Slip Into Spring −3−
 
「寒いな、やっぱり」
「うん。早く図書館に行かないと凍えちゃうね」
 もう数え切れないほど二人で訪れた森林公園は、色彩も形も真冬のそれで、実際の気温よりも寒々しく感じる。並木道の桜には、今まで散り損ねた枯葉がかろうじての風体で梢にしがみついていた。
 その名残のように、掃き切らなかったり後から落ちて来た枯葉が、さく、と足元で音を立てる。
 けれどその音さえも飛鳥の耳には入っていなかった。
(ええっと……アミロースはグルコースが1つの分子の1位水酸基と他分子4位水酸基間で1.4-脱水縮合した直鎖螺旋型の多糖類、アミロペクチンはそのアミロース鎖を作るα-グルコース単位の途中の6位水酸基と他のα-グルコース単位の1位水酸基間で1.6-脱水縮合が起こる事によって生じる枝分かれ形の多糖類で……ってあれ?アミラーゼによる加水分解で麦芽糖が出来る過程で生成される糖って何だったっけ?)
 参考書も問題集も持っていない状態なので、頭の中は暗記科目の復習で一杯になる。今は食品化学を履修する上でも必要となる高分子化合物の復習と言ったところか。
 一流大学は、その名に相応しい質を保つ為に、入学試験の難易度の高さと学部専攻を問わないその出題範囲の広さで超難関校として名高い。未だに二次試験でかつての共通1次2次並みの広範な受験科目を要求する学校はそうないだろう。
 だからこそ、不得意分野をもっと確実な物にしなければならない。完全に近く理解しておかなければならない。
 そうしなければ。
(それは、学部は違うけど)
 それでも全く違う学校よりは。少しでも近くにいられたら。いられれば。
 だから、もっともっと勉強しなくちゃ。
 ……元々好きな事、なりたい職業はあった。
 勉強も得手不得手はあるものの、嫌いという事はなかった。多くの知識を得られる事や、高得点を取れる事が楽しかったからだ。
 だから、日頃の学習に手を抜かないでいられたし、コツコツと学力を蓄える事が出来て、その結果テストで首位に踊り出る回数も一再ではなかった。
 先日受けた模試では苦手な数学でもA判定になったし、偏差値も氷室に太鼓判を押されている。この調子なら大丈夫だと判断している自分はいる。
(けど)
 けれど『絶対』なんてことは有り得ない。
 努力しても、頑張っても、どんなに大丈夫だと思われても、ちょっとした事でそれが外れる可能性はある。そう考えている自分も確実に存在している。
 その可能性に強く心を奪われている自分がいる限り、自信はつかない。ぐらついてしまう。
(だから、もっと、もっと)
 もっと自信をつけて、マイナスの可能性を吹き飛ばす自分にして、それからじゃないと。
(一緒に行けなくなる。いられなくなる)
 置いて、いかれる。
(それは、嫌)
 そうして、頭の中ではまた参考書の記述が繰り返されていく。
(ええと、α-グルコースは水溶液中では開環して還元性を呈す鎖式アルデヒド形になって……)
 嫌だから、と。 ただそれだけの想いから、心の中のメビウスの輪を回す。
 今の飛鳥はそんな状態だった。
 その傍ら、葉月は葉月で並木道の風景を眺めていた。
 鼻梁を通る空気は冷たい。それでも他の季節より澄んだ空気は体に気持ち良かったし、頭の隅々まで爽快にしてくれる。
 顔を上げれば、褐色の細いオブジェの群れの向こうに常よりも冴えた青空と、幾層かに分かれた雲のなだらかな峰が広がっている。上空の風がよほど強いのだろうか、手前の雲よりも奥、つまり高層の雲の方が流れが早い。
 その雲も、陽光を浴びて白く輝いて清々しい。それでいて陰影は絶妙についているから、見ていて面白い光景だ。
 切れ切れに届く賑やかな歓声に目を転じれば、芝生広場の方では子供たちが集まってドッジボールか何かをしている。皆、ほくほくと上気した頬で笑っていて、実に楽しそうだった。その端には花壇に植えられた低木の常盤緑が、控え目に黒い世界に彩りを添えていた。
 冬の森林公園も悪くないな。
 そんなふうに思えるようになったのは、そう昔の事ではない。
 ほんの少し目を向けて見方を変えれば、寒々しいと思うだけの世界も様々な色や音、光に満ちていると知ったのは、ここ1〜2年の事だ。
 彼女がいたから。
 彼女が教えてくれたから、そう気付けるように、感じられるようになった。
 感じられるようになったからこそ――――気が付いた。
(…………ん……?)
 おかしい。違和感がある。
 葉月は不意に強く感じて、隣を歩く飛鳥を振り向いた。
 いつもなら。
(そう、声が)
 いつもなら、耳に心地好い明るい声が隣から聞こえるはず。けれど今日は聞こえてこない。
 代わりに見えたのは、俯き加減に歩く彼女の頭。
 いつもは後ろに立たないと見えない天辺のつむじが、今日は何故かこの角度からでも見える。
(……『今日は』?『何故か』?)
 ――――違う。
 普段横に並んでいる時、彼女は真っ直ぐに葉月の顔を見上げている。見えるのは大きくて綺麗な瞳と、笑顔。そうしてその形のいい唇から、音楽のような言葉が、絶え間ないせせらぎのように紡ぎ出されているのだ。
 だけど今日は、いや、最近は違う。
 俯いて、考え込んで、黙り込んで。周りを見ずに自分の中だけで留まっている。
 周りを――――世界を見ていない。
「おい……見えてるか?」
 かけられた声に反応して、飛鳥が顔を上げた。突然思考を寸断されたような、そんな表情だった。
「え……どうかした?」
「だから……見えてるか?」
「……何が?」
 そう言った飛鳥を、葉月はわずかに目を見開いて見返した。
 しかし彼女の瞳には単なる疑問の色しか浮かんでおらず、それでなお一層葉月は困惑した。
「……飛鳥、おまえ……」
「?」
「…………いや……ああ、いや、そうじゃなくて……」
「……珪、どうかしたの?」
 戸惑ったような葉月の反応に、飛鳥が不審に思って訊き返す。
(見えて、ないのか?)
 寒々しい、と俺が一蹴したこの並木道が好きだと言ったのは、同じ冬だった。
 冬の木が一番冬の辛さを知ってるから、太陽の大切さを一番良くわかってる。そんなふうに言って笑ったのは去年の冬のおまえだった。
 命が萌え出す春や、太陽が鮮やかな夏。そういった解りやすいものだけじゃなくて。
 命が朽ちていく秋や、全てが死に絶えたような冬にも、ちゃんと暖かいものや優しいものが満ち溢れてるんだってこと、教えてくれたのは、おまえだった。
 それなのに。
(何が、一体)
 何がおまえをそんなに焦燥に駆り立てるんだ。
 ひとつひとつ、何気なく世界の美しさを教えてくれたおまえが、どうしてその世界を見る事を止めたんだ。
 何が。
 
 
『――――勉強、したいの』
 
 
(…………受験、のせいか……?)
 ここに来て、彼女の学習進度は目を見張るものがある。模試のたびに伸びていく成績、安全圏と判断された学校の数。
 だがその代わり失われていく精彩。彼女にとってのそれは、何よりも彼女を飾る美点。
 世界を見回す感受性。
 それ、が。
(そ、んな――――)
 彼女の志望を聞いたのは2年の頃。
『ずっと先生になりたくてね。家庭科が好きだから、出来たら家庭科の先生になりたいなあ』
 実際に見る彼女の作品や手際からして、その分野に進むのは適していると思った。
 その代わり、一抹の寂しさを感じたのも確か。
 葉月自身は、まさに『家から近いから』という理由で一流大を志望したまでで、元々どの大学のどの学部でも頓着しなかった。一番近いのが医大だったら医大を選んだだろうし、仏教学部だったらそこを選んでいただろう。
 しかし彼女は確固としたやりたい事があって、それはそのまま大学での進路もある程度決まってくる類の希望。
 一家大も一教大も確かに遠いが、カリキュラムでいえば評判は高く、きっと彼女はそれらの学校を選ぶと思っていた。
 そうなったら、今までのように会う事もできなくなる。
 構内で偶然顔を合わせる事も、待ち合わせて昼食を一緒に摂る事も、全て絶えてしまう。
 それは、それらを知らなかった頃よりももっと辛いものになって心に圧し掛かってくるだろう、そう思っていた。
 だから彼女の志望校が一流大だと聞いた時は、嬉しかった。
 学部は違うけれど、一友人に過ぎないとしても、それでも違う学校に通うよりは会う機会がある。一緒にいられる機会がある。
 まだ、彼女との繋がりが消えないで済む。
 嬉しかったのだ。本当に。
 心の底から。
(……それなのに)
 それなのに、これでは。
 頑張れ、と言った。しっかりやれよ、と言った。
 その結果がこれ。
 彼女が、彼女の中で一番綺麗な心を見失いつつある、現状。
(…………駄目だ)
 エゴだとは解っていても思わずにいられない。本音と矛盾していると知っていても、考えずにはいられない。
 そんな風になるのなら、無理して一流大に行こうとなんて考えるな、と。
 そんな風にならないでくれ、と。
 世界を――――俺を、忘れないでくれ、と。
「ねえ珪、そろそろ図書館に行かない?」
 痺れを切らしたような飛鳥の声に、葉月の心は決まった。
「さっきやりかけてた問題を解いちゃいたいし、他にも色々――――」
「予定、変更」
「えっ?」
 言うなり葉月は飛鳥の手首を掴んで、そのまま足早に歩き始めた。
「ちょ、ちょっと珪!?予定変更って何!」
「言葉通りの意味だ」
「……って、何なの、何か怒ってる?」
 掴まれた手首から熱が生まれる。手袋と服に遮られて、体温なんて伝わるはずがないのに、手袋を好まないが故に冷え切っている葉月の掌からは確かに熱が伝わってきて、それが怒気から来るもののように飛鳥には思えたのだが。
「怒ってない」
「だ、だったら!私、勉強しないと――――」
「こっちの方が大事だ!」
 怒っていない、という言葉に間違いはないのだろう。葉月の声音は怒りのそれと言うよりも、焦りのようなものを多分に含んでいた。
 思わずそれに飲まれたように、飛鳥は仕方なく早足で彼について行く。
「ど、どこに行くの?」
「植物園」
「植物園?そんな所に行って、何があるの?」
「…………場所、が」
「場所?なんの?」
 訊ねたが、上手く説明出来ないのか葉月はそれきり口を開かず、それで飛鳥もそのままよたよたと引っ張られていった。
 
 
 
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