Slip Into Spring −1−
 
「――――そこまで!筆記用具を置いて下さい」
 チャイムが鳴ると同時に、試験監督の声が響いて、部屋の中の緊張感と静寂が破られる。途端にため息や呻き声が室内に満ちた。
 ガヤガヤと賑やかになり、大勢の生徒が外に出て行く中で、飛鳥は手元に残った問題用紙を苦い顔で凝視していた。
(うう〜、やっぱり証明問題が足を引っ張りそう。これだと積分法の……シュワルツ不等式の応用だったっけ?似たような問題やったのに、まだ完全には理解してないみたい。それに高次方程式と――――)
「お疲れ様、東雲さん」
 頭の中で未だに唸っていると、近くの席で一緒に試験を受けていた有沢が飛鳥に声をかけて来て、そこでようやく彼女は顔を上げた。
「あ、志穂さんお疲れさま〜。どうだった?出来の方は」
「まあまあってところかしら。今回の模試は化学と数学に捻った問題が多かったわね」
「うん。時間いっぱい使っても合ってるかどうか不安になる問題ばっかりで、ちょっと参ったかな」
「本当ね。――それはともかく、この後お茶でも飲んでいかない?答え合わせがてら」
「う〜ん、そうだなぁ…………ううん、やめとく。時間がもったいないから、家に帰って復習するよ」
「……そう?」
「うん。誘ってくれたのにごめんね」
 そう言うが早いか、飛鳥は荷物を片付けて立ち上がった。
「それじゃ、また明日!」
「あ、東雲さん!……もう」
 返事を聞かずに飛び出して行ってしまった飛鳥の後ろ姿に、有沢が小さく溜息を吐いた。
 それには全く気付かず、飛鳥は足早に家路を急ぐ。その片手には公式類がビッシリ書かれた単語帳が握られたまま。
(模試も随分受けてるけど、そのたびに理解し切れてない箇所が出て来ちゃっていけないな)
 だから、もっと勉強しないと。解らない所をちゃんと克服しておかないと、目指す大学には入れない。
「……つまりx軸を軸として座標軸を45度回転させた新しい座標を使ってx、y、zの代数式にこの平面と円錐αの方程式に代入すればいいんだから……」 
 人を飛ばしかねないスピードで街中を通り過ぎて、ほどなく家に着く。
 もどかしい手つきで靴を脱いでいると、リビングの方から尽の声がした。
「ねえちゃん、帰ったのかー?」
 顔を出した尽に「ただいま」とだけ言って、靴を脱ぎ終えた飛鳥は二階に昇ろうとする。尽がもう一度声をかけた。
「ねえちゃん、ちょっと待った」
「何?忙しいんだけど」
「お腹空いてない?お菓子あるから食べてけよ」
 女の子から貰った手作りのクッキーなんだぜ、と自慢そうに言う尽に、飛鳥は軽く首を振ってから言った。
「勉強したいから今はいいよ。残ったら後で貰って食べる」
「そう?……いいけど、さ」
「それじゃ」
 用は終わりとばかりにタンタンと階段を昇る音が響いて、尽は顔を歪ませる。
 ……甘いモンでもダメか。
「参ったなあ。ねえちゃんってチョクジョウケイコウなトコがあるから、心配だよホント」
 とりあえず予め取り分けていた分を持ってってやるか、と考えながら、尽はどうしたものかと頭を捻った。
 
 
 
++++++++++++++++++++++++++++++
 
 
 
 年が明けて、受験本番も間近に迫っていた。
 はばたき学園の受験組の面々も、推薦で進路が決まった者以外は間もない試験に備えて日々勉強の毎日。殊に超難関である一流大学を受ける者は、まさしく寸暇を惜しんで勉強に勤しんでいた。
 もっとも、その中にも例外はいる。
「……ん……?」
 のそり、と突っ伏していた頭を上げたのは、はば学の王子様こと葉月珪。
 自分が眠った状況を思い返し、4時限目に睡魔に負けて昼休みの今に至るまで熟睡していた事を理解してから、ぼんやり眼で周りを見回す。
 …………いない。
「あ、葉月くん起きたの?東雲ちゃんなら図書室だよ」
 葉月の挙動に気付いた近くのクラスメイトが声をかける。慣れているのか気が利くのか、彼女は葉月が探している人物の所在を先取りして答えてくれた。
「……図書室」
「ご飯食べて即行で勉強道具抱えて行ったから、また問題集と睨めっこじゃないかな。葉月くん寝てたから声かけてかなかったけど」
「そうか……サンキュ」
 礼の言葉を置いてから、葉月は教室から出た。
 暖房の効いた教室から廊下に出ると、さすがに空気が冷たくて目が覚める。どころか覚め過ぎるくらいだ。
(さて……どうするかな……)
 購買への短い道すがら、歩きながら考える。
 次の時間は自習という事もあり、自分も図書室に篭るつもりで勉強道具は持って来た。
 だが朝寝坊した身にとっては、購買でパンでも買わなくては食事にありつけない。今の時間では大した物は残っていないだろうが、春菊サンドイッチでもなければ別段気にする事でもない。
 図書室は飲食禁止だから行く前に食べてしまわなければいけないが、この時期に外で食べるのはいささか無理がある。とはいえ雑然とした教室内で食事をするのは好きではないし(第一飛鳥がいない)、一体どうしたものか。
 残っていた食糧を無事に確保して、しかしその摂取場所で悩んでいると、廊下を歩いて来た守村に出会った。
「あれ、葉月くん。どうしたんですか?」
「守村。いや、昼飯、どこで食べようかと思って」
「ああ、それでしたら園芸部の部室を使っていいですよ。これから僕も行くところですし、今の時間はあまり人はいませんから」
「そうか?……それじゃ、お言葉に甘えて」
「ええ、どうぞ」
 葉月が教室など人が大勢いる場所で食事を摂るのを好まない事を知っている守村は、こういう時は気軽に場所を提供してくれる。その恩恵に預かる事も度々で、葉月は素直に守村に感謝していた。
「東雲さんはどうしたんですか?」
「図書室……らしい。俺、さっきまで教室で寝てたから」
「そうでしたか。葉月くんはこの時期でも相変わらずですね」
 そう言って守村は笑った。
「相変わらず……」
「あ、ええとその、受験直前の今現在でも焦ってペースを崩したりしていない、という意味です」
「焦って……はいないな、確かに。普通に寝てるし。眠い時に起きてても、効率悪いだろ」
「まあ、それはそうですね」
 無論、受験前という事でモデルのバイトも控えている事情もあって、起きている時間の内で受験勉強にかける時間は絶対的にも相対的にも増えている。
 しかし眠い時は眠る。本能には逆らわない。
 世の多くの受験生のように、必要な睡眠時間を削ってまで打ち込むほど、勉強熱心な人間では葉月はなかった。
(……今は、他にやりかけてる事もあるし……)
 なかなか上手く仕上がらない、銀色の小さなオブジェ。睡眠を削るという点で言えば、『それ』にかける割合の方が大きいだろう。何とか『その日』までに仕上がるといいのだけれど。
「おまえも、あまり焦ってるようには見えないな」
 今度は葉月がそう言うと、守村は苦笑した。
「焦っていない事はないですよ。ですがこの時期になって、毎週模試を受けているような状況だと、かえってペースやコンディションを整える方が大切になって来ますから。それに……そうですね、有沢さんも同じ事を言っていましたけど、今まで蓄積した分があるから、多少の余裕が作れてるのかな、とは思います」
「ああ……そうかもな」
 守村も有沢も努力家で勤勉だ。始めから目標が決まっていてそれを目指して勉強に取り組んできただけあって、自分の実力を現実的に見据えて納得した上で、テンションとコンディションを維持する方向に自分を持っていく、そう考える余裕がある。それは確かに日頃の蓄積のおかげだろう。
 一方葉月の場合は、持って生まれた(時には憂鬱の種でもある)特殊能力がある為か、それとも性格ゆえか、必要以上に焦るという事がない。
 焦ったところで大差はない、自分のペースを乱される事の方がよほど深刻だと感じているのだろうか、こと勉学という分野においてはさほどの緊迫感を持っていない。
 成績で言えば何ら問題はないので、これくらいの構え方の方がかえって気分的に得かも知れない、と守村は思った。
 だが。
「……ですが、少し心配です。東雲さんの事は」
 ぴくり、と葉月の眉が動いた。
 それを悟ってか、守村が少し困ったような顔で続けた。
「焦っているのか張り切っているのか難しいところですけど……一心不乱に勉強だけに神経を費やしてる気がして、いつもの東雲さんらしくないというか……」
「……ああ……そうだな、ここのところ」
「無理しないでくれると良いんですけど。この前も模試の後に有沢さんが息抜きにお茶に誘っても、断って勉強してたそうですし」
「……珍しいな」
「はい。いつもなら答え合わせを兼ねて、喜んで付き合うんだそうですが。今はその時間さえも惜しんでいるみたいで……」
 守村の声が曇ったところで、後ろから別の声が届いた。
「おっ、メガネくんに葉月やん。ハウアーユー?」
 明るいテンションのそれに振り向けば、そこには姫条が立っていた。
「……おまえか」
「こんにちは、姫条くん」
「なんやなんや、メガネくんはともかく葉月のそのイヤそーな顔は。この見目麗しい絶世のハンサム男に失礼なやっちゃ。ま、自分みたいな無愛想男に愛想振り撒かれても、それはそれでコワイだけやけど」
 言葉ほど失礼とも思っていない表情で姫条がカラリと言う。この物言いは既に挨拶の一部なので、葉月はスルー、守村も苦笑するだけで終わった。
「二人お揃いで、勉強会でもするん?」
「いえ、僕は部の植物たちの世話に行くところです。葉月くんは食事してから、図書室に行くそうですけど」
「そかそか、お勤めご苦労さんやなー。受験組は大変やなぁホンマ」
 守村の説明に頷いてから、姫条はふと思い出したように天井を見上げた。
「図書室言うたら、さっき図書室前の廊下で飛鳥ちゃんと会うたんやけど」
「……飛鳥に?」
「東雲さんに?」
「おお。せやけど、なんや参考書離さんと熱心に読みふけってて、最初ちっとも気付いてもらえへんかったわ。人にぶつかりそうになったトコ慌てて止めたら、そこでようやっと気付いてもらえたけどな」
 そう言って、姫条は髪をかき上げる。
「元々ちーっとばかしぽやんとしとるトコあるけど、最近は少し違うねんなぁ。藤井が言うとったけど、勉強勉強ってそれしか見とらんっちゅうか、見えとらんっちゅうか……。ま、受験生やから仕方ないんやろうけどな」
 姫条は用事でもあったのかそれ以上は言及せず、ほなまたな、と言ってその場を去った。
「……大丈夫でしょうか、東雲さん。友だちにも気付かないなんて、らしくないですよね……」
「そうだな……」
 
 
 
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 昼食を終えた葉月が図書室に行くと、予想通り勉強に励む生徒が多数在室していた。
 この時期になると「図書室は読書する場所」などとは言っていられない。学園の生徒には就職組や推薦組も多い為、勉学に集中できる静かな環境と言うと図書室くらいしか無いのである。
「飛鳥」
 窓際の一角、使いこまれた参考書や問題集に埋もれてある意味必死の形相で勉強している飛鳥に、葉月は静かに声をかけた。
「……飛鳥?」
 周りを慮って掛けた声は、しかし彼女の耳には届かなかったようで、葉月はもう一度名前を呼ぶ。
「飛鳥」
「……え?」
 3度目の呼びかけでようやく呼ばれている事に気付いたのか、初めてそこで彼女は顔を上げた。
「あ、珪」
「随分集中してたな」
 苦笑を滲ませながら、葉月は飛鳥の向かい側に腰掛けた。
「うん……どうしても引っかかっちゃう問題があって。似ている問題を色々やってるんだけど、なかなかね」
「数学?」
 彼女にとって鬼門なのは理数系分野。何度も期末で総合一位を取っている彼女だが、それでも数学分野は頭痛の種だった。何度も計算し直したのだろう、計算用紙は真っ黒だった。
「そう。……なんでだろ、何がおかしいのかなぁ。この公式でいいはずなんだけど……」
 応答もそこそこに、彼女の意識はすぐに眼下の計算用紙へと移ってしまう。それを素早く見遣って、葉月はその計算用紙の1点を示した。
「……これ、ここ。式の展開、違ってる」
「え、嘘!?」
「こっちの公式じゃなくて、別の公式を使うんだ。ほら、こっちのcosの方。それに当てはめてやってみろ」
 飛鳥は早速葉月の言葉に従い、やり方を変える。要所要所で説明を加えるだけだったが、それでもさっきまで悩んでいた顔が、少しづつほぐれてきた。
「………………解けた!」
 心底安堵したような声が聞こえて、葉月もホッとする。
「良かったな」
「うん、ありがとう。よかった、珪が教えてくれなかったらずっと見当外れの計算してたよ。珪、教えるの上手い!」
「そんな事ない。おまえの理解が早いからだ」
「あはは、褒めても何も出ないよ。……でもやっぱりまだまだだな、もっと頑張らなくちゃ」
 つい一瞬前の笑顔が消えて、また難しい顔になった。
「……十分頑張ってるだろ?」
「ううん、まだ足りてないかな」
 強張った表情。彼女らしくない顔。
(…………大丈夫だろうか)
 受験の前だから、最近二人でどこかに遊びに行くのは自粛している。今年に入ってからは、初詣以降一度もない。
 放課後に守村たちを交えて一緒に勉強したりする事はあるが、日曜は彼女に模試の予定が入っていて終日空かない場合が多い。
(気分転換とか息抜きとか、した方がいいんじゃないか?)
 放っておくとどこまでも走って行ってしまうような彼女だから、たまには休息を勧めた方がいいのではないだろうか。
 そう考えて、葉月はそういえばと、ある事を思い出した。
「なあ……次の日曜、模試なかったよな?」
「え?次の日曜?うん、ないけど……」
「なら、サーカス見に行かないか?」
「サーカス?」
 突然出た単語にキョトンとする飛鳥に、葉月は軽く頷く。
「ああ、はばたき遊園地に来てるやつ。協賛企業絡みの仕事で、券、貰ったから。好きだろおまえ、そういうの」
 いつもならパッと顔を輝かせて「うん、行く!」と言う彼女。お祭り好きだから、そういうイベントはもってこいのはずだ。
 しかし、今日は数秒ほど考えて。
「……ううん、今回はやめとく。ごめんね」
 困ったような笑顔が告げたのは、断りと謝罪。
「行きたいけど、受験直前だから我慢する。あやふやなところがまだたくさんあるし」
「そうか……」
「本当に、ごめんね?」
 すまなさそうな顔に、葉月は苦笑する。
「いや、いい。……それじゃ、うちで勉強するか?一緒に」
「え。……いいの?」
「ああ、構わない」
「ありがとう!良かった、家だと尽がいろいろ声かけて来るから、なかなか集中できないんだもの。図書館に行くしかないかって思ってたんだ」
「静けさだけは自慢できるからな、うち」
「う〜ん、それはそれでどうだろう」
 自分の出した提案に、いつものように彼女が笑ってくれたから。
 葉月は、安心してそのまま飛鳥に倣って手元のノートを広げた。
 正直なところ、場所はどうあれ飛鳥と一緒にいられればそれで良いと思っていた。勉強会でも何でも良いと。
 そう、思っていた。
 ――――その時は。
 
 
 
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