−第6話− |
6月上旬の日曜日の午後、葉月は不機嫌な表情を隠さず森林公園の一角に据えられた撮影現場脇の椅子に腰掛けていた。 ここに来た時分には太陽がジリジリと地を這う芝生を炙っていたが、今はもうすっかり落ち着いた光を投げかける頃合だった。 その時間もさる事ながら、未だに途切れないギャラリーの黄色い声が、葉月にはこの上なく勘に触るようだ。カメラの前以外でその憮然とした面構えは取れなかった。 「悪かったね葉月ちゃん。ほんと今日はお疲れさま!」 カメラマンの山田が苦笑いを浮かべながら近寄って来た。 「いえ、山田さんのせいじゃないですから。……あ、どうも」 手渡された缶コーヒーを受け取り、葉月は軽く頭を下げた。 本来日曜に仕事が入ることはないが、先日撮影した企画物で問題が出たとかで、急遽撮り直しと相成った。しかも共演者の方がトラブルに巻き込まれたり何だりと、予想外の出来事が重なって、午前中で終わる筈の撮影が夕刻まで及んでしまった。 いくら他に予定がなかったとはいえ、ここまでつき合わされるとさすがの葉月もウンザリしてしまった。少なくとも体育祭が終わった直後にこれでは、明日の授業で起きていられるかは甚だ疑問だ。 「まぁこういう仕事にはトラブルはつきものだからね。次回もよろしく頼むよ」 「はあ…………」 片付けをしている他のスタッフ達を眺めながら、葉月は気乗りしない様に答えた。そして貰ったコーヒーを飲み干してからロケ用のバスに入って着替える。大きな溜息をついてからバスを出ると、引き上げ時と見たのかギャラリーの数も大分減っていた。 スタッフに挨拶をし、マネージャーと次の撮影の打ち合わせをして別れた後、帰路につこうとして公園内の道を見やると、ふと人並みの隙間に見覚えのある少女が見えた。 「東雲……?」 すると、呟いた声が聞こえたかのように、彼女が葉月の方を振り向いた。立ち止まってほんの少し目を見開いた杉菜の所に、葉月は足早に近付いた。 「こんにちは、珪くん。散歩?」 「いや、仕事。……お前こそ、どうしたんだ?」 「お稽古の帰り」 「稽古?」 見れば杉菜の肩には楽器のケースが掛けられている。形と大きさから言って、小型の弦楽器。 「……バイオリンか?それ」 「うん」 「バイオリン、習ってるのか。……何か、意外」 どちらかと言えばフルートの方が似合いそうな気がしていたので。 「そう?もう、10年近くやってるけど。……ピアノと同じくらい、かな」 「ああ、そういや音楽の授業の時、言ってたな……。……俺も、昔やってた」 「そうなの?」 「少しだけ。母親がバイオリニストで、その影響。今は聴く側」 「……ふうん」 パシャッ! お互い淡々と抑揚のない声で問答していると、横合いからカメラのフラッシュが焚かれた。見ればカメラを持った山田が笑いながら二人を見ていた。 「山田さん……困ります」 「いや、ごめんごめん!すごく良い被写体が揃ってたもんで、つい職業意識が働いちゃってねー。そっちの女の子、葉月ちゃんの知り合い?」 「クラスメイトです」 「こんにちは、東雲と申します」 驚いた様子もなく会釈をする杉菜を、山田は感心したように見る。 「はい、こんにちは。俺はカメラマンの山田です。葉月ちゃんの仕事仲間ってとこかな?」 「仕事……そういえば、珪くんってモデルしてるんだっけ。じゃあ、今日はそれだったのね……」 どうやら葉月の仕事には興味がないようである。 「それにしても、二人で並んでると絵になるねー。周りの葉月ちゃんファンの子、君の事モデルかなんかかって思ってるみたいだよ?」 「そう、なんですか……?」 本当に解ってない様子で、杉菜は小首をかしげる。だが実際、周囲のギャラリーの間からは二人の美貌に対する感嘆の声がちらほら挙がっていた。 「それより山田さん、さっきの写真……」 「あー、あれね。ついつい手が勝手に動いちゃっただけだから、なんだったら後でネガごと返すよ。そんなに怖い顔しなくても、変な事には使わないから大丈夫だって。えーと、東雲ちゃんだっけ、君も安心して」 「べつに……写真1枚くらい、気にならないし……」 「…………何か似てるねぇ、葉月ちゃんと。あ、それじゃ俺はこれで。邪魔したね!」 そういって山田はその場を去って行った。なんとも慌しい男である。 「……悪かったな」 「どうして……?本当に、気にしてないけど……」 言葉通りで、まったく気にした様子はない。この辺りは葉月とは大分違うところだ。 「そうか…………」 「うん」 少し拍子抜けした葉月だが、再び杉菜に声を掛けた。 「…………なあ、東雲」 「何……?」 「おまえ……どういう曲、弾くんだ?」 「……バイオリンの曲?」 「そう」 「……いろいろ。クラシックとか、トラッドとか。ジャズも弾くよ。いいなって思った曲なら、みんな。今は、アレンジも習ってるけど」 「へぇ……。聴いてみたいな、おまえの演奏」 「……弾く?時間があるなら、幾つか弾くけど……」 葉月はほんの少し目を見張った。 「……良いのか?」 「うん。……少し、場所、ずらそう」 確かに今二人が立っているのは公園内の石畳の通路で、通行人の邪魔になってしまう。そう判断してか、杉菜は少し離れた芝生の方に行き、肩から下ろしたケースを開いた。 「……良いバイオリンだな」 大切に手入れされているのだろう、使い込まれているくせに陽光を曇りなく反射するバイオリンを見て葉月は言った。記憶では数百万は下らなかったはずだ。一般家庭でそうそう買える代物ではない。 「音が気持ちいいの、これだったから」 松脂を弓に塗りながら、こともなげに言う。どうやら絶対音感も持ち合わせているようで、調弦も一回で合わせる。 スッと楽器を構えると、杉菜は葉月の方を見た。 「何弾く?」 「そうだな……とりあえず、今習ってるやつとか、好きな曲とか。そのへん」 リクエストしたとしてもその曲が弾けるかは判らないので、相手の選択に任せてみる事にして、葉月は地面に腰を下ろした。太陽に暖められた芝生は未だ温もりが強かった。 「うん」 こくりと頷いて、杉菜は右腕を動かし始める。ほんの少し葉月と、それから空の色を見比べてから紡ぎ出されたのは、優雅さや技巧よりも懐かしさが勝る穏やかな旋律。 寧らかに、空気を癒すような調べだった。 「……この曲、クラシックじゃないよな。トラッド系……?」 「そう。これが良いかなって、思うから。今」 豊かな音色と心地良い響きが、辺り一面をたゆたう。足を止めて聴き入る通行人も数人ではない。 曲自体はさほど難曲ではないが、確かな技術に裏打ちされた音色は実に安定していて、聴いていて寸分の狂いもない。そして何よりもその中に込められた情感が、とても暖かく人を包み込む。 まるで母親の手の中にいるみたいだ、そう思いながら葉月はふと瞼を閉じる。 優しい風にくるまりながら、彼はそのまま夢の世界へと滑り込んだ。 「…………起きた?」 「………………?」 静かに振り落ちてきた声に、葉月はうっすらと目を開ける。真正面に視界に映ったのは夕闇に近い空の色。そしてそれらと自分の中間には、見知った顔が差し込まれるように在った。 「……東雲?」 「起きたのね?もうそろそろ起こそうと思ってた」 杉菜の顔の位置がどうも不思議で、葉月はふと視線をめぐらす。気がつけば、葉月は杉菜の足を枕にしてすっかり横たわって昼寝体勢をとっていた。いわゆる、膝枕というやつである。 「あ……俺、寝てたのか。……悪い、足、借りてたんだな……」 まだぼんやりする頭で慌てて体を起こす。 「べつに……気持ち良さそうだったし。疲れてたんでしょ?良く休んでたから、構わないよ」 「そうか?……そうだな、良く眠れた……と思う。その……曲、サンキュ」 「え?」 「おまえの演奏、聴いてて気持ち良かった。安心したっていうか……疲れ取れた気がする。だから、サンキュ」 「そう……?なら、良かった」 その言葉に安堵して、葉月はスッと立ち上がった。杉菜も自分の荷物を引き寄せて同様に立ち上がる。 「ああ、でも、大分暗くなったな。結構寝てたんだな、俺……。今、何時だ?」 「今……?ええと、18時57分43秒……かな」 「…………そう、か。悪かった、付き合わせて」 「ううん。それに多分……お互い様になると思う。先に謝っておくね。迷惑かけるの、ごめんなさい」 「?」 てってけてれてて・ぱっぱ・ぷひゃ。てってけてれてて・ぱっぱ・ぷひゃ。 「……!?」 突如、某有名落語番組のテーマ曲が流れ出し、葉月は一瞬怪訝な顔をした。しかし杉菜は冷静な顔で自分の荷物から携帯を取り出した。どうやら彼女の携帯の着メロらしいが、あまりの違和感に葉月は眉を顰めずにいられなかった。 「はい、東雲です。……あ、やっぱり尽ね」 どうやら彼女の弟らしい。とすれば、今のは家族専用の着メロなのだろう。そうであって欲しいと、葉月は何となく願った。 「……今?森林公園。……何でって、ちょっと人に会って……。……うん、一緒。……え?相手……?珪くん。そう。葉月珪くん。…………違うけど。うん。……うん、そうなの。……分かってる、すぐにそうするから。……あ、でも……ちょっと間に合わないかも……。……え?でも……。……分かった、替わる」 少しの間弟と話して、杉菜は葉月の方を見た。 「ごめんなさい、弟なんだけど、替わってくれる……?」 「え……俺が、か?」 「さっき言った『迷惑かける』事について、だから。それと……うん、やっぱり、ごめんなさい」 「東雲――――――ッ!?」 カチッ、と公園に据えられた時計の針が19時を指すと同時に、杉菜はかつて教室で倒れた時のようにそのままの姿勢で崩れ落ちた。 「おい、東雲!?一体どうしたんだ!?」 瞬時に寝惚けた頭はすっ飛んで、葉月は慌てて杉菜を支える。携帯こそはそのまま落ちたものの、杉菜自身は何とか地面とランデブーさせずに済んだ。ふう、と息を吐く葉月だが、杉菜は例によって意識がないようである。 「東雲……ひょっとして、寝てるのか……?」 『おーい、ねえちゃーん!ねえちゃんが寝てるんなら一緒にいる奴でもいいから、誰か出てくれよ〜ッ!!てか葉月、そこにいるんなら出ろっつーの!!』 地面に落ちた携帯電話から切迫した大声が聞こえて来た。名指しで呼ばれれば出ない訳にもいかない、葉月は杉菜の体を支えたまま姿勢を落とし、携帯を拾って応えた。 「もしもし……?」 『あっ!その声は葉月だよな!?良かった〜、知らない奴だったらどーしようかと思ってたんだ、実は。あ、オレ尽!ねえちゃんこと東雲杉菜のかわいい弟……って、前に一度会ってるよな?』 「……ああ、そう言えば」 『……なんか怪しいけど、まぁいいか。それよりねえちゃんなんだけど――寝てるだろ?』 「ああ……なんか、寝てるな……。もしかして……いつもこんな、か?」 『そ。体質でさー、この時間になるとそんななんだよ。いつもは家に帰ってる時間だってのに、何やってたんだか』 「…………」 やはり自分が寝こけていたのがまずかったらしい。葉月は少し落ち込んでしまった。 『ま、それは今はいいからさ。葉月、ねえちゃんのバッグの内ポケットにパスケースが入ってんだけど、そこにタクシー代とウチの住所書いたメモが挟まってるからさ。それ使ってねえちゃん帰してくんない?手間かけさせて悪いけど、同級生のよしみってことで、それくらいのことはしてもらえると助かるんだけど』 「べつに……元はといえば、俺が悪いから……。東雲……姉の方、俺、送ってく」 『へ?そこまでしなくてもいいぞ?女性ドライバー捕まえてくれればヘーキヘーキ』 「そういう訳にもいかないだろ。……それじゃ、切るぞ」 『え?あ、おーい、葉月!』 ピッ。 葉月は電話を切って、そっと杉菜の身体を下ろす。彼女のバッグの中に携帯を仕舞ってから内ポケットを探り、尽が指示したパスケースを探し当てた。中から住所の書かれたメモだけを取り出して自分のポケットに入れ、また元の場所に戻す。 杉菜のバッグとバイオリンケースを肩に掛け、再び杉菜を抱き上げる。そのまま公園入口のタクシー乗り場の方へ向かうと、運良く数台の空車が並んでいたので、早速先頭の一台に乗り込んだ。 「すいません、この住所までお願いします」 「はい。……そちらの女の子さん、具合でも悪いんですか?」 車に移されてもウンともスンともしない杉菜が気になったのか、初老のドライバーが訊ねてきた。これだけの美少女が気を失っているともなれば、やはり気にはなるものらしい。 「いえ……そういう訳じゃ……。寝てるだけなんで、大丈夫です」 「寝てるだけ、ねぇ……。ああ、もしかしてあれかな、最近仲間内で噂になってる女の子さんって、この子かな?」 「……噂?」 「そうそう。夜7時近くなるとタクシーを利用するすごい美少女がいて、7時になるとコトンと寝ちゃうんだって。行き先は自分の家だけど、着いても起きられないから家人に声掛けて下さいって言ってね。乗せてるのはほとんど女のドライバーなんだけど、彼女達が口を揃えてものすごい可愛い子だったって言うから、ちょっと話題になってるんですよ。何だか都市伝説みたいでしょ?まぁ、まさか本人って事はないでしょうけどねぇ」 「………………」 間違いなく本人だろう。が、葉月は何も言いようがなく黙っていた。ドライバーもそれ以上は何も言わず、黙々と自分の仕事を全うしてくれて、十数分後には東雲家の門前に車が横付けされた。 葉月は自分の財布から運賃を支払い、先に車を降りて荷物を玄関先に置いてから杉菜をそっと抱きおろす。 「どうも、お世話様でした……」 「いえいえ、ご利用ありがとうございました。滅多に見られない美男美女のカップルを見れてラッキーでしたよ。それじゃあ」 ドライバーはそう言って、その場を去った。葉月と言えば、彼の言葉に一瞬気を取られてボーッと立ち竦んでしまった。 (カップルって……そう、見えるのか?俺達……) 照れくさいようなむず痒いような、何だか微妙な気分になった時、背後からドアを開けて軽い足音が近付いて来た。 「ねえちゃん!良かったー、何とか今日も無事に帰ってこれたみたいだな。あ、葉月、サンキュな」 「え?あ、ああ……」 確かに見覚えのある顔が、自分の40pばかり下に現れた。なるほど、弟だというのは本当らしい。こうして二人を見比べると、結構面差しが似ているところが判る。弟の方が非常に喜怒哀楽にあふれているようではあるが。 「とりあえず手間ついでに、ねえちゃん家の中に運んでくれる?玄関まで運んでくれればそれでOKだから」 「ああ、かまわない。……けど、玄関まででいいのか?」 「うん、靴さえ脱がせばあとはなんとかなるからさ。あ、荷物は持つよ。さ、入った入った。――かあちゃーん、ねえちゃん無事帰還しましたー!!」 大声を出して奥にいるらしき母親に尽は告げた。するとパタパタとスリッパの音を立てて、一人の女性が出てきた。葉月は無意識に姿勢を正す。 「あらあら、良かったこと。――ああ、貴方が尽の言っていた葉月くんね?初めまして、杉菜の母、桜です」 出てきた女性はこれまた非常に良く杉菜に似ていた。つまり控え目に言っても『超美人』の部類に入る。日頃美人を見ようが何とも思わない葉月であるが、さすがにこの時ばかりはさしもの彼も一瞬見惚れてしまった。 「……あ、どうも。葉月、珪です」 「今日は杉菜がご迷惑を掛けてしまったようで、ごめんなさい。でも、貴方がいてくれて良かったわ。杉菜一人だと色々心配だもの。本当にありがとうございました」 桜はそう言って、葉月に対して深々と座礼をとった。その仕草といい角度といい、大層堂に入ったものである。舞いを舞うかのような、実に淑やかで優雅な動きだった。 そう。美貌もさることながら、彼女の立居振舞は非常に素晴らしかった。姿勢から歩き方から、どれをとっても見事なのである。 「いえ、その……元々、俺が原因で遅くなったんです。しの……杉菜さん……に迷惑を掛けてしまったのは、俺の方が先でしたし……。こちらこそ、すみません」 未だ杉菜を支えている為に軽く頭を下げた葉月だったが、桜はそんな葉月を見てにっこりと微笑んだ。それがまるで杉菜が笑ったかのように見えて、図らずも葉月の心臓は一瞬高なった。 「いいえ、いいのよ。ともかく、重いでしょう?杉菜を降ろしてくださいな」 「……ここで、ですか?俺、べつに部屋まで運びますけど……」 「大丈夫ですよ。降ろしてやってくださいな」 重ねて言われ、葉月は何となく釈然としないながらも杉菜を廊下に降ろした。桜は壁に凭れ掛かった状態で眠る娘の耳元に顔を近付けた。 「杉菜、7時を過ぎました。夕御飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、自分の部屋で寝巻きに着替えてベッドで寝なさい。解った?」 「…………夕御飯を食べて、お風呂に入って、歯磨きして、自室で着替えて寝る…………」 「そう。さ、行動開始」 すると、葉月の目には完全に熟睡していたと見えた杉菜は、母の言葉を復唱してフラリと立ち上がった。瞼が閉ざされたままで、彼女は例によってダイニングに向かって行った。 後に残されたのは、呆気にとられた(そうは見えないが一応呆気にとられているのである)葉月と、平然とした杉菜の母の二人であった。ちなみに尽は姉の荷物を部屋に運んだりなんだりとこまごま動き回っているようである。 「驚かせてしまったかしら?あの子、小さい頃からあんなふうなの。体質とは言っても、ちょっと困ったものね」 困ったという割には全然そんな様子もなく微笑っている母。性格も母娘で似ているのかも知れない、と葉月は思った。 特に、物事にほとんど動じなさそうな点が。 |
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