−第8話− |
ただでさえ柱や壁の影からコソコソと様子を窺うのは怪しい行動だ。 しかもそれが身の丈185pに至るガングロの大男によって成されているとなると――。 「……あやしさ大爆発だぞ、オイ」 呆れかえった鈴鹿が声をかけると、大男こと姫条まどかは目を吊り上げて彼を睨んだ。 「やかましわ!……てなんや、和馬か。オレに用でもあるんか?」 「いや、ねぇけどよ。つーか、おまえさっきから何やってんだ?」 校内は廊下の曲がり角、姫条は何やら壁に張り付くようにしてその先の様子を探っている。 実に、怪し過ぎる。 事実周りを通り過ぎる生徒が奇異の目を向けて姫条を眺めている。もっとも本人にそんな事を気にしている余裕はないようだが。 「放っときぃ。オレは今、一世一代の勇気を振り絞らんと己に喝入れとるトコなんや。自分のボケにツッコんどる場合とちゃうねん」 「はぁ〜?やっぱりおまえおかしいぜ、姫条。――てかなんだよ、俺のボケって!!」 その言語野における一瞬の反応の鈍さがすなわち彼がボケ体質であることを示しているのだが、その辺は気がつかないようである。鈴鹿の鈴鹿たる所以であろう。 「しーーーっ!!騒ぐんやない!……う〜アカン、深呼吸深呼吸……」 スーハースーハーと、大きく深呼吸し始めた姫条のその様を見て、鈴鹿は思いっきり眉を寄せる。 (なんなんだ、コイツ。ここ最近、ちとどころかかなり変だぜ。…………あれ?アイツは……) 廊下を歩いてくる女生徒を視界に認め、鈴鹿は軽く手を挙げて声をかける。 「おう、東雲!今から昼飯か?」 すると隣の姫条が音を立てんばかりに鈴鹿を振り返った。 「な!和馬、自分なんちゅう事を!!ダチのくせしてオレのナイーブな男心を木っ端みじんにする気かーーーっ!?」 「は?何言ってんだよいきなり!!」 「……あ、和馬。それに……ニィやん?」 周りにいた生徒達があまりにも単語とそれを発した声の違和感に彼女に注目する。 しかしもっとも衝撃を受けていたのは『ニィやん』なる呼称を浴びている張本人だった。 (な……!!す、杉菜ちゃんが、和馬の名前を呼び捨てやて!?一体二人の間に何があったんや!?) 傍目にも判るくらいに動揺している姫条を見て、女生徒――杉菜は軽く小首をかしげた。 「……どうかしたの?ニィやん」 「さぁな。最近おかしいんだよコイツ。まー元々変な奴だからあんま気にすんなって」 「そうなの……?」 「和馬!杉菜ちゃんに妙なこと吹き込むな!杉菜ちゃんも納得したらアカンて〜。……って、二人とも、し、知り合いやったんか……?」 恐る恐る訊ねると、答えは鈴鹿の方から返ってきた。 「まぁな。ちょっと前にたまたまな」 鈴鹿の話では、部活の練習中に杉菜が体育館を訪ねてきたことが始まりらしい。借りていた本を返す為、バスケ部のコート近くまで来て紺野と話していた杉菜だが、その時うっかり手元を狂わせた鈴鹿がボールを大暴投したという。ボールは見事に会話中の女子二人の所に飛んで行き、慌てて叫んだがとても間に合わないと誰もが思った。 だが、ぶつかると思った瞬間、杉菜は素早く片手を差し出して、鈴鹿の馬鹿力によって繰り出された重みのあるバスケットボールを軽々と受け止めてしまったのである。 咄嗟にしゃがみ込んだ紺野を始め、しばし皆が呆気にとられた後、我に帰った鈴鹿が杉菜の元に向かうと、杉菜は何ら気にしていないように「はい」と言って彼にボールを渡した。ついでに言えば、受け止めた彼女の手に衝撃の痕跡は全く見られなかった。 「えーと……その、悪かったな」 「……右肘」 「へ?」 「右肘、力入り過ぎてるの。ほんの少しだけ弛めると、決まると思う。コントロール」 あまりにも抑揚のない口調で言うだけ言って、しゃがんだままの紺野に声をかけてから、そのまま杉菜は体育館を出て行った。 短時間の出来事ゆえに逆に脳裏に刷り込まれたのかどうか、その後、鈴鹿が杉菜の言葉を頭に置いて練習に取り組んでみると、確かにコントロールが容易になりシュートミスやパスミスの確率が格段に減った、というオチである。 「そんで、紺野から名前訊いて礼言いに行ったんだよ。ナイスアドバイス、サンキュってな」 「なるほどなぁ。そういう訳やったんか。オレはまたてっきり……」 「……てっきり、何?」 「あ、いやいや、何でもあらへん」 (そういえば初めて会った時に、『苗字呼び好きじゃない』言うてたの忘れとった。そない言うたら和馬はそんなこといちいち気にするようなタマやなかったわ、……アホらし) 実際のゲーム本編では鈴鹿が名前呼びを認めるのは友好状態になってからだが、今回の場合杉菜の優れた動体視力と反射神経、並びに運動神経と筋力を間近で観察できた事により好意と敬意が上昇し、親密度及び挨拶レベルが第4段階上限くらいまで一気に到達してしまったがゆえの名前呼びなのだろう。(←ゲームが違います) この辺はさすがバスケ一直線の単純男、話が簡単である。 (……せやけどオレ、早まった事したかも知れん。名前で呼んでもええっちゅうてたら、杉菜ちゃんの可愛い声で『まどか』って呼んで貰えてたやんか。ダメ出しした直後に名前OKやいうのもなんか変やし、一時の感情で大局見失うなんて、オレとしたことが浅はかやったなぁ。――て、今はそれどころやないねん!) 姫条は片手に持った袋の取っ手をギュッと握り締め、彼言うところの一世一代の勇気を振り絞って声を出した。 「あ、あのな杉菜ちゃん」 「何?」 「その、ちょっと頼みがあるんやけど。お昼、まだやんな?」 「うん、これから」 「ほんなら、ちょっと中庭まで一緒に来てくれへんか?」 「中庭?べつに、構わないけど……」 承諾の答えを得て、姫条の表情は一気に明るくなった。 「ホンマ!?そらよかった〜!――あ、和馬、自分は付いて来んでええから」 「?べつにそんなつもり元からねえよ。じゃあまたな、東雲」 「うん」 そう言って二人は鈴鹿と別れ、中庭に向かった。六月の晴天時、さすがに日差しが強いせいか思ったよりも生徒の数は少なかった。比較的影になって涼しいコンクリートの上に、二人は腰を下ろした。 「……それで、頼みって、何?」 「いや〜、大した事やないねんけどな、実はゆうべチャーハン作りすぎてもうて。その……食べてくれたらうれしいんやけど」 「チャーハン?」 「そや。ひとり暮らしやねんし、料理・掃除・洗濯・針仕事、家事は一通りこなすんやけど、たま〜に量の見当狂ったりしてなぁ。一人で食うには多過ぎるよって、杉菜ちゃんに手伝ってもらえたら助かるな〜、なんて」 「……どうして、私?和馬でも良かったんじゃ……?」 鋭いところを突かれ、一瞬姫条はうろたえた。確かに食べ物を大量消費したいなら、鈴鹿辺りに声をかけた方が確実だろう。 「そ、それは、そのー……。そ、そや!初対面の時、エライバタバタしてしもうた詫びちゅうか、そんなトコや!それに男同士で弁当のやりとりなんか、それぐらい寒い光景もあらへんしなぁ」 「初対面……ああ、あの時……。でも私、べつに気にしてないけど……?」 「そ、そうなんか!?」 「うん。……どうかした?両手、握りこぶし……」 悪印象を与えていなかったと判り、思わず「よっしゃあ!!」と意気込む姫条に、杉菜が不思議そうに問う。 「ハッ!い、いや、何でもあらへん!それはともかく、食べてくれへん?詫びちゅうのが嫌やったら、オレと杉菜ちゃんの友情の証、固めの杯ならぬ固めのチャーハンちゅうことで」 「……うん、分かった。それなら頂きます。……あ、じゃあ、私のお弁当、食べる?」 そう言われて姫条は初めて杉菜の持つお弁当袋に気がついた。今の今まで緊張していた為すっかり見落としていたらしい。 「……あ、そない言うたら杉菜ちゃん、弁当持っとったな」 迂闊である。いくら何でも女の子がこれだけ大量に食べられる筈がない。しかもこの陽気、放課後まで食べ物が無事な状態を保てる筈がない。 シュンとして渡しかけたタッパーを引っ込めようとした姫条だが、杉菜の声がそれを遮る。 「うん、でも、貰うから。私の、半分食べてくれる?おかずだけで、いいから」 「……ええんか?」 「うん。……はい、どうぞ」 そう言って杉菜が出したのは、姫条がしばらくお目にかかった事もない素晴らしき家庭料理(の域を超えてるが)の数々。えもいわれぬ芳香が姫条の食欲をそそる。 「はぁ〜……これ、みんな杉菜ちゃんが作ったんか?」 「そう。口に合わないかも、知れないけど」 「んなことないて!これだけええ香りしとるんやから、味かて間違いなく美味いに決まってるわ!ほな、お言葉に甘えていただきます!!」 パンッ!と手を合わせて拝んだ後、早速姫条は杉菜作の料理に箸をつける。 「………………めっちゃ美味い――!」 口に含んだ瞬間、まったりとしてコクがあり、さりとてあとに残らないキレの良さを併せ持った(以下、某料理漫画の如き形容が続く)味がふわりと口腔内に広がった。 「……そう?」 「いや、マジで!オレ、こんなに美味い料理食べたんは生まれて初めてや!おっ、こっちのも美味いわ!杉菜ちゃん、自分、エライ料理上手やなぁ〜!」 「……そう、なのかな?自分では判らないけど。でも、口に合うようで良かった」 「合うどころか、オレの人生の中で一番オレの味覚にクリーンヒットやで。……なぁ、よかったら全部貰てええか?こんな美味いもん滅多に食えへんから」 「うん、いいよ。私も、チャーハン頂きます」 「そらおおきに―――――――ッ!?」 「…………何?」 「あ、いや〜……噂に違わず、見事な食いっぷりやなぁ思て」 既に何度も記述しているのでアレだが、例によっての杉菜の食し方を直に見て、姫条も呆気にとられてしまったようである。一瞬の内にタッパー一杯の炒飯が小柄な彼女の中に消え去ってしまえば、確かに驚くのも無理はない。初めて見たとあれば尚更のこと。 「……変、かな?」 「いや、そんなことないで。健康的でええやん」 と、口に出してはみたものの、もしかしたら不味くて流し込むくらいでないと食べられなかったのだろうか、と姫条はちょっぴり不安になった。が、すぐにそれは杞憂だったと判明した。 「美味しかった。すごく上手に作れてる。ご馳走様でした」 蓋を閉じてタッパーを返しながら杉菜は評した。その表情からは虚言や美辞麗句の影は全く見られない。元々そういう腹芸とは無縁の人間ではあるが。 「ホンマに?ホンマに美味かった!?ハァ〜、よかったわ、そう言ってもらえて」 「うん。料理上手なのね、ニィやん」 「ん〜まぁ、慣れや、慣れ。毎日やってるといやでも慣れるし。せやけど杉菜ちゃんの料理には全然かなわへんて。はぁ〜ええなあ。こんな美味いもん、今の生活やったらなかなか食えへんもんな。今日はホンマ得したわ、ありがとな」 「……一人暮らし、なんだっけ?」 「そや。ここに入学してからずっと自炊や」 姫条がそう言うと、杉菜はかすかに首をかしげる。どうやら彼女の癖らしい。 「……一人暮らし、したことないから、解らないけど……大変?」 「まあなぁ。家事一切自分の手にかかっとる上に、バイトで暇ナシやろ?なのに他の生徒とおんなじだけ勉強して、 他の生徒とおんなじ時間に学校来いちゅうんやから、そらちょっとムチャやわ。どっかで手ェ抜かんとやってられんし、生活自体も贅沢してられへん。……せやけど、自分で選んで自分で決めた道やさかい、ちょっとばっかし苦しくたって止めるわけにはいかへんもんな。――ってオレ、何語ってんねん!ハハハ、スマンな杉菜ちゃん。あんまり飯が美味いよって、ついつい口の滑りもようなってしもたわ――て、関係あらへんな」 「……作ってこようか?」 照れ笑いと一人ツッコミで誤魔化そうとした姫条に、杉菜がポツリと言う。 「え?」 「お弁当、良かったら作ってくる?ニィやんの分」 「え……?え?なんやて?オレの弁当、作ってくれるて、な、何で!?」 「美味しいって、言ってくれたから。そのお礼。……必要ないなら、それでもいいけど」 さらりと言う。 それだけで?たったそれだけの事で、自分の分まで弁当を作ってくれるというのだろうか? 「ひ、必要ないて、そんなことあらへん!むしろ嬉しいて!……せやけど、ホンマにええんか?そっちこそ大変なんとちゃう?その……材料費かて、バカにならんやろ」 「べつに」 本当に気にもならないらしい。何ら重荷にはならないという表情で杉菜は姫条を見返す。実際今さら姫条の昼飯代程度が増えたところで、東雲家のエンゲル係数に大差は生じないのである。それに家族分の弁当を拵えている杉菜にとっては、4人分も5人分も大して手間に違いはない。 「そ……そないやったら、ぜひ頼みたいところやけど……。けど、悪いなぁ……。――そや!杉菜ちゃん、毎日やなくてええから、週1、いや、週2回で頼めへん?」 「週2回?」 「そや。水曜と金曜で。メインのバイトがその曜日やさかい、その前に杉菜ちゃんの弁当食べて力入れていこ思てな。弁当の材料費、言うても現金払いはキツイから、その分杉菜ちゃんが困ってる時や男手が必要な時はいつでもオレが力になる。そういうんで、どうや?」 「……私はべつに、かまわないけど。それじゃ、水曜日と、金曜日に持ってくるね」 「ああ。で、次の日にオレが入れ物を洗って杉菜ちゃんに渡すちゅうことで決まりやな。杉菜ちゃん、ホンマにありがとな〜!!」 天にも昇る心地で、姫条は笑った。何とも棚ボタな展開ではあるが、ここしばらく杉菜に声が掛けられず悶々と悩んでいた甲斐はあったようである。対する杉菜は……まあ今さら特筆する事もないだろう。マイペースでペットボトルのミネラルウォーターの口を開けている。 ほくほく顔の姫条が食事を続けていると、ペットボトルを飲み干した杉菜がふうっと息を吐いた後、彼を見た。 「ん?なんや?」 「うん、私、眠るから。食べ終わったら、袋に入れておいて。――それじゃ」 チラッと腕時計を見て校舎の壁に背を凭れかけるなり、杉菜は習慣通りの午睡を始めた。これも初めて見た人間の常として、姫条は箸を咥えたまま呆然と眺める。 「なるほど、これがウワサの瞬間入眠ちゅうやつか。……なんやのぴ太(※国民的有名アニメのダメ主人公)みたいやな」 例えがどうかと思うが、確かにその通りである。杉菜の場合3秒どころか1秒あれば眠れてしまうが。 (……にしても、やっぱ杉菜ちゃん無防備すぎるわ。いくら中庭で、他にも生徒がいるいうても、そんなに話したこともない男の前でこんな熟睡するなんてなぁ。よほど信用されとるんやろか、オレ。それとも……まったく男として見られてない、とか……) そこまで考えて、何だか自分の発想で哀しくなってしまった姫条だったが、とりあえず食べ終わったので弁当箱を片付ける。ちょっぴりロンリーな気分はさておき、美食にありつけたのは確かなので、眠っている杉菜に向かって軽く手を合わせ、「ごちそうさんでした」と呟いた。 杉菜の横に改めて腰掛けて、見張り番に徹するかと心に決めたところに、知った影が近付いて来た。 「あっ、いたいた姫条!何してたのよ、こんなトコで――って、杉菜!?」 「しーーーッッ!!静かにせんかい、藤井。起きてまうやんか」 「っとと……、ふう、ヤバイヤバイ。てか何やってんの、アンタ。こんなトコに杉菜連れ込んでさ。しかも杉菜寝てるし!なんか企んでんじゃないでしょ〜ね〜?」 慌てて口を押さえ、杉菜が起きないのを確認してから、藤井はひそひそ声で姫条に話しかけた。 「人聞きの悪いやっちゃ。連れ込んでも何も、学校の中庭に友だち誘って何が悪いねん」 「ハァ?アンタたち、いつから友だちになったのよ?」 「関係ないやろ、自分には。それよりなんか用か?自分、オレのこと探しとったみたいやないか」 「あ、そうそう。週末みんなで遊び行く予定してたじゃん?詳しく打ち合わせしとこうってことで、アンタ探してたのよ。ていうかお祭人間のアンタが来ないと話進まないんだよねー。和馬に訊いたら中庭に行ったっていうから、わざわざこのアタシが足運んでやったの」 「おう、あれか。せやけどなぁ、今それどころやないねん。このまま杉菜ちゃん放っとくわけにはいかんやろ?」 「……まぁね」 そう頷いて藤井は杉菜の顔を覗きこむ。見た途端、藤井の顔がふにゃっと崩れた。 「よく寝てるわねー。あーでも寝顔もバッチリ整っててかわいー♪やっぱ杉菜って可愛いよねぇ。メランコリック系なのに、観てるこっちは和む和む。こんだけの美少女ってホンット貴重だわ」 「ホンマやな。はば学入って一番ラッキーだったのって、杉菜ちゃんに会えた事かも知れへんなぁ」 「!!…………姫条、アンタって、さ……」 言った瞬間の姫条の表情に浮かんだ感情を見て取って、藤井は目を見開いた。しかし姫条はそんな藤井には気付かず、杉菜に当てた視線を外さないままだった。 「ん、どないしたん?」 「…………ううん、なんでもない。それよりさ、どうしよっか、打ち合わせ。今日中にまとめときたかったんだけど」 「そうやな、それやったら…………」 「――――俺が、見てる」 突然、別の影が姫条と藤井の間に割り込んできた。その静かな声の持ち主を確かめれば、逆光を背に学園一の美形と評される男子生徒が佇んでいた。 「あれ、葉月じゃん。どーしたのよ」 藤井が尋ねたが、彼は直接的な答えは返さなかった。 「……おまえたち、用、あるんだろ?東雲は、俺が見てるから」 無表情と感情の感じられない声ながら、有無を言わせぬ迫力でもって二人に宣言する。どちらかというと、姫条に向けて放たれた言葉のようにも聞こえた。 「……なんやと?」 「あ、ほんと!?良かった〜。ホラ姫条、葉月が見ててくれるって言うんだから、任せちゃってアタシらは行こうよ。そんじゃ葉月、あとはよろしくね〜!」 少しだけムッとしたような姫条だったが、藤井が渡りに船とばかりに頷いてしまい、あまつさえ姫条の腕をさっさと取って歩き出してしまったので、葉月に対して何も言えないまま荷物だけ持ってその場を立ち去る羽目になった。 「自分、何のつもりや!」 校舎に入った所で姫条は藤井の手を振り切って、彼女を怒鳴りつけた。 「え〜、何が?」 「とぼけんなや!いくら何でもあの葉月に杉菜ちゃんを任せるなんて、ムチャクチャや!」 「どこがよ?葉月ってかなりテングっぽいけどさ、杉菜に対しては態度違うって志穂や珠美が言ってたわよ。入学早々杉菜が寝不足で倒れた時だって、葉月が率先して運んだりしてたしさ。いいじゃん、べつにムキになんなくたって。第一クラスメイトに後を頼むのがそんな大層なこと?」 「……ハァ、自分には解っとらんのや」 深い深い溜息を吐いて、姫条は先に歩き始めた。藤井は少しの間その広い背中を見つめ、やがてポツリと呟いた。 「……解ってるに、決まってるじゃない……」 そして、唇を引き結んでから姫条の後を追いかけた。 杉菜が予鈴の鳴る10秒前に目を覚ますと、横には姫条ではなく葉月が座っていた。 「……珪くん」 杉菜が声をかけると、どうやら葉月も眠かったらしい、うとうとしたような眼をハッと開けて、改めて杉菜を見る。 「……ああ、起きたのか……」 「ニィやん……ええと、姫条まどかくん、いなかったっけ……?」 「姫条……あの、色黒の男か?あいつなら、用があるからって。俺がおまえ、見てるからって言ったら、フジタだかウジイだかいう女子が連れてった」 「……藤井、奈津実」 「……そうか」 訂正はされたものの、あまりちゃんと覚えておく気はなさそうである。 「聞こえてはいたから……。あ……じゃあ、見張っててくれたの?もしかして」 「まあ……。人の事言えないけど、おまえ、無防備過ぎ。所構わず寝るの、止めた方がいい」 「……大丈夫だと思わなくちゃ、眠らないよ。昼間は。周りの状況、判るし」 「それでも、反応は出来ないんだろ。おまえ、一応女だし、もう少し気をつけた方がいい」 「……そう……だね。……ごめんなさい、昨日も迷惑、かけちゃったのに」 『昨日の迷惑』とは、つまり森林公園でいきなり眠ってしまった杉菜を葉月が送り届けてくれた事である。タクシー代も自腹を切ってくれたようで、今朝登校時に会った際にその分を返そうとしたのだが、葉月は「夕飯ご馳走になったから、その分」と言って受け取る事はなかった。 「べつに……気にしてない。それに、昨日のはお互いさまだろ」 「でも……」 拘束時間を考えれば確かにお互い様なのだが、杉菜にとってはそうではないらしい。自身の体質を大変とか辛いとかは思っていなくても、それによって誰かに迷惑がかかる事を非常に忌避する傾向にある。葉月は尽から訊いた話で、そう推測していた。 (……わかってないのかな、こいつ) 他人がどれだけ、杉菜を助けたいと願っているかを。 何でもできる、何でも持っている。そんな彼女なのに、それでも役に立ちたいと思う人間がたくさんいるって事を。 それほどに、自分には他人を惹きつける力があるという事を。 乾ききった心しかなかった筈の自分にさえ、そんな風に思わせるのに。 葉月は軽く溜息を吐いたが、ふと思いついた事があって、杉菜の顔に視線を戻す。 「……じゃあ、交換条件」 「……交換条件?」 キョトンとしたふうに、杉菜も葉月の顔を見つめ返す。 「そう。時々でいいから、おまえのバイオリン、聴きたい。……駄目か?」 一度、二度……三度。 杉菜の長い繊細な睫毛が、上下に揺れた。 「……そんな事で、いいの……?」 「ああ」 軽く頷く。 「そのかわり、昨日みたいなところに俺がいたら、おまえの言う『迷惑』、引き受ける。それでいいだろ?」 少しだけ、驚いたような、複雑な眼差しで葉月を見つめる。 「……お母さんに、頼まれた?」 「そうだな……頼まれたけど、それだけじゃなくて。頼まれなくても、引き受けたと思う。それに……」 「それに……?」 「……それに……おまえのバイオリン、好きだから……俺」 ふと吹きぬけた風が、それぞれの柔かな髪を揺らす。 杉菜は顔にかかった髪をその細い指ですくいながら、葉月から視線を逸らした。そして何か大切なものを受け止めたような顔で、もう一度、葉月の瞳を見た。 そして紡ぎ出されたのは、世界で一番、心に灯りを燈す言葉。 「…………ありがとう」 風の中で、花壇の花が一斉に踊った。 |
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