君纏う彩 4 |
――――変装する時に、ふと思いついた事があった。 術をいつ解くかはともかく、こんな機会なのだから普段はなかなか覗けない夫の日常を観察してみたい。それも千尋が在る今では見られない、彼一人のプライベートの姿を。自分の知らない彼を知りたいと。 だったら、女官に化けるのが手っ取り早い。女官なら命令だと言えば大抵の場所には出入りできる。 勿論、自分以外の女人に甘い言葉など贈ってないか知りたかった気持ちもあったので、事情を話し協力を求めた側仕えの女官達には苦笑され、那岐には「どこの興信所の浮気調査員だよ」などと呆れられたのだが、それでも知りたかった。 そんな、我ながら恥ずかしさを堪えての行動だったにも関わらず。 「…………どうしてバレたの」 しかもこんなあっさり。襲をずるずると引き下ろしながら、女官――もとい千尋は顔を上げた。その双眸が常の碧玉ではない事にアシュヴィンはやや眉を顰めたが、顰めるだけに留めて問いを続けた。 「どうしてバレないと思ったんだ?」 「だって……髪も肌も、目も、全然素の私と違うし」 「ああ、最初は騙されたな。色も違えば、髪型も全然違っていたし」 そう言ってアシュヴィンは千尋の髪に触れる。女官らしくきっちりとまとめられ結われた長い黒髪。多少伸びたとはいえ、千尋の髪はまだここまで伸びていない。 「鬘(かつら)か?これは」 「髢(かもじ)。鬘は結構重かったから」 「地毛はどうした?染めたのか?肌や瞳は?」 「髪はね。他はその、幻覚っていうか」 「……なるほど、それで那岐か」 道理で珍しく那岐が夜の庭園で女と二人で居たわけだ。その女が千尋だったと気付いてしまうと、ついつい機嫌が悪くなる。問う声も固くなった。 「で?常世の皇妃たるものが、何ゆえ政務を放棄してこのような事を?」 すると千尋は彼の苛ついた声色に反発するように、アシュヴィンをキッと睨んだ。 「放棄してないよ。今回は元々今日帰るって事で向こうには話してたし、仕事はちゃんとやって来たもの。女官の皆にも少し気晴らししたいから一日二日はお休みするって言ってあるよ」 官とのガチンコ折衝の為か、千尋は大抵帰還直後は疲労困憊な事が多い。その為、その後に休養を摂るのもよくある事だった(というより摂らせるのだが)。 だとするなら。 「何故俺にその予定を告げない。……いや、それよりもだ。その姿……あちらの官共に何か言われたか」 だとしたらただでは済まない。中つ国に攻め入る気はサラサラ無いが、己が国の女王を辱める言動を取るような官を放置して置きたくはない。多分に私情が混ざっているのは承知の上だが構うものか。 しかし千尋はキョトンとした表情を浮かべて、すぐに慌てて頭を横に振った。 「あ、ううん。なんか影では相変わらずコソコソ言ってる人もいたけど、風早が注意してくるって行ってからは別に何も言われてないよ。というか、それ以降その人見てないんだけど、どうしたのかなぁ」 何をどう注意した風早。個人的には『ぐっじょぶ』と言いたいところだが。 「ならば何故だ?皇妃たるもの、周囲の人間を振り回す事による影響くらいは把握して欲しいものだが」 「それは……ごめんなさい。予定の事は……この術が上手くかかるかどうか判らなかったから、少し余裕が欲しかったの。衣装を着飾るのとは訳が違うし、あまり大げさにするつもりもなかったし」 「では何故、そんな術をかけようなんて思ったんだ?」 「……それは、その、………………」 それきり黙ってしまった千尋に、アシュヴィンは大きな溜息を吐いた。自分に内緒で物事を運んでいた事に対する苛立ちも手伝って、その溜息はかなり刺々しいものになる。 「まったく。いくらストレスとやらが溜まっているからといって、気分転換ごときでこんな馬鹿げた事を仕出かすとはな」 不機嫌な表情で述べられた言葉を聞いた瞬間、千尋の血は一気に頭に上り、現状による混乱も手伝って思わず叫んだ。 「だって、アシュヴィンっていつも私の容姿ばっかり褒めるじゃない!!」 その勢いに圧され、アシュヴィンは思わず後退った。 「………………は?」 間抜け極まりない返答しか出来なかった点については同情してもらいたい(周囲は無人なのでその辺で鳴いてる虫でも良い)。 呆気に取られたアシュヴィンを尻目に、千尋はなおも続ける。 「褒めてくれるのは確かに嬉しいの。でもね、そればかり褒められてると、他に私には魅力が無いのかって思うんだよ。女としての魅力なんて全然皆無だし、政だって皆に協力してもらってやっと回ってる程度だし、だったらじゃあ容姿を取ったら私に残る物って何なの?容姿以外でアシュヴィンを惹き付けられる物なんて持ってるの?自分じゃそんなの判らないんだもの!だから、」 そこまで言って千尋は口を噤んだ。思わず暴露してしまったが、本当はこんな事を言うつもりなんて無かったのに。 「…………だから?」 アシュヴィンに言葉尻の接続詞を問われ、千尋は顔を伏せながら小さな声で答える。 「だから……金髪とか青い目とか、そういうのがない私でもちゃんと見てくれるのか、…………ただ、知りたかったの」 それだけなの、ごめんなさい。 細く呟いて、千尋はそのまま悄然と項垂れる。 わがままだったの。外見だけを好きなんじゃないって、『私自身』を好きで居てくれるのか、実感したかった。それだけなの。それだけだったの。 そんな彼女の心の声が聞こえて来るような細い肩を見つめながら、アシュヴィンは内心で自嘲の溜息を漏らした。 (……作戦は失敗だったか……?) 風早から千尋の子供時代を聞かされて以来、アシュヴィンは彼女のそんな不遇な記憶を上書きしようと彼なりに心を砕いていたのだ。一番判りやすい容姿を頻繁に讃えていたのはその所為もある。純粋に称賛したかったのも多分にあるが、そんな気持ちがあったのは否定しない。 (しかし……やりすぎだったのか?) 言われてみれば、容姿を称賛しまくった覚えは十分過ぎるほどあるが、それ以外の例えば内面に関して言葉にした事は少なかったような気がする。閨での行動が可愛いという台詞は別として。 (そんなはず、ある訳ないだろうが) 外見だけで、おまえに惹かれたなどと。 だから。 「――――馬鹿か、おまえは」 敢えてこの言葉を言ってやる。 (さあ、食いついて来い) 予想通り、勝気な性の妃はその言葉に即反応した。 「知ってるわよ、私が馬鹿な事ばっかりしてる馬鹿だって事くらい、言われなくても解ってるわ!!」 ――――よし。食いついたなら、後は何とかなる。 アシュヴィンは尊大な、それでいて思い切り呆れ果てたような表情を作って話を続けた。 「中つ国では珍しいかも知れんが、常世ではおまえのような色彩は珍しくもない。白い肌で言えば、身近にサティという良い例がいるな。ムドガラとて日焼けこそしていたが元は白かったしな」 「そういえば……。え、でも金髪碧眼は?そんなに見た記憶が無いけれど」 「全部揃っている者はな。だが決して少なくは無い。そもそもおまえは豊葦原に来た早々見ているだろうが」 「え?」 「レヴァンタだ。忘れたか?」 「えっ!?レヴァンタって肌黒かったよね!?」 「肌は黒いが、見事な金髪碧眼だったぞ、あいつは。顔と体型は子供時代からゴツかったが、髪と目の色に関してはいい大人の女が称賛の声を上げてたくらいだ。髪質も良くて羨ましいとか言ってたのも居たな」 そう言うと、千尋はしばし首を傾げ考え込むようにしてから、思い切り目を見開いて首を横に振った。 「…………嘘、想像出来ない……!!」 「嘘じゃない、この俺が未だ覚えてるくらいだ」 思えばあれで「『宝の持ち腐れ』とはこういう事を言うのか」と一つ学習したものである。 「官にも民にも金髪や碧眼はぞろぞろ居る事くらい、もうおまえも知っているだろう。金髪碧眼でなくとも、髪も目も様々な色彩の者が居るこの国で、物心付いた頃から周りにそんな色彩が溢れていれば、今更そんな事でいちいち騒ぐのは阿呆らしくて敵わん。…………おまえは別だが」 「私?」 「ああ。当たり前が特別に思えるのはおまえだからこそ、だな。逆に言えば、おまえが纏わねば、金の髪も碧玉の瞳も俺にとっては無意味だ」 アシュヴィンはそう言ってから、再び千尋の髪に触れた。 「この色も然りさ。想像した事もなかったが……そういった色彩も、存外悪くないものだな」 「え?」 きょとんと見上げて来る千尋に、アシュヴィンは軽く笑った。 先程彼女に重ねて告げたように、今の彼女の纏う色彩は常世ではごく見慣れたものだ。夜闇を閉じ込めたような漆黒の髪も、篝火を受けて妖冶に揺れる黒曜の瞳も、瑞々しく蜜色に艶めいた肌も。彼にとっては最早当然過ぎてかえって見過ごすような色彩。 それなのに、これはどうだ。 「常の柔らな日輪の如き姿も、文句無く美しいと思ってはいるが……まさか、これほどに艶めいた色を纏っても恥じない程だったとはな。嬉しい誤算だ」 当たり前だと思っていた色でも、千尋が纏えば当たり前ではなくなる。こんな事でその事実を強く思い知るとは。 多分に本気で見惚れていると、千尋は居たたまれない様子で視線をあちこちに飛ばした。 「えっと……その、そんなに見ないでくれると嬉しいんだけど……」 「何故。俺に見せたかったんだろう?」 「それはそう、なんだけど……そう凝視されると、困ると言うか、照れると言うか……」 「仕方なかろう。見蕩れる程に美しいおまえが悪い」 「な……っ!」 またからかわれているのか、それとも気を遣われているのかと思い反駁しようとした千尋だったが、しかし彼の微笑に浮かぶ真剣さに息を飲んだ。 (からかいじゃ……ない?) そこにあったのはいつも千尋に愛を囁く時の夫の穏やかな、そして熱の篭った瞳。 その瞳を見返して、千尋はふと訊きたくなった。 「ねえ……どうして私だって判ったの?」 千尋が尋ねると、アシュヴィンは少し瞬いてから軽く肩を竦めた。 「どうしてと言われてもな。判ったから判った、としか言えん」 「襲でバレたのか、と思ったんだけど」 「決め手にはなったが、それ以上ではないな。確かに初見では騙されたと言ったが、すぐに違和感に気付いたしな。その後だ、これに気付いたのは」 暗くてよく見えなかったしな。言って千尋の纏う襲に手を伸ばして触れる。 「すぐに……?」 「ああ。『これは千尋だ』と、理性でなく直感でな」 そこで彼はおかしそうに笑った。 「しかしまぁ、詰めが甘かったな」 「え?」 「どうせなら全くの別人、いっそ老婆や醜女に化けていれば良かっただろうに。そっちの方が外見でおまえに惚れているのではないと知るには効果的だったぞ?」 「そっ、それは…………!」 事前に那岐にもツッコまれた部分を指摘されて、顔が熱くなる。 「た、確かにそうだけど、それだとさすがに政務に支障が出ちゃうし、それに、一応女だし……」 うら若き乙女心の持ち主には、幻覚とはいえ醜女に化けるのは耐えられなかったらしい。モジモジと指を絡めて反論しようとする仕草が可愛らしくて、アシュヴィンは今度は自然な笑みを浮かべた。 「そうだな、醜女に化けるのが嫌ならば、似た背格好の女官を揃えて土蜘蛛の棺の如き衣でも纏って並んでみろ。すぐにどれがおまえなのか当ててやる」 「……本当に?」 「当然だ。俺がおまえを間違える事など有り得ん。そもそも俺がおまえに惹かれたのは、おまえの持つ強さや品高さが始まりだった。おまえ自身から満ち溢れるそれらが、な」 最初に惹かれたのは瞳だった。戦場の恐怖に震えながらも、それでも仲間を助ける為に凛としてこちらを見据えていたあの瞳。あの瞳が何色だろうと、そこに宿る輝きは決して変わらなかっただろう。 「そしてそれは外見だけでは成し得ぬ、内面からの光だ。俺が讃えるその容姿は、そんなおまえの心が放つ光が在って初めて生まれるものだ。その事に自信を持て」 「アシュヴィン……」 「光の彩だろうと闇の彩だろうと容易く己の物にしてしまう。俺は……そんなおまえだから好きになったんだ」 「………………」 ――――この豊葦原に帰還してから、ずっと近くに在った。物理的に離れていても、心はどこか近くに在った。 だから判る。彼が嘘を吐いていない事を。 普段は容易く偽りも操れるくせに、実はこんな時に一欠片でも嘘を織り込めるような器用さは持っていない夫だという事を、千尋は既に知っていた。 知っているから。 「うん……ありがとう、アシュヴィン」 全てが腑に落ちた表情で、千尋がこくんと頷く。 結局のところ、自分はアシュヴィンにベタ惚れなのだ。こんな風に言ってくれたら、それだけでもう充分過ぎるほど幸せだった。 その様を満足そうに見遣ってから、アシュヴィンは千尋を引き寄せた。 「そして願わくば、その深き腕にこの身を包んで下さると嬉しいのだが……どうだ、射干玉の比売神殿?」 「アシュ……」 返礼は間を置かず降りて来た唇に遮られ。 「もう……それ、質問になってないじゃない……」 口づけの合間に悔し紛れに呟いた言葉は、やはり続けて振って来たそれにかき消されてしまった。 「――――言っただろう?見蕩れる程に美しいおまえが悪い、と」 「――――で、いつまでその姿でいるわけ?」 数日後、いつものように執務室で中つ国からの竹簡を処理していると、やはり同じく執務を手伝っている那岐が耐えかねたように訊いて来た。 そう。あの夜から数日経った今現在、千尋の姿は黒いままだったりする。正確には髪型は元通りだが色だけが黒だ。 実はこの数日、女官も諸官もその理由やアレコレを訊きたくてうずうずしていたのだが、さすがに自分の身分ではおいそれとは訊けない。周囲に居た官達は何気ない風を装って、しかししっかり耳は二人の会話を聞いていた。 「い、いつまでって、」 「いくら呪具があるったって、そんなに長続きする術じゃないんだよね、それ。そのたびにかけ直しさせられるこっちの身にもなってくれない?おまけに――――」 「…………おまけに?」 「どっかの誰かさんの旦那は微妙に恨みがましい目線でこっちを睨んでくるし」 痴話喧嘩に巻き込まれるのは勘弁願いたいんだけど。そう主張する那岐に、千尋はう、と詰まる。 「痴話喧嘩って、別に私たち、喧嘩してないよ?」 「してるだろ。っていうかさ、金髪碧眼で無くてもOKって解ったんだろ?なのにどうして未だにガングロでいるのさ。訳わかんない」 「それは…………」 言えるわけがない。 「ふ…………」 「ふ?」 「…………ふっ、夫婦の秘密っ!!」 「はぁ!?何だよそれ!」 眉を跳ね上げて抗議する那岐を無視して、千尋は再び竹簡に目を通す。もっとも全然内容は頭に入って来ないが。 (だって、本当に言えるわけない――っていうか言いたくないし!) あの後、流れのままに二人で寝所に向かい、まあそれなりに夫婦らしい熱い夜を過ごした訳ではあるが。 更にその後、気だるさに身を任せてアシュヴィンがぽつりと言った言葉は。 『……こちらの色も悪くないとは言ったが……だが、やはりいつものおまえの色の方が良いな』 どうして、と問うた妻に、夫は何の悪びれも無く告げた。 『色が白い方が、おまえが染まっていく様がつぶさに見えて興が乗る』 口づけの跡も見え易いしな。 そんな事を耳元で囁かれてしまったのだから、とっさに跳ね起きて近くにあった枕で思い切り夫をぶん殴ってしまったって、多分罰は当らないはずだ。 (……嬉しい、なんて事は……その、無くはないんだけどっ、でもっ!) やっぱりまだまだ夫には振り回される日々が続きそうで、千尋は竹簡を持つ手を振るわせた。 |