四.密かな予兆
 
「…………と言う訳で、予定よりも早く担任になりましたけど、出来る限り早く皆さんを覚えるようにしますので、改めて一年間、よろしくね」
 始業式が終わり、生徒達は教室へ戻り、午前のHRが行われていた。我がB組でも御多分に漏れず、新しい担任が自己紹介を始めていた。
 担任、つまり結城紗楽先生は、急遽回ってきた担任の話で、この二日大忙しだったようで、ろくに生徒達とのコミュニケーションも取れず、今も遅れて教室に入ってきた始末だった。
 しかし、第一印象の穏やかさ、上品さは本物だったようで、クラスの全員が好意を持って迎え入れている。ちゃっかり俺の後ろに陣取って座っている東などは非常に満足そうだ。
 確かに感じの良い教師だ。器量も良いし物腰も柔らか。嵯峨先生にも似てなくもない雰囲気だが、彼と違って底知れなさ、といったものが希薄である。……そして、本当に何なのだろう、この懐かしさは。
「私はこの学校に来てまだ一週間くらいなの。、判らないことも多いから、しばらくは皆に迷惑かけると思うけど、皆の方から至らない処をどんどん指摘してくださいね。それでは、遅ればせながら、皆の名前の確認を兼ねて、出席を取らせてもらいます」
 さくさくとHRを進行させながら、結城先生は出席を取り始めた。名前を呼び、返事をした生徒の顔を確認する。その柔らかな表情には真摯さが見て取れた。
 ふと、最初の数人を呼んで、調子が止まった。
「ええと、次の志貴朱美さん……は事情があって遅れるって事だけど…………。久賀君、久賀健文(くがたけふみ)君?……欠席かしら。連絡は来ていなかったけれど……」
 久賀、健文……。
(あちゃー、あいつもウチのクラスなのかよ。気をつけねーとな、おい)
 東がこっそり言ってきた。
(ああ、そうだな……)
 久賀健文は、この高校の中で一番の不良なのだ。暴力沙汰を何度となく起こし、犯罪まがいのこともしている。ただ、家がかなりの資産家で歴史も古く、それらの事件の殆どがもみ消されている。裏の世界とも繋がりがあるようだが、校内で他人とつるんでいることは少なく、どちらかと言えば一匹狼風なところがある。(それでも取り巻きの連中はいるようだが)
 まっとうな生徒達は、触らぬ神に祟りなし、とばかりに遠巻きにしている男だ。俺としてもあまり関わり合いにはなりたくないが。しかし、始業式に来ないってあたりが、非常にわかりやすい。
 いつまでもいない人間を気に懸けている訳にもいかないので、心配そうな顔をしながらも、先生は次の生徒を呼び始めた。
 どうやらいないのは、件の久賀と志貴なる女生徒だけで、あとは順調に進行し、いよいよ俺の番となった。
 先生が俺の名前を呼ぶのを待つ、その短い間、俺は自分の鼓動が早まるのを感じていた。
「それじゃあ、次は…………天原……翔……君?」
 彼女の言葉が詰まった。出席簿から目を離し、次いで慌てて俺の方を見る。そして大きく目を見開く。あの謎の映像の『彼女』を思い起こさせる瞳はやがて、とてもやさしい微笑に変わった。
(翔、返事!)
 後ろから小突かれて、彼女の微笑みに見とれていた俺は、慌てて返事をする。
「―――っ、はい!」
 すると結城先生はにっこりと笑って、
「まはら、かける君でいいのね?」
と言った。
「はい。…………えっと、何か、変ですか?」
 不安そうに聞いてみる。先生は首を振って答えた。
「いいえ、とても良い名前だなぁって思って。字も、読み方も。…………ごめんなさい、中断しちゃったわね。それではその後ろ、長谷尾東君?」
「はいっ!」
 予想通り良い返事だ。
「元気が良いわね。これからどうぞよろしく」
「いえ、こちらこそ、このような素晴らしい女性が担任だなんて、至福の思いです。この長谷尾東、非才なる身の全力をあげて、結城先生の助けとなるようあい勤めます。以後、よろしくご指導の程を!」
 まったく予想通りの答えに、クラス中がドッと笑いの空気を醸し出す。まったくコイツは相変わらず女性にはこれだからなぁ、と俺も苦笑。
「ありがとう、そう言ってくれるなんて。でもそうね、結城先生じゃなくて、紗楽先生って呼んでくれる?皆も。私も皆のことは名前で呼ぶから。その方が『自分』が呼ばれてるって気がするでしょう?」
 台詞の後半、クラスを見渡しながら『紗楽先生』は言った。
「確かにそーかなぁ」
「でも、紗楽先生、って言った方が、何かイイ感じだよな」
「言えるね。それに名前で呼ばれた方が、なんとなく嬉しい気がするし」
 俄かクラスメートたちはそれぞれ話し合い、結果的に先生を名前で呼ぶことに決定した。
 しかし俺は、彼女を名前で呼ぶことに少し抵抗を感じていた。
 嫌なんじゃない。むしろその逆だ。けれど、それによって先程のような謎の映像が頭をよぎるのが、少し恐いような気がしたのだ。怖いような、でも、大切な何かを、取り戻していけるような。
 内心の不安を抱えたまま、HRは進んでいった。いくつかの連絡事項を伝達したあと、紗楽先生は、数人の生徒に午後のHRの際に配る教材の運搬を頼み、(その中には当然オタスケマンを自薦した東と、それに巻き込まれた俺もいる)HRを終えた。
「なぁ翔、他ンとこも一段落したみたいだし、歩と朋花のとこ行かないか?新担任の報告も兼ねてさ。」
 わさわさと賑やかになった教室で、東が話しかけてきた。
「そーだな。行くか。F組ってC棟だっけ」
 なんとなく、歩の顔を見たい気がした。いつもの日常。紗楽先生に会って、今、それが少し揺らいだ気がして、それを落ち着けるためにも歩に会いたかった。
 東と共に教室を出ようとした時、プリントを片付けていた紗楽先生が近づいてきた。
「あの、……翔君」
 名前を呼ばれ、一瞬呼吸が止まる。息をゆっくり吐き出してから、俺は紗楽先生を見た。
「はい、何ですか、先生?」
 思ったより自然に答えた。紗楽先生は、少し戸惑ったような顔をしたあと、思いきったように聞いてきた。
「その、翔君、あなたの……お母さんって、綾子さんっていわない?」
「え…………?」
 何だろう、突然母さんの名前って?
「えっと……、はい、そうですけど?」
 いぶかしみながら答えると、紗楽先生はホッとしたように笑った。
「やっぱり!そうだと思ったの。翔君の名前、教えてもらっていたから。その、……お母さん、元気?芳人さんも」
「元気ですよ。……って、先生、両親のこと知ってるんですか!?」
 驚いて聞き返す。先生とウチの親が知り合い?
「ずいぶん前に、……うん、お世話になってたの。あなたが生まれる頃以前のことだから、本当に昔。引っ越してから、連絡取れなかったから、どうしてるか気になっていたの。そう、元気なのね、良かった」
 とても嬉しそうに笑って、彼女はホッと息をついた。じゃあ、この懐かしさは、それが関係してるのか?でも、あの映像は…………。
「あ、ごめんなさい、引き留めて。それじゃあ、またあとでね」
『マタ、アトデ――――』
 一瞬映像の台詞とかぶって、瞬きをしたその間に、先生は慌しく職員室へと戻って行った。
「忙しそうだなぁ……。それにしても、翔ン家の両親と知己だったとは。世の中狭いなー。なぁ、翔」
「あ?ああ……。そう、だな」
 何とも歯切れの悪い返事を我ながら発し、思わず頭を掻く。
「帰ったら、親父らに聞いてみるさ。それより、F組行こうぜ、東」
「ん?おお」
 半ば強引に話を切り上げ、俺は東を伴ってF組へと向かった。
 
 
 F組の方に歩いて行くと、丁度HRが終わったようで、教室のドアからパラパラと生徒たちが流れ出てきた。その中には歩と朋花の姿もあって、俺たちを見るとすぐに近づいてきた。
「ちょうど良かった、今B組に行こうとしてたの。HR早かったのね?」
 歩がいつも通りの朗らかな笑顔で話しかけて来て、俺は我ながらホッとした顔をして笑った。
「翔ちゃん?どうかしたの?」
「ん、いや、何でもないよ。F組は今までやってたんだな」
「うん。ほら、雅先生って、その辺きちっとしてるでしょ。連絡事項もかなり詳しく説明するし。だからね」
「そーだよな。でも、話し方がくどくないから良いけど」
「それは誉め言葉と取って良いのよね?翔クン。」
 噂をすれば、(って、今までHRやってたんだから当然なのだが)雅先生が現れた。出席簿の角で軽く俺の頭を小突く。
「いてっ。先生、凶器は反則っすよ」
「これのどこが凶器よ。それより翔クン、東クン、紗楽先生は職員室?」
 けらけらと笑いながら、雅先生が聞いてきた。俺が一瞬ドキッとしていると、東が早速答えた。
「ハイ。やっぱお忙しいんでしょうね、HR終わってすぐに走って行かれましたよ」
「そっかぁ。そうよねぇ、本来ならあと二ヵ月は余裕があったんだもんね。急な代行担任じゃ、あの人の性格上暫くは必死だろうし……。あーあ、当分はお預けかぁ。ちぇっ」
 何やら後半意味不明のひとり言を呟いて、雅先生は形の良い手をあごに当てた。
「どうかしたんですか、先生?」
 朋花が尋ねると、雅先生は気がついたように、
「え?あ、ううん。こっちの、というか、未成年にはまだ関係ないハナシ。気にすることじゃないわよ」
と、答えた。それで大体のところは判ってしまったが。
 しかし、それにしても雅先生と紗楽先生って……?
 と思ったら、先に朋花が聞いた。
「先生、あの結城先生とお知り合いなんですか?ずいぶんと訳知りっていうか、なんだかこう、見ず知らずの他人ではないみたい」
 すると雅先生はあっさり答えた。
「ああ、うん、知り合いよ。というか、結構親しくさせてもらってるなぁ。最近は少しご無沙汰だったんだけど。職場違かったし」
「どういう関係なんですか?」
 更に突っ込む朋花。
「大学の先輩後輩なの。紗楽先生が大学4年のとき、私が1年でね。学科は違うんだけど、教養の講義だったかな、それが同じでね。たまたま知り合ったんだけど、何か趣味とか合っちゃって。それからね、親しく付き合ってるのは」
「へぇ……そうなんですか」
 歩が一人ごちる。しかしそれにしても、……あれ、年齢が合わなくないか?
「でも先生、年が離れてません?雅先生今年二十五でしょ?結城先生って三十台って……」
「こら、朋花、男のいる前で女性の年齢を云々するんじゃない。失礼だろーが」
 俺の疑問を率直に口に出した朋花と、それをたしなめる東。その様子を見て、雅先生は苦笑しながら言った。
「ふふ、今更いいわよ、東クン。でもま、その疑問はごもっとも。理由はね、紗楽先生が昔病弱だったって事なんだけどね」
「……病弱……って……?」
 胸騒ぎがして、俺は聞き返した。
「ん〜、というか、中学生の頃に体を壊して、何年か療養していたんですって。それで他の人より遅くなったんだって言ってたわ。それ以上は聞かなかったけど。それこそ失礼だしね」
「そうなんですか……」
 中学生、……『彼女』の年齢は、それぐらいじゃなかっただろうか……。
「あ、でも、今は全然丈夫、問題ないんだって。それに、すっごく良い人だから、大学でも評判良かったの。年齢とかは関係ない、その人柄が大事なんだ、って、あの人見ててつくづく思ったもんねぇ。……あっと、いっけない。そろそろ私も職員室戻んなきゃ」
 時計を見た雅先生が、慌ててそう言った。
「あ、すいません、引き留めちゃって」
「ホントだ。このオレとしたことが、大変失礼しました」
「うふふ、足を止めたのは私の方。それじゃね!」
 最後に得意のウィンクをして、手をヒラヒラさせながら雅先生は職員室の方へ走って行った。
「あーあ、生徒にゃ廊下を走るなと言っときながら……」
 ため息混じりに言って、ふと隣の歩の様子に気付く。
「歩、どうしたんだ?さっきから押し黙っちゃって。具合でも悪いのか?」
 すると、どこかぼんやりしていたような歩が、ハッとしたようにこっちを見た。
「え、なに?別にどこも悪くないよ?」
「そうか?なんだか元気ないように見えたぞ」
「そう?そうかな……。よく、わかんない……」
 本当に自分でもよく判ってないようで、俺はこれ以上追及するのをやめた。
「まあ、血色は良いし、大丈夫か。でも、具合悪かったらすぐに言えよ?」
 歩は俺の言葉を聞くと、照れたように笑った。
「うん、その時はよろしくね。って、よろしく、じゃないよね、へへ」
 その様子を見ていた朋花が、ふと息を吐く。
「翔くんたら、ホントに歩に甘々ねぇ。うちのお兄ちゃんもそんな風に心配してくれれば、可愛げがあるんだけどな」
「なんと、朋花!お前そんな事を考えていたのか!?オレは常に妹のお前を可愛がっているつもりだが?」
「お兄ちゃんのは、微笑ましいを通り越して、呆れかえる、のレベルなのよ。っていうか、妹も他の女性もお〜んなじ扱いでしょ、極端なフェミニストぶり。いちいちオーバーだしさ」
 朋花の舌鋒を受け、東は言ってる傍からオーバーな仕種をして、天を仰いだ。
「なんということ!妹にオレの崇高な志を理解してもらえんとは!『元祖、女性は太陽であった』、この言葉は名言だ。思えば、日本神話においても、至高の太陽神とされるは天照大神と言う女性神。男は所詮女性に仕える下僕、女性の輝き無くして男の人生に光が差す事はない。それ故にオレはその輝きを絶やさんが為、微力ながら女性の手助けをしているのだ。呆れられようと、オレはこの自分の存在意義を否定するつもりはない。しかし、しかしだな、血の繋がった妹に呆れられ理解されないと言う事実はオレにとっては苦渋の……って、おい、お前らどこに行くんだ、オレのポリシーはまだ語り尽くしてはいないぞ!……って、おい、だからこら、待たんかぁーっ!!」
 自分に酔っている東をほっぽって、俺達はとりあえず食堂に行くことを暗黙の了解で以って選択した。わたわたと追いかけてくる東を尻目に、俺は二人の『妹』を連れて食堂へと向かう。
 午後のHRの前に、教材運びを手伝わなきゃならないので、多少早いがとっとと昼飯としゃれ込もうという判断だ。
「まったく、いーいトモダチだよ、お前は!」
 食堂へ続く渡り廊下のあたりで追いついた東が、じと目で悪態をつく。女性二人は傍観だ。東自身、公約通り、女性にはそういう矛先は向けない。
「お前のポリシーとやらは小さい頃から聞いてんだ、多少表現が修飾されたからって、内容的には変わるまい?」
 嫌味っぽく言ってやると、東はふてくされたように返す。
「フン、お前だってオレと対して変わらんだろーが」
「変わらんかもしれんが、俺は節度と表現方法というものをわきまえてるからなー」
「このやろ!」
 振り上げた東の手刀をかわそうと、身を翻した瞬間、
「……っつ!」
「えっ!?」
 俺は見事に食堂の方から歩いてきた女性にぶつかった。
「大丈夫、翔ちゃん!?」
「大丈夫ですか、お嬢さん!!」
 慌てて無事を確かめる二人のセリフは、もちろん歩と東のものだ(朋花は機先を制されて、黙ってしまった)。
 俺も慌てて被害者の方を振りかえり、即座に謝罪しようとした。あまり激しい衝撃ではなかったが、それでも非礼を働いた事に違いはない。
「大丈夫ですか!?すみません、悪ふざけしてて、前方不注意でした」
「……………………」
「あ……あの、大丈夫、ですか……?」
 返答がないので、もう一度聞きなおすが、やはり返答がない。
 ヤバ、怒ってるな……。
 と思っていると、彼女はその長い髪を掻きあげながら、
「気をつけろよ」
と言って、俺の方を見た。そのシャギーのかかった前髪の間から彼女の顔が見えたとき、俺は、我知らず息を飲んだ。
「あれ、志貴さんじゃないか。おはよう。大丈夫だった?」
「……ああ」
 東は彼女を知っていたようで、あっさりと会話している。そうか、彼女が志貴朱美、本人か。
 顔立ちはかなりの美人だ。長いまつげに整った顔立ち、どこか気だるそうな半開きの瞳は、それだけで男の目を引くだろう。
 けれど、俺が息を飲んだのは、そのせいじゃなかった。この面影、この顔立ちは……!?
「……なんだよ、何かついてるってのか?」
 眉をひそめ、彼女が聞いてきて、それで俺はようやく呼吸が戻った。
「翔ちゃん?」
 歩が怪訝そうに尋ねてきた。俺は静かに深呼吸すると、逆に彼女に尋ねた。
「あの……、志貴、だよな。その、前に会ったこと、なかったっけ……?」
「は?」
 実に胡散臭い聞き方をしてしまったようだ、志貴は思いっきり怪訝な顔をした。
「そりゃ顔くらい見たことあるだろ。去年もこの学校にいたんだから」
 不機嫌そうに言って、志貴は再度髪を掻きあげる。その仕種が、やはり何か、誰かを思い出させてならなかった。
「そう、だよな。ごめん、失礼ばっかで」
 志貴は俺をチラッと見ると、
「ああ、気をつけろよな」
と言って、さっさとその場を去って行った。
 俺はしばらく彼女の後姿を見送っていたが,ふと,傍らに立つ東の表情が妙ににやけているのに気づいた。
「おいおい翔、新学期早々ナンパかぁ?それにしても下手な台詞だぞ。もっとこうインパクトがあり、かつ情熱的に表現せねば、相手の心には届かんぞ」
「お兄ちゃん、うるさいって」
 朋花が窘めるが、彼女も兄同様、どこかにやけた表情である。
 どうやら俺はかなりまじまじと志貴の事を凝視ていたようだ。
 俺は変な誤解をしているだろう二人に慌てて言った。
「おいおい、そういうんじゃないって。ただ、……本当に、どっかで見たような気がして……」
「おーい翔よ、志貴さんは去年もウチの学校に居たの。校舎が全然違ったし、彼女結構サボリ多いから、あんまし馴染み無いだろーけど、そんでもウチの生徒。見たことあんのは当然。OK?」
 東が呆れて俺を見る。
「ああ、それは解ってる。……見たって言うか……何かこう……誰かに似てる気がするんだよ」
「は?似てる?」
「そう。俺の知ってる……筈の、誰かに。そんな気がして……」
「それ、誰?」
 突然、それまで無口だった歩が訊いた。表情はいつものあどけないものだったが、その瞳には何か――昏いモノが潜んでいる――ような気がして、俺は我知らず小さく息を呑んだ。
「いや……、それが思い出せないというか、思いつかないんだけど。だから、会ったことがないかって訊いたんだよ」
 言い訳がましく説明する俺の言葉を聞くと、歩は、
「そう……なの……」
と言って、黙ってしまった。
 どうか、したんだろうか。
 歩に声をかけようとしたら、先に東が話しかけてきた。
「何だか良く解らんが、ただのナンパじゃないにしても、失礼だったことは確かだからな。後で会った時、もう一度謝っておけよ、翔」
 相変わらず女性至上主義な東の物言いを聞いて、何となく心が軽くなるのを感じた俺は、いつも通りに奴に答えた。
「ああ、そうするよ。……っと、そろそろいい加減メシ食うか。午後のHR始まっちまうもんな」
 そう言うと俺は、この場の妙に凝った空気を払うかの様に、東の背中を叩き、食堂へと促した。そして女性陣を振り返る。
「歩、朋花。行こう」
 
 
 その日の夜、夕飯時。俺は未だに志貴の面差しを思い起こしていた。
伏目がちの、長々とした睫毛をたくわえた瞳、すっと通った鼻梁、気だるげに薄く開かれた唇。それらのパーツが均整のとれた配置を成している、その、面影。
 …………『志貴』じゃない。あの顔立ちは、かつて見た記憶がある。
 もっと、どこか捉え様のない、そう例えば魂を何処かに置き去りにした虚ろさを持った、そんな姿、顔立ちを、私ハ――――。
「ちょっと翔!起きてるの?」
 母の声が飛んできて、俺は慌てて気を現実に戻す。気がつけば、危うく箸から唐揚げが滑り落ちるところだった。
「っとと……!ふ〜、危ない危ない」
 絶妙の箸捌きで辛くもテーブルとの接触を免れた唐揚げを、左手に持つ茶碗に乗せ、安堵の息を吐く。
「何やってるんだか。本当にどうしたのよ、今日は。帰ってからずっと、心ここにあらずだわ」
「何かトラブルでもあったのかい、翔?」
 汁椀を卓上に置きながら父が訊いてきた。
「えーと……トラブルって訳じゃないけど……」
 思わず口篭もる。
 学年が変わった節目とはいえ、たかだか新学期の始業式の日に、よく判らないビジョンがよぎったり、いろんな出会い(それが既に知人であるとしても)があったりして、頭が混乱しているのは確かだ。
 ……そうだ、出会いと言えば、あの事を二人に聞くつもりだったんだ。
「そうそう、母さんに訊きたい事があるんだ」
「え?何よ?」
 不意を突かれた母が俺の顔を注視した。
「あのさ……結城紗楽って人、知ってる?」
「……え…………」
「ゆうき……さら…………?」
 母の目が一瞬にして見開かれ、父も同じ様に、ひどく驚愕した表情を浮かべた。
「……翔、何故、お前がその名前を知ってるんだ……?」
「え?えーと……新しく転任してきた先生で、俺のクラスの担任になった人なんだけど。何か、母さんの事とか知ってるみたいで、それで……」
 ただならぬ雰囲気に、何とは無しに口重く言った途端。
 目の前の母が、突如として大粒の涙をぼろぼろと零し始めた。
「母さん!?」
「お母さん!?どうしたの!?」
 すっかりいつも通りに振舞っていた歩と同時に声をあげた。
 一体どうしたんだ、母さんが泣くなんて!
 母は何かを言おうとして声に出せず、こみ上げてくる嗚咽を留めようと口を押さえた。その手は俺達にもはっきり判るほど、ガタガタと震えていた。
 父が母の背中に手を当て、慰め落ち着ける様に優しくさすった。
「落ちついて、綾子さん。大丈夫だから。……翔、歩。悪いが、席をはずすよ」
 気遣う様な目で母を見つめながら、早くもいつもの穏やかさを取り戻した父はそう言って、二人は席を立った。
 包み込むように母を連れ出そうとする父が、ダイニングのドアを開け、振り返った。
「翔、その先生は何か……言ってたか?」
「え、いや。母さん……綾子さんは元気か、って、それだけ。時間なかったし……」
「……そうか」
 そのままドアの向こうに歩み去った。
「どうしたんだろうね、お母さん」
 きょとんとした歩が、それでも心配そうに話しかけてきた。
「うん……やっぱり知ってるみたいだけど、……今は聞かない方が良さそうだな……」
「そうだね……。ねえ、翔ちゃん。先生って、今日転任してきた結城先生でしょ?あの穏和そうなひと」
「ああ」
「東くんが言ってたけど……、翔ちゃん、結城先生を見た時、様子がおかしかったって……。何か、ここじゃない、別の場所で別の世界を見てるような、そんな風になってたって」
「……東の奴、そんなこと言ってたのか?案外鋭いんだよな、あいつも」
「じゃあ……」
「ああ。……うん、まあ、ちょっとその通りだったかも知れない。なんかさ、妙な映像が、頭ン中よぎったような感じがして」
「妙な映像?何それ?どんなの?」
「う〜ん…………、今はよく覚えてないなぁ。その時ははっきり浮かんだんだけど」
 嘘だった。あの映像はまだ脳裏にしっかり残っている。
 だが、歩を心配させる必要もないので、とぼけてみた。
 すると、歩は俺の腕をつかんで、真剣な眼差しで俺の目を凝視てきた。
「本当に大丈夫?私に隠し事はしないでね。また妙な事が起こったら、絶対に一番に知らせて。一人で背負い込まないで。お願い」
「歩……、サンキュ」
 空いている方の手で、歩の頭を軽く叩く。
 自分の事を、本気で心配してくれる存在が居るのが、とても嬉しかった。
「そうだな……。今の処は何でもないと思うんだ。単に寝惚けてたのかもしれないし。ただ、そう……少し、予感がする、気もしないでもないかな」
「予感…………?」
「ああ、良いか悪いかもまだ判らない。ただの感覚。杞憂だと思うし、心配するほどの事でもないさ」
「でも、翔ちゃん、昔から、そういう勘は当たる方でしょう。もしかして、何か……」
「それよりも――、てゆーか、俺が心配なのは、お前の方」
「私?」
「クラス離れちまったからな。何かあったらすぐ俺んトコ来いよ?ただでさえ野郎共に絡まれ易いんだから」
「……そっちの心配もあったね……」
 歩はようやく俺の腕を放して溜息を吐いた。
「正直、嫌になるなぁ。モテていーね、とか言う人もいるけど、全然嬉しくないよ。皆で性欲むき出しの目で、私の体ばっかり見るんだもん」
「おいおい、露骨な言い方だな」
 しかし、その通りである。歩のナイスバディを見ると、大抵の男はそういう目で歩を見てしまうのである。所詮そういう生き物なのだとしても、その視線を投げかけられる身にはたまったものではない(と、推察する)。
「翔ちゃんや東くんはそんなこと無いけどね」
「そういや東ってあんだけフェミニストの割には、と言うか、だからなのか、そーゆーとこ無いな。ある意味紳士というか。……誉め過ぎか」
「うん。でも、私は私で気をつけるから。困った時はすぐに翔ちゃんの処に行くから。昔とった杵柄で、よろしく頼むね」
「昔とったって……お前、俺はまだ若いっつーの!」
「ふふふ」
 気分が和んだ(?)ところで、すっかり冷めてしまった夕飯を胃に片付け、後始末を終える。
 歩は今日の当番なので、朝食の仕込みをする為キッチンに残り、俺は一番風呂を貰う為、自室に着替えを取りに二階へ上がった。
 ふと、両親の部屋の前で、母の嗚咽が聞こえて足を止めた。閉じられた扉からは、母の泣き声と、それを慰めているらしい父の声が、微かに伝わってきていた。
(まだ、泣いてる……)
 俺はとても苦しい気分になり、その場を離れ、自分の部屋へと向かった。
 部屋に入り、照明を点けようとして伸ばした手が、スイッチの前で失速し、空に留まる。
 ……何故母さんは、『結城紗楽』の名を聞いた途端、あれほど取り乱したんだろう。何故、あれほどの涙を零したんだろう。
 普段、というより今に至るまで、俺はほとんど母さんの泣き顔を見たことは無かった。それぐらいあの人は、いつも笑うか怒るか+αの表情しか見せなかった。それなのに、、今日は一体何がそんなに心を揺るがしたのか、と思うほど、突然堰を切って泣き崩れた。――『彼女』に関わる事だから――?
 …………結城……『紗楽』。
 懐かしさ、暖かさ、愛しさ、……哀しさ。
 彼女を目の当たりにした時感じた強い思い、感情。それが、母の突然の変化とどこか繋がっているのだろうか?
 そして気になっているもう一人の女。志貴朱美、正確にはその面影の女性。
 今日出会った二人の女性は、それぞれに俺の中に強くその存在を刻みつけていた。俺の知らない『自分』は、確かに彼女達を知っている。
 けれど『俺』には判らない。幾重にも蓋されたかのような、深みにある感覚。
 これは、一体『何』なんだ――――?
 

 
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