三.新学期
 
 朝、眠そうな顔が群れを成して、学校の校門をくぐっていく。新学期早々うららか極まりない陽気で、始業式の居眠り人数の多いこと請け合いの天気だ。三々五々登校してくる生徒達は、各々掲示板の方へ向かい、そこに示された新しいクラス分けに従って教室へと向かって行く。そんな訳で、掲示板前はかなりの混雑で、仕方なく人が少なくなるのを待つしかなかった。
 行き交う知人と挨拶を交わしながら、俺は何となくふらふらと校庭の方へ目を向ける。敷地にめぐらされた桜の木が、春の陽だまりの下、柔らかくほころんでいる。あと数日で咲き始めといったところだ。
「今年もお花見したいねぇ」
 傍らにいる歩が言った。
「そうだな、今年は夜桜見物でもやるか。静かな穴場見つけてさ。公園だとうるさすぎるから」
「あたしは思いっきり騒ぎたいな〜」
 後ろから声をかけられて振り向くと、はたしてそこには悪友・美采が立っていた。
「ハロ〜、ペケちゃんに歩ちゃん、元気だった?」
 小悪魔的な微笑を浮かべ、朗らかに手を上げて挨拶してきた。
「あ、如月さん、久しぶり!」
「なんだ、お前、居たの?」
 瞬間口の端を引きつらせ、美采は俺をジトッと睨みつける。
「なによそれは。数週間ぶりに会った友人に対して、ず〜いぶんと失礼な台詞じゃなくって、ペケちゃん?」
「だってお前、去年の遅刻者回数、ダントツで一番じゃねーか。多分今日あたりも寝坊してるかと思ってたぜ。それよりいい加減ペケちゃん呼ばわり止めろ」
 美采は俺の台詞の後半部分は無視して反論してきた。
「眠いんだもん、良いじゃないの。大体、朝八時半に始まる学校が悪いのよ。低血圧の人間を無視しきっちゃってさ。フレックス制が導入されてれば、あたしだって遅刻なんてしないわよ」
 ううむ、完全に開き直っとるな、コイツは。これでは今年も遅刻魔王の栄冠はこやつの頭上に輝くことになるだろう。
 と、その時、美采の後ろからやってくる姿が目に入った。
「相変わらず無茶苦茶言いますね、如月さんは」
「あ、おはようございます、嵯峨先生」
 同音異口に答えた俺と歩の言葉を聞いて、美采が弾かれた様に振り返って慌てる。
「あっ!嵯峨先生!?わっ、え、えっと、お、おはようございますッ!!」
「はい、おはよう。でもそんなに取り乱さなくても良いよ。新学期早々説教するわけじゃないからね」
「はっ、はいっ!!」
 慌てまくってる美采とは対照的に、嵯峨先生――嵯峨真弓(さがまゆみ)先生はおっとりと構えている。女みたいな名前だが、れっきとした男性教師だ。31歳、独身。穏やかな物腰と、公平な人柄で、今時の教師には珍しく多くの生徒に慕われている。
 去年度、美采のクラスの担任だったのだが、いつもは悪童的な美采も、嵯峨先生の前では調子が狂うらしい。確かに穏やかな中にもどこか威厳を感じさせ、迂闊に無礼に接してはいけない人、ではある。ちなみに古文教師で、去年俺のクラスも担当していた。
「天原さん達も、お元気そうで何よりだ。クラス分けはもう見たのかい?」
「いえ、人が多かったんで、見計らってから、と……」
「そうか。でもそろそろ大丈夫だろう。早くしないと始業式に遅れるから、気をつけなさい。それじゃ、私はこれで失礼するよ。入学式の準備もあるからね」
「はい、こちらこそ失礼します」
 俺達が軽く会釈をすると、嵯峨先生は笑って体育館の方へ向かっていった。その途端、美采がフゥーッ、っと思いきり息を吐き出す。
「何だ美采、まだ嵯峨先生の前だと緊張しまくりなんだな」
「う〜ん、嫌いって訳ではないんだけど、なんでか緊張するのよね〜。いわゆる恋愛感情ってもんでもなくってさ、言ってみれば、……位負け?に近いよ〜な……」
「なんだ、そりゃ」
「だからわかんないんだって言ってるじゃんか」
 そこに歩が口を出した。
「翔ちゃん、本当にそろそろ掲示板見ようよ。空いてきたし、時間ないよ」
「おっと、そーだな。美采に関わって危うく遅刻しかねん。さっさと見るか」
「あ、ちょ、ちょっと待ちなさいよっ」
 美采をほっといて、俺と歩は掲示板に近づいて行った。歩が笑って話しかけてくる。
「また去年みたいに一緒だと良いね。もちろん東くんも」
「そうだなぁ。あ、でも、別のクラスだと、教科書とかの貸し借りできるから、必ずしも悪いって訳じゃないだろ」
「それはそうだけど、でも、やっぱりクラス違うのって大きいし……」
 そう言いながら、掲示板を見る。2年A組……B組……あった。
「俺はB組か。お、東もいる。歩は?」
 すると歩はしょんぼりした顔で答えた。
「私、F組……。離れちゃった」
「……そっか。あ、でも、朋花が一緒じゃないか」
「え、……あ、ホントだ、よかったぁー」
 はじめて気がついたように、歩はホッとした表情を見せる。仲の良い友達がいれば、少しは歩も安心できるだろう。
 その時、横合いから昨日聴いたばかりの声が聞こえてきた。
「よっ、翔に歩、おはよーさん」
 顔を向ければそこには我が友の姿があった。
「東くん。おはよう」
「おう、東、おはよ。お前もクラス分け見に来たのか?」
「いや、オレはとっくに見終わってんだけど、お前さん達が遅いから、この辺にいるかな〜って」
 わざわざ迎えに来てくれたらしい。今時友誼に厚いヤツだ。こちらもなんとなく嬉しくなってくる。
「残念だったよな、歩。オレだけじゃなく翔とも離れちまって。でもさ、ウチの妹は一緒なんだし、ちっとは元気出せよ、な」
 東はちょっと気を遣うように笑いながら歩に言った。すると、
「そうよ。学校にいる時くらい、女同士の友情を深めましょ、歩」
と、東の蔭から長いウェーブヘアをなびかせて、小柄な女の子が顔を覗かせた。
「朋花」
 歩はほっとしたように笑った。
 この朋花という女の子は、東の同学年の妹である。俺のような養子とか、親が再婚同士の連れ子とか、そんなのではない、れっきとした100%実の兄妹である。東が4月3日生まれ、朋花が翌年の3月28日生まれという、そう言った理由の為、同学年に在籍しているのだ。
 かつて幼い頃は天原家と長谷尾家のちびっ子四人は、何をするにも一緒の仲間であった。当時長谷尾家は我が家の隣で、狭い行動範囲の子供が親しくなるにはお手軽な相手だったからだ。
 中学二年の時、東の親父さんが宝くじで一攫千金を果たし、いいかげんガタのきていた借家を見捨て、ひとつ駅先の地に新居を構えたために、昔ほどには家同士の交流は多くはなくなった。
 東も朋花も、特に転校することもなく電車通学で頑張って通学していたが、元来外出好きの東はともかく、手芸というインドアな趣味を持つ朋花は、あまり出好きではない、と言うか、出不精だ。だから昨日の外出にものってこなかったし、去年クラスが違かった事もあって、やや疎遠になっている。ただ、歩とは非常に仲が良く、しょっちゅう電話などで話していた。
 因みに俺は東と同様に出好きな人間である。……どうでもいいことだけど。
 
 
 とりあえず、幼馴染み四人組が揃ったところで、俺達は校舎に向かうことにした。美采はいつの間にか姿が見えなくなっていた。まったく神出鬼没なヤツである。
「なあ翔、知ってるか?」
 歩きながら東が話し掛けてきた。
「なにが」
「今年のオレ達の担任だよ」
「ああ、そのことか。知ってるも何も、掲示板に書いてあったじゃないか。内田先生だろ?まあ悪くはないだろ」
 内田先生とは、去年物理の授業を担当していた三十がらみの女性教師で、容姿も性格も特に難がなく、生徒の評判も悪くはない。これといってクセもないので、印象に強く残る教師でもないが、担任としては結構な方だ。
「それなんだけどな。ほら、内田先生、妊婦さんだったろ。出産予定日が六月だったのに、それが早まったらしくてさ、出産の為に緊急入院だってさ」
「ほんとかよ!?」
「それが昨日のハナシ。もう生まれたそうだけど、子供は未熟児だし、まだ母体の方も予断をゆるさないって事で、学校もしばらく休職だってよ」
「そっか…………。元気になると良いけどな……」
 心が疼く。そういう話を聞くといつも神妙な気持ちになってしまう。
「ん、じゃあ、俺達のクラス担任って、どうなるんだ?」
「そうそう、それだよ。内田先生がそんなだから、急遽別の先生に担任が変更って事でさ。どうやら、今年赴任してくる教師がそうらしいぜ。何でも三十歳前後の、上品そうなご婦人だそうだ。前の学校での評判は、教師・生徒・PTA全てに良好だったとか。幸先良さそうだぞ、うん」
「へぇー」
「まあ、もともと内田先生が出産に入ったらその先生が代理担任になる予定だったらしいんだけどな」
「……お前何でそんなに詳しいんだよ?昨日今日の話だろ?」
 一体どうしてそこまで、というくらいの情報だ。らしい・だそうだ、というから、誰かから聞いた話なのだろうが、それにしても、新任教師の前評判やら、何故一介の生徒が知りおおせるのだろうか。
 と思っていたら、次の東の台詞で謎が解けた。
「今朝、電車ん中で雅先生に聞いた」
 なるほど。
 雅先生とは、去年のクラス担任だ。羽束雅(はつかみやび)と言うのが正式名で、今年25歳になる自称『美人』の英語教師である。非常に明るく勝気な人で、良く言えば快活・闊達、或る意味で豪快(?)、悪く言えば大雑把。年相応の落ち着きはあるものの、時々生徒と一緒に騒ぎすぎることもある。実際結構な美人で、流れるような黒髪が自慢のちゃきちゃき姉ちゃんタイプの教師である。それだけに生徒らの評判は賛否両論だが、なぜか俺や歩、東などとはウマが合い、顔を合わせると必ずあれこれ話をしてくれる。
 東・朋花兄妹と雅先生は居住地が近く、通勤通学の手段と時間がほぼ同じなので、今のような情報も入ってくるというわけだ。
「雅先生は今年はF組、つまり朋花と歩の担任だそーだ。ついでに美采の担任は今年も嵯峨っち。A組だとさ」
「ふーん、そっか。しかしA組とは、美采のやつ相変わらず侮れんなぁ。特進コースじゃないか」
 美采のヤツは性格は問題だが、学業成績はすこぶる良好だ。理解力・記憶力・応用力に秀ででいるという事なのだろうが、なんとなく釈然としないものが無いでもない。
「やっぱ、影の参謀は頭が良くなくっちゃね〜」
とは、本人談。こいつは将来何になるつもりなのやら、と思ったことが何度もある。少なくとも良識ある地道な公務員にだけはなれるまい。
 どうでもいいが、嵯峨っちとはいうまでも無く、先刻の嵯峨先生のことである。
 男性陣はそんな事を、女性陣はまた別のことを語り合いつつ、クラス棟の中へ入り、それぞれの教室へ分かれることとなった。
「それじゃ歩、俺達もっと先だから」
 歩に声をかけてやると、歩は少し不安そうな顔で、
「うん……。またあとでね?」
と、返事をする。すると突然東に後頭部をどつかれた。
「いてっ!」
「だーいじょうぶ、歩。翔が浮気しないよう、オレがしっっかり見張っててやっから♪安心してろって!」
「お前ほど気が多くねーぞ、俺は!」
 俺の頭をわし掴んでグシャグシャかき乱す東に対し、俺は胸倉に肘打ちを喰らわせてやる。
「ぐっ……痛ぅー……。手加減しろよ、おい」
「仕返しじゃ。それに手加減したぜ。しっかりしろよ、空手部のくせにガードが甘いぜ?」
「………………へっ」
「………………ふっ」
 不敵な笑みを浮かべる俺達を見て、女性陣から笑い声が発せられる。いつもの恒例行事なので失笑に近いかも知れない。
「まったく……。顔を合わせるたびにこうなんだから。お兄ちゃんも翔くんも、いいかげんマンネリ化してるわ」
 朋花が呆れて歩にこぼす。 
 すると、そこに溌剌としたメゾソプラノが降って来た。
「もう、あなたたち相変わらずじゃれてんのね。もうすぐ始業式始まるんだから、さっさと教室行きなさいよ。遅刻扱いにしちゃうわよ」
 声の持ち主は雅先生だった。呆れたような台詞とは裏腹に、その顔は明らかに面白がっている。
「あ、おはようございます」
「おはようございます、先生」
 俺と歩が唱和する。
「はーい、おはよ。今年一年よろしくね、歩さん。翔クン、残念でした、クラス別で。歩さんとも私とも、ね?」
 にっこり笑って返答する。ついでにウィンクもおまけにつけて。つられてこちらも笑い返す。
「ほんとですね。雅先生のクラス、楽しかったんだけどなぁ」
「うふふ、嬉しいこと言うなぁ。でも、あなた達の新担任、とっても良い人だから安心しなさいな。一年後には、今の台詞の主語変わってるから。保証するわよぉ、マジで」
「変に自信有り気ですね……」
 そんなに素晴らしい人なのだろうか、新担任って。
「ま、ね。それより、本当に早く行った行った。話とジャレ合いは後でも出来るけど、始業式は10分後よ。荷物置いて、体育館行きなさいって。B組担任、打ち合わせで呼びに来れないんだから」
 言われて時計を見ると、確かにもうそんな時間だ。
「いかん、翔。急がねばだ」
「おう、そうだなそれじゃ」
 女性陣に手を振って、歩の顔を見れば、先ほどの不安げな顔は消えていた。心の中で安堵のため息をついてから、俺は東に続いて踵を返した。
 
 
 教室に鞄を置き、生徒達はそれぞれ、もしくは教師に先導されて体育館へ向かった。渡り廊下から見る空の色は朗らかで、その穏やかさに思わず欠伸をする。
「おいおい翔、始業式に寝るなよ?気持ちはわかっけど」
 隣を歩く東が声を掛けてくる。
「いくらなんでも、立ちながらは眠らんて。ま、でも倒れたら頼むわ」
「あのなー。美采じゃないんだから。あいつの人事不省グセはいつものことだけど、お前までは面倒見きれんぜ、オレ」
「はは、そりゃそーだ。でも、ホント、いい天気だよな」
 ふと気を抜けば、意識が遠くへ飛んでいきそうなまでの穏やかさ。学生のサイクルには合わないこの長閑さは、しかし、これからの始業式に大変苦渋の我慢を強いることになるだろう。まったく、多くの生徒にとって難儀なことである。俺を含めて。
 生徒がざわざわと体育館に集合し、あらかた列が整ったところで、予想通りに退屈な始業式が始まり、校長の話だの、生徒指導の話だの、進路指導の話だのがだらだら続いていった。15分を過ぎたあたりから、俺の視界もぼんやりし始め、後ろの東に幾度となくつつかれる始末だ。
 もっとも周りを見れば、同様の風景がここかしこに見え、中には確実に眠っている剛の者も居る。その一員には悪友・美采も居て、ある意味感心しながらやれやれと小さく息を吐く。
 そんな緊張感の無い時間が過ぎ行き、教師連の長話も終わった頃、俺はふと、『何か』を感じて顔を上げた。
 『何か』…………懐かしい、そんな『何か』が、近くにいるような、そんな感覚。そんな、暖かい、感じが、………………。
 
   『ヤソヒコ』
 
 不意に、呼ばれたような、いや、思い出したような、そんな名詞が耳に入ってきたような気がした。誰かの名前…………ソレハ、『俺』ノ名前ダッタロウカ…………。
(おい、翔、どーした?)
 東がこっそり声を掛けてきて、はっとして、慌てて周りを見まわす。だが、相変わらず、眠たげな空気が蔓延している体育館で、何も変わりはない。
(どーしたよ、マジで。寝ぼけてんのか?)
 怪訝そうな声で東が聞いてくる。微かに振り向いて、その顔を見た瞬間。
 本当に一瞬。
 東の顔が別人に見えた。
「!?」
 だが、改めて見れば、やはりそれは東だった。
(翔、大丈夫か?)
(…………いや、何でもない。……と、思う)
 顔を正面に向いて答える。一体、今のはなんだったんだ?
(はぁ?やっぱ寝ぼけてんのか。それより、これから新任教師の紹介だぜ。オレ達の担任も居るから、しっかり聞いておこうって)
 「――では、これから新しくこの学校に赴任された先生方を紹介します。先生方、どうぞ壇上にお上がり下さい」
 確かにもうそんな段取りに至っていて、俺も慌てて姿勢を正す。雅先生絶賛の担任がどんな容姿なのか、多少なりとも興味があった。三十歳前後と言うから、ある程度の落ち着きはあるだろうな、とか考えているうち、数人の見慣れぬ教師がステージに上がっていった。
 一人、二人、三人、……合計九人。
 新卒も含めりゃこんなもんか、と思いながら、最後に上がってきた女性を見た。
 柔らかそうなショートカットの髪形をした、流れるように歩くその女性の顔を見た、そのとき。
『――――紗楽!?』
 俺の脳裏に、『俺』の声じゃない声が響いた。それと同じに、ドクン、と心臓が跳ね上がり、頭の中に、何かの映像がよぎった。
「!?」
 
 
 大気中に満ちる血の臭い。建物は焼かれ、くすぶる煙が喉を焼き、うまく呼吸が出来ず、体の傷が疼く。
 涙に埋れたかすれた声で、俺を支えるように抱きしめる彼女は言った。まるで懇願するように。
「追いかけて、逢いに来てね。私、あなたに逢いたいから。始まりの私はあなたを知らないけど、でも、あなたが逢いに来てくれれば、私、必ずあなたを好きになって、あなたの助けになれるから。だから、絶対、逢いに来て。約束、必ず守るから…………。お願い、……八十彦」
 まだ、大人に成りきらない彼女の、心からの言葉が、俺には何を意味するのかが解らなかった。けれど、追いかけて来て、という言葉は、俺の望みと同じだった。俺と、俺の中の『ワタシ』の…………。
「ああ。きっと傍に行く。お前が俺にくれたたくさんのもの、一時の夢にはしたくないから。必ず、追いかける。約束するよ、……『紗楽』」
 少し離れた位置で、ここまで彼女を連れてきた阿多知が、何かに気付いたように声を掛けてきた。
「兄者、狭野命の軍の者が近づいてきます!早くしなくては……!」
 その声を聞き、俺は抱きしめていた紗楽をゆっくりと解き放ち、彼女の顔をもう一度見つめた。
「…………さよなら、紗楽。あとは……頼む」
 煤と泥に汚れた顔を軽くぬぐうと、かつて俺に笑顔を取り戻してくれたやさしい微笑が、彼女の顔に浮かんだ。
「わかってる。約束だもの、この子は絶対守る。だから、…………また、あとで」
「……ああ。また、あとで逢おう。必ず、逢いに行くから…………」
 自分の中の力の高まりと共に、周りの空気が動き出す。只人には判らない力の波動が、天に向かって渦を巻く。そして、少しずつ薄れていく愛しい人の姿、声、微笑み、…………温もり。
 その全てが過ぎ去ったあと、阿多知がある決意を秘めた眼でゆっくりと歩み寄ってきた。その背後には、甲を身につけた兵士達が姿を見せ、俺は満足に力のこもらない手で、佩いていた剣を取った…………。
 
 
「――――では、最後に二年B組の担任となられます先生を紹介します。結城先生、挨拶をお願いします」
 はっとして壇上を見上げれば、かの女性がマイクの前に立って挨拶をするところだった。
 知らない顔。なのに、知っている顔?たった今見えた映像の『彼女』の面影が、壇上の彼女にもあった。まるで、かの少女が大人になった、その姿のように。
(何なんだ、一体……)
 考えても判らない頭のまま、俺の視線は彼女に注がれていた。引かれる様に、吸いつけられる様に、何かの答えを出そうというように。
「はじめまして、皆さん。豊波高校から赴任して参りました、結城紗楽(ゆうきさら)、といいます。日本史が担当ですが、その他の点でもいろいろと接する機会もあると思いますので、どうぞよろしくお願いしますね」
 彼女の挨拶が始まった。無難な台詞だが、何故かとても暖かい響きがあった。何もかも包み込んでしまうような、寧らかで、それでいて明瞭な声。ふと見れば、周りの眠たげだった生徒達のほとんどが、彼女を見、まじめに挨拶を聞いていた。
(おい翔、素敵な女性じゃないか。これはかなりラッキーそうだぞ)
 嬉しそうに囁いてくる東の声が聞こえたが、俺はろくに聞いてもいなかった。彼女、結城紗楽の声が、先程の映像の『紗楽』と、まったく同じものだったから。
 何故、一体、どうなっているんだ?そう思いつつ、どこか安堵の思いを抱いている自分がいて、それもまたおかしい気分だった。
 そんな風にぐるぐる考えていると、いつのまにか壇上の彼女は挨拶を終えていた。そして別の教師に誘われ、元の位置に戻る前、生徒に向かって微笑んだ。
 その微笑みは、俺にとって、そう、とても、懐かしく愛しいものだった。
 マルデ、遠イ昔ニ失ッタ、アノ方ノ微笑ノヨウニ…………。
 

 
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