Slip Into Spring −4−
 
 馴染んだ光景の植物園に入り、そのまま園内を突っ切って温室へ向かう。
 さすがにはばたき市が誇る大温室だけあって、植物の種類もそれを維持する設備も充実している。厳密に管理調節された室内の気温と湿度は外気より遥かに高く、コートを着たままでは暑くて汗が出てくるほどだ。
「どうして温室……?」
「風邪引くだろ、他の場所じゃ」
「だったら、別に図書館で勉強したって構わないんじゃない?」
「だから、それは予定だろ。つまり、未定事項」
「私にとっては決定だったのに……」
(これじゃまた遅れちゃう。せめて今日中にあの章の問題を終わらせておきたかったのに…………っと!)
「飛鳥、こっちだ」
 再び頭の中に数式や文法が巡り始めるのを遮るように、葉月が彼女の手をくん、と引いた。
「珪ってば!私ちゃんと一人でも歩けるって!」
 子供じゃないんだから、と言おうとしたが、それもやはり彼のセリフに遮られた。
「ひどく判りにくいんだ、ここ。だからこれが一番確実」
「確実って…………」
 手を引かれて歩む先は、鬱蒼とした緑の紗幕。
 やがて、足元に覚束なく見え隠れする敷石に導かれるように、その紗幕を掻き分けて現れたのは――――。
「……わ……ぁ……」
「目的地」
 足を止めた葉月に従って、飛鳥も同じように歩みを止めた。
「……植物園にこんな場所、あったんだ……」
 そこは、緑の中に小さく開けた場所。
 密集した植物の合間に小さく切り抜かれたように出来たスペースは、それでもちゃんと正規に設けられた場所らしくベンチがポツンと置いてあった。
 見上げれば、温室の高い天井と、その先に天上の青が延々と連なっていた。
 梢によって守られた、まるで秘密の隠れ家のような。
「植物園には何度も来たのに、知らなかった……」
「つい最近、守村に教えてもらったんだ」
「守村くんに?」
「ああ。以前は巡回コースに組み込まれてたけど、植物の植え替えとかコースの変更とかあって、出来た場所……というか、作った場所、らしい。今も一般の入場者も入っていい場所だけど、判りにくいから、ほとんど誰も来ない」
 守村自身、非常に親しい係員にこっそり教えてもらったくらいなのだとか。
「確かに、これは知ってないと絶対判らないよね……」
「ああ。だから、知ってからはよく来るんだ、ここ」
 優れた環境設備の賜物で一年中茂り折り重なる枝葉は、周りの視線からも、そして喧騒からも、中にいる者を穏やかに密やかに守ってくれる。緑の中にあって光が差し込む、満ち足りた空間。
「あ、それじゃ、閉園時間まで寝ちゃったりすること、しょっちゅうなんじゃない?」
「…………係員とは、割と会話するな」
 途端に憮然とした表情になって、飛鳥は得たりとばかりに小さく笑った。
 それを見て葉月はほんの少し笑みを浮かべたが、すぐに踵を返してベンチに座った。
「ホラ。立ってないで、おまえも座れよ」
「え?あ、うん」
 入ってすぐに脱いだコートと重量のあるバッグをベンチの端に置き、飛鳥はポスンと葉月の横に座る。
(……ここ、良いかも)
 植物が多いからか、酸素が濃い気がする。暑いと思った室温も、コートを脱いだ身にはそれほど厳しくもない。近くに送風孔があるのだろうか、そよそよと緩やかな風が流れていて心地好い。息を吸うごとに頭の中がすっきりしていくような感じだ。
 スピーカーから聞こえるメヌエットの旋律が、とても柔らかく通り抜けていく。
(ここだと……うん、勉強はかどりそう。さすがにノート広げるのは無理だけど、参考書読むくらいだったら大丈夫だよね)
 図書館の過度の暖房と息詰まる空気に比べれば、ここは勉強にはもってこいの場所だ。
(……ああ!だから珪はここに連れて来てくれたんだ。ここなら私が集中しやすいと思って)
「ありがとう、珪」
「ん?」
「ここなら図書館よりも集中できそう。暗記もきっとはかどるよ」
 飛鳥は笑ったが、葉月の表情は再び曇る。
(ど、どうしたんだろ。とりあえず、参考書参考書……)
 葉月の表情が読み切れず、仕方なく飛鳥はバッグに手を伸ばして参考書を取ろうとした。
 だが、その手をいきなり掴まれて、グイ、と強く引かれた。
(えっ!?)
 勢いよく引かれた手は、飛鳥の体ごと大きくバランスを崩して倒れ込んだ。というより、倒れ込まされたというべきか。
 倒れ込みついでに今度は体を引き寄せられて――――気付く。
(…………ちょちょちょ、ちょっと待って!?ここここの体勢って、もしかしてもしかして、ってもしかしなくても、ひひひ、ひ、ひざ、『ひざまくら』、っていうやつじゃない!!?)
 もしかしなくても膝枕だった。
 飛鳥は手を引いた当人である葉月の足に頭を乗せるような格好で、間抜けにも寝転んでしまっていた。
(ななななな何でこんな事にっ!?)
 慌てて起き上がろうとした飛鳥だったが、額を優しく、しかし強固な力で抑えつける大きな手に再び元の体勢に戻らされた。
「……おとなしくしてろ」
「おおおおとなしくって!」
 耳と、そして頭全体から伝わってる来る声に、飛鳥の心臓と思考回路が壊れる。
「あ、あのっ、これってどういう状況なの!?ていうか、どうしたらいいの私!!」
「どうもしない。寝てろ」
「寝、寝てろって!」
(何言ってるのこの人は!こんな状況で、状態で寝てろって、絶対無理だよーーっ!!)
「良くはないだろうけど、我慢しろ」
「我慢しろって!」
「寝心地」
(いやだからねそんなサラリと寝心地とかって……ってだからそういうことじゃなくて落ち着け私!!)
 しかし落ち着けと思えば思うほど焦ってしまうもので、支離滅裂の言葉らしきものをあうあうと彼女は発し続けた。
「……休め、ちゃんと」
 ふぅ……、という深いため息が頭上で落とされて、葉月の手が飛鳥の額から瞼に移る。無理矢理閉ざされた視界のせいか、そこでようやく飛鳥が落ち着きを取り戻し始めた。
「休めって……珪、私、ちゃんと休んでるよ……?家でも言ったでしょ?」
「そう、思い込んでるだけだ。体は寝てるけど、ちゃんと休んでない」
「そ、そんなこと、な――」
「あるから、心配するんだ。俺も……皆も」
「珪……」
「見えてないだろ、おまえ」
「――――え?」
「何が見えてないのかも、見えてないだろ」
「見えて、ないって……何……」
「……だから、今はとにかく休め」
 そこまで言って葉月はもう片方の手を動かした。ふとかかった重みに、飛鳥は葉月が彼のコートを自分の体に掛けてくれたのだと解った。
「着こんでると暑いけど、じっとしてるなら、掛けてるくらいで丁度いい」
 この場の空気に完全に慣れた様子を窺わせる言葉で、彼は言った。
 けれど、しかし。
 この体勢はどうだ。
「け、けど……っ、そのっ、ホラ!足とか痺れちゃうよ!?」
 それでも頭を押さえる葉月の手は弛まず、なおも抵抗の言葉を繰り返す。
 しかし返ってくるのはまたも同じ言葉。
「構わないから、休め」
(そ、そんな事言われても、ドキドキしちゃって休むどころじゃないってばーっ!!)
 未だ通常の自分には有り得ない速さで打ち続ける心臓。その鼓動がそのまま伝わってしまうんじゃないだろうか。
(え〜ん、頼むからお願いだから鎮まって落ち着いてクールダウンだってば心臓!!)
 本気で休むどころではない飛鳥の様子を感じ取ってか、葉月は彼女の目を塞いでいるのを幸いと、どうしたものか空を見上げて考え込む。
 自分が今、相当無茶苦茶な事をしているのは解っている。
 誰よりも大切な女性だけれど、恋人という関係にはなっていない彼女。それなのに、今は『友だち』にはまず行使しないだろう状況を強いている。
 こんな真似をして、嫌われてしまうかも知れない。
 嫌われるのは――――避けられるのは、嫌だ。
(嫌だ…………けど)
 彼女には、一番彼女らしい顔で笑っていて欲しいから。
 その豊かな感受性の翼を広げて、いつだって世界中に満ち溢れたたくさんの綺麗なもの、優しいもの、暖かいものを受け止めていて欲しいから。
 こんな、受験なんて人生の一瞬しか占めない類の事で、大切なものを、おまえ自身を、見失って欲しくない。
 忘れて欲しく、ないんだ。
 
 
 "......Einmal auf einer Zeit reiste der ein königliche Prinz..."
 
 
 かすかな音で『それ』が聞こえて来たた時、飛鳥は園内に流れるBGMに歌詞でも付いたのかと、思った。
「…………え?」
 けれど、違った。
 
 "Er war der Prinz eines Ostlandes, und der junge Mann,
  durch den jemand auch wegen seines guten Aussehens und des klaren Herzens gemocht wird."
 
 耳からだけでなく、自分と自分以外の人間が触れている場所から、直接響いて聴こえて来る。
 それは――――耳慣れない、ドイツ語の響き。
「え?え?え?ちょ、ちょっと待って珪!」
 突然葉月が紡ぎ始めた異国の言葉に、飛鳥が驚いて声を上げた。
「なんだ?」
 いきなり声を上げた飛鳥に驚いたのか、少し戸惑った声色を潜ませて、葉月は呪文(飛鳥にはそう聞こえた)を止めた。
「い、今の何?」
「ああ…………子守歌」
 わずかに、困ったような響きが聞き取れた。
「子守、歌?」
(歌、というよりは朗読に近かったような……)
 と飛鳥が思っていると、すぐに補足の言葉が追加された。
「……の、代わり」
「……子守歌、の、代わり……?」
「歌は……あまり知らないから、その代わり。空で覚えてるの、これくらいだから。……我慢しろ」
「我慢って……」
「俺、これ聴くと、いつも安心できたから」
「安心、って…………」
 呟いて、ふと、記憶の中で何かが閃いた。
(そういえば、去年の冬……)
 去年の冬の、今頃か少し後の頃だっただろうか。臨海公園にオープンした大観覧車に二人で乗った時、途中事故か何かで停止した事があった。
 その時、不安がった飛鳥の気を紛らわせる為か、葉月が幼い頃祖父に読んでもらったという『お話』の事を話してくれた。
 幼い葉月が泣いている時、いつも読んでもらったと言う『お話』。
 あの時はその後すぐに動き出した観覧車にうやむやにされてしまって、結局それ以降聞く事がなかった。
(もしかして……)
「珪……今のって、まさか、あの観覧車で言ってた……」
 
 "――――Die Zeit, sich in einem bestimmten Land in der Mitte einer Reise zu verirren,
  Der Prinz traf die schöne Prinzessin bei der Kirche in Wäldern..."
 
 飛鳥は問いかけようとしたが、葉月はそれを遮るように先を続けた。
 音は聴いた事があるけれど、意味は解らない言葉。
 端々で英語に似た単語もあるようで、解るような箇所もあるようなないような。
(……でも……)
 
 "Es ist eine sehr schöne Prinzessin."
 
(どうしてだろ……なにか、なんだか……)
 
 "Der Prinz erwärmte sich bei einem flüchtigen Blick für die Prinzessin."
 
 低く、深く、甘く、優しく。
 ゆったりとしたリズムで穏やかに伝わってくる響き。
 
 "Sie trafen sich jeden Tag bei der Kirche in Wäldern."
 
(わたし……この感じを知ってるような気が……する……)
 
 "Die Prinzessin sang das Gewähren zum Klang von der Pfeife, die ein koniglicher Prinz spielt,
  beim Tag, mit dem die goldene Sonne leuchtet."
 
 そう、確か。
 
 確か、とても、小さい頃に。
 
 "Nacht, mit der der silberne Mond leuchtet,
  Sie saßen auf der Seite eines Sees, und redeten die künftige Sache zusammen,
  bis der Mond verschwand."
 
 こんな、そう、どこかたどたどしいような、けれど落ち着くような流れで。
 何かを。
 誰かに。
 
 "...Es kam tief bald einander zu Liebe......"
 
 
 ……いつの間にか、心臓の鼓動は規則正しいいつもの律動に戻っていて。
 ふわりと包み込まれるように、飛鳥は眠りに落ちていた。
 
 
 
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