−第11話− |
ドオォーーーン、パラパラパラパラ・……。 紺青の空に大きく華が咲いて、海へと降りそそぐ。 赤。青。緑。紫。白。金。 たくさんの色が、昇り、開いて、萎んで、落ちる。 豪快に、繊細に、光の雨が観る者の心を虜にするように踊る。そしてその隙間を縫うようにして大きな音が響く。 ドオォーーーン、パラパラパラパラ・……。 「思ってたより、音、大きいのね……」 「ああ、けっこう腹に響くだろ?」 「うん。……V=331.5+0.6tで気温が28.6℃だから―――」 「……348.66m/s」 葉月と杉菜は砂浜に立ちながら、天上で繰り広げられる花火の洪水を眺めていた。屋台から少し離れている分、人もそんなにすし詰めではなく、程よい密度で夏の夜風に通り道を作っていた。 帰る方が迷惑、と言った葉月の言葉が効いたようで、今はもう、杉菜は葉月に従って花火見物に徹していた。 葉月は、先程の杉菜の言葉を深く追求する事もなく、彼女の手をそっと握っているだけだった。杉菜も何も言わず、葉月の手を振り払う事もなく、ただ彼の傍らに立っていた。時々花火の形や色、音を評したり、音波速度の公式を口ずさむくらいのものだ(それもどうか)。 すっかり日が沈んだ夜空に、高く強く華が踊る。たーまやー、かーぎやー、というお決まりの掛け声に加え、ときたま違った形の花火が上がると、周りから楽しそうな声や突っ込みの声が入って、夏の一夜の豪華なショーに喝采が贈られていた。 もちろん二人は見た目には無表情のまま、掛け声をかけるでもなかったが。 「あ……ヒトデ型」 華の間に刻まれた五芒の形に、杉菜が彼女らしい固有名詞を発する。 「ヒトデ……星だろ?今の」 「そう?歪んでたから、そう見えたけど」 「……まあ、似たようなものか。いろんな形あるし、ヒトデかも知れないな。……そういえば、このまえ仕事の休憩時間に、花火大会の話になって」 いろんな形、で思い出したのか、葉月が珍しく世間話を始めた。 「うん」 「スタッフの一人が、高校の時の思い出話、始めたんだ。片想いの女子誘って、ある花火の順番が来た時に、言ったらしいんだ。『次に上がるのが、俺の気持ちだから』って。で……上がったのがハート型の花火」 「ハート型?……それで?」 「そしたら……その女、かなり引いて。速攻で振られた挙句、次の日には学校中の笑いものになったって。それがすっかりトラウマになって、そのスタッフ、今でもハート型の花火見ると吠えずにいられないらしい」 「吠える……」 その頃合を見計らうかのように、夜空に赤々とハート型の花火が打ち上げられた。そして同時に「チックショー、バカヤロォーーーッッッ!!!」という絶叫と「オイ、落ち着けよどーしたんだ!?」という制止の声がどこからともなく響き渡った。周りの人間が驚いて声の方向を振り向く中、葉月達はゆっくりと顔をそちらに向ける。 「……あんな感じ?」 「……あんな感じ」 (来てたのか……) 来てたらしい。 が、そもそもシリアスでそれをやられたら普通の女は引くだろう。そういう告白の演出はやる方もされる方も役者を選ぶものである。淡白な反応を示すこの二人なら、ビジュアル的には似合うかも知れないが。 杉菜と言えば、やはり何かを思い出したようだ。視線を花火に戻しながら言う。 「そういえば……似たような話、中学の理科の先生から聞いた」 「どんな?」 「皆既日食の時に見られるダイヤモンドリング、あるでしょ?若い頃、その写真を自分で撮影して、付き合っていた人に贈ったんだって。結婚指輪の代わりに、って」 「……プロポーズ?」 「うん。そしたら、振られたって。寒い上に甲斐性なしって言われて」 「…………そうか」 何とも女性は現実的な生物である。しかしそこで、杉菜は軽く首をかしげる。 「……でも、私、写真撮る方が大変だと思う。皆既日食がいつ起こるか、何処でなら見られるか、天候はどうか、そういった事考えると、ちょっとやそっとの労力では、無理。とても大変だって、そう思う」 「……ああ、そうだな」 「……それを聞いた時、解らないって思った。どうしてそんなに、物にこだわるのか。こだわってばかりじゃ、結果的に残るのは、形だけなんじゃないのかな……」 「形っていうか……証、なんじゃないか?」 「証?」 「……人って、弱いから。見えないものを信じているには、よほどの精神力がいる。目に見えるもの、触れられるもの、そういうのがないと、自分を支えられない時があるんじゃないか?……俺もよく判らないけど」 「……そう、なのかな」 ポツリと答えて、そのまま花火を見上げる。 多彩な光の華が幾重にも夜空を染めかえて、それを見つめる杉菜の姿に陰影を増す。 盛大にその存在を誇示しながら、一瞬で砕け散る天上の花。儚いようでいて、凛と佇む地上の花。 葉月は花火に見惚れながらも、それ以上に傍らに立つ杉菜に見惚れていた。 綺麗で。 ただ、綺麗で。 何処までも、目を、魂を、奪い尽くして。 空虚だというなら、どうしてここまで美しいのか。 『心』がないというなら、どうしてここまで『心』を惹きつけるのか。 熱気のこもった息をフゥッと吐き出し、目を背けるようにして杉菜の手を離した。 「……飲み物買ってくる、俺」 「ん……?」 「少し……喉、渇いたから。おまえ、何がいい?」 「……べつに、いい。そんなに喉、乾いてないから、私」 「けど、暑いだろ。後で飲んでもいいし、ついで」 「……じゃあ、水」 「……了解。そこで待ってろ。すぐ戻るから」 そう言って葉月は足早に砂を蹴って、屋台の並ぶ方へと歩いて行った。本当は走りたいのだろうが、砂に下駄が取られるので仕方なく歩いている、というふうだ。 「……べつに、そんなに暑いと思わないけど……」 中学時代理科の実験で変温動物並みの体温を証明した事のある杉菜としては本当にそう思うのだが、葉月が(彼にしては珍しく)気を利かせてくれているのに重ねて断るのも失礼かと考え直した次第である。 その場所に立ったままで、葉月の広い背が人波に飲まれて見えなくなってから、杉菜はふと自分の右手を見る。 駅からこの会場まで、ずっと葉月に繋がれていた、自分の手。小柄な体に相当して小さな手。 その手を見つめながら、杉菜は呟いた。 「……どうして、訊いたんだろう……」 どうして、言ってしまったんだろう。 お父さんにも、お母さんにも、ましてや尽にも、言ったこと、ないのに。 …………わからない、と。 『嬉しい』や『楽しい』、『哀しい』といった感情が、自分には解らないのだ、と。 何故、彼に。 彼にだけは、言ったのか―――言えたのか。 記憶にある限り、幼少時から杉菜の中には『感情の発露』というものが見出せなかった。楽しいと思う事もなく、悲しいと思う事もなく。まして怒りを覚えた事など一度もない。 このバイオリンの音が、気持ちいいから――それは、聴覚的に不快感を及ぼさないから。 日当たりいいし、猫、いるし――それは、睡眠に適した温度が欲しいだけ。 パーテーション、気に入ったみたいでさ――それは、色や形が他に比べて圧迫感が少なかったから。 美味しいって言ってくれたから――それは、褒め言葉というものに対する単なる返礼。 ありがとう――それは、一般に『親切』と呼ばれる行為に対する、差し障りのない儀礼的な返答。 どれもこれも、感情から出てきた事ではない。全て、知覚における生体的な反応と一般常識と云われるものに対する行動でしかないのだ。 『思考』と『感情』は、別のものだ。 多くの本を読んだ。多くの知識を得た。多くのサンプルを見た。だから、現象としての認識はできる。ある現象に対して、どのように対処するのが一般的であり合理的、効果的であるか、知識としては解る。 人が喜んでいる時、『ああ、喜んでいるんだ』という認識はできる。誰かが悲しんでいる時も、その現象は認識できる。 しかし、その感情の具体的な感覚が、杉菜にはどうしても理解できない。実感できない。自分の中に、応用できない。 そして、それはそれは家族に対しても同様で、客観的にいい家族だ、と判断することはできても、主観的に自分が『幸せ』だと感じる事がない。解らないのだ、どうやっても。 わからないの。どうしても。疑問は持てるのに、答えがわからない。 わかっているのは、これを訊いたら、訊かれた人が『困る』事。答えに窮して、悩む。迷惑を、かける。 迷惑、かけたくないの。 私をみてくれる皆。親切にしてくれる、たくさんのひと。 私は、あなたたち皆がいなくなっても、きっと何とも思わない。 哀しいとか、辛いとか、そういうこと、何一つ。 何も、何とも、思えない。 思ったことが、ない。 そういう、壊れたものなの。 だから、私にそんなに親切にしなくていい。 こんな壊れた私の為に、苦しまなくていい。 私が、壊れた私が望むのは、それだけ。 だって――私には、あげられる暖かさなんてないんだもの。 なのに。 『迷惑じゃなくて、…………嬉しいんだ、俺』 ――― う れ し い ? 『―――ね……それって、どんなかんじ?』 『えぇ?えーと……そうだなぁ……。なんていったら、いいんだろ……』 翡翠の目が、深く染まる。 『……春の陽だまりとか、校舎裏の、あいつらの体温とか。そういう暖かさが、自分の中からゆったりと立ち昇ってくる。体中が、その温もりで満たされていく。……そんな感じ、かな。外からじゃ、なくて』 たとえば。 繋いでいた指先から伝わってきた、あなたの体温に似たぬくもりが、私の中で生まれてくるの? 昼間の熱気を引きずる暑さの中にいるのに、手のひらから伝わる熱が、何故か穏やかなもののように感じたように? 優しくて、心地よい、大切な―――内側からの、熱。 それが、『うれしい』―――? 「…………駄目。やっぱりわからない」 教えて、くれるのに。 こんな私の為に、伝えようと、してくれるのに。 わからない。 なぜ。 壊れた私に、なぜ、関わるの。 私が、そんな熱を持っているはずがない。 私に、あなたにあげられる熱があるはずが、ない。 「わからないって、何が?」 考えに没頭していたのだろうか、杉菜は目の前に数人の男が立っているのにようやく気がついた。 「……うっわ〜、スゲェかわいいじゃん、君。声かけて正解!」 「どしたの?こんな所で一人でボーッとしちゃって。彼氏にでもフラレた?」 「うわ、それソイツ見る目ないじゃん!」 高校生くらいだろうか、どう見てもナンパな雰囲気に満ちた締まりのない顔で話しかけてきた。杉菜の容貌からして、こういう手合いに声をかけられる事は多い。ましてこんなお祭り騒ぎでテンションが上がっている連中だ、身の程というものを理解出来なくなるのも仕方ない。 「ねぇ君、俺らと一緒に遊ばない?一人より大勢の方が楽しいだろ?」 「そうそう!こんな所で立ってるよりさ、向こうの方がにぎやかで面白いぜ。行こ行こ!」 そう言って男の一人が杉菜の手を取ろうとする。 が、杉菜はさっと後ずさってその腕をかわす。 「……行きません。人、待ってるから」 「へぇ〜!声もすげカワイイじゃん。でもさ、人って言っても、こんなカワイイ女の子放っといて行くようなヤツ、待ってなくたってかまやしないって。ね、行こうって!」 嫌。 感情面はさておき、杉菜の危険感知本能は他の追随を許さない。ここで待ってろ、と葉月には言われたが、逃げた方が得策かもしれないと考えた。小柄な自分のこと、人波に紛れてしまえばそうそう見つけられない、そう思って、行動に移そうとした時。 自分の血の気が一気に引くのが、解った。 耳鳴りがする。 息が切れる。 頭が痛い。 吐き気がする。 ――――気持ち、悪い。 チラリと時計を見れば19時20分を回っていた。思っていたより時間が過ぎるのが早かったようだ。 (……この感じ、知ってる) 暗がりですら判るほどに顔色が変わった、そんな様子に気がついたようで、男達も表情を変える。 「……ん?どしたの君。気分悪いの?」 「ダメじゃん、そんならますますこんなトコにいちゃ。静かな場所で休んだ方がいいって」 心配と下心の両方で杉菜に近寄ってくる男達をかわしながら、杉菜は必死で気分の悪さに耐えていた。 覚えがある、この感じ。 中学の頃、商店街の福引でホテルの家族ディナー券を当てた事があった。丁度両親の結婚記念日が近くて、皆で食事しようという話になったが、すぐに杉菜の体質ゆえに諦めようという事になった。 3人で行って来て、と言っても、誰も杉菜を置いては行けないと言われて。 だから、実験してみた。寝溜めして、その分遅くまで起きていられるか。そうすれば家族が杉菜の為に楽しみを我慢せずに済むと考えたから。それしか、自分にはあげられないと判断したから。 だが、駄目だった。眠るまでのほんの数分間だったが、凄まじいまでの気持ち悪さが襲って来て、結局必要以上の迷惑と心配をかけてしまったのだ。スイッチを切るようにすぐに意識を手放してしまえば訪れないのに、眠気に耐えようとすると襲って来るのである。 今もあの時と同じ感覚。飲み込まれる。グラグラする。世界が回る。 頭が、痛い。 ああ、やっぱり無理にでも帰ればよかった。 尽にも心配されたのに。あの時みたいになったら、すぐに連絡しろよって、言われたのに。 珪くんに、迷惑、かけたくなかったのに。 言えばよかった。こうなるかも知れないって。 でも、またああなるかどうか、判らなくて。たった一度しか、味わった事がなかったから。 何よりも。 離したくなくて。 『嬉しい』と言った彼の手を、何故か、離したくなくて。 あたたかい、あなたの手を。 『ほら、こっち。こっちにひみつのばしょがあるんだ。きっとおまえ、気に入る』 ――――あのときみたいに。 きらきらした、あなたのひすいいろのめを、くもらせたくなくて。 「――――東雲!?」 前方から、人波を掻き分けて葉月が駆けて来るのが見えた。 慌しく瞬く、翡翠色の目。 明滅する視界の中でその色を認めた途端、杉菜は糸が切れるように崩れ落ちた。 |
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