君纏う彩 3 |
すっかり夜も更けた頃、政務を終えたアシュヴィンは一人、自室に向かって回廊を歩いていた。 さすがにこの時間ともなると人も少なく、長靴が石床を叩く音がよく響く。時折擦れ違う官や女官が礼を取るのに軽く手を上げて応えながら、彼は先ほどのリブとの会話をふと思い返した。 (子、か。まだ早い……と思ってしまうのは、千尋のせいだろうな) 諸官も折りに触れ後継の事を仄めかすし、女官はこれまた後継云々関係なく最初から期待満々だ。当事者としては苦笑するしかないが、それだけ常世が己の政で安定して来た証左だと思えば悪くない。 勿論、後継に関しては、共寝するようになってから千尋と話した事がある。 王族の義務、という観点からは彼女も納得したようではあった。 だが、その後に。 『ただ、その……後継ぎが早く欲しいって言うのは、解るんだけど……その、私個人としては、あの、出来ればもうしばらく、ううんもう少しで良いから、その……新婚の気分を味わっていたいっていうか……』 などと顔を真っ赤にしながら上目遣いで言われた日には。そんなかわいい事を言われたら、要望に応えねば男が廃るというものだ。 聞けば異世界では十七という年齢はまだまだ子を産むには若いと見なされる価値観だったというし、千尋の華奢な体を見ていると、確かに子産みにはもう少し時間を置いても構わない気がする。それに子が出来れば千尋の事だ、その子にかかりきりになるのが目に見え、それはそれで寂しかろうなと容易に想像がつく。 そんなこんなで、現状では子が出来るか否かは完全に運任せ、という意見で千尋と一致している。互いの多忙さ故にそうそう毎晩閨事に及ぶ訳でなし、この辺は仕方なかろう。新婚気分に浸っていたいというのは実のところアシュヴィンもそうなのだし。 「とはいえ、他豪族から側女だの何だのをねじ込まれる事態は避けたいんだがな」 地方に視察に行くたびにあれこれ探りを入れられるのも、それとなく出される縁談を上手く躱すのもいちいち鬱陶しい。運任せではあるが、しかし早く子が欲しいというのも公私共に事実。複雑なところである。 「…………ん?あれは……」 考えを巡らせつつふと回廊から庭園の方を見下ろした時、庭園の隅の方にいた二人組が目に入った。回廊に吊られた篝火の明かりで見えたのはどうやら一組の男女のようだ。 片方は服装と体形からして女官のようだが、もう片方は。 「那岐?」 千尋と共に中つ国に行っているはずの那岐が居た。 「ん?…………ああ、アシュヴィンか」 声が聞こえたのか、那岐がこちらを振り向く。向かい合っていた女官はアシュヴィンの姿を認めてか、慌てて頭を下げた。 「中つ国に行っていたんじゃなかったのか?」 庭に通じる階を降りようとすると、那岐の方も近づいて来た。 「行ってたよ。単に用事が出来て先に帰って来ただけ。……布都彦や足往がギャーギャーうるさかったからってのあるけど」 溜息を吐きながらいつものように面倒臭そうな表情で答えるのを見て、アシュヴィンは思わず吹き出した。 「なんだ、またか」 「まったく、行くたびに『陛下に対してその態度はどうか』『せめて人前では改めるべきではないか』とか何とかサラウンドで聞かされてさ。無視したって放っとけって言ったってどうせ更にうるさくなるだけだし、さっさと逃げる方が得策だろ?」 千尋が構わないって言ってるのにさ、とヤケクソのように呟いたので、アシュヴィンは更に笑みを深くする。毎度毎度よくまあ飽きずに同じ遣り取りを繰り返しているものだ。那岐も那岐で何だかんだある程度は相手をしているのも笑える。本当に面倒なら顔も合わせないようにするだろうに。 「まあ、その点は同意するにやぶさかじゃないがな。それより――――」 アシュヴィンは笑みを別の物に変えて、那岐の背後に居る女官の方に視線を送った。チラリとこちらを窺っていたのか、女官はまたも慌てて頭を下げる。物慣れなさは、さては新入りの女官だろう。千尋が来てからこの宮にも女官が増えた。 「珍しいじゃないか、おまえがこんな夜更けに庭園で女と二人きりとは。ひょっとして邪魔したか?」 アシュヴィンがニヤニヤと笑うのが見えたのだろう、那岐は呆れたように首を横に振った。 「変な邪推はごめんだよ。庭園に張ってある結界に異常が無いか調べてたら、あの女官が道に迷ったとかで泣きついて来たんだ。入って間もなくて、まだ宮の構造がサッパリらしい。後で新人用に見取り図でも作って配ったらいいんじゃない?」 「なんだ、つまらん」 常と全く変わらないテンションで説明されたが、予想はしていたので軽く返すだけに留めた。 「女官の人気も高いというのに、勿体無い事だな。たまには一人二人、手を出してみたらどうだ?」 端正な容姿とクール&ドライに見える性格から、那岐に対する女官の好感度はかなりのものだ。皇妃の身内兼側近とはいえ高位の官に就いている訳でもないので、計算高さによる秋波ではなく純粋な秋波である(風早は風早で温厚な人柄ゆえにこれまた人気は高い)。 「残念ながらそこまで飢えてないよ。まして困ってる女に付け込むなんてね」 「そうか、残念だな」 那岐に好きな女でも出来れば、千尋の側近というその立場に皇たる自分が嫉妬するなぞという笑い話にも縁遠くなりそうなのだが。 そんな心情を知ってか知らずか、那岐はふわぁ、と大きくあくびをした。 「それじゃ、僕はこれで。結界も点検したし、道も教えたし。詳しい報告は明日で良いよね。今日はもう眠くてたまらない」 「ああ、構わん」 「そうそう、向こうは相変わらず大事はないよ。各地の豪族は忍人が上手く睨み効かせてて静かなもんだし。例によって狭井君が千尋に永の帰還を要請してたけど、例によってシラッととぼけて躱してたし、それ見て岩長姫がニヤニヤしてたのもいつもの通り」 「それだけ聞けば十分だな。詳しい報告は特に要らん。千尋が帰って来てからまとめて聞くさ」 「そりゃ助かる。竹簡書くの面倒だしね」 お決まりの台詞を言ってから、那岐は手をひらひらさせながら回廊へと上がって行った。歩きながら欠伸を連発しているあの様子では、明日は昼近くまで高鼾かも知れない。 「さて……おい、そこの」 回廊の向こうに消えていく那岐を見送ってから、アシュヴィンは振り返って、先程からそこに立っている女官に声をかけた。 「――――は、はい!?」 「宮の中とは言え夜に女が一人でうろつくのは危険だ。早く部屋に戻れ」 「あ、は……はい!」 まさか皇に声を掛けられるとは思って居なかったのか、思い切り裏返った声で女官は返事をした。その裏返りように思わず軽く吹き出しそうになりつつ、自室に向かおうと踵を返し、――――返しかけて。 (………………?) 何やら、違和感を感じた。 感じたままにもう一度振り返り、頭を下げたままの女官を見遣る。 (何だ?) ざっと見た感じ、至って普通の娘だ。顔は伏せているので見えないが、風除けの襲(おすい)から覗く黒髪や袖口から見える褐色の肌はこの常世ではありふれた色、特段気になるようなものではない。服装は女官のそれ、新人だからか少し草臥れた先輩の古着だろうが、華奢な体とは寸法が合っていないのか多少服に着られているように見える。その程度だ。 その程度、なのだが。 (なんだ、この違和感は……) 何となく、ピンと来るものがある。自慢ではないが、こういう勘は外れた事が無い。 その勘に従って再度女官を眺めて――――そして、気が付いた。 「おい」 「は、はい!なんでしょう!」 「その襲だが……確かそれは皇妃の物ではなかったか?」 「!!」 アシュヴィンの言葉を受けて、女官の肩が明らかにビクッと震えた。 「その織りと色には覚えがある。確か結婚祝いの一つとしてシャニが皇妃にと贈ってきたものだ。俺も何度も目にしている」 いつもながらに侮れず卒のない弟の気配りには苦笑せざるを得なかったが、千尋によく似合うその色と上等な織には素直に感嘆した。千尋も気に入って愛用している品だ。 「こ、これは、その……!」 「見間違いかとも思ったが、その光沢と色艶は余程の熟練者でないと出せないし、そもそも手間がかかる。まして皇妃の愛用の品はシャニがかつて懇意にしていた中つ国の出雲の職人を拝み倒して作らせたものだ。交易で似たような品が入って来たにせよ、新入りの女官がそうそう手に入れられる値の品だとは思えんが?」 アシュヴィンがそう言うと、女官は「うそ、これってそうだったんだ……」などと呟いている。 そうだ、シャニはあの時どうやって入手したかまでは千尋には詳しく説明しなかった。勿論兄であるアシュヴィンは、シャニが頑固極まりない老齢の職人を賞賛しつつも「本当、平身低頭する勢いで日参してやっとの事で作ってもらえたんだからー!」と頬を膨らませて愚痴っていたのを知っている。 「…………で?」 庭園をそのまま横切り、女官の目の前に立ちはだかったアシュヴィンは軽く首を傾げて問うた。 「何をしてるんだ、千尋?」 |