「…………枯れてる」
先輩と共に再び赤染の桜のもとに来た俺は、目の前の大木の変わりように目を剥いた。
数十分前、瘴気と共に確かな生気を発していたその桜の老木は、今や自らが黒褐色のオブジェとなり果てていた。花弁は一枚残らず散り失せて、当たり一面をまるで雪野原のように白く覆い尽くしていた。
「……もう、寿命だったんだろう。最後の最後で華を咲かせた、といったところかな。ちょっと傍迷惑な華だったけど」
樹を検分しながら、先輩が淡々と言う。俺も幹に触ってみたものの、そこに瑞々しさは感じられない。生きている植物なら、何となく気配が感じ取れるものだ。
「命の終わる最後の時、生物は途方もない力を生み出す事がある。本来持っていた『気』が強かったから、こんな事にもなったんだろうが……。かといって、こんなに大っぴらに発現するなんて滅多にある事じゃない。やはり何者かが煽った、と考えた方がいいかも知れないな」
「煽った?何のために?」
「さてね。単純に考えれば、それこそ精気を集める為だろうけど。…………とりあえず、これはもう器にすらならないただの枯れ木だ。そう遠くない内に朽ちるだろう。まぁでも、念の為――――」
「?」
不思議に思って見ていると、先輩は持っていた例の苦無を幹に軽く刺した。ほんの数ミリ、固定する程度の深さで。そして小さな声で何やら唱えたかと思うと、その刺した所から『何か』が静電気のよう広がって、樹全体を多い尽くし――パチン、と消えた。
その後はもう、古木特有の圧迫感すら消えてしまった。ただの有機物の殻があるだけだ。
「………………先輩……」
「分かってるよ。訊きたいんだろう?色々」
苦無を仕舞って、立ち上がりながら言う。
「私も君の『力』の事を詳しく訊きたいしね。情報交換といこうか。ただし、言えない事もあるからそれは勘弁してくれるかい?もちろん君も言えない事があるだろうから、その辺はお互いさま、ってことで」
先輩は世間話をするような気軽な口調で、俺に言う。その表情も、初対面の時のような友好的な微笑。
……なんか絶対俺の方が不利だと思うのは気のせいか?
詳しい事を訊ねても、大して教えてくれなさそうな気がするんだけど。
とは言うものの、全く手探りの状態よりは何かしらの情報はあった方がいいに決まってる。
小さな溜息を落として、俺は先輩に向き直った。
「……じゃあ、まずこちらから質問です。先輩は一体何者ですか?」
「いきなり面白い質問だね。何者に見える?」
「外見は人間ですね、どう見ても。けど、中身は一般人とかけ離れてる、そんな感じがします。性格とかそういうんじゃなくて、…………何と言うか、その……」
「オカルト臭い?」
「……正直言って」
「だろうね。確かにそっちの知識が浅いとは言わない。父が民俗学者でね、文化的な観点から神秘学の研究をしていたんだ。その影響で多少は。で、他には?」
「知識だけじゃない、と思いました」
「連中を倒した力についてかな?でも、その点は君も大差ないと思うけど」
「まあ、それは……」
……ううむ、どうやったら上手く答えを引き出せるのか判らん。余裕の微笑が実に侮れない。
「他には?」
「……以前言ってた『君達』に含まれる人物は?」
「君と、君の周囲の人々、かな」
「どうして、見ず知らずの俺にそんなことを?」
「それはノーコメント」
「……いつか教えてくれる予定は?」
「状況次第」
「その状況って、たとえば今回のような事がまた起こった場合、とかですか?」
「事件自体より、それにどう関与するかによって、だね」
「俺が関与するような事件……が、また起こりうる、という訳ですか?」
「さあ、それは判らないな」
は、話が進まん。
一番信用して話ができる人物だとは思うのだが、如何せん肝心の事に答えてくれない。散文的に聞いている俺の質問方法も悪いんだろうが、俺自身、自分のことについても上手く説明できる自信がないからなぁ。
しかしこの際、自分の事から先に言った方がいいかも知れない。口にする内に訊きたい事もまとまってくれるかも知れないしな。
俺は腹をくくって先に白状する事にした。溜息をついて、改めて先輩を見返す。
「……先輩、俺が空手部だったってのは知ってますよね?」
「え?ああ、そう言っていたね」
「俺が……自分の妙な力に気づいたのは、中学の頃、空手をやっていた時でした」
2〜3年前の記憶を頭の奥から引きずり出す。あれは県大会の準決勝戦だった。これで勝てば、東と決勝戦で勝負だな、と言って笑っていた、その試合。
途中まではいつも通りだった。地道な稽古に基づいて、相手の攻撃をかわし、隙を見て技を繰り出す。それだけの単純なアクションの果てに、決定打となる一撃を放とうとした、その瞬間。
自分の中から『何か』が漏れ出すのが分かった。
その『何か』は見事相手の防御をかいくぐった正拳の先端から、噴き出すように揺らいで相手を吹き飛ばした。
――と言っても傍目には、正拳突きにしてはやけに威力がデカイな、という程度のもので、相手のガードがなってなければこれくらい当然かというくらいのものだった。
だが、放った俺は呆然とした。
『視えた』のだ。
拳の形から解き放たれた、透明な、空気とは違う『空気』が。
呆然としながらも、その場は何とかしのいで東との決勝戦にも挑んだ。その大会中は特に同じ事が起きなかったからだ。稽古し過ぎで神経疲れてんのかな、と思った程度だ。
しかし、その後。時を経る事に同じ現象が何度も起き、しかも段々威力を増していった。ある程度は自分の意思で抑えがきいたが、試合中などで本気になってくるとコントロールできなくなっていった。
皆が強くなった俺に感嘆の声を送ったが、俺は逆に怖くなった。
『人を、傷つけるかもしれない――――』
それだけは、嫌だった。
見ず知らずの他人も、ましてや家族や友人達も。
傷ついていい存在なんて、何処にもない。
そう考えて、俺は高校進学を契機に空手を辞めた。
誰も傷つけたくない、ただその一心で。
「…………なるほどね」
「まさかあの連中に効くとは思わなかったですけどね」
「確かに日頃あんなのがうろちょろしてる筈がないしね」
「はい。……でも、俺が判るのはせいぜいこの程度です。これっていわゆる一つの超能力、って奴ですかね。物騒な種類だけど」
強がりを込めておどけたように言うと、先輩もからかうような顔で答える。
「オカルト的にいえば『霊力』って奴かな。他にも『神力』って言い方もあるけど」
「そこまで言うと胡散臭い事この上ないですね」
「まあね。……でも、そうだな。私のも似たようなものさ。生まれた時からある能力を持っていた。そしてそれは、どうやら一般人が余り持ち合わせていない能力だった。ただそれだけさ。……正確には、持ち合わせてないんじゃなくて、忘れてしまっただけなんだが、忘却した方は気が楽だろう。見えなくてもいいもの、聞こえなくていいものまで感じ取っていたら、ストレスも溜まる。もっとも私は忘れる訳にはいかないけど」
微笑の中に、鋭い光が宿る。自分に強く言い聞かせるような、こんな瞬間がこの人の中で最も謎な部分だと思う。
「それはどういう意味ですか?」
「……それもノーコメント」
「先輩……実はまったく話す気ないんじゃありませんか?」
わざとらしく大きく溜息を吐きながら文句を言うが、ちっとも効果がないようだ。
「言っただろう?意味不明のままでいられる事の方が良いって。理解できてしまう状況になる事の方が悪いってね。それは勿論情報が不足しているのは不安だろうけど、迂闊に情報だけ与えられて、それで自分を保てるかどうか――今の君に頷けるのか?」
微笑が消えた。真剣な瞳で俺を見据える先輩の視線には、少しも甘えを許さない厳しさがあった。
「………………」
俺は口を閉ざした。
……確かに、新たな謎が増えるだけかも知れない。
謎が増えて、翻弄されるのが俺だけなら構わない。いくらだって訊き出してやる。それで不安が晴れるなら。
だけど。
――本当に大丈夫?私に隠し事はしないでね。また妙な事が起こったら、絶対に一番に知らせて。一人で背負い込まないで。お願い。
歩。
お前だけは、巻き込むわけにはいかない。
いつも、誰より一番に俺を心配して、俺を気にかけてくれる、大切な存在。
あいつにだけは、心配をかけたくない。
そして今の俺が、圧し掛かってくるものを全て受け止められる状態にないとしたら――――。
今は、先輩に訊くべきじゃないのかも知れない。
そう思って押し黙っていると、先輩は気を抜いたように笑った。
「そういうこと。今はね、言えないんだよ。けど、状況が変われば必ず私の知っている事は教えるし、手助けもする。それは間違いない。この身に誓ってね」
「……先輩、やっぱりそれについてだけでも教えてください。どうして、会って間もない俺、いや、俺達に、そんなに気をかけてくれるんですか?」
俺がそう訊くと、先輩はわずかに目を泳がせた。どこか、何かを思い出すような表情で。
「……私は君に借りがあるからね」
「借り?……って、何ですか?俺、覚えがないですけど……」
――いや、ある……ような……?
「……初めて会った時、助けてくれただろう?」
「……え?初めて会った時……って、あ、ああ。あれですか?でも当然の事をしただけだし、借りなんて思うほどの事じゃありませんよ」
ナンパ野郎に絡まれている女性を助ける、そんなのはまともな思考とそれなりの行動力のある人間ならば何の不思議もないことだ。
しかし先輩は軽く首を振る。
「それでも、だよ。他には……そう、負い目があるから、かも知れないな。何にせよ、私の手が必要な時はいつでも呼んでくれていい。どんな状況だとしても、手を貸すから」
「どんな状況でも、と言っても……。それに、負い目って……」
「君が……いや、君達が平穏に暮らしているなら、こちらはそれで良かったんだ。けど、どうもそうはいかなくなりそうだ。精気を奪う以外に、もしかしたら見極める目的があったのかも知れないから」
言って先輩は枯れた桜を見上げた。
「見極める……?」
「だとしたら……連中が蠢動し始めたのも解る。今はまだ力が弱いからそれほど目立ってもいないのだろうけど、このまま同様の事が続けば、やがて探し当てるだろうな、君達を」
眉を顰めながら発せられた最後の言葉の複数形に、俺はギョッとした。
「――――――俺達!?どういう意味ですか?俺だけなんじゃないんですか?変な力を持ってるのは、俺しかいないはずです!!それに……先輩はもしかして、俺の力の事、もっと詳しく知ってるんですか!?」
「落ち着いて。君の事は……そうだね。知っている部分もあるし、知らない部分もある。『天原翔』という個人については私はよくは知らないけれど、『君』に至るまでの幾つかの事実に関しては多少は知っている、というところかな。でも、それは君も同じだよ」
「俺……に、至るまでの事実……?」
そして――俺も先輩の『何か』を知っている――?
「ああ。まあ、私も結構只者じゃないんだ。私は自分に課せられた役割があって、それ故に覚えている事が君より多いだけ。君だって思い出せば、ああそういうことか、と感じると思うよ」
「……思い出す……?」
「そう。たとえば……ああ、君がさっき、私を『楓』と呼んだ理由とかね」
「!」
驚いた俺に対して、先輩はにっこり笑うだけだ。
その笑顔を見ている内――俺は以前に見た夢をふと思い出した。
降りしきる桜の下、颯爽と過ぎる萌黄色の影。
弟を見るような顔でにっこりと笑う快活な女性。
そうだ、あの時の笑顔。あれは――――――。
ガサッ!
「――誰だ!?」
茂みが揺れて、足音が聞こえた。
誰かがいたのか?しかも――今の話を聞かれていた!?
緊張する俺だったが、先輩はそれほど驚いた様子もなく音のした方に目をやっただけだ。
「んな怖い声出すなって、翔。オレだって」
「――東!?」
悠々と歩を進めて現れたのは、誰あろう東だった。
「……お前……もしかして、立ち聞きしてたのか?」
「人聞きが悪いが、ま、結果的にはそうかな。歩がな、二人が心配だから追いかけてくれって。それでまあ付いて来たわけだが、何やら大切な話をしているようで声がかけられなんだ。申し訳ありませんでした、綏月先輩」
最後のセリフは先輩に向かって頭を下げながら。俺にはいいのか。
「いや、私は全然かまわない。翔君の方が気にするんじゃないかい?」
「東、俺は…………」
何かを言わなければ、そう思って口を開いた俺を、東は手を振って制止した。
「お前が空手辞めたの、なんか深い理由があるとは思ってたんだよ、オレ。あんなに楽しそうに稽古してたし、辞める時もションボリしてたし。でもま、さっきの話聞いて納得したさ。そういう事情だったんだな」
「……お前、結構前から立ち聞きしてたな?」
どうして気付かなかったのか。俺は頭を押さえる。余程自分の事で頭が一杯だったようだ。もっとも東の奴は自分の気配を消す、なんて特技も身につけてるからなぁ。
「気付かなかったお前が悪い。先輩はさすがにお気付きになられていたぞ。この長谷尾東、心より感服致しました」
再度先輩に頭を下げてから、東は俺に向き直る。
バツが悪そうな表情の俺を、東はしばし見遣っていたが、軽く息を吐いてから唐突に――俺の頭を殴った。
「イテッ!!――こら東、いきなり殴るな!」
「この程度で痛がるな、情けない」
威張るように言った後、東は腕を組んで俺を見下ろす。約7cmの身長差だ、胸を張られたらまったくもって見下ろされているようにしか見えない。
「言っとくがな、翔。お前がそこで辞めずに空手に固執するような奴だったら、オレはお前を軽蔑してるぞ。他人に怪我をさせてまで、自分がのし上がろうと思う奴だったらな。――だが、違かっただろ?」
そこで一旦息を切って、また続けて言う。
「それにだな、妖しい力がどうこう言うが、お前が持っているのはオレのこの優れた運動能力や頭脳と変わりない。もっと一般化すると、筋力や足の速さなどと同様の、いわば肉体に備わった道具だ。手段みたいなもんだ。道具や手段がどんなものであれ、目的や結果とするところがバカげた事でなければ、オレは他人を蔑視するつもりなんぞない。そこまで愚かな男だと思うのか?このオレが」
俺は目を見開いて東を見る。いつもと変わらない、飄々とした顔。
「大体、お前は余計な事を気を回しすぎだ。おおかた自分のオカルト臭いわけ解らん現象で、歩やオレ達を心配させたくなかったんだろうが、オレ達がそんな枝葉末節にこだわって、物事や人物の本質を見失うような奴らだと思うのか?だとしたら、とても拳一つでは済まさんぞ。――お前はお前、だろうが」
最後の台詞は、東らしい自信に満ちた笑顔で発せられた。
嘘偽りのない、いつも俺に向けて笑う時の笑顔。
それを見ているうちに、俺もつられたように顔を弛ませる。
「…………ったく、本当にお前って……」
……あっけない。
ずっと何年も悩み続けた俺の中の謎が、こんなに簡単に笑い飛ばされるなんて。
果報者だよな、俺。
歩のように心配してくれる存在がいて、東のように暗い気分を吹き飛ばしてくれるような存在がいて。
感謝の言葉なんて照れくさい……ていうか男同士で言うのは寒いから、口には出してやらないけどな。
…………サンキュな、東。
「フッ、感涙に咽ぶ気持ちは解るが、男の涙は男が見ても気持ち悪いだけだから泣くなよ。オレのこの胸はただひとえに女性の為だけに存在するのだからな」
「泣くかよ!つーかお前のむさくるしい胸板に飛び込むくらいなら死んだ方がマシじゃい」
「ハハハハハ、それは実に賢明だな。飛び込まれた瞬間に鳩尾に手刀を打ち込んでいたところだぞ」
そう言って軽く手刀を繰り出すフリをする。俺もそれをかわすフリをして、お互いに手を打ち合わせた。
「ヘッ」
「フッ」
お約束の友情確認シーンを繰り広げていると、横にいた先輩が実に可笑しそうな笑い声を上げていた。
「くっくっく……。まったく君達コンビは見ていて飽きないな。本当に変わらないったら――と、二人とも。ここにはもう用はなさそうなんで、そろそろ戻らないか?さすがに先生方も教室に戻っていそうだし」
「ああ、そうですね」
「了解致しました。それでは、何かあるといけませんので不肖長谷尾東めが先導させて頂きます。翔、お前はしんがりだ」
「ほいほい」
ちゃっちゃと仕切る東に従って、俺は先輩の後に付いた。先輩はあっさり東の先導を受けている。本当に、侮れん。
去り際、俺はもう一度桜を振り返った。
もはや何の気配も感じない、空虚な塊。先輩の言葉通り、そう長くない未来にボロボロと崩れてしまうだろう。
紗楽先生が言っていた御伽話をふと思い出す。
何の為に生まれたのか。
何の為に生きてきたのか。
気の狂うような遠い時間の果てに辿り着いたものが、最後に見せたあの微笑みだったとしたら――それは、幸せなことなのだろうか。
それが正しいかどうかは判らないが、けれど、そんなあり方もいいと思う。
生命の最後の一瞬にでも、己の心が、魂が、救われるというならば。
なんて、羨ましいことだろうか。
≪……私には、手に入れられないが――――≫
そんな気持ちで桜を見ていると、不意に幹の向こうで何かが動いた気がした。
何かが空間を押し開いて出て来たかのような、妙な感覚。しかし瘴気のようなものは感じない。
「……………?」
空気が揺らいだ。そして。
その揺らぎに乗って漂ってきたのは――――。
むせ返るほどの、血の匂い。
「――――――!!」
目を瞠る。視界に映った、その匂いの原因を確かめて。
「志貴――ッ!?」
突然叫んだ俺の声に気付いて、東と綏月先輩が振り向いた。
「どうした、翔君!――――――!!」
「――――――志貴さんッ!?」
二人の叫び声が背後から聞こえた。俺は咄嗟に志貴に駆け寄り、ヨロヨロとふらつくその身体を支えようと手を差し出す。
志貴の姿は、先ほどのこの場所の比ではなかった。
全身を染め尽くす、赤々とした血。
それは、顔は勿論、足や脇腹、体中いたる所から流れ続けていた。
体中に、傷がついているのだ。制服もボロボロで、あちこち破れている。
何よりも、一番目を引いたのは、右腕。
その場所には――本来存在するべき物が、なかった。
まるでなにかに噛み切られたかのように乱雑に千切れた筋肉と、そこから噛み砕かれたかのように突端を晒す骨。申し訳程度に制服の袖が覆い隠しているが、それすらも真っ赤に血塗られている。
右腕が、ないのだ。
二の腕の、途中から。
「志貴!しっかりしろ、俺が解るか!?」
自分の制服が汚れるのも構わず、俺は志貴を支えた。同時に彼女がそのまま倒れ込む。体につき従って揺れ落ちる長い髪も、血で塗り固められて普通よりも重い。
「東君、悪いが先生を呼んできてくれ!それから救急車だ!」
「はいっ!おそらくもう医者が着いたと思われますので、そちらも引っ張ってきます!!」
先輩が東に指示し、東がそれに従って校舎の方へ駆けて行く。
「志貴!?おい、志貴!どうしたんだ一体!?」
見れば、腕の傷と同様に、体についた傷は何かに噛み千切られたとしか思えないものだった。肉ごと噛み千切られ、千切られ損ねた部分は皮膚だけが剥がれて筋肉が露出している。脇腹なんか完全に抉られているといってもいい。そのスプラッタな有り様に俺は思わず息を呑む。
が、気持ち悪いとか言っている場合じゃなかった。
弱いのだ。
無意識に感じていた、志貴の持つ存在感が凄まじいほどに弱い。
それはまるで、さっきこの手に触れた桜のような――。
「………う……」
「志貴!?」
ほとんど意識がないように見えた志貴が、ごくわずかに瞼を開いた。
「気がついたか!?俺が解るか!?」
「……ま………はら……?…………ちが……う……、……おう……?」
――『 お う 』?
何だ、それ?
けど、今はそんな事を気にしている余裕はない。
「そうだ、天原だ。一体何があったんだ?この傷はどうして――!?」
そう訊こうとした時、力が完全に抜けていたはずの志貴が、残った左手で俺の制服を掴んだ。
「………きを……つけて……」
蚊の鳴くようなか細い声で、志貴は確かにそう呟いた。
「え?」
「……か……のじょ……を、まも……て…………」
「…………彼女……?」
「志貴君、しっかりしろ!」
たった数言、搾り出すように呟いた志貴の腕が、重力に従って下に落ちた。
「!?志貴!おい、志貴ッ!!」
叫んでも、揺らしても、頬をどれだけ叩いても。
そのまま志貴は動かなくなった。
流れ落ちる血だけが、地面の白に赤い斑紋を作っていく。
「…………何が、どうして……!?」
「――喰われたんだ。体ごと、彼女が持っていた全ての『気』を」
先輩が志貴の左手を取りながらポツリと言った。その表情は苦渋に満ちていて、見ているこちらも苦しくなるほどだ。
「――喰われた……?」
「逃げ出せたのは彼女だからこそだ。けれど、それが精一杯だったんだろう。……多分、他の被害者は逃げる事さえできなかったと思う」
「他の被害者……」
思い出したのは、ここ何年もの間起こっている行方不明事件。大部分の人間は戻ってきているが、少数はやはり戻って来ない。戻って来た人間も、極度の衰弱と行方不明期間の記憶の喪失を伴っていた。
あの事件と、今回のこの事件が、関係するって言うんだろうか?
混乱した頭をひねっていると、先輩が首を振りながら志貴の手を離した。
……それの意味するところは、一つ。
「……救急車より警察だな、呼ぶ必要があるのは。傷からいえば野犬の仕業って事になるかも知れないが、現場に居合わせたし、後で事情聴取されると思う。覚悟はしておこう」
そう言ってポケットからハンカチを取り出し、そっと志貴の頬に当て、傷になっていない箇所を綺麗に拭いていった。
「…………」
知っているはずの誰かに似ていると思った、志貴の顔立ち。
それは今も確かにそこにあった。
しかし、それは俺がもっとも見たくないと願った『彼女』の姿を映したようでもあった。
まるで、『あの時』のようだ。
白く、降り積もった雪。
一面を埋め尽くす、泣ける程に真白い世界。
そこに散らされた、椿のような、赤。
物言わぬ骸となって横たわる、大切な、誰より大切だった、唯一人の女性。
守れなかった。
今度こそ、守ろうと誓ったのに。
今度こそ、決して苦しめないと誓ったのに。
今度こそ、こんなふうに死なせたりしないと誓ったのに。
『……ごめんなさい、和真』
『……何故、お前が謝るんだ。守れなかったのは、俺だ――――』
『それは違う!私は……私が、姫様を……』
『いい、楓。お前のせいじゃない。お前は、姫様の望むようにしただけだ。そんな状況にしてしまった、追い込んでしまったのは…………俺の方なんだ』
「――――翔君?」
先輩の声が、遠い。
「――翔君!どうしたんだ!?翔君!!」
遠い所で、呼ばれているような気がする。
ああ、でも。
押し寄せてくるんだ。
いろんなものが、『私』から『俺』に、流れ込んでくるんだ。
だから、今は放っておいてくれ、楓。
目が覚めたら、ちゃんと向き直るから。
おまえにも。
そして――――『私』にも。
近付いてくる無数の足音を何処か夢うつつに捉えてから、俺は意識を手放した。
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