−第10話− |
むかしむかし、ひとりの王子が旅をしていました。 旅の途中、ある国で道に迷った時のこと。 王子は森の中の教会で、美しい姫と出会いました。 「なんと美しい姫だろう」 王子はひと目で姫を好きになりました。 王子は毎日森の教会へ行き、姫にいろいろな話を聞かせました。 姫も、王子を丁重に迎えて、たくさんの話を聞いてくれました。 王子は日毎に姫の素晴らしさを知って、ますます姫が好きになりました。 ――けれど。 いつしか王子は、ある事に気がついたのです。 美しく、聡明で、自分にとても親切にしてくれるその姫が、大きな呪いを背負っている事を――。 「……ん……?」 手を伸ばし、けたたましく鳴る5個の目覚まし時計を黙らせて、葉月はベッドからのっそりと体を起こした。そのままの姿勢でぼんやりとして、思考を現実に戻そうとする。遮光カーテンの隙間から覗く光は外の暑さを示唆するように強いが、時計の針は午後4時を差していた。うっかり寝過ごしてしまわないよう、目覚ましをセットしておいて正解だったようだ、と夢心地に思う。 たっぷり5分は経ってから、ようやくまともに目が覚めたのか、大きく一つ息を吐いた。 「夢、か……。……懐かしい夢、見たな……」 幼い頃に彼女に話した物語。途中までしか告げられなかった、王子と姫の物語。 ――俺、いつか、おはなしのつづき、してやる。 あの約束は、今でも有効なんだろうか?相手が覚えていなくとも、自分の中では未だに心の奥底に宿っている、大切で懐かしい、小さな約束。 「……『たとえ世界の果てからでも、必ず貴女の元に帰って参ります。私を案じて下さると言うのなら、私が戻ったその時に』――――」 ―――そしたらおまえ、すこしでもいいから、俺のために――。 「…………そろそろ、用意しなくちゃな」 葉月は頭を軽く振って、ベッドから立ち上がった。 夢は、夢。 現実の姫は、この扉の先にいる。 8月4日。 雑踏に紛れて、常日頃聞かれないカランコロンという音が幾重にも響く中、葉月は人波にもまれながら目的地へ辿り着こうと悪戦苦闘していた。 はばたき市臨海公園地区では、毎年8月第1日曜に花火大会が開催される。年々規模が大きくなり、今では県外からも見物客が訪れる程の一大イベントになった夏の風物詩は、会場周辺に多大な経済効果と喧騒をもたらしていた。特に、ショッピングモールを抱える新はばたき駅周辺は待ち合わせスポットとして有名な場所、老若男女入り乱れ、前に進むのもままならないほどである。 夏休み前、葉月は杉菜と花火大会に一緒に行く約束をし、次の日には彼女の家族にも了承を取り付けた。思ったよりも簡単にOKが出て、逆に面食らったほどである。ただ、途中までは家族が同行するというので、会場にほど近いここ新はばたき駅で待ち合わせ、という事になった。 ただし、この芋洗いのごとき人込みの中。人より頭一つ抜きん出た葉月は何とか隙間を見つけて渡り歩くが、それでもなかなか待ち合わせ場所に辿り着けないでいた。時間までは今少し余裕はあるが、待ち合わせている相手の外見と性格上、早く行くに越した事はない。 イベントがイベントなだけに、仕事仲間のスタッフに勧められて浴衣を着て来てしまったが、こんな事なら普段着で来ればよかった。そう嘆息すると、前方から人より頭一つ半ほど抜きん出た身長の持ち主が歩いて来るのが見えた。 「ん?君は……葉月か」 「あ……こんばんは、氷室先生」 お互い気がついて、挨拶を交わす。 「ふむ……その服装から推察するに、君も花火見物か?」 「はい。……先生は?」 質問はしてみたものの、日頃と同じスーツ(※2着で2万5千円也)を着込みなおかつ右腕に『はばたき学園生活指導部』の腕章を留めていれば、風紀委員会顧問の一人としてこの場に赴いた事が容易に推測できよう。事実氷室の答えはそれを肯定するものだった。 「花火大会では毎年羽目を外す学園の生徒が多数発生する。見物するだけなら問題はないが、保護者の目を盗んで飲酒という行為に及んだり、騒ぎを起こして事件や事故に発展するケースも無い訳ではない。そういった事態を未然に防ぐ為に、我々教師陣がこうして現場の巡回に当たっているのだ。葉月、君はそういう問題を起こす生徒ではないと思うが、くれぐれも節度を忘れないように」 与えられたお固い注意に、葉月は素直に「はい」と返事をした。 そして、満足そうに頷くその白皙の額にキラリと汗が光っているのを見て、「……スーツ、暑くないのかな……」と思ったところに、横合いから突如朗々とした声が聞こえてきた。 「おっ、いたいた!葉月珪くんだろう!?やっと見つけたよ、ハッハッハ!」 名前を呼ばれ、振り返ってみると、目の前に見知らぬ男がにこやかな表情で現れた。 歳は30代後半だろうか。身長は葉月と大差なく、堂々としながらも均整の取れた体躯だが、不思議と体型ゆえの圧迫感は感じない。どちらかといえば、醸し出される雰囲気の迫力の方が圧倒的だ。評するならば、夏の日差しのような熱いオーラ。 顔立ちは一言で言えば『美形』である。端正な造りのくせに、溢れるような感情の豊かさでもってその魅力を倍増していて、それがまたとても若々しい。30代前半と言っても通用しそうだ。スカイブルーの綿シャツにチノパンというラフな服装でありながら、どこかスマートで知的な印象も受ける。 知らない顔ではあるが、しかし誰かに似ている気がして、葉月は男に向き直った。 「そう、ですけど……?」 「ふむふむ、なるほど。うん、確かに最近の若人にしては姿勢がいい。それになかなか男っぷりも悪くないな!俺の若かりし頃を彷彿とさせるナイスガイじゃないか!いやしかしまだまだ俺には敵わないかな?ああ、安心しろよ。男だって磨けばいくらでも光るんだからな!ハハハハハ!!」 何やら葉月を観察したかと思えば、一気にまくし立てて豪快に笑い声を上げる。その突然の大声に、周りの人間がビクッとして彼を見るが、男はまったく気にした様子もない。 「……葉月、この男性は君の知り合いか?」 「……いえ、知りません。……誰なんです、あなた」 不審さを込めて訊いたものの、男は相変わらず友好的な笑顔を浮かべたままだ。 「ハッハッハ!知らないのも無理はない、今日が初対面だしな!けど俺はちゃんと分かっていたぞ?奥さんとマイスウィートチルドレンに話を聞いていたからな!」 「……マイ、スウィート……チルドレン……?」 「そうだとも!俺の命より大事な宝物さ。―――おっといけない、自己紹介が遅れたな!聞いて驚け、俺は誰あろう、杉菜と尽の父親だ!!」 一瞬の空白の後、ようやく脳内の回路が繋がった二人が反応した。 「…………え……!?」 「―――では、あなたが東雲の―――!?」 さすがに驚いて、葉月が、そしてやはり初対面だったらしい氷室が目を見開く。 何かの冗談かとも思ったが、言われてみれば目の前の男の顔立ちはかの東雲尽に酷似していた。尽が成長すればこうなるのか、と納得できる程に近い顔の造作だ。が、しかし、性格についてはどうも微妙に異なる様子である。 ウンウンと満足そうに頷きながら、男は更に笑った。 「ハハハ、ビックリしただろう?そうさ、俺は東雲家の家長にして桜さんの夫、そしてまた杉菜と尽という可愛い子供達の父親で、その名も『東雲 寂尊』さ!!」 自慢するように高らかに告げられたその固有名詞の響きに、またも周囲の人間がビクッとして男に注目する。葉月も勿論例外ではない。頭の中で反芻し、やっとの事で復唱する。 「東雲…………じゃく、そん…………?」 「そう。静寂を尊ぶ、と書いて『寂尊』。逆にすると『ジャクソン=東雲』だ!胡散臭いタレントのようでなかなか面白いだろう?おっと、これでもれっきとした本名だぞ?戸籍にもちゃんとそう載っているからな。俺の親ってのもまったくユーモアのある連中だと思わんか?ハーッハッハッハッハ!」 この時二人を観察していれば、傍目に判るほど呆気に取られている葉月珪と氷室零一、という世にも珍しいものを拝めただろうが、生憎と誰一人寂尊と名乗る人物以外に注目している者はいなかった。まったく藤井が聞いたらさぞ悔しがるだろう。 どうでもいいが、寂尊から受ける印象は胡散臭いタレントというよりどっかの破戒僧のようである。 「ちなみにニックネームは当然のように『マイケル』だ!そう呼んでくれて一向に構わないが、ここでポイントなのは呼ぶ時には脳内で『舞って蹴る』と書いて『マイケル』と変換した上で『マイクォルー』とネイティブな発音で呼ぶ事だ!これを忘れちゃあ将来の出世はおぼつかないぞ!」 そんなもんでおぼつく出世というのはどんなものかは知らないが、とりあえず頭痛と眩暈が襲って来た事だけは確かである。 想像してほしい。イイ感じに育った尽の顔をした颯爽とした壮年男が、『リゲ○ンのテーマ』を歌う牛若○三郎太か佐○木功の如き朗々たるバリトンヴォイスでもって『舞蹴=東雲=寂尊』などと豪快に名乗っているのである。頭痛の一つもして当然だとは思えまいか。 「……そ、そうですか。あなたが、東雲の……。ハッ、これは申し遅れました。私ははばたき学園1年A組担任……」 「ああ、解っているとも!杉菜の担任の氷室零一先生だろう。君の事も子供達からちゃんと聞いているさ。これからも杉菜をよろしく頼むぞ?何しろ俺の大事な大事なお姫様だからな!」 気を取り直して挨拶しようとする氷室を遮って、寂尊は笑いながら握り拳をグッと作る。思わず氷室が後退りそうになったが、気にせず寂尊は葉月に声をかけた。 「それはそうと、葉月くん。向こうでうちのお姫様が待ってるぞ。姫に仕える騎士(ナイト)は迅速にお傍に上がらねばいかん!それでは氷室先生、またそのうちお会いしましょう!さらば!!」 未だ茫然自失の抜けない葉月の手を取ると、寂尊は現れた時と同じように唐突にその場を後にした。残された氷室は何とも間抜けな表情で立ちすくんでいたが、ハッと我に帰って頭をブンブンと振る。 書類に目を通していたから名前だけは知っていたが、先方が多忙ゆえ顔を合わせた事はなく、まさかこういうキャラクターだったとは思ってもいなかったに違いない。 「………………東雲家……なんという理解不能な一家だ……」 その理解不能なる一家の長は、そんな氷室の呟きも耳に入らないのであろう、ズンズンと葉月を引っ張って先に進んでいく。どうやら寂尊のオーラは余人にも判るらしい、道行く人々が慌てたように道を空けてゆく。まあ極上ものの美男子二人が風を切るように歩いてくれば、よほど鈍くない限り思わず道も譲りたくなるだろう。 「いやしかし、君のおかげで助かったさ。いつもは撮影班としてバッチリ出動態勢決めてくるんだが、今日は用事があってそういう訳にもいかなくてな。説明するが、俺の勤めている会社は臨海公園に面していてな。屋上なんかは花火を観るには絶好のベストビューポイントなんだが、今日は秘密の会合があるんで杉菜を連れてはいけんのだ。おっと秘密と言っても業務上の秘密談合とかいかがわしい秘密の花園とかそういう種類の秘密ではないので誤解してはいけないぞ!秘密は黙っててこその秘密だから教える訳にはいかないが、気になるようならマイスウィート達に訊くがいい!尽なんぞはきっとどうでもいい事まで教えてくれるだろう。ハッハッハ!」 訊ねてもいない事をベラベラと喋る寂尊と対照に、葉月はもうどうしていいやらの心境でひたすら後を付いて行く。 (……エリート商社マンって聞いたけど……本当に、そう、なのか……?) 確かに容姿だけ見ればエリートというかエグゼクティブな要素は充分に満ち満ちているのだが、肝心の性格が何ともはや。 「それにしても君の名前は素晴らしいな。アルファベット一文字で表記できるファーストネーム、英語変換しても意味が通用するファミリーネーム、こう見事に揃うのはなかなかある事じゃないぞ?実に自慢できる名前だ。まぁ俺の名前も自慢は出来るが、綴りが長くなるのはどうにもいかん。その点は君の名前の方が圧倒的に勝利だな!」 べつに勝負するような事だろうか、とか、もう少し静寂を尊んだらどうなんだろう、とか、思わないでもなかったが、とりあえず褒められたようなので「……ありがとう、ございます」と礼を言っておく。それを聞いて寂尊はなおも笑って応える。その人懐こい笑顔は実に尽とそっくりだ。 しかし本当にこの人は杉菜の実の父親なのだろうか。まるで性格が違い過ぎる。二人を足して2、いや3で割れば一般人として通用するくらいになるかも知れない、葉月はそんな気分になった。 本人の自己紹介と尽に激似の顔を信用して付いて来たが、本当に杉菜の元に辿り着けるのか。そんな不安に陥ったあたりで、寂尊がようやく葉月を振り返った。 「ん?こらこらいかんぞ!?麗しの姫君に会うというのにそんな顔をしていては騎士失格だ!男たるもの、姫の前では笑顔を絶やす事なく常にかの君の心を晴れやかにしてあげなければな。そしてさあ、我々の姫はあそこにいるぞ!!」 そうして大げさな手振りで正面を指し示すと、果たしてその場所には寂尊言うところの麗しの姫君とそのお小姓(葉月的にはそう見えたらしい)が立っていた。 「あっ、父ちゃん!やっと戻ってきたよ〜。着いたとたん葉月を探しにいってくる、なんて言って置いてくんだからなぁ。どうやら見つかったみたいだからいいけど、すれ違ったらどうすんだよ、まったく。―――よっ、葉月」 お小姓こと尽が寂尊と葉月を認めて手を振った。確かに肉親らしい、並べて見ると実に人生の使用前使用後がよく解る。 「ハッハッハ。なに、その時はその時だ。それに杉菜を誘ってくれた男の顔を早く見てみたかったんでな。小さい事を気にしていては、イイ男にはなれんぞ、尽?」 「あのなぁ、こんな状況に娘ほっといて消える父親がイイ男だとは思えないけど?」 「そこはそれ、おまえという騎士がいるんだから、みすみす杉菜を危険な目に合わせる事はあるまい?」 「そりゃそうだけどさ〜」 父と息子がイイ男談義を始める脇で、葉月は主賓の姫君と向かい合う。 「こんばんは、珪くん」 「ああ……。……浴衣、だな」 「うん。お母さんが、せっかくだから着て行きなさいって」 ほのかにそうと判るくらいのごく淡い桜色の木綿地に、意匠化された大小の桜の柄。花文庫に結ばれた帯は薄群青で、全体の色を引き締めた上でなおいっそうの上品さを醸し出していた。髪はアップにこそしていないが、これまた桜花の形のシンプルなバレッタでサイドの髪を留めていて、それがまた彼女を清楚可憐に見せている。ましてや嫋々とありながら凛とした立ち姿、周囲を通り過ぎる人々も、思わず目に留めようと歩みを緩める。 もちろん葉月の浴衣姿も滅多に拝めない眼福ものの粋な着こなし具合であるから、それを目に焼き付けんとする女性も多い訳で、喧騒渦巻くこの場所でこの二人の周りだけが夢想的な空間になっているのは当然の帰結だろう。 「ひらひらして、金魚みたいだな……」 「……金魚……。和金?流金?らんちゅう?」 「そうだな……色的には、南京、かな」 品種名を出されても一般人どころか筆者にすら解らないだろ、という事はおいといて、葉月が杉菜を見る目はとても柔らかい。まこと姫君というのに相応しい杉菜の玲瓏ぶりに、どれだけ心奪われているのかが判ろうというものだ。 「……いいな、そういうの。おまえに似合う」 「そう……なの?よく、分からないけど……」 そんな会話をしていると、姫君の父王が笑いながら話に混ざる。 「アッハッハ!葉月くんの言う通り、とてもよく似合っているぞ杉菜!俺には今のおまえ以上の浴衣美人は奥さん以外思いつかんぞ。どうだい葉月くん、本当に杉菜はキュートだろう?思わず見惚れてしまうのも納得のレディだろう?うんうん、そうだろうとも!」 「あ……えっと……」 「父ちゃん父ちゃん、ムリに感想を求めんなって。葉月は父ちゃんみたいにそういうことポンポン言える性格じゃないんだからさ」 「ほほうなるほど、いやだがそれはいい事だ!昨今の若者は重みが失われんばかりに言葉を無駄遣いする傾向にあるからな。大切な言葉は必要な時まで秘めておく、それでこそ価値が上がろうというものだ。それを解っているとは、なかなか見込みがある青年じゃないか!」 尽のフォローのおかげで具体的な褒め言葉をツッコまれないで済んだ葉月は内心こっそり安堵した。もっとも別の方に話が流れそうな雰囲気なのが心配ではあるが。 何というか寂尊のノリは、同じ学園に所属するミューズの申し子とか何とか自賛他讃されている天才少年芸術家に近いものがあるのではないだろうか。以前街中で絵のモデルになってくれとしつこいまでの執念を見せた彼と、目の前の鈴鹿とはまた違ったアツイ男の対話シーンを思い描くと、再び頭痛が襲って来た。葉月は我知らず額を押さえる。 東雲家御一行はそんな葉月を気にも留めず、相変わらずのマイペースである。葉月以上のマイペースというだけでも、この一家にはかなりの稀少性があるだろう。 パンッ!おもむろに、寂尊が一つ拍手を打った。 「さーていかん、そろそろ俺も約束の時間が迫っているぞ。ならばという訳で再確認するが、葉月くん、杉菜が眠ってしまったその時は、可能な限り速やかに我が家に送り届けてくれたまえ!それと聞いていると思うが、今日は奥さんが実家に帰っていて家は留守だから、帰る際には必ず尽に連絡を入れて合流した上で帰るようにな!ちなみに奥さんが夕飯の用意をしていってくれたから、腹が空いてたら食べていってもノープロブレムだぞ。そして尽、携帯は持っているな?」 「ちゃんとカバンに入ってるって。玉緒たちにも話は伝えてあるよ。ま、こっちはこっちで大勢のグループだし、日比谷のにーちゃんがヒマしてるからってんで一応まとめ役って名目で付いてこさせたからだいじょうぶ。とにかく心配なのはねえちゃんだからな。そうそう葉月、これ、俺のプリペイド携帯の番号な。いちおうねえちゃんの携帯の短縮4番にも入ってるからさ」 「ああ、わかった」 「よしっと。じゃあオレもそろそろ行くよ。……あ、そだ。ねえちゃん、ちょっといい?」 「何?」 やや遠ざかってヒソヒソ話を始めた姉弟を見遣ってから、葉月は時計を確認した。現在時刻は18時15分。開始は18時30分からだから、原則は30分、上手くすれば1時間は花火鑑賞ができる。今日は杉菜が眠る事前提で来ているから、送り届ける事については何ら問題ではない。杉菜より早く眠らないように、自分もギリギリまで寝溜めをしてきた。トラブルにさえ巻き込まれなければ、大過なく今日という日を過ごせるだろう。 そんな事を考えていると、寂尊が葉月を眺めていた。その表情はさっきまでと違って、とても穏やかなものだった。 「……その、それじゃ……杉菜さん、お預かりします」 「ああ、頼んだぞ。それからだ、……うん。葉月くん、礼を言わせてくれるか?」 「……礼、ですか?俺に?」 キョトンとした葉月に、寂尊は鷹揚に頷いてみせる。 「そうさ。……正直に言えばだな、杉菜が花火大会に行くって聞いて、俺はちょっとばかし驚いたのさ。あの子は昔っからああいう子でね、他人どころか、家族にも自分の体質で迷惑をかけたくないって思ってるんだろう、いくらこういうイベントに誘っても絶対に付いて来る事はなかったんだ。途中で帰らせちゃ悪い、最後まで楽しんで来いっ感じでね」 そこまで言って、ふうっと大きく息を吐く。 「俺としては愛する娘の為だ、途中でお開きになろうが構いやしないさ。だが杉菜はそれでも断るんだ。そうなると俺達も無理強いは出来ない。せいぜいビデオに撮って後で見せるくらいしか出来ないんだ。――なのに、なぜか今回は違った。誘われたから、行ってもいいかって訊いてきた。解るか?そんな事はほとんどないんだ。家族にさえ遠慮するような杉菜が、クラスメイトに迷惑がかかるような事、誘われたからってするなんて、本当に珍しいんだよ。驚きのあまり、話を聞いた時は思わず持ってた湯呑みを握り潰しちまったよ、俺は」 その時を思い出したのか、寂尊はクスッと笑った。 「…………だが、奥さんや尽の話を聞いてると、どうやら君は杉菜にとって、少し特別な存在であるようだ。杉菜自身が気づいてるかは判らんが、俺達よりも君の方に、何か通じるものを感じているのかも知れんな」 葉月は思わず寂尊の顔を見返した。 ―――特別な、存在? この、俺が? 「……俺が、東雲にとって……?」 「ああ。まぁ家族だからといって全てが相通じる訳じゃないからな。俺だって赤の他人だったかつての奥さんと会わなかったら、今のようなラ・ヴィアン・ローズな日々は得られなかったし。……まあ、何が言いたいかというとだな、君が杉菜と接する事で、杉菜が自分ってもんを手に入れてくれるんなら、それは俺達家族にとっても嬉しい事、ありがたい事だ。ドンドンバンバンやってくれて構わんよ」 「ドンドンバンバン、って……」 「こう見えても俺はかなり人を見る目があってな。杉菜に害を与える不逞な輩はすぐに見分けがつく。そして、君はそういう輩とは正反対の位置にいる、と思ったのさ。――お、話は済んだみたいだな、マイスウィートチルドレン!内緒話も悪くはないが、父をはぶれ者にするのは哀しいぞ?」 戻って来た二人に、寂尊は再びさっきまでのノリで陽気な声をかけた。 「父ちゃん、往来でそれ言うのやめてよ〜。そりゃ父ちゃんやねえちゃんは気にしないだろーけど、オレが恥ずかしいってば」 「己の愛しい宝物を表明する事の、一体どこが恥ずかしい?その辺はまだまだだな、尽!じゃあそういう訳で話はまとまったようだから、ここらでしばしの別れだ、愛する娘と愛する息子!そして葉月くん、今度は俺がいる時に是非遊びに来てくれたまえ!ではまた会おう、アディオス・アミィーゴォッ!!ハーッハッハッハッハッハッハッハ…………うおっと!」 HAHAHA!!と表記したくなるようなメリケンな笑い声を響かせながら、お約束のように敷石の段差に躓いて転びかけた寂尊だったが、何ら動じる様子もなくそのまま呵々大笑としながら葉月達の前から去って行った。 台風一過、である。 深い溜息を一つ吐き出してから、葉月は隣に立つ杉菜に訊ねていた。 「……あの人……本当におまえたちの父親で、間違いないのか……?」 「そうだけど……?元気、いいでしょ」 「元気…………そう……そう、だな」 「葉月、ムリしなくていーぞ。オレも時々分からなくなるから。ま、これで我が家でいちばんの常識人がオレだってこと、理解したと思うけど」 ウンウンと頷くように、尽が助け舟を出す。 自分で自分を常識人というのもどうかと思うが、確かに今までを顧みるに尽がいちばんまともだという気がしてならない。少なくとも寂尊は常識人とは言いがたい、葉月はそう思った。自分が常識人なのかどうかはさておき。 「あ、でも誤解ないように言っとくけど、父ちゃんのあれ、プライベート仕様だからな?仕事モードの父ちゃんはそりゃもうカッコイイんだぞ。オレが今ンとこいちばん理想とするイイ男って、仕事中の父ちゃんってくらいなんだから。そこんとこだけは間違えないよーに。――そんじゃ、オレももう行くわ。葉月、ねえちゃんのことくれぐれも頼んだぞ!」 「ああ、わかってる」 「尽、気をつけてね」 「オレのことなら心配ご無用。じゃ、またあとで!」 ブンブンと手を振って、尽が人並みの向こうに駆けて行く。そしてようやく今度こそ、本当に静かになった。もちろん周りの雑踏は途切れる事なく騒がしさを主張しているのだが、相対的には充分静寂として認識できるものだった。 ……もしかしたら、『寂尊』とは本人ではなく他者に対してその尊さを教示する、という意味なのかも知れない。 「だとしたら、深いな……」 「え……?」 「いや、こっちの話。…………ん、そういえば結局、『秘密の会合』ってなんだったんだ……?」 「ああ……社内ドクダミ茶愛好会の、年一回の定例集会」 「……ドクダミ茶、愛好会……」 「うん。あれも奥が深いんだって。土質とか、水質とか、気候とかで、普通のお茶と同じくらいに差があるの。お父さん、今年は幹事なの。場所と日にちの都合がつかなくて、今日になったんだって、言ってた」 やっぱり謎な漢である、東雲寂尊(39歳・既婚)。 だが、杉菜と尽を見る目は優しさと愛しさに溢れていて、本当に子供達を大切に思っているのが伝わってきた。あんなとんでもない人物ではあるが、きっと家庭では良い父親なのだろう。その光景を想像すると、何だか少し微笑ましい。……テンションは異常であるだろうが。 「いい親父さん、だな」 「……うん」 こくんと頷くが、杉菜はそのまま顔を落として考え込むような素振りを見せた。 「……東雲?どうした?」 「……やっぱり、帰った方が、いいかも知れない」 「え?」 「本当は、今日、迷ってたの。お父さん達が行って来いって言ったから、来たけど。……でも、珪くんに迷惑かけてまで来るほど、私、そんなに執着してないと思う、花火に」 そう言って、顔を上げて葉月を見た。 「……帰ろう?私が眠って、珪くんに迷惑、かかる前に」 表情は何の色も見せないまま。けれど、伝わってくる空気はとても真剣で。 ―――解るか?家族にさえ遠慮するような杉菜が、クラスメイトに迷惑がかかるような事、誘われたからってするなんて、そんな事はほとんどないんだ。 先程寂尊が言っていた言葉を思い出す。 自分を殺してまで、他人に迷惑をかける事を厭う彼女。 いや、『自分を殺す』という発想自体を持っていないのかもしれない。 ただ、相手に苦しんで欲しくないだけ。ただそれだけで。 けど。 けど、俺は。 「…………迷惑だなんて、思ってない」 「……でも……」 「迷惑だと思ってたら、はじめから誘ってない。迷惑じゃなくて、…………嬉しいんだ、俺」 「…………うれ……しい……?」 軽く頷いて、葉月は杉菜を見つめる。 「そう。……だから、そうだな、一緒に観てくれないって言う方が、迷惑。そしておまえは、迷惑、かけたくないんだろ?」 そう言って、杉菜に向かって手を差し出した。 「……?」 「はぐれると、困るだろ?人、多いし」 「……珪くん、私……」 「俺は、今日、おまえと一緒に花火観られるの、嬉しい。だから、悪いけど付き合ってもらう。――行こう」 返事を待たずに、葉月は杉菜の手を取って歩き出す。引かれた杉菜は踏みとどまる様子もなく、素直に彼の後に従った。 前座の花火が未だ夕日の残滓が残る淡いサファイアブルーの空に音を響かせる中、二人はしばらく無言で会場へと歩いていく。空が開けて、花火の光がその舞台に染み渡るのがはっきり判るようになってきた頃、やがて杉菜が小さな声で葉月に話し掛けた。 「……珪くん。訊いても、いい?」 「ん?何を?」 「……『嬉しい』って、どういう感じなの……?」 葉月はゆっくりと振り向いた。瞳にとらえた杉菜の顔は、ほんの少し躊躇いを示すかのように、わずかに眉が寄せられていた。 「どういう感じ、って」 「ね、どういう感じ……?私、ね…………わからないの」 打ち上げられた花火が、明滅しながら淡く空を染めて、杉菜の頬に届いては消える。 その儚い光芒の狭間で零れた言葉を、かえって強調するかのように。 ―――――ワカラナイノ。 言い難そうに紡がれたその一言が、葉月の胸を、強く打った。 (…………おまえ……もしかして……) 初めて会った幼い頃から、今に至るまで。 ありとあらゆる天賦の才能に恵まれて、その上で確固たる自分だけの世界を営んでいたはずの、美しい姫。 そんな彼女が『わからない』と言った、その唯一のものは。 ――……綺麗……そう、だね。綺麗、なんだろうね、多分。 ――君が杉菜と接する事で、杉菜が自分ってもんを手に入れてくれるんなら、それは俺達家族にとっても嬉しい事、ありがたい事だ。 引っかかっていた言葉が、解ける。 呪いだ。 そうだ、背負っていたんだ。あの、王子の愛した姫は。 他のあらゆる恵みと引き換えに。 何より大切なものを奪われてしまっていたんだ。 感情という名の、痛みと優しさを秘めた、何よりも美しい『心』というものを。 そして。 そしてまた、おまえも――――――。 「……珪、くん?私……訊いちゃいけないこと、訊いた……?」 ハッと、葉月は我に帰った。不安そうな声色で問いかける杉菜に、軽く頭を振って答える。 「いや、そういう訳じゃなくて……言葉にするの、難しいんだ。感情を表現する単語でしか、ないから。…………けど、そうだな……喩えていえば……」 「喩えて、いえば……?」 首をかしげて、杉菜は葉月の瞳を覗きこむように訊ねた。 「……春の陽だまりとか、校舎裏の、あいつらの体温とか。そういう暖かさが、自分の中からゆったりと立ち昇ってくる。体中が、その温もりで満たされていく。……そんな感じ、かな」 「暖かさが……立ち昇ってくる……」 「そう。外からじゃ、なくて」 「それが、『嬉しい』…………?」 「ああ」 たとえば、今。 こうして繋いでいる指先から、おまえの暖かさが溶け込んで来て、自分の中で形を変えて芽生え出すみたいに。 昼間の熱気を引きずってなお汗ばむ程の暑さの中にありながら、手のひらから伝わる熱だけは、特別なもの、手離したくないと、思えてくるように。 優しくて、心地よい、大切な――熱だと。 「……それが……『嬉しい』…………」 カラン、と。 乾いた下駄の音が、湿った大気と雑踏の中に溶けた。 いつしか王子は、ある事に気がついたのです。 誰よりも何よりも素晴らしい姫が、生まれたその瞬間に、呪いをかけられていたことを。 あらゆる才能とひきかえに、あらゆる感情を持たないこと―――。 それが、神々の祝福を受けて生まれたはずのこの姫の、ほんとうの姿だったのです。 |
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