−第7話− |
その後。 葉月は東雲家の夕食のご相伴を預かることになり、久方ぶりの人間らしい食事を摂取する流れとなった。 東雲家の家長はここ一週間ほど出張中とかで、母と息子二人の食卓では寂しいから、という説得に応じての事だったが、彼の胃袋にとっては振って湧いた僥倖のようなものだったろう。食後の茶など啜る時分に至っては、日中の自身が嘘のように思えるほど静穏な感情で満たされていた。 (なんか……落ち着くな、ここ……) この機会に色々情報などを訊き出そうとする尽は別として、桜が葉月を質問攻めにする事はなかった。葉月が口下手なのを看破して慮ってくれていたのか、ちょっとした話題を提供するくらい。そういったさりげない心配りがほんのりと葉月の心に届いた。まるで夕方に聴いた杉菜の演奏のようだと思った。 暖かく包み込んでくれる、陽だまりみたいに。 (こういうの、本当に久しぶりだな……。家の中に、確かに光が宿ってるのって……) 自分では気がついていなかったが、葉月の表情は随分柔らかいものになっていた。尽の質問攻めにも面倒がらず付き合っている(付き合える部分だけは)。さりげなく杉菜の体質の特徴について詳しく訊き出した点は抜け目がないと言おうか。 そんなこんなで、彼は思ってもいない良き休日の夜を過ごす事ができた訳ではあるが…………。 一つだけ、気がかりな事があった。 「なぁ……東雲、あ、姉の方だけど……、本当に大丈夫なのか?」 そろそろお暇しようとして、気になっていた事を隣にいた尽に訊ねた。 気配や物音から察するに、どうやら杉菜は母に言われた事を実行していたようだが、あんな状態で本当にちゃんとベッドに入る事が出来たのかどうか。 自分なら寝たらその場を動く事はまずないが、逆に言えば無意識の内に動き回って怪我をしたりという事はない。しかし杉菜の場合は――。 「ん〜、大丈夫だよ、いつものことだし。――気になる?」 尽は葉月の言葉を聞いて、からかい要素の入った表情を浮かべた。 「まぁ……。その、怪我したりとか、しないのか?夢遊病……みたいなもんなんだろ?」 「病気ってほど深刻でもないんだけどな。でもま、気になるってんなら確認させてやるよ」 尽はそう言うとすっくと立ち上がり、葉月を見下ろす。 「……?」 「ホラ、なにボーッとしてんだよ?ねえちゃんの無事、確認したいんだろ?部屋行くぞ。ホラ、立った立った」 訳が解らずに見上げる葉月の腕を取って、立たせるように促す。 「お、おい……」 いくら何でも女の子の眠っている部屋には入りこむのはどうか、と、日頃頭の奥で寝惚けている常識の中で思考する。 「どうせ寝てるし、見られて困るもんなんか置いてないし、てゆーかねえちゃんそもそも気にしない人だし。さ、こっちこっち」 困った葉月が桜を見ると、彼女は何ら気にしたふうもなく「いってらっしゃい」と来たものだ。 呆気に取られた葉月を気にも留めず、尽は彼の腕を引っ張り二階への階段を昇る。 「ヘヘェ〜。うちの母ちゃん、すっごい美人だろ?」 昇りながら、尽が自慢そうに言った。 「そうだな……。動きとか姿勢とか、綺麗だな」 「まーな。母ちゃん、礼法と茶道の師範なんだよ。今はカルチャースクールで講師やってるけど、そりゃもう人気なんだぞー」 なるほど、杉菜の所作はそれゆえか。そういえば尽の所作も今時の小学生にしては凛としている。 「父ちゃんもオレの親だけあってハンサムで有能だしな。東雲家の美形家族って、前住んでた町では大評判だったんだから」 そう言いながら昇り切った先の一番奥のドアに、杉菜の名前が書かれたプレートがかかっていた。 「ねえちゃん、寝てるなー?入るぞー」 ノックをしてから数秒後、尽は躊躇いもなくドアを開けた。 「ホラ葉月、入りなって。あ、ねえちゃんそっちね」 先導して指差した先には、確かにベッドが据えられており、かすかに規則正しい寝息が聞こえる。薄闇の中であまり輪郭は解らないけれど――と思ったら、突然照明が点けられてその形が明確になった。 「――おい、起きるだろ!」 「大丈夫だって。この程度の刺激で起きたことなんて、オレが覚えてる限り一度もないから。それより確認しなって。ちゃ〜んと無事に眠ってるだろ?」 「………………」 確かにそうだ。言われて葉月は改めて杉菜の寝顔を見る。見慣れてしまった美しい面差し。安穏とした夢の世界に横たわる、壊れそうに儚げな眠り姫。 深い深い場所で、彼女は一体どんな夢を見ているんだろうか。 「……だな」 規則正しく気持ち良さそうな寝息から、どこもぶつけたりはしていないようだと判断して、葉月は安堵の息を吐く。それを見て尽が苦笑した。 「そんなに心配しなくたって大丈夫だよ。ねえちゃん、こう見えてすっげー頑丈ってゆーか、頑健ってゆーか、とにかくちょっとやそっとじゃケガも病気もしない人だからさ」 「そう……なのか?そうは、見えない……」 「パッと見はな。けどよくよく考えてもみなよ?例えば、今日みたいに倒れるように寝ることなんてしょっちゅうだけど、打撲や切り傷、スリ傷の一つもないってとんでもないと思わない?」 「…………そういえば」 「それにこれだけ真っ白な、シミやソバカス一つない肌。紫外線耐性やたらと強いよな。使ってる洗顔料とか、その辺で売ってる安モンだよ。手入れも大してしてないし。いろんな化学物質をものともしない強靭な肌してるわけだよ。内臓の方も武勇伝アリ。中学の時修学旅行先で出された食事で集団食中毒起きたことがあったんだけど、食べた中で唯一ねえちゃんだけがピンピンしてた。ヒドイ奴だと3日間意識不明だったのにさ」 「…………それは、すごいな……」 「だろ?ここまで外見のイメージと体質がミスマッチしてるってのも珍しいけどな。けどそれもねえちゃんの個性ってヤツで」 何となく納得して、葉月は初めて部屋全体に目が行った。 「……シンプルな部屋、だな」 「ん?ああ、この部屋ね。たしかにオレの部屋とくらべると物ないよな〜」 大きな家具はベッドと机、サイドボード、あとは造り付けのクローゼットがあるだけ。出ているのはせいぜい鞄と机の上のノート型パソコン、サイドボード上のバイオリンケースくらい。 「一応サイドボードの中にCDとか入ってるけどな。シンプルっていうか、あんまり物に執着ないんだよ、ねえちゃん。あ、でもあれは別かな」 示したのは、窓際に置かれた大型の二連のパーテーション。彎曲に削られた木片が互い違いに幾重にも重なって組み上げられている。部屋の端にあったので気がつかなかった。 「これ、ショッピングモールで見たことあるな……。モダンインテリアの店に置いてあった気がする」 葉月の狭い好みにかなり良い具合でヒットした代物だったのでよく覚えている。シンプルなのに手が込んでいて、とても洒落たデザインのパーテーションだった。 「あ、知ってる?そうなんだ。引っ越してきてからしばらく、二人であちこち探索してたんだけど、これ見てねえちゃん気に入ったみたいでさ。即購入。ちょうど家具探してたし、いいの見つかってラッキーだったよな、ホント」 「……即購入って、これ、確か50万くらいしてなかったか?」 好みには合致したものの、その値段から購入は諦めざるを得なかった。それをあっさり即購入できるという事は、一般家庭に見えて東雲家はかなり裕福な財産家という事だろうか? 「ん。ねえちゃん金持ってるからな。ポケットマネーで買ったから家計への負担ゼロ、だよ」 「……ポケットマネーって、どういう事だ……?俺みたいに、バイトしてるわけでもない、だろ?」 「ああ、ねえちゃん株やってるからさ。それでけっこう稼いでんの」 「株…………」 「こういう体質だから、普通の職にはどうしたって就けないと思ったんだろうな。エリート商社マンの父ちゃんが経済の初歩から教えて、今じゃすっかり我が家一の金持ちだよ、ウン。あ、ちなみにこの家の建築費用、7分の1はねえちゃんが出したんだ。稼いだはいいけど使うとこあんまりないからって。オレも早くそういうこと言えるようになってみたいよ」 わざとらしく嘆息したものの、それほど悲観的でも深刻でもない尽を見ながら、葉月はほんのり眩暈を覚えた。 自分は今まで散々『特別』であると見られてきた。 が、東雲家の『特別』はまた何か違う感じがする。 『特別』なのに、それをものともしない自分達の『普通』。 それを貫いている姿勢が、何だか少し羨ましいような妬ましいような、複雑な気分だった。 けれど紛れもなく、この家を覆っているのは安らかなぬくもりで。 「…………」 「ん?どした葉月?ねえちゃんの寝顔にみとれてボーゼンジシツってやつか?」 「いや……。確認したし、そろそろ帰る、俺」 「そっか。もう少しいろいろ話したかったんだけどな。ま、次の機会にってことで」 「おまえ……俺と話して楽しいのか?」 「楽しいってゆーか……ん〜と、まあいろいろ。それに将来極上の『イイ男』になる身としては、今現在『イイ男』の話を聞いておくのは勉強になるしね」 「そういうもの……なのか?よくわからないな……」 「べつにいいじゃん。わからなくたって、結果としてみんな幸せならそれでOKなんだからさ」 「幸せ……」 「そうそう。それじゃ、そろそろ行こっか」 あっさり言い切って尽は葉月を促して部屋を出た。 葉月は階下に降りて荷物を取り、東雲家の敷居を出る。門まで見送りに出てくれた桜に挨拶をして頭を下げる。ちなみに尽は友だちから電話がかかってきたので家の中だ。 「どうも、お邪魔しました……」 「いいえ、大したおもてなしも出来ませんで。この次は、腕によりをかけて御馳走しますね」 (次……あるのか……?) そう思ったが、葉月はあえて何も言わなかった。社交辞令とは解っているが、彼女の口調は本当に次の機会を楽しみにしているようで、それが少し嬉しかった。 「それじゃ、失礼します」 「……葉月君」 「…………?」 立ち去ろうとした葉月を、彼女が引き止めた。微笑みの中に少しだけ、苦しい色が混ざった気がした。 「……杉菜を……どうか、助けてあげて」 「…………え?」 助けてあげて、とは杉菜の体質についての事だろうか。だとすれば今更ながらに言われる必要もない、そう思ったのだが、どうもそうではないようである。 少しの間、葉月は彼女を見ていたが、それ以上の言葉は返ってこなかった。葉月は諦めて、再びお辞儀をしてその場を去った。 「あ、葉月帰っちゃった?」 尽が訊ねると、桜は玄関の鍵を閉めながら笑った。 「ええ。尽は随分と葉月君のことが気になるみたいね?」 リビングに戻りながら、母と息子は先ほどまでの賓客(珍客?)について話し始めた。 「そりゃまぁね。イイ男の見本として参考にするところは多いし、それになんと言っても……」 「杉菜が気にしてる子だから?」 「あれ?オレ母ちゃんに言ったっけ?ねえちゃんの気になる男が葉月だって」 「言われてないけど、何となくそうかなって。葉月君、いい子ね。口数は少ないけれど、杉菜に対してとても優しく接してくれてるんだろうなってわかるわ。彼の方も、杉菜の事まんざらじゃなさそうだし。……そうね、彼なら任せられそう。でも、当人同士の進展はかなりゆっくりでしょうね」 「さっすが鋭いなぁ。でも母ちゃんが認めるってことは、カノジョの親公認ってヤツ?葉月」 「ふふ、そういう事にしておきましょう。でも、そうね……」 桜はリビングのテーブルに置かれた茶器を片付けながら呟いた。 「……彼なら、杉菜の心を助けてあげられるんじゃないかって、そう思ったのよ」 |
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