−第9話− |
――貴方がそんな事をする必要はないのです。 私には、貴方に差し上げられるものなど何もないのに。 なのに、何故。 私ごときの為に。 貴方が本当に求めているものを差し上げる事も出来ぬ、こんな私ごときの為に。 何故そのような試練を、お受けになるのですか。 何故。 尽が眠い目を擦りながらキッチンへ入ると、既に杉菜という先客が朝食の準備をしているところであった。 「おはよーねえちゃん」 「おはよう、尽」 「ん〜、今日もうまそうな匂いだなぁ。…………あれ?ねえちゃん、どうかした?いつもより手がゆっくり」 目ざとく気が付いた尽が訊ねる。一見普段の流れる動きと変わりないように見えるが、そこはそれ、尽の眼力はただものではない。ほんのわずかな杉菜の変化を素早く見てとった。 杉菜はいつもと変わらぬ無表情のまま、弟の質問に答える。 「ん……ちょっと、夢、見たの」 「夢?ねえちゃんが夢見るなんてめずらしーじゃん。前に見たって言ってたのって、たしか…………」 「2年と7カ月12日3時間42分前」 「……だっけ。なに?なんか悪い夢でも見たの?」 「ううん。良い夢とか、悪い夢とか、よく分からないし。……ただちょっと、思った事があって」 「思ったこと?」 「……彼は、彼女を、どうして好きになったのかな」 何の感情も交えずただ口にしただけの彼女の言に、尽は内容を吟味するも理解出来ない顔で首をかしげた。 「???よく、わかんないんだけど……?」 「……うん、そうだね。私も解らないから、いい。―――はい。ご飯、よそったよ」 私には貴方に差し上げられるものが何もない。 貴方が本当に望む『私の心』は、私にすら手に入らないものだから。 だからどうか。 私の為に、そんな事をなさらないで。 私の為に、苦しまないで。 私が望むのは、ただそれだけなのです――――。 歓声と嘆きの声が響く、掲示板前。 テスト後の解放感は解放感として、やはり結果にこだわってしまうのも学生の性と云おうか。悲喜こもごもの感情がごった煮になって辺り一帯を渦巻いていた。 「やっぱりすごいですね、葉月くんと東雲さんは」 何とか3番につけて『学園始まって以来の秀才』と云うキャッチコピーを微妙に地に落とさずに済んだ守村が、感嘆の溜息と共に呟くと、隣の有沢もこくりと頷いた。 「ええ……。中間の時もそうだったけど、この二人を追い抜くのは並大抵の勉強じゃダメみたいね。もっとも、今回の成績に不満はないけれど」 総合点数はともかく守村と同点3位に着けた有沢は、別の要素を多分に含んで安堵の息を吐く。 「本当にすごいね、杉菜ちゃん!また全教科満点で1位だよ〜。私も何だか鼻が高いよ。おめでとう!」 「……そう?ありがとう」 讃えた紺野の興奮ぶりとは正反対に、杉菜の淡白ぶりはいつもと全く変化無し。さぞかし褒め甲斐もないだろうと思われるのだが、紺野はそういう点についてはいたってホワイト属性らしい。素直に友人の成績に感動している。 「ねえ東雲さん、よかったら次のテストの時も一緒に勉強してくれる?あなたの説明、とても明快で解りやすかったから」 「べつに、かまわないけど」 「ああ、それじゃ僕もお願いしようかな。……あ、葉月くん。あなたもテストの結果を見に来たんですか?」 廊下の向こうから歩いてくる葉月に、守村は声をかけた。その声に気付いた葉月は、そのままのペースで皆の所にやってきた。 「いや、べつに……。そういえば結果、今日だったな……」 テスト中は半ドンで睡眠時間が増える、という事以外はどうやら念頭に全く無かったようで、杉菜を除いた面々は苦笑の面持ちで葉月を見たが、誰一人ツッコむ者はいなかった。 「ええ。1番は東雲さん、葉月くんは2番です。でも点数は僅差ですよ」 「すごいのね、珪くん」 滅多に自発的に言葉を発しない杉菜が、ポツリと言った。自分の順位は完全に考慮していない口ぶりもさる事ながら、彼女が発言した、という事実に皆が一瞬目を見開く。 が、当の葉月もこれまた杉菜並みに淡白な態度で答えた。 「べつに……俺のは、超能力みたいなもんだから」 「……超能力?」 杉菜以外の者が復唱する。 「ああ……。一度読んだ事とか、忘れないから。……べつに、大した事じゃない」 大した事だよ、とほぼ全員が内心でツッコミを入れたところに、杉菜がまたも言う。 「……私も、似たようなもの、かも……」 「そうなのか?」 「うん。見た事とか、聞いた事とか。焼きついた感じで、残るの。頭に。あとはそれの組み合わせ」 「ああ……俺もそんな感じ、だな」 二人が淡々と会話する横で、守村・有沢・紺野の3人はなんかもうどうコメントしていいか分からないという表情で立ちすくむ。別の人間が言ったらムカつくような台詞なのに、どうも葉月と杉菜が言うとあまりにも浮世離れした異次元の話のようで、妙に納得出来てしまうのである。 もっとも葉月は杉菜の言葉を聞いて、別の事を思い返していた。記憶力がいい筈なのに、しかし幼い頃については何も言わない彼女。 忘れているのか、言わないだけなのか。 表情のない儚げな顔からは全く読み取れず、葉月の煩悶は深まるばかりである。 「おや、みなさんおそろいでどないしたんや?」 何とも微妙な空気が流れる中、明るい関西弁が現れた。続いて、 「ホントなーにやってんのよ。せっかくテストが終わったってのに、こんな所で集まっちゃって。夏休みの相談でもしてるっていう顔じゃなさそーね」 と、はきはきしたソプラノが高らかに響く。 「あ、奈津実ちゃん、姫条くん」 「姫条くん、ずいぶん晴れ晴れとした顔ですけど、肝心のテストはどうだったんですか?」 「ぐっ!メガネく〜ん、顔合わせた早々そらないわ〜。ま、とりあえず補習は免れたってとこやな」 「かなりギリギリみたいだけど。芸術があと2点足りなかったら補習だったわね、間違いなく」 「有沢ちゃんも、キッツイなー。オレとしては嫌いな教科は赤点ラインより1点多く取って補習を免れる、ちゅーのがベストな勉強法や思てんねんけど」 「ムチャクチャですねえ。せめてもう少し余裕がある点数を取ろうとか、思わないんですか?」 守村が頭を押えて嘆息するが、姫条はにかっと笑って気にも留めない。ざっと順位表を見て、ほぉ〜っと感嘆の声を上げる。 「こらまた杉菜ちゃん、見事な100点の嵐やなぁ。ここまで揃ってると氷室センセも満足やろ。オレ一人悪い点取ったかて問題ナシや。それどころか、オレよりヤバイ奴おるやんか。誰とは言わんけど」 「……姫条くん、それ言っちゃ……」 言われずとも分かっているので誰も口にはしないその人物は、順位表の底の方で素晴らしいまでの赤点の嵐を披露している。某バスケ部奥義を発動するたびに学力まで落下させているのかも知れないが、赤い嵐を起こすのは薔薇の花(理事長自家栽培品)くらいにしてほしいものである。周りの精神衛生上。 ちなみに氷室だが、葉月と杉菜のテスト返却時には非常に難解な眉の寄せ方をしていた事を追記しておく。 「って、それはおいといて、杉菜ちゃん、これおおきに」 姫条は杉菜に振り向いて、弁当袋を渡す。 「昨日のだし巻き、めっちゃ美味かったで〜!料亭の味っちゅうか、プロの料理人も裸足で逃げ出すわ。またよろしゅう頼むなぁ」 「調子のんなっての!あ、でもホント美味しかったよー!今度作り方のコツ、教えてよ」 「うん」 喜色満面で感想を伝える姫条達とは反対に、杉菜は相変わらずのノリ。 この杉菜の弁当作りについては、まこと周囲の人間の驚きを誘ったものである。女の子、それも学園一の美少女が、特定の男子生徒に手作り弁当を拵える、となればラブラブフィルター発動か!?(←それもゲームが違います)と皆が色めきたったのも無理はない。ましてや相手は遊び人だの関西の寒い風だの実はサバ読んでんじゃないかだのと噂される姫条まどか(本人申告16歳)。騒ぐなと云う方が酷である。 が、カノジョの手作り弁当を食べあって、などといういかにもな行為には全く至らず、杉菜は毎回ある意味事務的に姫条に弁当を渡し、昼は例によって校舎裏で猫一家(と葉月)と日向ぼっこしながら昼寝、というスタイルを崩していない。 当然の事ながら姫条も一度ならずご相伴に誘ってはみるものの、いつもの淡々とした調子で「……やめとく」と言われては致し方ない。羨ましがるクラスメイトの箸をかいくぐって自分の胃の中に収めるので精一杯である。その辺の事実が判明したせいか、周りも当初ほど騒ぐ事はなくなった。 無論、同様の要望をする輩も大勢いたが、そういった連中は姫条と裏取り引きによっておすそ分けを頂戴する事になった藤井、という鉄壁のコンビによって敢え無く敗退。めでたく杉菜の手作り弁当は二人だけの独占物となったのである。 ……実を言うと、藤井は弁当の件を知った時はかなりのショックを受けていた。姫条の杉菜に対する感情が何なのか、ぼんやりとだが確信をもって悟ってしまったがゆえに、非常に思い悩む羽目になった。 自身の姫条に対する想いも大事で、けれど杉菜も大事な人間だという事が、彼女の一種潔癖な部分に引っかかったままで、その矛盾に苦しまざるを得なかった。一週間くらいは凄まじいまでの落ち込みようだったのだ。 だが、当の杉菜がまったく姫条を特別扱いしていない。藤井ら女友達と、まったく同じ扱いなのだ。 というより、杉菜自身の認識が単なる弁当屋である事が、遠回しに探ってみた結果明らかになった。 「もしも、アタシも一人暮らししてて、生活大変ー!とか言ったら、杉菜、アンタ、アタシのお弁当も作ってくれる?」 との問にも、 「うん、作るけど……?」 と、あっさり肯定。 他人が困ってて、自分に余裕があるなら、別段手を貸す事を厭わない。それも、誰に対しても平等に。 そんな杉菜を見ていると、藤井も色々悩んでいるのが馬鹿らしくなってくるというか、「あ〜なんかこの子なら負けてもしょうがないかも……」という気分にならないでもない。もっともそう簡単に負ける気も諦める気もないし、これからの展開次第で杉菜の気持ちもどうなるか知れない。油断はならないが、少なくとも今は一息つけるといった心境である。それに正直、杉菜の弁当を挟んで姫条に近付ける今の状況は本人としては悪くはない。複雑な気分ではあるにしても。 藤井は憂さを吹き飛ばすように背筋をグーッと伸ばした。 「しっかしまあ、テストも終わったし、夏休みまでもうちょっと!今年はじゃんじゃんバイトやってバンバン部活やってガンガン遊んじゃうぞー!」 「奈津実ったら、夏休みは遊ぶための期間じゃないのよ?長期の休み中こそ学力を上げる一番の――――」 「あーもう、そんなのいいって!だって夏だよ?きらめく太陽がまぶしい季節だよ?海水浴や花火大会、遊園地のナイトパレード、夏のイベント目白押しだよ!?楽しまなくっちゃ損だって!」 「海水浴はともかく、花火大会とナイトパレードはきらめく太陽関係ないやろ」 「うっさいなぁ。キブンの問題よキブンの!そだ、せっかくだからみんなでどっかにくり出すってのもいいよね。花火大会とかよくない?みんなして浴衣でバシッと決めてさ」 「あ、それいいね、奈津実ちゃん」 「お、自分なかなかええアイデアやないか。ほんならオレ、知り合いにナシつけてでかいシートやら何やら借りてくるわ。もちろんメガネくんも有沢ちゃんも来るやろ?」 「そうですね。たまには大勢も楽しいかもしれません。ね、有沢さん」 「え、ええ、そうね、たまには……楽しい、でしょうね……」 お祭り人間二人によって、集団の方向が早くも夏休みの楽しいイベントに向かって行き始めた時、忘れ去られたかのように立っていた葉月がおもむろに踵を返す。 「それじゃ、俺、これで……」 ボソッと言って、そのままその場を立ち去ろうとしたが、ふともう一度杉菜の方に顔を向けた。 「東雲。明日、続き聴きたい。大丈夫か?」 必要最低限の言葉だけだが、杉菜には通じたようですぐに答えが返ってきた。 「うん」 「じゃあ、例の場所で、あの時間に」 それだけを言うと、再び顔を正面に戻して廊下の向こうへ去って行った。 その背を見送って、姫条が大きく顔をしかめた。水を差されたような形だったのと、杉菜に対して自分達しか解らない会話を交わしていった事への両方に苛ついての事だ。言葉にしたのは前者のみだが。 「なんやアイツ、ノリ悪いなぁ。こういう時に乗ってこんなんて、人生損しとるわ、ホンマに」 「葉月くん、あまり人込みとか好きな方じゃないみたいですから……」 「せやけどなぁ」 「私も、もう行くね」 フォローしようとする守村に反論しかけたところ、杉菜がさらりと滑りこむように言った。 「え、杉菜も行っちゃうの?」 「うん。帰って尽のお昼ご飯、作らないと」 「あ、そうか。杉菜ちゃん、うちの玉緒と同い年の弟いるもんね。分かった、気をつけて帰ってね」 「そっかぁ、残念。あ、じゃあこっちから詳しいこと連絡するから、携帯の番号教え――」 「ううん、いい」 気持ちを切り替えて連絡先を訊こうとした藤井を遮って、杉菜が言った。 「え?」 「……行けないから。連絡も、いらない。……ごめんね。それじゃ」 ほんのかすかに、申し訳なさそうな響きがこもった声で言って、杉菜はその場を離れた。 置いていかれた面々は、各自ショボンとした表情を浮かべたものの、ああ言われてはどうしようもない。落胆の溜息だけが響き渡った。 「……何か用事でもあるんでしょうね。行けないって事は」 「え〜!?杉菜いないんじゃつまんないなぁ。せっかくあの子の浴衣姿お目にかかれると思ったのにー」 「仕方ないわよ。人それぞれ予定も事情もあるでしょうし」 「うん……残念だけど、今回は杉菜ちゃん抜きだね」 「……そうやなぁ。あ、じゃあ珠美ちゃん、和馬のヤツにも声かけてといてくれへん?杉菜ちゃんがおらん分は、ヤツのボケっぷりオモチャにして遊ばせてもらう事にするわ」 「う、うん」 悄然とした面持ちながら、それでもイベントの打ち合わせは続いた。夏はまだまだこれから。機会はいくらでも作ればいいと、それぞれ心の内に思いつつ。 葉月が校舎裏に立ち寄ると、見慣れてしまった後ろ姿が見えた。鞄を脇に置いて膝をつき、甘えてくる猫達を優しそうな手つきで撫でている。撫でられている猫の気持ち良さそうなこと、見ているこっちまでほんのりするくらいだ。 「東雲」 声をかけると、ゆっくりと彼女が振り向いた。振り向いた拍子に木漏れ日を浴びた髪の毛がさらりと揺れる。 「……珪くん?先に帰ったんじゃ……」 「ああ、猫缶買いに行ってた。帰る前にエサ、やっとこうと思って。……おまえは?」 「猫、見に。……珪くん、前に言ってたでしょ?『おまえが顔見せないと、あいつら寂しがる』って。だから」 過日の姫条のチャーハンイベントの後、教室に戻る途中で葉月は杉菜にそう言った。葉月としては事実を端的に述べただけだが、それで杉菜は昼休みを校舎裏で過ごす事に統一したらしい。 もっともそれ以前に、彼女がこの校舎裏を昼食と昼寝の場所に選んでいるのは、 「日当たりいいし、猫、いるし」 という理由ゆえ。二重の意味でお気に入りの場所らしいのだから、そうそう習慣を改めはしないだろう。 言い換えれば、姫条は女友達どころか、野良猫にすら負けている訳だ。本人が知ったらさぞかし男泣きに泣くだろう。 「そうか」 そう言って葉月は手に持った猫缶を開ける。匂いに惹かれて近寄ってくる猫達にエサを与えながら、葉月は杉菜に声をかけた。 「おまえ、もう帰るのか?あいつらと夏休みのこと、話してたんじゃなかったのか?」 大勢で花火大会に行こうと言っていたから、杉菜もその打ち合わせに混ざっているものだと思っていた。だが、返ってきたのは小さく横に振られた否定の仕種。 「ううん、行けないから」 「行けない?」 「……眠っちゃうから。迷惑、かけたくないし」 「……ああ、そうか。時間、夜だもんな」 得心した。花火大会が始まるのはせいぜい午後6時半過ぎ。夜空に浮かぶ大輪の花を鑑賞しようとすれば、どうやっても19時以降になるだろう。そして19時になれば、杉菜は眠ってしまう。それからの1時間は、例の夢遊病的な危険時間帯。この時間帯だけはどうやっても他者からの指示・命令を受ける訳にはいかないので外には出せないと、以前尽に教えてもらった。正確には、余裕を持って、18時半以降の外出は禁止らしい(杉菜に限り)。 確かに不埒な輩が多い昨今だ、意識がないのをいい事に何をさせられるか判らない。賢明な判断だとは、思われるが――。 「……それじゃおまえ、今まで実物の花火、見た事ないのか?」 「うん。ビデオでだけ」 「ビデオ?」 「そう。お父さんや尽が、撮ってきてくれて、それを観るの。実際に観た事は、ほとんどない」 「……そう、か。残念だな」 ビデオで花火を観るというのもどうかと思ったのだが、東雲家の一角にあったプロ仕様のAVルームはその為かと納得もした。こういう体質の娘もしくは姉の為、家族が心を砕いているのがよく解る。本人がそれほど気にしていないのが救いと言えば救いだろうか。 「綺麗なのにな、実物の花火。最近のは、かなり演出や効果が凝ってるし」 「……綺麗……そう、だね。綺麗、なんだろうね、多分」 その一瞬の逡巡に、葉月は僅かに疑問を抱いた。実物を見た事がない、という事よりも、『綺麗』という単語を口にする事に不思議と迷いがあったような気がする。 だが、杉菜の顔の無表情はほころびた様子もない。 葉月は少しの間だけ口をつぐみ、やがて別の事を思いついて提案した。 「なぁ……おまえ、寝溜め、できないのか?」 「寝溜め?」 「そう。昼間ひたすら寝て、夜起きてる。睡眠時間が足りればいいなら、休みの日ならそれで何とかなるんじゃないか?」 「……どうだろう。そういえば、中学の頃、試した事あったけど……あの時は前の日からずっと寝てて、夕方5時に起きたの。それだけ眠って……そう、30分しか、もたなかった」 「……つまり、22時間寝て、2時間半だけ起きてて、夜7時半にはまた寝たってこと、か……?」 「うん。次の日はいつも通り、朝7時に起きて」 これは葉月の遥か上手を行っている。彼ならばさすがに寝付けなくなって、生活サイクルがずれ込む事必至だろう。だが、杉菜の場合は完全に人間としての生体リズムに変異を来たしているようにしか思えない。その睡眠時間と摂取した食事の量が日頃の天才的特殊能力に変換されているとすれば、勘定は合っているのかも知れないが。 内心やや躊躇ったものの、葉月は杉菜の言葉を受けて、更に続けた。 「30分なら……充分、見られるな……」 「……?何が?」 「実物の、花火。本物の夜空が背景のやつ」 「…………え……?」 「当日、寝溜めしてこいよ。眠った時は、俺が送ってくから。……一緒に、観に行こう」 すっかり空になった猫缶を片付けて、葉月は杉菜を見た。見つめた先にあるのは、わずかに驚いたように見開かれた彼女の瞳。吸い込まれそうな色合いで、複雑に揺れている。 「……どうして?」 「……花火、綺麗だから。観ないの、もったいないだろ。……ああ、ちゃんと前もって言っておくから、おまえの家族にも」 「……そうじゃ、なくて……。どうして、そんなに親切にしてくれるの……?」 「親切……でもないだろ?先週と、それから明日。おまえのバイオリン、聴かせてもらう代わり」 引き受けると言った『迷惑』は、それほどかけられてもいないから。 そう言われた杉菜はやはり不思議そうに視線を巡らせる。 「……そんなの、お稽古の帰りのついでで、大した事じゃ、ない。なのに、どうして…………」 私には、貴方に差し上げられるものなど何もないのに。 貴方が私に求める、『心』というものを、差し上げる事もできないのに。 誰かを愛する心というものが、どうしても理解できないのに。 なのに、何故。 私ごときの為に。 壊れている、私ごときの為に。 「……さあ、どうしてだろうな。……けど……」 「けど…………?」 「……そうしたいと、思ったから。――――それだけじゃ、駄目か?」 どこか言い難そうに呟く葉月を、杉菜はじっと見つめる。樹々の色を映した双眸が、不安そうに、そして照れたように淡く瞬く。 ああ。 せめて。 せめて、私が出来るすべての事が。 貴方が私にくれた、すべての事へのお返しとして、渡せたらいいのに。 たとえそれが、虚ろな形だけのものであっても。 「…………ううん。わかった」 翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめて、杉菜はこくんと頷いた。 「花火大会……一緒に、行こう」 頷いた杉菜の髪に木漏れ日が反射して、葉月はほんの少しだけ、目を細める。躊躇いと困惑の色を仄かに見え隠れさせながらも、一緒に行く、と言ってくれた彼女が眩しかったのかも知れない。 自分でも、何故ここまで杉菜に関わろうとするのかは、はっきりしない。 けれど、彼女には。 ただ一目で、己の心を奪った彼女にだけは。 自分が出来得る全ての事を、したいと思うから。 自分を、省みる事なしに。 貴女は、私に心をあげられないと、言う。 貴女は、愛するという事が解らないと、言う。 だが、それでも、いい。 ただ一瞬、貴女が、私の為に微笑んでくれる。 そんな途方もない望みのためなら。 私は、どんな試練であろうと、立ち向かう事が出来るのです。 |
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