五・再会、そして回り始める環
  
「それで、綾子さん、もうすっかり大丈夫なのか?」
 登校後の、朝のHRまでの空き時間。例のごとく東との会話で、俺は母の事を奴に話していた。昔から東とは互いの家庭の事は包み隠さず話し合っていたので、今日もその一環というやつである。
 自立の精神を忘れるべからず、という考えと、自分で持ちきれない重荷は他人と分け合うべし、という考えを併せ持つ東は、チャランポランに見えるが相談相手としては優秀な人材でもあった。
 そしてまた、十数年以上も面倒を見てくれていた俺の母を決して『おばさん』とは呼ばず、敬意を込めて『綾子さん』と呼び続けるあたり、信頼に値する自己の主義を確立していて、総じて俺が最も信頼できる他人の座に東が君臨しているのは、当然の成り行きだった。
 もっとも、俺の父を除く年長の男に対しては『オジサン』呼ばわりが常で、そのへんの一貫性も見ていて安心できるものではある、という事にしておこう。
「病気じゃないんだから。ま、でも大丈夫だろ。今朝出掛けに『あー、化粧のノリ悪い!仕方ない、サングラスでもかけて誤魔化してくか!』とか言って、父さんに止められてたから」
「なるほど、それはヤバイな。綾子さんはグラサンが似合う人だが、似合いすぎて小学児童たちには刺激が強すぎだろーて」
 東がウンウンと頷く。俺も苦笑する。
「けどさ、東。母さんと紗楽先生の関係って何なんだろうな。確かに古い知り合いだって事は母さんも言ってた。久しぶりに聞いた名前だからびっくりしたんだ、って。でも、『あの』母さんが泣く程なんだから、ただの知り合いって訳でも無さそうだし。お前、どう思う?」
 朝、泣き腫らした顔で、それでも笑顔を作って昨夜の行動を詫びる母。その強張った笑顔を思い浮かべながら、俺は東に意見を求めた。
「ん〜、確かになぁ、気にはなる。気にはなる、が、しかし、だからといって、詮索するのも野暮だし、何より失礼だろ。結局、何か隠されてるような感じがするから、オレに相談してるんだよな、翔?」
「あ、ああ。さすが、解ってるな」
「ま、な。でも、自分の好奇心の満足の為に綾子さんが苦しむの、見たいか?」
「そんな訳ないだろ!」
「だったらさ、しばらく様子見てろや。落ち着いた頃に綾子さんや芳人さんから詳しく事情を話してくれるかも知れんし、時間が経つにつれ見えて来る事もある。その内判るさ。オレも、今の段階では安易に判断できん」
「――それもそうだな」
 実際、それしかないだろう。不思議ではあるし、気になるのは山々だ。それでも母の泣き様を思うと、今はまだ問うべき時ではない。何より、紗楽先生に相対する勇気が出ない。あの穏やかな空気の前では、今の俺の混乱した頭が理路整然と疑問を提示できるはずがなく。
――――イヤ、ソレ以前ニ何ヨリモ、彼女ニ対スル罪悪感ガ強クテ、申シ訳無クテ――――
 ……確かに、彼女の前に立てば、全てを包みこぬ寧らかさに、そんな疑問や不安は吹き飛ばされるかも知れないだろう。彼女は其処にあるだけで、あらゆるものを和ませる存在、そういう魂の持ち主なのだから。
 ――ふと、俺は気がついた。
 俺はどうして、『結城紗楽』という人物について、『そういう存在』だと言い切れるんだろう?まだ直接的には二度、それもほんの数言、言葉を交わしただけなのに。
 新たな疑問に内心首をかしげている内に、ぞろぞろ生徒が各所定の席に着き、HRの開始を行動で告げていた。
 前方の席の一つには、昨日『初めて』会ったはずの一人、志貴朱美が物憂げに座っていた。一見すると、低血圧でボーっとしているように見える。
 『誰か』に似ている横顔はそのままだ。ただ、その瞳は、俺が知っている『誰か』とは違って、何処か達観したか、あるいは諦観したかのような、けれど確実に何かしらの感情の末に辿り着いた瞳をしている。 
 
 ――ソウダ、アイツガアンナ『生キテイル目』ヲシテイル筈ガナイ。アノ時既ニアイツノ目ニハ、モウ何モ見エテイナカッタンダカラ。クニモ、自分モ、俺ノコトモ。
 
 だから、他人の空似なんだろう、きっと。気にする必要は無いんだ。
 
 ――ケレド気ニナルンダ。アイツヲ思イ出ス。救エナカッタ。始マリノ時カラ、今マデ、ズット。ダカラ、俺ハ、アノ面影ヲ追イ求メル。追イ求メテシマウ。救エナカッタ、自ラノ無力サ故ニ。
 
 気にするな。――救う、いや、守ってみせるから。今度こそ。
 
 ――守レルノカ?
 
 守る。
 その為に、生きているのだから。
 
 ――ナラバ、守レ。アイツヲ。アイツハ俺ノ、ソシテオマエノ――
 
 俺の、――だから。
 
 
 
「…………ちゃん、翔ちゃんってば!」
 聴き慣れたメゾソプラノが、俺の意識を唐突に揺さぶった。
「え……あ……ゆむ、か……?え、お前、どうしたんだ?今HRの最中だろ?」
「はぁ?」
 淡い栗色のストレートヘアをぼんやりと見上げながら、傍らに立つ歩を見ると、彼女はこれ以上ないくらい呆れた顔を浮かべていた。ふと見れば、東はともかく、朋花までいて、歩とどっこいの表情である。
「翔くん……今までもしかして、寝惚けてたの?」
「は?何言ってんだ朋花…………あれ?」
 見れば、自分がいるのは教室の自分の席などではなく、賑やかにごった返す学生食堂、目の前には大盛りカレーライスが鎮座ましましていて、その上我が右手にはしっかりスプーンが握られているではないか。
「あっれぇ……もう、昼だっけ……?」
 今度こそ、三人ともガックリと肩を落した。
「翔ちゃん、大丈夫?二人とも先に食堂に行ったって聞いて、朋花と追いかけてきたら、何だか上の空なんだもの。体の具合悪いんじゃない?」
「それは無さそうよ、歩。このカレーの減り具合を見て。体調悪い人間はこんなペースでは到底食べられないわ」
「――そうみたいね。って事は、やっぱり寝てたの?」
「えっ……と…………」
「HRあたりからぼーっとしてたぞ、コイツ。そのくせ話し掛けるとちゃんと反応してたけど……覚えてないみたいだな。だろ」
「……あ、ああ……そうみたい、だな」
 我ながらどうしたものやら、午前中の記憶がまったく無い。東の話だと、正に寝てますモードには入ってなかったみたいだが、それにしても一体。
 そういえば……朝、志貴の姿を見ていたら、何か……声がしたような……。それも、自分の『中』から。あまりにも自然に、違和感の欠片も感じない程に。それぐらい近くて、深い場所から――。
「翔ちゃん……?本当に大丈夫なの?」
 なおも歩が心配そうな顔で覗きこむ。
「あ?ああ……うん、多分朋花の言った通りで寝惚けてたんだろ。そんな心配そうな顔すんなって。ホラ、早く昼飯買って来いって」
 歩に必要以上の心配をかける事はない。俺は強引に話題を変えた。二人とも俺達の姿を探す方が先で、まだ昼食の確保はしていなかったらしい。
「え、あ、うん。わかった。朋花、行こ」
 明るく言った俺に頷いて、歩は朋花と連れ立ってカウンターの方へ向かった。我が家も長谷尾家も、昼食は基本的に学食だ。ウチの高校は公立にしてはその辺りの福利厚生(?)が充実していて、しかも学食のメシ自体が味・価格共に良心的ときている。その為、昼はこうやって食堂で駄弁りながら食す、というのが習慣になっていた。
「おや、ペケちゃんにずまっぴじゃん。あたしも一緒してイイ?」
 再びカレーにスプーンを乗せたところで、美采が現れた。手に持ったトレイには、運動部男子並みの大盛りカツ丼が乗っている。
「オッス、美采。そこ座れや。二人分空けとけよ」
「ラジャり〜」
 東がさっさと了解し、美采もそれに応えて座る。
「相変わらず食うな、お前も。つくづく燃費悪ぃカラダ」
「ペケちゃんこそ食べてんじゃん。前みたいに部活やってりゃ解るけど、今の生活習慣でそんだけ食べてると、その内ブクブク肥えてくよ〜?男の肥満ってそりゃ見苦しいよ〜?ちっとはヘルシー生活に努めたらどうかね」
「お前にだけは言われたくないぜ」
「でも的は得てるぞ、翔。若くして成人病にでもなったら洒落にならん。運動不足解消がてら、また空手部に戻ったらどうだ?部長に口利いてやるぞ。あの人、未だにお前の事惜しがってるからな」
「空手部か……」
 現在は気ままな帰宅部の俺だが、中学までは東と同様に空手部に所属していた。始めたきっかけは、幼少時にテレビで見て格好いいと思ったから、という他愛もないものだったが、割と長続きしたし、自身楽しかった。実力もそれなりにはあったと思う。何より、たくさんの友人や仲間が作れたのは嬉しかった。東が言った現空手部の部長も中学時代の先輩で、随分と目をかけてもらった。
 だが、高校に入った頃にスッパリ辞めた。
 空手が嫌になった訳ではない。けれど本当の理由は、俺以外の誰にも理解出来るものではなかった。ただ、歩と東だけは何かに気付いているようだったが……。
「……いや、やめとく。先輩には悪いけど、今はこの自由な生活に慣れちまってるし。やりたくなったら、そん時は自分から言うさ」
「勿体ないね〜。ずまっぴと二人、蜻蛉三中の双璧と呼ばれた男が、今じゃすっかり隠居じーさんだなんてねぇ」
「誰がじーさんじゃ」
「そのまんまだろーが。ま、お前がそう言うんなら無理強いはしないけどな」
 そう言って東は悠然と箸を進める。コイツはコイツでかなりのボリュームのメニューだが、俺と違って消費しているから誰もつっこまない。日頃の熱弁自体も相当エネルギー喰ってるだろうしな。
「あ、そーいや話変わるけどさ、どうするね、今年のお花見。例の穴場とか行ってみる?」
 美采がまた脈絡もなく話題を変えた。例の穴場というのは学校の裏山にある僅かに開けた場所だ。桜の大樹が何本か植わっているのだが、学校の敷地からそれほど離れていないにもかかわらずあまり人が寄りつかない為、どこか世間の喧騒とは隔たった世界を作り上げていた――と記憶している。如何せん見つけたのが去年の葉桜時期なので少し怪しいのだが、花の時期とは関係なく少人数で寛ぐには良い場所だった。
「美采は中央公園とかの方が合ってんじゃないのか?去年なんか、隣り合わせた会社員のグループと一緒になって熱唱してただろ」
「そういうずまっぴだってそこのOLさん達の愚痴聴いてやってたじゃん。別れ際にメルアド教え合ってたの、しっかり目撃したけど〜?」
「何を言う!日々に疲れた女性のストレスを些少なりとも取り去る事のどこが悪い。オレに愚痴る事で女性が新たな活力を得る事が出来るなら、オレは本望だ!!」
「あ〜解った解った。箸が折れかねんから力説すなって。……それより歩達、遅いな」
 カウンターに向かってから結構経ったが、二人は未だ戻って来ない。時間的に混雑はしているが、それでも少し遅過ぎる気がした。
「――放して!!」
 聞き慣れた声が悲鳴の形で耳に届き、俺は即座に声のした方向に振り向いた。
 カウンターに程近い、食券機から少し奥まった鉢植えの並ぶ辺り。そこで、歩と朋花が数人の男子生徒に絡まれていた。その内の一人が、歩の腕を掴んでいる。
「おい翔、あれ、石蕗達じゃないか?」
「あいつ、また……!!」
 俺はガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、すぐに歩の所へ向かう。制服の群れに阻まれてなかなか前に進めないでいると、東も後から追いかけて来た。
「歩!!」
 何とか現場に辿り着き、声を上げる。
「翔ちゃん!!」
「翔くん!」
 歩と朋花、二人の返事が唱和する。それを確認してから、俺は歩の細腕を掴んだままの男を睨みつけた。
「石蕗、何のつもりだ。歩を放せ」
「天原――――」
「歩を放せッ!!」
 再度、俺は大声を上げて石蕗を睨んだ。余人の注目を集めるその声に怯んだのか、奴は歩を繋ぎとめた手を思わず弛め、その隙に俺は歩のもう片方の手を引いて背後にかばう。朋花も気付いたように数歩後ずさり、同様に辿り着いた東の後ろに隠れる。
「どういうつもりだ、石蕗。新学期早々また歩に絡みやがって」
 この男は同学年の石蕗。いわゆる不良連中の一人だ。入学当初から素行の悪さで有名で、いつも徒党を組んでいきがっている。同時にやけに歩に声をかけたり絡んだりする事が多く、俺にとっての要注意人物の筆頭だった。
「ハッ、人聞きの悪い野郎だなぁ。歩の方からぶつかってきたんだぜ。オレは単に謝れって言っただけだぜ」
「そうだぜ、天原。俺らは当然の権利を要求しただけさ」
「まったくだよなー、勝手に人を悪人に仕立て上げんなよな」
 石蕗に迎合するように、奴の仲間達も反論する。
「そうなのか、歩、朋花?」
 俺は念の為二人に確認すると、すぐさま二人から答えが返ってきた。
「そうだけど、ごめんなさいって、すぐにちゃんと謝った!」
「そうよ!それなのに聞こえないとか言って、歩の腕引っ張ったのはそっちでしょ!?」
「――と言ってるが?ぶつかったといっても、見たところ派手にぶつかった訳じゃなさそうだな。せいぜい軽く腕を掠った程度なんだろ、どうせ」
 そう言うと、どうやら図星だったらしく、石蕗はバツが悪そうに眉を顰めた。
 フン、そんな事だろうと思ったさ。些細なきっかけであっても大仰に騒ぐ。コイツはそういう奴だからな。
「だったらそんなにムキになる事はないだろうが、みっともないな」
「――なんだと、テメェ!」
「ともかく、歩にちょっかい出すな。お前にだけは、歩を託すつもりなんて毛頭ないからな」
 そう言い捨てて、歩をかばいつつその場を去ろうとして踵を返すと、背後から苦し紛れの声が聞こえてきた。
「ヘッ、ウワサは本当だったみたいだな、シスコン野郎。――お前ら、血が繋がってないんだってなぁ?」
 運びかけた足を留める。俺に寄り添う歩が、不安そうに俺の顔を見上げた。
「お前らいっつもひっついてて、怪しいとは思ってたんだよなぁ。義理の兄妹が恋人ってヤツなんだろ?麗しい兄妹愛ぶってるクセして、実はデキてて、毎晩ヤリまくってんだろ?――バカくせぇ。そんなヤツに牽制される覚えはねーな」
「――ちょっ……っ、なんて事言うの!!」
 カッとなった歩が、俺の腕越しに石蕗に向かって叫ぶ。
 …………下衆が。
 興奮した歩とは対照に、オレは無言で奴を振り返った。振り返りざま、先程とは比べものにならない冷たさで、奴の眼を見据える。周囲に集まるギャラリーの息を飲む音が空気越しに伝わってきた。石蕗も、瞬間喉を引きつらせたようだ、喉仏が妙な動きをしたのが見えた。
「――哀れなものだな。その程度の事しか思いつかないのは」
「…………なっ……!?」
「お前には何を言っても、まともに通じないんだろう?可哀想なくらいだな。人の言葉を受け入れる能力が欠如してるってのは、人間としても最低の部類に入るのにな」
「……てっ、テメェ――!!」
 挑発の言葉をかけながら、さりげなく歩を東の方へ押しやる。歩も東も、俺が本気で怒っているのを察知したようで、何も言わずにそれに従う。
「低脳なお前に通じるかは解らないが、これだけは言っておく。俺の事ならともかく、歩への中傷は許さない。二度とそんな下らない事を口にしてみろ。一生後悔する羽目になるぞ。――少しでも理解できたら、とっとと失せろ」
 言葉と、怒気。その二つの圧力だけで、奴を押し潰す。
 腕力なんかに頼る必要はない。この程度の輩に俺の力を揮うのは無意味な事だ。歩に暴力の現場を見せたくないのが、一番だったが。
 完全に気圧された風の石蕗が数歩蹈鞴を踏むように後ずさった時、その背後――食堂の入口方向――から背の高い一人の男子生徒が現れた。周囲の人間が、道を空けて現れたのは――。
「……何やってやがる、お前ら」
「……久賀さん!!」
 僥倖に巡り合ったような声を上げて石蕗が呼んだその相手こそ、かの久賀健文だった。
 だらしなく着崩した制服、剣呑な目つき。常人なら近寄れないような、鉛のような空気を纏わりつかせ、久賀は悠々と歩いて来る。
(翔、ここまでだ。引っ込め)
 東が素早く耳打ちしてきた。確かに久賀が相手となると、気迫だけで何とかなるものじゃない。こんな場所で大っぴらに問題を起こす筈もないが、それでも危険要素は避けたいところだ。歩や朋花もいる。
 石蕗達は何か久賀に向かって訴えている。多分俺の態度が生意気だから何とかしてくれ、とかそんな処だろうが、奴は対して興味も無さそうに聞いているだけだ。見るからに面倒臭そうに連中の話を聞いて、そっぽを向こうとしたところで、俺と視線が合った。
 その瞬間、奴の顔つきが怪訝なものに変わった。何か探る様な目つきから、どこか嫌な物を見るような目つきになった時、俺はどこかでそんな目を見た事がある、と感じた。
 昔、似たような眼で見据えられた事がある。あれは――『誰』だったか? 
 一瞬そんな考えに囚われていると、久賀は取り巻く連中を振り払い、目だけはヒタとこちらを向けた状態で歩み寄って来た。そして逃げそびれた俺の前まで来ると、睨めまわすように俺を見た。
「――キサマが、石蕗らがいつも愚痴ってる、天原って奴か?」
 煙草とアルコールの相乗効果で潰れたような声で、奴が訊いてきた。
「そうだが?……初対面でキサマ呼ばわりされるような事を、あんたにはした覚えはないが」
「連中に零されてる点じゃ、間接的に被害はかなり被ってる」
 顎をしゃくって石蕗らを指し示す。まぁそういう奴らだろうな。
「それは俺が愚痴らせてる訳じゃない。原因を作ってるのはあいつらだ。文句はあいつらに言うべきだろ」
「そんなのは知ってるが、ウゼェ。おかげでどんな奴かは気になってたがな。……けど、テメェ見て判った」
「何が」
「テメェ……ムカツク。確かに初対面だがな。やけにイラつく。何モンだよ、テメェ」
 ……こいつは無茶苦茶だな。直接会話したのが初めてなのに、いきなり『ムカツク』かよ。しかも『何モンだ』と来たか。
「俺は俺だろ。――昼飯まだなんだ、じゃあな」
「待ちな」
 これ以上ヤバイ空気に持っていかないよう、その場を離れようとした肩を、久賀が掴んだ。
「何だよ?……石蕗達の愚痴がウザかったら、聞かなきゃいいだけだろ」
「そうじゃねえ。――テメェ、アイツに似てんだよ」
「アイツ?誰だ、そりゃ。俺の知ってる限りじゃ、俺に似た顔の奴なんてこの辺にゃいないぜ。知らない奴の事でムカつかれても、俺は困るんだがな」
「顔じゃねえ。……『空気』だよ。オレが一番憎いアイツと同じ『空気』なんだよ。この世界から一番真っ先に消してやりたい野郎とな――!」
 言って久賀は俺の肩を掴んだ指に力を入れた。いっそ音がしないのが不思議な位の強さで力が加わった瞬間、俺は反射的に奴の手を払いのけて、数歩分の距離を取った。
「訳解らない事言うな。お前が嫌いな人間と似てようが似てなかろうが、それで俺に八つ当たりされるのはお門違いもいいとこだ。ムカつくんならそいつに当たれよ、俺の知った事か!」
「テメェ……!!」
 ギリッと歯噛みする音が、はっきりと聞こえた。ちっ、とても穏便に収めるのは無理な雰囲気になってきやがったな。
 俺は東に目配せをして歩と朋花を遠ざけるように指示すると、東も成り行き上已む無しと見たのかそれに頷く。歩が怯えと心配を混ぜた表情で俺を呼んだが、下手に隙を見せられない。それだけ奴の腕は確かに立つと見えた。声だけで下がっていろ、と答える。
「く、久賀さん、べつに、そこまで……」
「うるせぇ、黙ってろ!!」
 石蕗達は久賀の背後でおずおずと制止の声を上げたが、それは久賀の怒声によって遮られた。元はと言えば自分達が起した事態なのに、奴らはすっかり怯えて縮こまっている。
 まったくなんて日だ。朝っぱらから妙な声で意識がふっとんだり、訳も解らずキレた不良に絡まれたり。
 軽く上衣の襟元を緩めながら、闘争心を剥き出しにして俺を睨んだままの久賀を見る。印象的なのは、やはり目だ。その目は、確かに見た事がある。但し『俺が』じゃない。あれは――――――。
 
≪アンナ目デ私ヲ見テイタノハ、アノ者シカイナイダロウ。――――――『直良』≫
 
 ……ただよし?
 朝に聞こえた声が再び俺の中に湧き起こったと同時に、奴が足を踏み出した。俺も咄嗟に構えて奴の攻撃に備える。
 しばしその場を支配していた極度の緊張感が破られようとした、その瞬間。
「あなた達、何をしているの!?」
 高い声が、緊迫の彩りをもって降りてきた。刹那、場に満ちた重苦しくギラついたような雰囲気が、その声の発する所から払拭されていくような気がした。
 声の方向を見れば、予想通りの人物がこちらに向かって走ってくるのが目に入った。
「紗楽、先生……」
 愁眉を寄せて駆け寄ってくる彼女を目に捉えて、俺は注意しながらも構えを弛めた。するとどうしたものか、久賀の方が紗楽先生の方を見たまま、動かなくなっていた。その表情はひどく驚いたようなものだったが、少なくとも敵対心の欠片は見られない。
「一体何があったの、翔君。それに……久賀、健文君ね?」
 俺達の傍に来て荒い息を吐く紗楽先生は、交互に二人の顔を見る。久賀は自分の名前を確認された時に何故か一瞬怯んだ様だったが、素直に頷いた。
「そう、今日も連絡がなかったからどうしたのかと思ってたけど、来ていたのね。……ところで、説明して頂戴。何をしていたの?」
「えっと、ちょっと、モメたって言うか……」
 降り仰ぐ紗楽先生に、かいつまんで事情を説明する(久賀の俺に対する理解不能な感情については適当にはぐらかしてはみたが)。戻ってきた東が第三者の立場から補足を加え、歩と朋花が事実確認をする。 
 先生は石蕗達にも同様の説明を求めた後、フウ、と息を吐いた。
「……事情は大体分かったわ。石蕗……力君だったわね、歩さんがぶつかった事は許して上げられない?ちゃんと謝ったという事だし」
「あ……あ、それは、べつに構わないけどよ……」
 どうやら紗楽先生の前では、さしもの石蕗すら毒気を抜かれるようだった。戸惑いながらもあっさりと頷いた。
「なら、元々の起こりはこれで終りにしましょう。そして……翔君、健文君――」
 固くその手を握り締めて、先生は俺達二人を見上げる。
「はい」
「…………」
「事には至らなかったようだから、今回は注意だけに留めておきます。あなた達の事情はよく解らないけれど、でも……暴力だけは、駄目。ぶつかる事があっても、解決方法は他にいくらだってあるわ。暴力は何も生み出さない。ただ……奪って、壊すだけ。どちらにも痛みだけが残って、いつまでも疼いて自身を苛んでいく。――――それを、覚えておいて」
 堪える様な、沈痛な声音と表情。どこかその言葉に大きな深みを感じて、俺は粛然と頭を垂れた。
「はい……」
「…………分かった」
 俺より少し遅れて、久賀がポツリと答えたような気がした。それを聞いて紗楽先生はようやくホッとしたような表情になって、穏やかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、この件もこれで終り。さあ、まだお昼が終わっていないのでしょう?午後の授業に遅れないようにね。――ああ、そうだわ。健文君、昼食を摂った後でいいから、職員室に来てもらえるかしら?」
 三々五々現場から離れるギャラリーの波と同様に立ち去ろうとした久賀に、先生が声をかける。
「………………ああ、分かった」
 ……これはこれは。殆どの教師にさっきの俺に対してのように振舞うという久賀が、実に素直に返事をしている。口調はかなりぶっきらぼうだが、内容はかなりまともだ。紗楽先生はいつも通りの笑顔で頷いて食堂を去ったが、久賀はその後ろ姿をしばらく見送った後、自分もやがて同様に出て行った。
 少なからぬ驚きと共に二人を見ていた俺は、いつの間にか隣に美采が来ているのに気がついた。
「いっや〜、珍しい事もあるもんだね。あの久賀が、教師に楯突きもせずおとなしく引き下がるなんてさ〜。紗楽先生様々ってカンジ?」
「何だお前、今頃。ずっと傍観してたんじゃ……って、まさか俺のカレー食ってないだろうな!?」
「ひっどいの。ちゃんと見張っててあげたんじゃん。その見張り料くらいは貰っても罰は当たんないでしょ?」
「って事はやっぱり食いやがったんだろーが」
「翔ちゃん!!」
 美采とくだらん食い物論争をしていると、歩達が駆け寄って来た。
「悪い、歩。すっかり食べるの遅くなったな」
「そんな事はいいの!謝るのは私。ごめんなさい、昨日言われたばかりなのに、隙見せちゃって……」
 ひたすら申し訳無さそうに俯く歩の頭を、軽く撫でてやる。
「謝る必要ないって。久賀の事は……なんか仕方ない流れっぽかったしさ。お前が気にする事じゃないさ。」
「そうだぞ歩。悪いのはどう見たって連中の方だ。まさか久賀がああも絡んでくるとは思わなかったんだし。それはそうと、悪いな翔。オレとしては女性の安全確保の方が先で、援護は出来なかったからな」
「ああ、そりゃ構わんさ。俺よりはそっちの方が大事だろ。紗楽先生のお蔭で実力行使にも至らなかったしな。……そういや誰かが呼んでくれたんだろうけど、見事に的を得た選択だったよな。ホント助かった」
 他の教師――例えば雅先生や嵯峨先生――が呼ばれたとしたら、ああもスンナリ久賀が引っ込む事があったかどうか。そう考えると、実にあの事態にふさわしい調停者を呼んでくれたものだとしみじみその恩人に感謝した。
 ――――すると。
「それは良かった」
 ふと、横合いから声がかかった。見ると、一人の女生徒が腕を組んでこちらを見て笑っていた。
 その顔に見覚えがあって、俺は立ち止まった。やや背高の細身の女性。栗色のショートカットが、軽く顔の輪郭を覆っている。
 何よりもその独特の雰囲気に、強く覚えがあった。その、澄み切った空気が。
 彼女は、確か…………。
「わざわざ走って知らせた甲斐があったようで、何よりだよ」
「……君、確か……一昨日の……」
「ああ、名雲綏月さ。――天原翔君、だったね?先日はありがとう」
「え、いや。それより、さっきのセリフ。紗楽先生を呼んでくれたの、君?」
「そうだよ。……案外短気なのかな?わざわざ事を荒立てる必要もないだろうと思ったんだけど」
 クスクスと、口元に手を当てて彼女は笑った。
「あ……、そうだったな。まぁ、そんな時もあるって事で……。あ、ともかく、ありがとう。先生呼んで来てくれて」
 そう言って軽くお辞儀をして、再び頭を上げた時、ふと彼女の胸元に揺れるリボンに気が付いた。そこにあったのは、ブルー。三年の女生徒に配られるリボンの色だった。
 ……って事は……!!
「――ひょっとして、『先輩』!?」
 驚いて持ち主の顔を見返すと、彼女は、言われて初めて気が付いたように笑った。
「ああ、そうなるかな。昨日からここの3年」
「――ッ、すみません!思いっきりタメ口利いてました!!」
 慌てて俺は頭を下げて詫びる。頭上で苦笑する気配がした。
「そんなに慌てなくてもいいよ。この学校では、実質君の方が先輩だろう?気にしなくていいさ」
「いえ、そういう訳には。目上の人にタメ口なんて失礼な事をして、知らなかったとはいえすみませんでした!!」
「へぇ……ご両親の躾が良いのかな。まぁ、気にするんであれば、これから気をつければ問題ないよ。顔、上げてくれないか?私は別に怒っていないから」
「はぁ……。本当に、すみません」
 顔を上げて相手を見れば、確かに怒ってはいないようだ。ただ友好的な笑みが浮かんでいるだけだった。
「翔、どうした?こちらの女性はお知り合いか?」
 東が話に加わって来た。歩達も足を止めて話している俺達の方に寄って来て、興味深そうに相手を見る。簡単に説明すると、歩はすぐに一昨日の事を思い出したようだ。にこやかに自己紹介をする。歩を見ると、名雲先輩は何故かほんの少しだけ驚いた表情をしたが、それは俺以外の人間には気付かなかったようだった。
 一通り紹介が終わった後、不意に東が考え込むような顔ををして、名雲先輩に尋ねた。
「……つかぬ事を伺いますが、名雲綏月さんとは、もしやあの『剣神』と評された名雲さんでいらっしゃいますか?」
 は?『剣神』?いきなり何を言い出すんだ、こいつは。
 と思ったら、彼女はあっさり肯定した。
「あれ、知ってたのか。そうだよ。その名雲綏月」
「なんと!噂に名高い名雲さんにこうしてお目にかかれるとは、この長谷尾東、望外の喜びです!!」
「おい東、自分だけで解ってないで、俺達にも説明しろって」
 実際解っているのは東だけで、他の人間はみな頭の上に疑問符を浮かべていた。
「何だ、知らんのか?この名雲さんこそは、女子剣道において全国大会を軒並み制覇された剣才の持ち主なのだぞ。幼い頃からその剣捌きと身のこなしには傑出したものがあり、去年のインターハイで優勝なさった折りには、その動きの華麗さに某スポーツ雑誌が『剣神とはかくあるものか』と絶賛したという素晴らしい女性なのだ。それを知らんとは、無知とは哀しいものだぞ、翔!!」
 ……そうは言うが、多分対象が女性でなかったらお前だって知らなかったと思うがなぁ。
「あの記事は誇張し過ぎだよ。そういえば、私も……東君だっけ、君の名前に覚えがあるよ。確か去年のインターハイで、男子空手の準優勝者が長谷尾東だったと思うけど。高校名も、この蜻蛉島だったし」
 そう、こんな奴ではあるが、東の空手の実力は全国クラスだ。元は女性を守る術を身に付ける為に始めたのだが、その成果は確実に現れている。……本人の目的とは少しずれた方向で。
「おお、よもやオレ如きの名前をご存知であったとは!なんと光栄の至りでしょうか!!」
「お兄ちゃん、先輩引くからその辺にしておきなさいってば。すみません、先輩。いきなりこんな変人な兄の相手させちゃって」
 感服のあまり興奮し切っている東を、冷静に朋花がツッコんでフォローする。まったくもって、初対面の相手にこれだけ地を出せる男も珍しい。もっとも相手の方はこれまた全く動じていないようだが。
「いや?面白いと思えるから構わないさ。――何はともあれ、こうやって知り合えたのは何かの縁だし、これからもよろしく頼むよ。引越し直後で慣れない事も多いから、色々教えてもらえると助かるんだが」
「それはもう!この長谷尾東、お声がかかれば如何様にもお役に立ってみせましょう!どうぞ下僕と思って存分にお使い下さい!!」
「あはは!じゃあ、手が入用な時は君に頼むとするよ。――っと、随分時間を食ってしまったな。いい加減切り上げないと、午後の授業にずれ込んでしまうね」
「本当だ!朋花、早く御飯食べなきゃ!あ、じゃあ名雲先輩、私達これで」
「ああ、それじゃまた、歩君、朋花君。――君達は?」
 先輩は俺達を見て訊ねる。
「俺達は既に大部分は食べたんで、ってゆーか、あの騒ぎのドサクサで残りは美采の腹ん中に収まってしまったから、食うモンないんですよ。先輩こそもう昼食は済んだんですか?」
「ああ。食べるのは早いんだ。元々飲み物が欲しくて来たのだし、それを買ったらすぐに教室に戻るよ」
「それじゃセンパイ、あたしたちも失礼しますねー」
「御用の際はいつなりとお声をかけて下さい。では、失礼致します!」
「ああ、それじゃ。――と、翔君」
「ハイ?」
 別れて席に戻ろうとすると、最後尾にいた俺に先輩が声をかけてきた。
「何でしょうか?」
「…………君は……いや、君達は今、幸せかい?」
「………………は?」
 君、達?達って、誰を含めての事だ?それに、なぜ突然そんな事を訊くのだろう。
 不思議に思ったものの、先輩の顔がとても真剣だったので、俺は思いを巡らせてから答えた。
「幸せなんじゃないかと、思います、けど……?」
「…………そうか」
 ふ、と息をついて、先輩はどこか安堵したように笑う。
「それなら……良かった。ごめん、いきなり変な事を訊いて。じゃあ、また」
 颯爽とした動きで、澱みなく踵を返して彼女はその場を立ち去った。
 東と美采が俺を呼ぶのに答えながら、俺は先輩の最後の表情に、ある誰かの表情を重ねていた。けれど、知っているはずのその『誰か』は、記憶の中で沈黙したままで何も答えてはくれなかった。
 

 
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