六・霞幻の夢
 
 今にも降り落ちそうな、花の峯。
 まろやかな空の色に添えられていながら、色が付いているのかと思う程に、狂おしく淡白い。
 距離故にその形も朧気なのに、大地から伸びる褐色の指先より放たれて、一片、また一片と雪のように舞う様が、手に取るように思い浮かぶ。
 ――そう、目を凝らせばその光景はすぐそこに繰り広げられていた。
「珍しいこと、花に魅入られているなんて」
 背後から、扉を開ける音も足音も立てずに、声だけが訪れた。
 簀子に座って外を見ていた俺はすぐさま振り返り、薄暗がりから現れた女に問うた。
「薫様の具合はどうだ?」
「もう平気。数日後には床上げできるって、お医師様が仰ってたわ」
「そうか……良かった」
 ホゥ、と息を吐き、再び遠く霞に見える桜に目をやると、隣に人の座る気配がした。目の端に少し着古した萌黄色の袖が入る。萱葺き屋根の影になって、ほんの少し薄暗さを混ぜていた。
「毎年の事だけれど、この時期になると熱を出されてお可哀想。いつも花の盛りが見られないとお嘆きだもの。あんたの持ってきた桜の枝、とてもお喜びになってたわ」
「それは良かった。喜ぶくらいに回復なさったのは何よりだ。……何だよ、何か俺の顔に付いてるか?」
 妙にニコニコしてこちらを眺めているので、俺はムッとしながら相手を見返した。
「別に。嬉しそうな顔をしてると思って」
「嬉しがって悪いのか?薫様が復調したのだから、当然だろう」
「悪いとは言っていないわ。私だって嬉しいもの。姫さまが元気になられる事も、あんたがそれで喜んでるのも、どちらも私には嬉しい事。特にあんたは出来の悪い弟見てる気分だから、何か色々と、ね」
「出来の悪い弟とは失礼な言葉だな。第一、俺とお前は同い年だろうが」
「怒るのは思い当たる節があるからかしら?」
 そう言って座ったばかりの彼女は、草履を引っ掛けて庭に下り立つ。存在を感じさせない軽やかさでするりと前栽の隙間を抜けていく。垣根の一郭、外に通じる扉の方に向かうのを見て俺は声をかけた。
「どこ行くんだ?」
「薬草を採りに、裏山へ。そうそう和真、大兼が呼んでいたわよ。また土岐が悪戯したみたい、その後始末かも」
「またか?まったくあいつも懲りない奴だなぁ。兄貴の土依の方は落ち着いてるのに。いい加減にうんざりして来たぞ」
「土岐を仕込んだのはあんたでしょ?ちゃんと面倒見なさいよ。ああ、あと和真」
 竹で編んだ戸を半分開いて、彼女はこちらを見て微笑んだ。
「何だ?」
「さっきの言葉、本当よ。私は姫さまとあんた、二人共笑っているのが好きなの。幸せそうに、笑っててくれるのが」
「……どうしたんだお前。花に正気を喰われたか?」
「ふふ、そうかもね。――それじゃ、行って来るから後は頼んだわ」
「ああ。気をつけていけよ、楓」
「誰に言っているの?」
 戸を閉めて、垣根越しにその姿が遠ざかるの見遣って、俺は溜息を吐きながら立ち上がった。
 
 
「…………ちゃん、翔ちゃん!起きなってば、もう」
「ン………………あれ?」
 重たい瞼を上げれば、そこには呆れた顔の歩がいた。ゆっくりと周りを見れば、そこは見慣れた居間で、俺はソファを占拠して横になっていた。
「まったくもう、まだ夕方は肌寒いんだからこんな所で眠ってたら風邪ひくよ?御飯も出来たし、いいかげん起きなさい」
「あ?ああ、もうそんな時間か。……なんか妙な夢、見た感じがするなぁ。変な感じじゃなかったけど」
「夢?例の……じゃなくて?どんな夢見てたの?」
「う〜ん…………春っぽい夢、かな。桜咲いてたし」
 妙に現実感があったが、嫌悪感はなかった。いつもの闇夢とは違う、暖かな、優しい空気の夢。
「ふぅん?桜かぁ、夢に桜が出てくるのって、何か良いよね。幸せな気分になるっていうか」
「だな。そういや桜の別名って『夢見草』だもんな。いい得て妙って言うか。…………あ、歩。毛布、掛けてくれたの、お前だろ?」
「え、あ、うん」 
「サンキュ」
 冷えないようにと気遣った歩が掛けてくれた毛布を手に、俺は笑った。
 返された照れたような微笑みこそが現実なのだと、自らに言い聞かせるように。
 
 
 自販機で買った缶ジュースを手に、俺は校内を何とはなしにぶらついていた。
 ぽっかりと空いた放課後の一時、風にほのかに桜の色でも混じったかのように、のどかな時間が流れていて、遠くから運動部の掛け声が響いてくる。それに混じって聞こえるのは吹奏楽部のチューニング音とコーラス部のハーモニー。
 あの食堂の騒ぎがあってから数日が経った。今のところあれ以上のトラブルには巻き込まれておらず、平和なものだ。好事魔多しな世の中だが、やっぱり平和が一番良い。ジジむさいと言われてもそれが素直な感想だ。まったく。
 窓越しに咲き初めの桜が見えるのに誘われるように、俺はふと昨日見た夢を思い出した。
 その時に思ったように、確かに強い現実感があった。始業式に見たあのビジョンと同じくらいに。違うのは穏やかさと、登場人物。ああ、場所とかも全然違ったっけ。なんか小袖みたいの着てたしな、あの、楓とか言う女の人。年齢的には20歳前後っぽいか。俺――と思われる男が言ってたみたいに、ずっと笑ってた。その表情がどこかで見たような気がして、それで引っかかってるんだよな。どこだっけ?
 現実感のある二つの映像に共通しているのは、俺がその登場人物の一人の視点に同化してる事だ。『八十彦』と呼ばれた人物。『和真』と呼ばれた人物。どちらも俺に近いような感じがした。
 した訳、だが…………訳判らないな、やっぱり。
 っていうか……これってまさかここ十数年流行ってる『前世』ネタとかそんなやつか?別に俺は現状に不満なんてないんだから、そんな逃避願望無いんだがなー。無意識下の意識って奴?おいおい。そんな美采がからかいそうなネタ、自分から考えつくなよな、俺。
 やれやれと頭を掻きながら、渡り廊下を通って下駄箱へと向かう。時間があるし、例の穴場の桜がどんなもんかと思ったからだ。そう考えて人気のない生徒通用口への廊下を進むと、向こうから3年の女生徒が歩いて来るのが見えた。
「やれやれ、やっと撒いたか……。ん?翔君じゃないか」
「綏月先輩?あ、こんにちは」
「ああ。こんにちは」
 女生徒は綏月先輩だった。先日の事件の翌日、再び食堂で一緒になった際に朋花が名前で呼んで良いかと訊いたところ、快諾を得たのもあって、俺達は彼女を下の名前で呼ぶ事にした。紗楽先生の言ではないが、基本的に名前を呼ぶ方が好きだからだ。
「どうかしたんですか?何か困ってるみたいですが」
「ああ、まあね。剣道部の勧誘がしつこくて。入る気はないって、何度も言ったんだけどな」
 溜息を吐きつつ、先輩は言った。
「剣道部、入らないんですか?」
 我が校の部活は武道系が強いと評判だ。女子剣道部も、個人で全国に行く生徒がちらほらいる。ただ団体戦はいつも今一歩の所で全国出場を逃しているので、綏月先輩がいればその夢が叶うと思うのももっともな話だ(東の情報によるとだが)。
「うん。事情は聞いたし、夏まででいいとは言うけれど、今はそちらに気を取られている場合ではないから」
 ほんの一瞬、先輩の表情が張り詰めたように見えたのは気のせいだろうか?
「何か……事情でも?」
「――これでも一応受験生なんだが?」
 苦笑しながら先輩が答えた。
「今まで武術に精を出していたせいか、学業は今一つでね。転校を機会にそちらに集中しようと思って。あまり多くの事を一度に出来ない性格だしね」
「ああ――なるほど。早い人だともう専念してますからね。あ、じゃあ推薦とかは狙ってないんですか?」
「その方法もあるけどね。そうだね……人には色々と事情があるという事さ。とはいえ、こう毎日追いかけっこしてたんじゃ向こうだって大変だろうになぁ。いい加減諦めて欲しいんだが」
「部長さんの気持ちも解りますけどね」
「それはそうなんだけどね。ところで、翔君は一体何をしてたんだい?鞄を持ってないようだし、これから帰宅って訳でも無さそうだけど」
 生徒通用口は校舎の端にある。だから、ここに来ると言う理由は外に出る目的以外ありえない。それを訊きたいのだろう。俺は正直に事実を答えた。
「歩を待ってるんで、時間潰そうかと。あいつ、今日は委員会なんですよ。一人にすると、この前みたいに絡んでくる奴がいると困るし、最近この辺妙な事件が続いてるってのもあるし。いわばボディーガードみたいなもんですね」
「ああ……その話は確かニュースで聴いたよ。何でも、既に100人以上が一時的に行方不明になってるんだって?大部分が数日後に記憶障害と衰弱を伴って戻ってくるとか何とか」
 先輩が眉を顰めた表情で訊いて来た。ここ数年テレビやラジオでも報道されているから、さすがに耳には入れていたのだろう。
「はい。この市も範囲に入ってるんですよね。大体狙われるのが一人で行動してる時で、しかも女性の比率が多いって事だから、迂闊に歩を一人にさせられなくて。本人出好きだから、解っていても残念そうですけどね」
 ちなみに東と朋花の場合だが、朋花が手芸部所属の為、東が部活が終わるのを待って兄妹で一緒に帰る、というパターンになっている。朋花も小動物系の可愛さ故にナンパ男に声をかけられる事は多いので、勢い兄二人は妹達の騎士(下僕?)を務めている訳だ。
「ふぅん。確かにそんな状況ではね。でもおかしなものだね、こんな内陸部なら一時的とはいえ人を攫ったとすれば誰かが目に留めそうなものなのに。もっともここ数年でって事ではないんだよね、この事件。10年位前から、ちらほらそんな話を聞いた気がするし」
「そうですね。ただ、この街の周辺では割と数が多くなってるっていう事なんで、先輩も気をつけてください。……正直、こんな事件が続いてる場所に転校してくるの、珍しいと思ったんですよ。親御さんの転勤か何かですか?なら仕方ないけど。この辺りって割と仕事絡みの人の出入り多いし」
 そう言うと、先輩は少しキョトンとしたような顔をしたが、すぐに表情を戻した。
「転勤と言えばそうかも知れないな。一応辞令も出た事だし。来たのは片方だけど」
「?えーと、それは、片方の親が転勤でこっちに来るから、それに付いて来た……って事でいいんですか?」
「まぁ、それも色々事情があるという事で」
 どうやらこれ以上詮索されたくないようだ、先輩は困ったように笑っただけだった。ならこれ以上訊ねるのも失礼というものだろう。コミュニケーションには引き時も大切だ。
「ところで、時間を潰すって言ってたけど、どこで潰すんだい?外に何か面白い場所でもあるとか?」
 話題を戻して先輩が言った。俺は校舎裏の例の穴場について説明した。
「そうだ、時間があるんだったら先輩も行ってみますか?歩の委員会さえ終われば、一緒に送って行きますよ。さっきも言ったけど、女性の一人歩きは危ないですから」
 たとえ剣術の達人だろうと、得物がない状態で大人数に取り囲まれればどうなるか知れない。先日のようなナンパな連中なら、先輩一人でも余裕で片付けられるだろうが。
 そう言うと、先輩は自信有り気に笑って俺を見た。
「心配してくれるのはありがたいけど、それは杞憂だよ。私に手を出すなんて、連中にそんな力量はない。少なくとも、今の処はね」
 笑顔の中に、僅かに鋭い光が宿って見えたような気がした。後半部分は、俺に言っているというよりも、自分に対して確認しているかのような物言いだった。
 それにしても……『連中』?『力量』?『今の処は』?
 時々、この人の言う事は解らない。どういう意味なんだろう?
「散策ついでに探検もしてるから、一人の方が落ち着けるというのもあってね。大丈夫、まずそうな場所には近寄らないし。それに私の特技は剣道だけじゃないからね、上手くやるさ」
「……そうですか?それなら、いいんですけど。あ、でも東じゃないですけど、何かあれば俺も力になりますんで」
「そう?確かに君もかなり腕は立ちそうだしね。見たところ、東君と大差ない実力の持ち主に思えるんだが。中学までは同じ空手部だったんだって?」
「え、ええ、まあ、空手はやってましたけど、実力の方は怪しいですよ。もう1年以上、やってないし……」
 ふと、辞めた理由を思い出した。他人には理解できないであろう理由。
 言える筈がないんだ。こんな――言ったら気のせいだと笑われてしまうような、妙な理由。
 『それ』がなぜ起こるのか、判らないままで人を傷つけかねない事をしている訳には、いかなかったのだとは――。
「……どうやら君にも、訊かれたくない事が幾つかあるみたいだね。なら、無理には訊かないさ」
 少しの間黙り込んだ俺の様子を見て、先輩が明るく言った。
「あ、いや、何ていうかその…………すみません」
「謝る必要はないよ。人にはそれぞれの思いや秘密がある。それを暴いたところで、何も残らない。ただ訊いた側が自己充足するだけさ。良くも悪くもね」
 良くも、悪くも…………か。確かにそうだな。
 紗楽先生と両親の関係、綏月先輩の『事情』、そして俺自身の『秘密』。決して必ずしも知ったからといって良い結果が出るとは限らないんだ。
 ……けど、一つだけ疑問に思っている事、それだけは訊いてみたかった。
「――それじゃ、私はそろそろ帰るとするか。剣道部の子達も追いかけて来ないみたいだし、暗くなると心配してくれた翔君に悪いしね」
 そう言って、先輩は階段のある方へと向かおうとした。
「あ――先輩!」
 慌てて俺は声をかける。その声に振り向いた先輩は、ん?というように俺を見た。
「何だい?」
「その……訊きたい事があるんですけど。えっと……先日食堂で言った言葉。あれ、どういう意味なんですか?」
 ここ数日、ずっと不思議だった。
 何故、ほぼ初対面のはずの人に、突然「今、幸せなのか」と訊かれるのか。
 どうしても理由が判らなくて、スッキリしなかった。
「言葉通りの意味だよ。他意はない」
 先輩は表情を崩す事もなく、さっきまで話していた時に浮かべていた微笑のまま返した。
「でも、訊かれる理由が判りません。……君達、と複数を差していた理由も。そこに含まれるのが、誰なのかも」
「それは……。その理由は、そう、知らないならそれに越した事はないんだよ」
「え?」
「私はただ確認したかっただけなんだ。『そう』なのか『そう』でないのか。『そう』であれば何の問題もない。このままただの先輩後輩と言う形で付き合えば良いだけだから。けれど、『そう』でなかった時は違うから。それだけでは、済まなくなるかも知れないからね」
「?あの……やっぱり、よく解らないんですけど……?」
「そうだね。だから、本当はそれでいいんだ。意味不明のままでいられる事の方が。理解できてしまう状況になる事の方が悪い。今はそれだけしか、言いたくないし、言えない。君が疑問に思っていてもね。――――だから、今はこのままで良いんだよ」
 そこまで言って、彼女は俺に背を向けた。
「……先輩…………」
「安心していい。私は……ただ、守りたいだけなんだ。――――じゃあ、また」
 守りたいだけ?
 何を、と訊こうとする間もなく、先輩はその場を立ち去ってしまった。
 俺はしばし今の謎の会話に囚われていたが、外から吹き込むまろやかな風に起こされたように自分が何をしようとしていたかを思い出して、靴を履き換えて校舎を出た。
 
 
 ザッザッと、足元の砂を磨くように歩きながら、俺は考えていた。
 知らなくていい、と言った先輩。守りたい、と言った先輩。
 何を知らなくていいというんだろう。何を守りたいというんだろう。
 解ったのは、先輩の言葉や態度から、彼女が決して俺たちに危害を加えるつもりであんな事を言ったのではなさそうだ、という事くらいだ。言い換えればほとんどが謎のままと言っていい。
 そう、全てが謎だ。この短期間に出会った人達の全てが、謎に包まれている。あからさまに敵意を向けて来たのは久賀だけだったが。
 そして、同様に自分自身にも謎はあった。歩達にも簡単には言い表せないような『モノ』。立て続けに観たビジョンといい、空手を辞めた直接の理由といい、謎と言ってしかるべきものだろう。
 一体何が起こってる、いや、起ころうとしているんだ?
 吹く風は相変わらず柔らかい春の音を鳴らしているのに、頭の中は混乱していた。混乱の中で何か得られるものがあるような、けどすぐに通り抜けて捕まえきれないような、そんな気分。
『知らないなら、それに越した事はないんだよ。今は、それでいいんだ』
 先輩の言葉が蘇る。
 そうなのか?本当にそれでいいんだろうか?
 既に何かが動き出してしまっているんじゃないのか?動き出してしまっタカラ、ココニ来タノデハナイカ?ダトスレバ油断スル訳ニハイカナイ。アイツヲ守ル為ニハ――――。
(……だが、未だ『刻』は来ていないんだ…………)
 そう、『刻』は来ていない――。
 得体の知れない焦燥感は消せないまま、目の前に差しかかる小枝を避ける。
 避けた先、やや前方に日溜りができていて、目的の場所に着いたのだと悟った、その時。
 両脇に根ざした桜の樹が芽を綻ばせたばかりの梢を差し伸べるその下に、一つの影があった。
 ほのかに色が宿った、空間の一欠片。そこにいたのは――――。
「……紗楽、先生…………」
 背を向けていた柔らかい影が、俺の呼び声に応えて人の形を取ったかのように振り向いた。
「え?……翔君?」
 突然背後から現れた生徒に驚いたものの、すぐに穏やかな笑みに変わる。
「どう、したんですか、こんな所で……」
「疲れたから、少し休憩しに来たの。さすがにずっとプリントや書類とにらめっこじゃね」
 ふふ、と声を立てて笑う先生の様子を見て、俺はつられたように笑った。始業式から一週間が経とうとしているが、未だに紗楽先生の多忙ぶりは変わらなかった。仕事に対する責任感が強いんだろう、雅先生が「もう少し先輩も手を抜けば良いのにねぇ」と教師らしからぬ事を言っていた。
「ここの桜、とても綺麗だって聞いてね。でも満開時に来れるかどうかは判らないし、見られる内に見せてもらおうと思って」
「よく判りましたね。――あ、雅先生に聞いたとか?」
「雅ちゃん?」
 紗楽先生は何度か目を瞬いたが、すぐにああ、という風に笑う。
「……そうね、そんなところ。翔君も、桜を見に来たの?」
「ええ。ここ、すごい穴場なんですよ。だから今年はここで花見でもしようかって仲間内では話してるんですけど」
 桜を見やる振りをして、先生から目を逸らす。さすがに短期間でも毎日顔を合わせているから多少は普通に応対できるようになったのだが、それでもまだ彼女を直視できない自分がいた。
 この理由も判らないままだ。彼女に感じるのは穏やかさ、暖かさでもあり、罪悪感でもあった。最後の一つがどうしても、今の俺には思い当たらず、それがまた先生と距離を置きたがる原因の一つにもなっていた。
 もっとも有言実行型の東に巻き込まれて、手伝いやらで接する機会は結局のところ多いのではあるが。
「そうね、社会に出るとどうしても付き合いでって事が多いから、親しい人達とはこんな場所も良いかも知れないわね」
「先生は桜、好きなんですね」
 俺の挙動を気に掛けた様子もなく、傍らの大樹の幹に手を掛けて楽しそうに頭上の枝を見上げる彼女に訊いた。質問というよりは確認だな。桜が嫌いな日本人というのは、とりあえず今まで生きてきた中では会った事がない。
「そうね……他の植物も動物も、皆好きだけど。でもやっぱり一番好きなのは桜かしら。桜と言うより……桜の咲き始める、この季節。……そう……あの時もまだこれくらいしか咲いていなかったのよね…………」
 セリフの後半はどこか大気に消え入るようで。どこか霞のように、おぼろげで。
 まだ紅味の残る枝の先々を見ていた俺は、ふと、先生の方に視線を戻した。
 暖かい日差しが降り注ぐ、僅かに蒼天に開かれた場所。立ち昇る土の香りも、温もりを漂わせて移ろいゆく。
 地面を覆うように、幾重にも伸ばされた萌黄色の絨毯と、その中に控え目に揺れる、小さな花々。弾けるように生まれてくる淡い桜の天蓋が守っているのは、ただ一つの光。
 
『おひさまがすわったあとみたいで、あたたかいでしょ?』
 
 懐かしい声が、した。
 桜の枝が揺れて、まるで桜襲を纏わせたかのように彼女の姿に重なる。
 かすかな逆光を浴びた横顔に映ったのは、春を告げる真白き姫。
 あどけない表情をして、汚れのないどこまでも澄んだ存在が、そこには降り立っていた。
 何も言わない俺に気がついたのか、彼女はゆっくりとこちらを見た。顔を向けながら、ふわりと笑う。
「どうかした?翔君」
 微笑む彼女の顔に、かつて失ったいとおしい面影の残照が――――よぎった。
 
 
     ……………………ただよりさま。
 
 
 笑顔の中に込められていた『何か』が、形になって響いてきた気がした刹那。
 俺は、無意識に動いていた。
 それは自分の中でどこか忘れていた部分が、その時だけ急に覚醒したかのような、そんな感覚だった。
 その感覚が、しばし俺の行動と時間に対する認識を奪って、表に出てきたような気が、した。
 何よりも懐かしいもの。
 何よりも暖かいもの。
 何よりも優しく、愛おしいもの。
 焦がれるように求めていた光に逢えた記憶が呼応したかのようだった。
 その瞬間、『俺』はどこかに消えていた。
 




 …………そんな感覚に、どのくらい陥っていたのだろうか。
「……翔君、どうしたの?…………泣いて、いるの?」
 不安そうに訊ねる声で、俺はハッと我に帰る。
 気がつけば、俺は紗楽先生を抱きしめながら、我知らずボロボロと涙を零していた。
  
 …………………………………………………………。
 …………………………………………………………。
 …………………………………………………………。
  
 ――――っだあああぁーーーーーーーッッッ!!!!!!!
 何やってんだ俺はーーーッッ!!!
 ボロボロ泣くのはまだいいとして、いきなり無意識に女教師抱きしめてるってどういう事だよ、オイ!!
 ほとんど、っていうか、完璧にただの女たらしか変質者じゃないか!!
「っす、すみません!!!」
 慌てて先生を解放する。
 解放された先生は何とも読めない複雑な表情をしていた。
 そりゃそうだよな。会って一週間も経ってないのに、いきなり何の前フリもなく自分の生徒に抱きしめられりゃ、どんな大人だって混乱もするだろう。
 挙句加害者は滂沱と泣いてやがるし!
 ったく、何なんだよ、俺は!!
 自分で謎抱えてるだけならともかく、人にまで迷惑かけるって最低だろうが!!
「すみませんでした!!俺、今何か頭変になってたみたいです。申し開きの余地もありません。どんな処分でも受けます。本当に、申し訳ありませんでした!!」
 未だ止まらずにボロボロ流れる涙を拭きもせず、俺は音が立たんばかりに頭を下げた。
 マジで謹慎だろうが停学だろうが喰らっても文句は言えないところだ。
 だが、あの一瞬、紗楽先生の姿が別人に見えたのは確かだった。幼げな顔だった。『俺』を見ると、輝くように笑いかけてきた、『誰か』の姿。その一瞬の印象が強烈で、それが何故か先生と被って、こんなとんでもない行動に出たのかも知れないが…………。
 あーもう、自分で自分が理解不能だ!!
 本ッ気で処分喰らって自分と向きあってみるのも良いかもしれないな、こりゃ……と思いつつ、紗楽先生の言葉を待っていたが、なかなか先生は言葉を発しない。
 ………………まぁな、怒るのも仕方ない、よな……。
 心の中で嘆息したとき、頬に何かが押し当てられる感触があった。柔らかい布の感触と、それを持つ温かい指。それらは俺の涙に触れた箇所から、ひんやりとしたものに変わっていく。
「…………頭を上げて頂戴。怒っては、いないから」
 声音に含まれる感情は、やはり複雑なものだったが、確かに怒りよりはどちらかと言うと……哀切……に近い気がした。
 恐る恐る顔を上げると、声音のように、その顔には怒りの表情はなく、どこまでも深く、複雑な表情が浮かんでいた。けれど、その面から微笑みの欠片が消えている訳でもなかった。
「……自分でも……良く、解らなかったのでしょう?」
「は、あ…………」
「……あなたに、その、不埒な思いがあったと言うなら、処分も考えたかも知れないけど……でも、そうじゃない。でしょう?そうでなければ、こんなに涙を流す事はないと思うから……」
 先生は自分の物と思しきハンカチで、流れ続ける俺の涙を拭きながら言った。
「それは勿論です!そんな事、考えてもいないです。そりゃ、無意識下でどうこうとか言われたら、反論できませんが……」
「なら……いいわ」
「…………え?」
「処分も注意も、ありません。今の事は、なかった事。そうしましょう」
「で、でも…………」
 口篭もる俺を見て、今度は本当にそうと判るくらい優しく笑った。
「注意と言うなら……そうね。自分の大切なものを、間違えては駄目ってこと」
「……自分の、大切な、もの…………?」
「そう。今のあなたは、天原翔という人物なんだから。あなた自身の思いを、何よりも大切にして。ね?」
 静かな声で、ゆっくりと紡がれていく言葉。
 正直、言っている内容は綏月先輩の時と同じように理解しきれないものだったが、不思議とスンナリと入ってくる。その声質のせいかも知れないし、その言葉にこもった暖かさのせいかも知れなかった。おそらく両方なのだろう。
「はい…………」
 涙を拭かれるまま俺が答えると、紗楽先生はこくりと頷いた。
「……少しは涙も止まったみたいね。私、そろそろ戻らなきゃ。翔君はどうする?」
「俺は…………まだ、ここにいます。このまま歩達に顔合わせる訳にはいかないから。少し、頭冷やします」
「わかったわ。それじゃ……」
「先生、本当に、すみませんでした…………」
 最後にもう一度頭を下げると、かすかに笑ったような気配がした後、軽い足音が校舎の方へと遠ざかって行った。
 顔を上げて自分以外にこの場所に誰もいない事を確認すると、俺は大きく息を吐いた。
 処分は当然だと思っていたから、紗楽先生の反応はかなり意外だった。かえって拍子抜けしたくらいだ。
 けど何より、あんな複雑な表情は、今まで見た事がなかった。一体どんな経験をしたら、あんなに深い瞳になるんだろうか。
 どちらにしても、今回のような事は二度とないようにしなければいけない。紗楽先生だったから、俺の事も慮ってくれたのだろうが、他の女性にこんな事をしたら完全に犯罪者だ。……男相手はこっちだって嫌だが。
「――――フン!!」
 パァン!!
 気合を入れて、俺は涙が乾いて引きつった両頬を叩いた。
 何が起こっているのかはさっぱり判らないが、とりあえず気持ちだけでもしっかりしておかなきゃ、いざって時に立ち向かえない。それにどうやら、今の状況は腕力で解決できるものでもなさそうだしな。
 訳の判らんものに流されてる場合じゃ、ない。
 自分自身に喝を入れて、俺も校舎に一旦戻ろうと思った時――視線を、感じた。
(…………何だ?)
 注意深く辺りを窺う。視線の数は…………二つ、か?
 一つはそれほど強くない。様子を窺っている内に、遠ざかる気配がする。どうやら絡んでくる気はないようだ。
 だが、もう一つの視線……これは…………殺気?
 生まれてこの方そんな視線を浴びた覚えもないのに、それが憎悪ではなく殺気だと判ったのは何故だったのか。
 ゆっくりとした足取りで、その視線の発せられている方へ行こうとすると、木々の梢に紛れて、一人の男が立っていた。
「………………久賀」
 顔を歪めながらそこに立っていたのは、例の久賀健文。俺が気付いたと知ると、奴は同じようにゆっくりした足取りで近付いて来た。思わず軽く構えを取る。
「……何か用かよ」
「……テメェ、これ以上あの人に近付くんじゃねェ。あの人が言ったから、今の処は見逃してやるがな、これ以上あの人を巻き込んだら――――――殺してやる」
 久賀はそれだけを言うと、とっとと踵を返して去って行った。
 穏やかだった風の流れが、奴の言葉の毒を含んだかのように、痛ましく梢を叩いた。
 まだ咲き切らない花びらが、何枚か、引きちぎられるように降ってきた。
 ひらひらと、風の波に向きを変えられながら振り落ちる、花びら。
 それに従うように、再び訪れた朧気な静寂。
 その霞幻の中で、俺は未だ夢の中にいるような心地で立ち竦んでいた。
 

 
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