向いて険しい表情を浮かべていた。さっきの桜の『端末』に対峙した時よりももっと真剣な、鋭い視線で。
「……まさか……!」
 ボソッと呟いて、先輩はいきなり駆け出してそのまま保健室を飛び出して行く。
「先輩!?――東、俺が追いかけてくる。二人は頼んだ!」
「え?あ、ああ、了解した!」
「翔ちゃん!?」
 歩の声に構わず、俺は先輩の後を追って保健室を出た。出て行った方向からして、おそらく今は人気のないクラブ棟の方だろう。さっきの空気の重さ、今は殆ど感じないがクラブ棟の方向から染み出してきたように感じた。
 大分人が少なくなった廊下を、俺は走り抜ける。
 嫌な気配。
 さっきの連中とは桁違いの、おぞましく強烈な悪寒。
 伝わって来たのはたった数秒の事だったが、それでも余波が大気にこびりついている気がしてならない。
 それ以前に、さっきの気配、アレハ――――。
「――――――!!」
 クラブ棟の一角を曲がったその場所に、綏月先輩が背を向けて立っていて、俺は慌てて立ち止まる。
 建材の影になって日の当たらないその一帯には先程の気配の残滓がゆらゆらと蠢いているように見えたが、それもすぐに溶けて消えてしまった。
 今まで見たこともない程に緊張した先輩のその背中に、俺は呼吸を整えながら声をかけた。
「先輩、一体、何があったんですか?」
 気配だけで俺が誰か判ったのだろうか、振り向かないまま先輩は俺に問い掛けてきた。
「……翔君。彼女の名前は確か、『志貴』といったよね?」
「え?彼女って、志貴、ですか?そうですけど……まさか、志貴が何かに巻き込まれたとか、そういう事ですか!?」
「迂闊だった。彼女の『気』と『名』からすぐにそうと察するべきだった。指先程度の事とはいえ、ここまで這い出て来れるだなんて、まったく油断していたものだな……」
 ギリッと音が立つくらいに拳を握り締める。焦燥の色が伝わってくるものの、やはり言葉の意味は解らない。
 
 イヤ…………『理解出来ナイ振リ』ヲシテイルダケデハナイノカ――――?
 
 ……どうなんだろう。もしかしたらそうかも知れない、だが――――。
「翔君」
 一瞬頭の中で自問自答しかけたところに、先輩が俺の名を呼んだ。
「は、はい」
「例の桜の所へ連れて行ってくれないか?ここにはどうやら手がかりになる物は何も残っていない。今日の騒動の原因の方を確実に沈静化させるくらいしか、今出来る事はなさそうだ。構わないかい?」
 振り返って俺を見る先輩の表情は、無。漂う気配も既に色を失っている。
 その視線を見返せば、潜むのは鋼のような研ぎ澄まされた静謐。
 ……手がかりと云うのが何を指すのか解らないし、あの気配に巻き込まれたかも知れない志貴の身も気になったが、先輩の強い視線から伝わる『何かを自らに課している者』の意識を感じて、俺は軽く頷いた。
 情報を得る事は必要だ。
 しかし、迫り来る現実の出来事を一つずつでも始末していく事が、今の自分に出来る最大限だという事も理解出来た。
「はい、分かりました」
 俺達は、再び校舎を出てかの赤染の桜の元へと向かった。
 

 
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