Slip Into Spring −2−
 
 日曜、約束の時間に飛鳥を迎えに行った葉月は、その荷物の重さに驚いた。
「ずいぶん色々入れてきたな……」
 問題集とノートと筆記用具はともかく、参考書や赤本の数が半端ではない。
「うん、珪がいるし、この際だから解らないところどんどん訊いちゃおうと思って」
「……俺にだってあるけど。解らない問題くらい」
 少なくとも現代文は苦手な方だ。
「うん。けど理数系は私よりも全然強いでしょ?大丈夫大丈夫」
 根拠のない「大丈夫」に苦笑したが、質問はお互い様という事にして早速二人は勉強会を始めることにした。
「………………」
 手元の英語問題を解きながら、葉月は向かいに座った飛鳥の様子をさりげなく眺めていた。
 宣言と違って、飛鳥が質問してくる回数はそんなに多くなかった。どうやっても解らない箇所は訪ねてくるが、基礎学力がしっかり身に付いている上にまず自分で徹底的に考えるので、自発的に解答できる事がほとんどだ。
 無論、葉月をなるべく邪魔しないように気遣っているのもあるのだろう。
(訊いてもいいのに、な)
 だがその気遣いができるからこその彼女でもあり、この辺は複雑な心境である。葉月は飛鳥に見えないように小さく笑った。
 一緒にいられるこの時間、その至福を味わえる今が嬉しくて尊いと感じながら、自分も問題に集中する。
 そうやってしばらくそれぞれの学習に精を出していたが、大きく零たれた息に、静寂が乱れた。
「ん、疲れたか?」
 大きな溜息に葉月は顔を上げて、その源に問いかけた。
「あ、ごめん。うん、さすがにちょっと疲れたかな〜って」
 気が付けば来てから数時間が経過していた。朝の早い時間から始めたから、そろそろ一息入れる頃だろう。
「そうだな、俺もだ。そろそろ昼飯にするか」
「うん。お母さんがサンドイッチ持たせてくれたし、お昼ご飯食べちゃおう」
「そうか。じゃあ、飲み物持ってくるから待ってろ」
 葉月は立ち上がって既に空になった二人分のカップを持ってキッチンに降りた。暖房が効いているから喉が渇くのも早い。
(ペットボトルごと持って行くか)
 そう考えて冷蔵庫から取り出した飲み物を、淹れたばかりのコーヒーや紅茶と一緒に携えて部屋に戻った。
 午前中は根を詰めていたから、少し長めに休憩を摂った方が後の効率が良いかも知れない。
(そうだ、この前貰ったモーツァルトのCDでもかけてみるか……)
 リラクゼーション効果もあるし、集中力も上がるし、丁度良い。
 あれこれ考えながら部屋に入ると、しかし飛鳥は取り出したバスケットの横で再び問題を解いていた。
「…………おい」
「え?……あ、ごめん!すぐ片付ける!」
 声をかけられて、慌てて机の上を片付ける。その様子に葉月は気付かない程度だが眉を寄せた。
 テーブルにトレイを置いて、ほぼ彼女専用になっているカップを渡す。
「ホラ。気をつけろよ」
「あ、ありがとう。……うん、美味しい」
 にっこり笑って持参したサンドイッチを頬張る飛鳥を見て、自分もそれを食べながら葉月は口を開いた。
「……少し、頑張り過ぎじゃないか?」
 すっかり手ずれた問題集に、隙間なく書きこまれたノートと参考書。赤本なんかは短期間でこうなったとは思えないくらいにヨレヨレだ。
「……う〜ん、自分じゃ頑張り『過ぎ』まではいってないと思うんだけど」
「俺からすれば、とっくに『過ぎ』の域を超えてる」
「そうかなぁ」
「あんなに大きな溜息吐いてて、自分で気が付かないか?」
「そう言われましても」
 一口飲んだカップをコトンと置く。
(……だってまだ足りてないもの。全然不安なんだもの)
「…………」
 一瞬押し黙った飛鳥の様子に、葉月はふとテーブル越しに手を伸ばした。
「……っ……!」
 突然、自分以外の体温が触れて、飛鳥が固まる。
 羽根のように軽く触れているそれは飛鳥の輪郭を辿ってから、ゆっくりと止まった。
「……目の下に、クマ」
(うわわわわ!!)
 一気に飛鳥の体温が上がる。
 触れられた頬が熱い。目の下にそっと添えられた彼の指が、冷たいのに熱い。
(クマ!?そんなの出来てたの!?――――っていうか珪、手、手ーーーっ!!)
 こんなまるで――そう、恋人に触れる、みたいな柔らかさで触れられたら。
(ご、誤解しちゃうってば!)
 脳内がプチパニックに陥っている飛鳥を観て、葉月はわずかに眉を顰めた。
「顔色も少し悪い……。夜、ちゃんと寝てるのか?」
「ね、寝てるよ!そりゃ、珪ほどじゃないけど」
「本当に?」
「本当に!だって、眠かったら勉強にならないじゃない」
 事実だ。起きている時間はほとんど受験勉強に振り分けているが、睡眠だけはきちんと摂っている。
(というより、起きていようと思っても眠くなっちゃうんだもの)
 本当はもっと勉強していたいのに。もっと勉強して自信をつけたいのに。
 だが、時間になるとお茶を飲もうがドリンク剤を飲もうがカフェイン剤を飲もうが、とろんと眠くなってしまうのだ。
 こうなると仕方ない、体調を考えれば睡眠は摂った方が効率がいいからと自分に言い聞かせて、後ろ髪を引かれつつもベッドに向かっている日々なのである。
「カフェイン剤って、そこまでするか?」
「だって眠くなるんだもの」
「睡眠削ってまで勉強しなくちゃいけないほど、悪くないだろ?成績」
「だって、どうしても、一流大に入りたいんだもの」
 確固とした決意を込めた口調に、葉月はふと疑問を持った。
「なぁ……」
「ん?」
「今まで訊かなかったけど……おまえ、どうしてそこまで一流にこだわるんだ?」
 ドキン。
 飛鳥の心臓が一瞬、大きく跳ねた。
「え……どうして、って……」
「確か教師だったよな、おまえの志望」
「う、うん。家庭科の先生。被服専攻で」
「それなら……例えば、一教大とか、一家大とか、その辺でもいいんじゃないか?」
「それは……そう、だけど」
 葉月の言う通りだ。
 一流大学の家政学部じゃなくても、一流教育大学の家庭科専攻や一流家政大学の被服学科という選択肢は、ちゃんとある。
 無論カリキュラムに差異はあるものの、どちらの大学も希望専攻での履修内容は魅力的なものだった。レベルは高くとも一流大ほどの高さではなく、飛鳥の成績からすれば十分安全圏だ。
 けれど、それでも一流大を選んだのは。
「それ以前に、他の私大や短大でも、おまえの業績なら推薦で行けただろ?花椿先生のコンテスト、金賞取ったんだし」
「……そんなこと、ないよ?だってコンテストの発表は、ついこの間だったじゃない。推薦には間に合わなかったもの」
 半分は嘘だ。
 確かに花椿デザインコンテストの受賞は間に合わなかったが、推薦入試という選択肢も氷室に提示されていた。学業にも生活態度にも問題がない飛鳥ならば、コンテストの結果どうこうに関わらず、推薦でも優れた大学に進む事は十分に可能だと、何度も氷室は言ってくれた。
 けれど飛鳥はそれを断った。志望していた一流大には推薦枠がなかったし、そもそもどこの大学でも良かった訳じゃない。一流大に行きたいと本気で考えた原因は、別の所にあったから。
「じゃあ……どうして?」
「それは……」
(……言えないよ……)
 言えるはずない。言えるはずがない。
 だって、私は珪の友だちに過ぎないんだから。友だちがそんな事言うの、絶対おかしいんだから。
(一緒に)
 一緒に。一緒の学校に行きたいから、だなんて。
 珪と一緒に、同じ学校に通いたいからだなんて。
 そんなこと、言えるはずがない。
「い…………」
「い?」
「い……い、家から一番近いから!!」
 叫ぶように言うと、葉月が一瞬驚いた顔で目を瞬かせる。
「…………近いから」
「ほら、やっぱりね、経済的っていうのは重要だと思うの!その、うちは大して裕福でもないし、これからお金のかかる尽だっているし。一流なら授業料はそんなに高くないし、近いし、お得でしょ?それにやっぱりカリキュラムが一番充実して面白そうだから、これはもうここしかないって」
 事実。これも事実。それもちゃんと本当のこと。ただ他の理由もあるだけで。
 でも『友だち』に許されているのは、せいぜい「一緒の大学に受かるといいね」という言葉だけ。
 それ以上は、言えない。
「……そうか。まあ、確かに一番近いしな」
 一家大も一教大も、はばたき市からは少々遠い。通えない事もないが、実技や課題が多いから、寮やアパートに入った方が楽だろう。だがそれには金がかかる。意外と堅実な彼女らしい意見だった。
「そういうことです。でも珪だってそんな理由じゃなかった?」
「ああ、そんな理由」
「でしょ?だから志望理由がけしからん、なんて言わないでね?」
「言わないけど……ただ」
「ただ?」
「……無理してるように、見えるから」
 かすかに伏せられた瞳とわずかに寄せられた眉根が、ひどく辛そうに見えて、飛鳥は思わず息を飲む。
 そんな、そんな顔、しないで。
「……して、ないよ……?無理、なんて」
「……本当に?」
「本当、だよ……?」
 安心させようと浮かべた笑みは、しかし自分でも解るくらいに力がなく、変な出来で。
 それを見た途端に、葉月の顔色が変わったのも解った。触れたままだった手を引っ込められて、飛鳥の頬に部屋の温度が戻り妙な違和感が生じる。
 それを断ち切るように、再び葉月が口を開いた。
「――――散歩、行こう」
「へ?」
 突然の葉月の発言に、内容も相まって飛鳥は間抜けな返事をした。
「散歩。脳に酸素、入れたいし。第一、そんなしかめっ面してたら、解ける問題も解けない」
「しかめっ面って……いたっ」
 ピン、と額を突付かれて、飛鳥は思わず目を瞑って身を引いた。
「おまえ、眉間にシワ、寄り過ぎだ」
「……寄り過ぎ、ですか?」
「ああ、寄り過ぎ。そこまで寄せなくてもいいだろうってくらい」
「だって……」
 だって不安なんだもの。
 そんな心の声を無視するように、葉月は続けて言う。
「たまには体、動かせ。そうして少しはほぐせ、その眉間のシワ」
 その面に浮かんでいるのは、紛れもなく飛鳥に対する心配と気遣いで、飛鳥は少し居た堪れない気持ちになった。
「……でも……」
 でも、もし。
 もしここでサボったりする事で受験に失敗してしまったら。
 珪とは。
「……でも、勉強したいの」
 もっと。もっと勉強したいの。もっと勉強して近くにいられる手段を選べるようにしたいの。
 高い所にいるあなたと、同じ場所に立ちたいの。
 立てるように、なりたいの。
「勉強、したいの」
 なおも言い募ると、葉月は複雑な表情をしてから溜息を落とし、やや考え込むように顔を伏せた。
 だがさほど長くも無い時間が経って、もう一度顔を上げた時にはその表情は消えていた。
「じゃあ、森林公園を散歩したら、近くの市立図書館にいって勉強。それなら、いいだろ?」
「散歩したら……図書館で勉強?」
「ああ。それならいいな?」
 有無を言わせない響きで告げてから、葉月はすっくと立ち上がる。
「珪?」
「時間、無駄にしたくないんだろ?早く準備しろよ」
 淡々と発せられた言葉に、飛鳥も慌てて彼に倣って立ち上がった。
 
 
 
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