−第49話− |
行く年があれば、来る年がある。 年が明けて冬休みが終わりとくれば、次はセンター試験である。例年はばたき学園からの進学希望者は全体の6〜7割程度、学内を巻き込んでピリピリしたムードに包まれる。それが終わったら終わったで自己採点結果に狂喜乱舞したり涙したり、はたまた私立の推薦が決まって浮かれた挙句急性アルコール中毒を起こして救急車で病院に運び込まれてその上推薦を取り消されたりと、忙しい事この上ない。何はともあれ各人将来の現実に向かってのラストスパートに燃えていた。 無論、そんな張り詰めたムードの中にも例外はいる。例えば彼や彼女だ。 「やあ、ブラン・プリマヴェラ!いたね?」 「……あ、色」 放課後、校門を出る所で、腰まである柔らかな髪をなびかせて謳うように声をかけてきた三原に、艶やかな髪を翻して杉菜が応える。 「珍しいね、今日は一人なのかい?葉月くんが一緒かと思ったのだけど」 「仕事。先に帰ったの」 「ああ、そういえばそうだね。ボクとしたことが、うっかり忘れていたよ」 「色は?瑞希さん、一緒じゃないのね」 「うん。残念なことに、ハニーも今日は用事があってね。――――そうだ!どうせだから一緒に帰ろう!うん、それがいいよ!」 「うん、べつにかまわない」 こうして見た目に『美女』と評したくなる二人は学校から至る坂道を華麗かつ優雅に歩いて行った。 「そういえば、センター試験の成績を聞いたよ。さすがだね」 「そう……?基本問題だし、あんなものだと思う」 「うん、君は本当に自分の能力をよく理解しているね。決して驕るわけでもないその冷静さ、とても好感が持てるよ」 「そう?ありがとう」 「うん、どういたしまして!ああでもあまり無理しちゃダメだよ」 「色もね」 二人はそのまま内容があるんだかないんだか解らない世間話を交わしながら、華やかな空気を周りに振り撒いていった。主に三原がくっちゃべって、それに杉菜が相槌を打っているだけだが、それでも会話が成立するのはこの二人ゆえか。 その内、何かの拍子に三原が杉菜に例の呼び名で呼びかけた後、杉菜はふと三原を見上げて訊ねた。 「そういえば……色に訊きたい事、あるんだけど、いい?」 「なんだい?」 「色って、どうして私をそう呼ぶの?」 「ブラン・プリマヴェラ?」 「うん。……私、『ブラン』でも『プリマヴェラ』でもないと思うから。本質的に。嫌じゃないけど、不思議だったの」 杉菜がそう言うと、三原はまるで聖母(?)のような微笑みを湛えた。 「そうだね……。……ねえ、白という光の色は、全ての色をその中に秘めてるよね?」 「うん」 「それから、春の前には冷たくて苦しい、長い冬があるよね?」 「うん」 「だからだよ」 「……?」 「つまりこういうことさ。ボクがキミを『ブラン・プリマヴェラ』と呼ぶのは、純粋に真っ白な、苦しみも悩みも何もない存在だからってわけじゃない。あらゆる色を内包してるのに、無垢に見えるその不思議な矛盾。そんな姿に敬意を表するからこそ、ボクはそう呼ぶんだ」 「……そうなの?」 「そうだよ」 「……やっぱりよく、判らない」 本当に解らないらしい、杉菜は首を傾げて困ったように視線を落とした。 「うん、自分では判らないことなんだ、きっと。でもね、ボクには判る。ボクには判るけど、でもそれはボクが言うべきことじゃない。どちらにせよ、これからのキミがとても楽しみさ」 「これからの……私が?」 「そうだよ。ボクは今のキミはとても素敵だと思う。年が明けたせいなのかな、とても清々しいオーラを放っているよ。でもそれはまだプロローグのようなものさ。キミの本当の輝きは、これから芽生えるんだと思う」 清々しい、と言えば確かにそうだろう。 クリスマスイベント以来、杉菜はまるで憑き物が落ちたかのようにスッキリとした顔をしていた。無論その無表情に変わりはないが、それでも微細な部分で翳りが消えた。友人連だけではなく、その他大勢の知人もその様子に安堵したものだ。 それもこれも、全ては葉月のおかげだった。 「うん……そうだと、いいな……」 彼が、喜んでくれるから。 「大丈夫!このボクのようにキミもミューズに愛された身だからね。気まぐれなミューズの祝福を、常に注がれているキミならきっと今よりももっと素敵になれるよ。頑張って!」 「うん、頑張る。…………ね、色」 「なんだい?」 「ありのままの自分を受け止めてくれる人がいるって、とても、……そう、幸せな事、だよね……?」 確認するような杉菜の言葉に、三原はそれはそれは美しい微笑みを浮かべて頷いた。 「もちろんだよ、ブラン・プリマヴェラ」 気の早い春の女神が訪れたように、柔らかな風が吹いて二人の髪を揺らす。 「それ以上に幸せなことなんて、そうはないよ。ボクにはハニーがいるように、キミには葉月くんがいる。お互い本当に幸せだね、今」 「うん」 どんな自分でも、受け止めて、抱きしめて、笑ってくれる人がいる。 それは本当に嬉しい事で、幸せな事で。 (……本当に、不思議) 心はないと思ってた。感情がないと思ってた。だけど揺り動かされるものが今は確かに自分の中にある。 時には自分自身を痛めつける事があるけど、それでも一番深いところに暖かな光を灯してくれる。 (……『幸せ』なんて……初めて感じた……) これが、この気持ちがそうだというなら。 それはなんて、優しいものなんだろう。 不思議な、気持ち。 暖かい、美しいもの。 一月の冷たい空気に溶ける白い吐息を追いかけて空を見上げれば、冬の太陽がその淡やかな帳を枯れた木々の上にも差し伸べている。 その先に留められた蕾は未だ固いけれど、灯火のようにどこまでも続く空を満たしていた。 更に二月に入ると、高校三年生の大部分は自由登校に切り替わる。大学入試の二次試験まで十日を切ったある日の午後、葉月はいつものように東雲家の玄関の呼び鈴を押していた。それに応えるようにややあって中から鍵を開ける音がして桜が顔を出した。ちなみに馴染みの者にはすぐに誰だかが判るように、それぞれモールス信号で呼び鈴を鳴らすよう指示されている。 「いらっしゃい、珪くん。お仕事終わったの?」 「はい、こんにちは。杉菜、いますか?」 葉月が訊ねると、桜はいつもの笑顔のままで頷いた。 「ええ、いるわ。……あ、でも、『ここ』にはいないかしら」 「?」 促されて家に上がり、奥の和室に通されて納得いった。日当たりの良い和室の縁側で晩冬の日差しを浴びながら、杉菜は気持ち良さそうに眠っていた。意識が現実世界にないという点で、桜の表現は正しい。 その姿を認めてふっと微笑ったあと、葉月は思い出したように手土産を桜に渡した。先の休みにマネージャーが小旅行に行って来たらしく、その土産だと渡されたのだが、葉月一人には量が多いので多分に東雲家に横流しする事を想定していたものと思われる。受け取って礼を言った桜がお茶を淹れてくるというのを見送ってから、彼は眠り姫の隣に腰かけた。 「……頑張ってるな、おまえも」 見ればすぐ横にある座卓には眠る直前まで勉強していた形跡がある。何冊もの参考書や問題集、整然とまとめられたノートが置いてあった。二次試験も間近に迫った今、実に受験生にふさわしい行動である。もっとも今更こんなに勉強しなくても合格判定で氷室印の太鼓判を押されているのではあるが、根が真面目なのだろう。 「ん……?おまえも寝てたのか?」 再び杉菜に視線を向ければ、その横に一匹の猫が丸まって添い寝していた。葉月が声をかけると目を開いて、にゃあ、と小さく鳴いた。 「悪い、起こして。寝てていいぞ?」 軽く首元を撫でてそう言うと、ぐるぐると喉を鳴らしてからその猫は再び顔を伏せた。葉月の髪の色に似た毛並みに光が反射して、ほのかに輝いている。 「その子、すっかり杉菜に懐いちゃったわね」 部屋に入って来た桜がお茶を葉月に差し出しながら、娘とその隣にいる猫を見て言った。 「あ、どうぞ、おかまいなく。……すみません。こいつの世話、任せてしまって」 「いいのよ。うちはみんな猫が好きだし、第一怪我していたのを放って置けないもの。そんなにひどい怪我じゃなかったのは良かったわ」 「はい」 杉菜の隣で主と同様に眠っているのは、つい先日葉月と杉菜がデートの帰りに怪我しているのを見つけた猫だ。どうやら野良らしかったのと出血が派手だったのとで、放っても置けず拾って獣医に連れて行ったのだが、怪我は本当に大した事はなかった。そのまま放置していくのは猫好き人間には到底出来なかったので、とりあえずの一時預かり所として東雲家で飼い始めた訳だ。様子を見て寂尊の実家である東雲寺、通称・猫寺に引き取って貰うつもりだったが、どうも当の本猫が杉菜に懐きまくってしまったので、このまま東雲家の一員となりそうである。 「せっかく来てくれたのに、眠っちゃっててごめんなさいね」 「いえ。いきなり来たの、俺ですから。それに、こいつの寝顔見てるの、嫌いじゃないし」 「そう?」 「はい。……初めて会った時、思い出すから」 「あら、この子ったら入学式の時にも眠ってたの?後ろからじゃ見えなかったわ」 「あ、いや……そうじゃないですけど。……その前に、ちょっと」 初めて会ったその時。それは、あの教会の近くの森の中だった。 学園に祖父が赴くたびにくっついていた為、あの近辺は幼い葉月にとって勝手知ったる遊び場だった。 そんなある日、いつもと同じように教会に行こうとして出会った……否、発見したのが、今と同じように陽だまりの中で気持ち良さそうに眠っていた杉菜だった。 一瞬で心を奪われていた。言葉も出せず、動く事もできず、ただずっと彼女が起きるまで見惚れていた。 初めてだった。誰かに見惚れるなんて。こんなに心臓がドキドキするなんて。 しばらく経って目が覚めた彼女の不思議そうな声を聞いて、鼓動はなおも高まって。どうしても、どうしても彼女をもっとずっと見ていたくて、上手く言葉が出ない口で自己紹介したっけ。 (……思えば、あの瞬間からおまえに絡めとられてたんだな、俺) たった一瞬、それだけで充分だった。心を奪われて、それであとは決まったようなもの。 考えてみれば、すごいよな。 おまえに会えた事も、おまえを好きになった事も、おまえが……俺を受け入れてくれる事も。 たくさんの偶然の中で今に至る一本の線が紡ぎ出されてきた。本当に奇跡以外の何でもない。 なんて、すごいことなんだろうな。 「……それにしても、本当にこの子は私にそっくりね」 穏やかな瞳で杉菜を見つめる葉月に、同じように杉菜の横に腰を下ろした桜がふわりと微笑う。微笑ってから杉菜に視線を落とし、呟いた。 「ですね」 「ええ。表情なんて、特に」 「そう……ですか?」 確かに杉菜と桜は瓜二つだ。まったくもって血縁であるという事実が一目瞭然な顔の造作をしている。 だが、杉菜は無表情がデフォルトであり、桜は微笑みがデフォルトだ。性格が違うから表情も違うのは当然だが、しかしその差は大きい。 そう思って言い淀むと、察したように桜は続けた。 「ええ、私は確かに笑顔の時が多いわ。――――でも、いつも笑い続けているのと、無表情と。どう違うかしら?」 「……?違う……と思います、けど」 「その笑顔が、外れない仮面のようなものだったとしても?」 「……仮面……?」 コクン、と桜は頷いた。 「……私の実家は老舗の料亭で、格式や礼儀、言ってみれば形式を非常に重んじる家なの。常におもてなしの心を持って、相手に喜んで頂けるようにしなくてはならない、そういう家。それこそ生まれる前からそんな空気に浸ってきたから、自分を主張する事って少なかったわ」 「そう……なんですか?」 「ええ、お客様第一ですもの。そのポリシーの前では、自己主張したところで受け入れられる事はないの。今ではお客様――相手に喜んで貰えるのは嬉しいし、その事に誇りを持ってもいるわ。けど、当時はね」 クスッと笑って、桜は眠っている杉菜の髪をそっと梳く。 「生まれた時からそういう中に育っていると、ほとんど洗脳されてしまうようなもので、それをおかしいと思わなくなるの。自分だってちゃんと自我や欲求があって、少なくともそれを表現する事くらい許されていいのに、それすら気付かなくなるの。それに気がついた頃には……私、笑っているだけの人形になってたわ」 「笑っているだけの……人形……」 「そう。何も考えないの。ただ相手に喜んで貰う、それしか考えないで自分を抑えて、自己主張もせず、自分の意思すらなくしたように、ただ笑っているだけ。形だけの笑顔でコーティングされた、そんな人間」 「…………」 葉月は顔を伏せて押し黙った。自分にも幼い頃、覚えがあったから。 「……そのせいなのかしらね。私、残酷なくらいに冷めてた人間だったの。笑っているその内面では、何も感じたりする事のない、無感情な人間。周りに合わせて演技する事は出来たけど、その実何も感じていない。楽しい事があっても、哀しい事があっても、必ずどこか冷め切っていたの」 淡々と話す桜の口調に、葉月は思わず顔を上げた。だがそこにはいつもと同じ、慈母の様な微笑みがあるだけで。 「そんなだから、誰とも本当の意味で親しくなれなくて。ゴローちゃんとは何故か気が合ったけど、それは多分、お互いに異端児だったからかも知れないわ」 自分だけでなく花椿まで異端と言い切る辺りはさすが彼女である。 「異質だったの、私。少なくとも当時はそう思ってた」 「……けど、俺、今の桜さんの笑顔が形だけのものなんて、思いません。その……上手く言えないですけど」 必死に言葉を探そうとする葉月に桜は微笑う。 「ええ、今は違うわ。――――殿がいるから」 殿、とは桜の寂尊に対する呼称だ。 「殿って、あの通りかなりの変人でしょう?」 そう訊くと、葉月は非常に困ったような目をした。確かに変人だが、いくらなんでもそうハッキリ事実を口にして良いものだろうか。 「……え……と…」 「うふふ、いいのよ、正直に言って。でもね、その変人が私を変えてくれたの。……乾いていると思っていた自分がね、いつの間にか彼のペースに引きずられて、彼に惹きつけられて、彼が居なければ自分が成り立たないくらいになってたの。私の中で無意識に、ただ一人の相手を探していたのかも知れない。心の中に眠ってた感情やそれ以上の何かを目覚めさせてくれる相手を。……そして、その相手に出会えた。自分を出していい、色んな想いをぶつけていい、それを全部受け止める。そう言ってくれる、言われて、それを嬉しいと自分が思える、そんな唯一の相手にね」 愛しそうに杉菜の頭を撫でて、桜は続けた。 「……この子は私にとって、昔の自分の影でもあるわ。それを背負わせてしまったこと、とても心苦しかった。けど私がそうだったように、この子も多分、自分を心から大切に思ってくれる相手の想い無しでは救われない。心がね、そう望んでしまってるから」 「…………」 「珪くんに会った時、ああ、この人なんだって思ったの。杉菜が受け入れる相手。無意識の内に選んだ相手。だから、珪くんが杉菜を大切にしてくれて、本当に嬉しかった」 「そんな、俺の方こそ、こいつには甘えっぱなしで……」 「杉菜がそれを受け入れてるんだから、全然構わないわ。……ありがとう、珪くん」 笑顔と共に暖かな空気が伝わってくる。形だけのものじゃない、確かな心が。 それを感じて、葉月も笑った。 「……いいな、寂尊さん」 「え?」 「あ、その……今の桜さんみたいに笑ってほしいから、こいつにも」 「杉菜に?」 「はい。俺、あの人と同じようにはなれないけど、せめて少しでも、今の桜さんのように笑ってもらえるように頑張らなきゃ、そう思って」 「……充分頑張ってるわ。私達じゃ、文化祭の時みたいな笑顔、絶対に出せなかったもの。けど、眠り姫の魔法が解けるのは並大抵の気持ちじゃ無理なんだから、焦っちゃ駄目よ」 「……そう、ですね」 「そうですとも。――――――あ、そうそう!これだけは前もって言っておかなくちゃ」 思い出したように桜が手をパンと叩いた。そして大層真剣な瞳で葉月をキッと見つめた。 「……?」 「珪くん?据え膳を我慢する必要はないけど、避妊はちゃんとするのよ?」 ブッ!! 丁度お茶を飲もうとしていた葉月は、桜のセリフに思わず噎せた。 「グッ――ゲホッ、ゴホッゲホッ……!さ……桜さん、何、いきなり……っ……ゴホッ」 「あら、重要な事でしょう?私も殿も子供の意思は尊重するし、合意の上ならそういう関係に至るのは止めないけど、子供ばかりは良く考えてから作らないと後々大変だもの。親として注意しておかなくちゃとずっと思ってたのよ」 「…………ゴホ」 もう何と言ったらいいのやら。ほぼ出来上がりカップルとはいえ未だそういう話題に到達していない葉月にとって、少しばかり動揺を誘う話題であった事は確かだ。うっすら浮かんだ涙は気管に入ったお茶ゆえか否かは、彼にしか判らない。 咳き込んでいる間に、玄関のドアが開いて軽い足音が聞こえてきた。ひょっこり顔を覗かせたのは、正月頃に姉の身長を追い越してホクホク顔継続中の尽であった。 「たっだいま〜!あれ、葉月来てんの?って、ねえちゃんま〜た寝てんのか?ホンット飽きないよなぁ」 「あら、おかえりなさい尽。おやつがあるから手を洗っていらっしゃい。お茶淹れるわね」 「ホント!?サンキュッ!」 階段を登る音を追うように桜が部屋を出て行って、ようやく落ち着いた葉月は湯呑みを座卓に置いてから、再び杉菜に顔を向けた。 冬の日差しはまだ弱いけれど、やがて来る春のぬくもりを予感させる。その陽だまりで穏やかに眠る杉菜の手を、葉月はそっと握った。 小さく華奢な体に似合った、やはり小さな手。柔らかい感触とほのかな熱は、今日の日差しにも似ている。初めて会った時の陽だまりにも。 ふと、数日前の事を思い出す。 「……お話、してやる」 受験前の気分転換でもしようと、初めて杉菜に誘われて行った大観覧車。機械の故障か、途中で止まってしまったままのそれに、杉菜は「……寝て待ってようか」と言ったものだから、葉月はそれを阻止する為に口にしていた。寝てる最中に動いたら今度は係員が困るだろ、と。 「……お話?」 「ああ……子供の頃、祖父さんがよく読んでくれた本。俺が泣いてると……」 「……珪って、子供の頃よく泣いてたの?」 「……そうだったかな……。……俺の祖父さん、外国人で、日本語下手くそだったけど……俺が泣いてるといつも、黙って隣に腰かけて、本、読んでくれた」 「そう……。聞きたいな、その……お話――――」 そこで観覧車は動き出し、うやむやの内にその話はそこで終わってしまった。 ……あの時、べつに言ってもかまわなかったけど。ずっと言えずにいて、今更って気も、したけど。 けど、どうでも良かったのも確かなんだ。 だってそうだろ?かつて出会ったことがあろうと、高校で初めて出会ったのであろうと、俺がおまえに惹かれたことに変わりはないんだから。 大切で、尊い存在。 初めて会った時と同じ愛しさで、今も触れられることが嬉しい。 「……幸せだな、俺」 誰かを大切だと思える自分。 誰かを必要だと思える自分。 弱さの証のように見えるけど、そうじゃない。誰かを信じるのって、とても勇気がいることだから。 「けど……俺、欲張りだから。もっとたくさん求めて、欲しがってしまうけど……それでも、いいか?」 葉月の問いかけに応えるかのように、握った手から返ってくる小さな力があった。 「……サンキュ」 ただ、『それ』を告げる時の為に。 葉月は掌に返ってきた小さな力を、心の中で決意に変えた。 「……それでは諸君。これが私から諸君へ贈る、最後の言葉です」 壇上の天之橋が、目の前にいる全ての生徒を見渡して言う。 「胸に希望を持て。希望を捨てなければ、諸君は決して負けることが無いのだから。人生は……時として諸君を打ちのめす。絶望に打ちひしがれ、全てが虚しく思えることもあるだろう。しかし信じて欲しい。諸君にはこの学園で培った雄々しい翼がある。私は信じている。諸君が自らの翼で、どんな困難をも乗り越えて行くことを。――――さあ!今、諸君の目の前に未来は無限に広がっている。諸君!はばたけ!」 盛大な拍手と共に式は最高潮に達し、そのままの勢いで教室に戻って来た生徒達はそれぞれのやり方で別れの時を迎えていた。 3月1日、はばたき学園卒業式当日。 何の滞りもなく卒業式や教室での卒業証書授与、担任の話等が終わると、卒業生と在校生は芋洗いの如く入り混じって最後の挨拶を交わしていた。人の波に埋もれるようにそこかしこに花が咲き、校内も校庭も校門付近も一足先に春本番が来たのかという騒がしさ・賑やかさだ。教室からクラブ棟を見下ろせば、日比谷が野球部の先輩に最後のパシリ魂を捧げているのが見える。 教室は教室で、これまた仲の良い生徒が行き交って写真撮影や感動の涙に浸っていた(勿論とっとと帰宅したクールな生徒も少なからず存在する←筆者はこっちだった)。 「あ〜もう、珠美ってば顔グチャグチャじゃん〜!せっかくみんなで写真撮るんだから、笑った笑った!」 「だ、だってぇ〜。もうみんなとこんなふうに会えないんだなって思ったら、すごく哀しくなってきちゃったんだもん〜!」 「何言ってるの!紺野さんは卒業しても日本にいるんだから、そんなに哀しむ必要ないじゃない!……って、篠ノ目さんもなんでそんなに泣いてるのよぉ〜!これじゃ、これじゃミズキが……ミズキは……」 「ご、ごめんね瑞希さん。そうだよね、瑞希さんはフランス行っちゃうんだもんね……私なんかより、もっともっと寂しいよね……」 「あーもうシノもそこで涙を誘発させない!須藤もガラにもなくしおらしい声出してんじゃないって!アタシらに会えなくなるのが寂しいのはよぉ〜くわかったからさぁ」 「〜〜〜な、何言ってるの!ミズキはね、ミズキがいなくなったらあなたの暴走を抑えることが出来る人がいなくなることを心配してあげてるのよ?第一どうしてミズキがあなたに会えなくなることを寂しがらなきゃならないの!?」 「ほほ〜、言ったねぇお嬢サマ?そういやアンタとは結局勝負がつかないままだったっけねぇ?」 「あら、勝負して欲しいのなら素直にそう言えばいいんだわ。遠回しに匂わすなんて、陰湿なことこの上ないわね」 「――――よっしゃ、このケンカ買った!!」 「売った覚えは無いけど、おおまけにまけて買って差し上げてよ!」 「あなた達、いいかげんにしなさい!!……まったくもう……最後までこの調子なのね」 女性陣が最後の時まで賑やかに騒いでいるのを、男性陣は微笑み(一部苦笑)と共に見遣っていた。 「ったく……有沢のセリフじゃねえけど、進歩ねえな」 「エエやん、これこそ正しき友情のあり方やで。大体オレらかて進歩したんか訊かれたかて、ここが進歩しました〜なんてハッキリ言えへんやろ。高校生活最大の変化言うたら、せいぜい和馬にカワイイ彼女が出来たことくらいやなぁ。――――どうなん?『一緒にアメリカに付いて来ーいッ!!』って言えたんか〜?」 「てっ、てめえ!からかうんじゃねえよ!!つうか、どこで聞いてやがったんだよ!!」 「姫条くんも鈴鹿くんも大して変わってないですねぇ……」 「それでいいんだよ守村くん。そう、変化とはそんなものなんだ。穏やかな水のせせらぎのようにゆっくりとその姿を変えていくからこそ、永遠に残るメモリアルを刻み続けることが出来るんだよ。ボクにはわかる。氷河が長い時をかけて移ろい行くように、一見しては判らないけれど、確実に時は流れ、ボクたちを変えていってるんだってことをね」 「……そうですね。僕もそう思います」 小突き合う補習コンビを横目に乙女属性な男子2人はバックに花を咲かせながら笑い合った。 「――――あ、千晴くんからメールだ。向こうも式終わって大騒ぎ中だってさ。女子に追いかけられて今隠れてる最中だって」 舌戦を繰り広げ中の藤井の携帯にメールが届き、不毛な女同士の戦いは無期延期となった。 「お、盟主補佐もなかなかやるのぅ。そや、明日にでも一緒に遊び行こか話しとったんや。自分らもどうや?はばたき市在住のきら高卒業生との合・コ・ン♪あそこもメッチャレベル高いから楽しみやな〜♪」 「アンタねー、もうちょっと一途な恋の何たるかを勉強した方がいいよ〜?そんなフラフラしてたら杉菜じゃなくたって付き合ってくれなくなるっての」 「グハッ!自分痛いトコ突いてきよるな〜……って、その杉菜ちゃんはどないしたん?」 「あれ?杉菜ちゃん、さっきまでそこで寝てたんだけどなぁ」 「葉月もいねえぞ。一緒か?」 「いえ、葉月くんは逃げ……いえ、その、避難しに行ったはずですが」 傍に近づけるラストチャンスとあって、HRが終わって各自解散したと同時に、葉月の元には他クラスのみならず1・2年の女子(一部男子)が大挙して怒涛の如く押し寄せて来た。ボタンやネクタイとまでは行かなくとも、せめて握手したり写真の一枚なりとも撮ったりしたいと思うのは、ファン心理としては当然だろう。杉菜の存在は確かにあるが、だがこの機会を逃したら次は無い。血相を変えるのも解る。 何にせよ葉月は今も校内中を逃げ回っている事だろう。それどころかトイレ辺りで隠れているかも知れない。まさかこの状況が『深い森』という訳でもなかろうが。 「彼も大変ね……でも本当に、東雲さんは何処に行ったのかしら。彼女も追いかけられる側だと思うんだけど、大丈夫かしら」 GSメイトが首を傾げていると、丁度教室に戻って来たらしき鈴木が反応した。 「あ、東雲ちゃんなら職員室にいたよ」 「え、ホント鈴木ちゃん?」 「ウン。先生達に挨拶してた。そういうところはさすが礼儀正しいよねぇ」 そういう鈴木も同様の理由で職員室に行って来たばかりだ。散々暴走しまくったのだから、最後の締めはしっかりせねばといったところか。 「なーんだ、そっか。あ〜あ、でも結局ヒムロッチのギャフンとした顔出せなかったなぁ。シノか杉菜のパパさん絡みじゃないとダメか、やっぱ。けどこのまま負けを認めんのも悔しいし、最後の最後に何か仕掛けてみようかなぁ」 「奈津実ったら、この期に及んでまだ何かするつもりなの?――――あら、葉月くんお帰りなさい」 ややげっそりした様子の葉月が教室に戻って来た。ようやく撒いたのかそれとももみくちゃにされて解放されたのかは判らないが、とりあえず女子の大群はひっついてはいなかったものの、ウンザリオーラな事この上ない。制服が無傷なのが奇跡である。 「よっ、お疲れさん。オレにしても自分にしても、モテる男は大変やなぁ」 「……モテるのは限定一人で充分だ」 「そう言うと思ったわ。ぜいたくなやっちゃ」 「……杉菜は?」 「無視かい。杉菜ちゃんやったら職員室に居るて鈴木ちゃんが言うとったで」 「職員室?……そうか、サンキュ」 戻って来た早々葉月は再びとっとと教室を出て行った。そのあまりの素早さに友人連は実に微笑ましい表情を浮かべた。 「ホンット杉菜絡むとフットワーク軽いよねぇ。てか姫条、アンタ高校生活最後のデバガメしに行かないの?」 「人聞きの悪いやっちゃな。大体行ったかてアテられるんがオチやし、それ以前に奴の殺人光線浴びせられるんはゴメンや。ここで黒板にラクガキでもしとった方がマシやろ」 葉月と杉菜を間近で見守ってきた身としては、これ以上邪魔する気にもならない。最早自分のポジションは単なる『兄』、トラブった時にアドバイスをする今の立場で満足だった。 藤井はそんな穏やかな顔の姫条に頷いて、しかし彼のセリフに応えて笑った。 「ラクガキか〜、ウン、それ面白そう!だよねだよね、卒業式と言ったら黒板いっぱいのラクガキだよね〜!よっしゃあ、藤井画伯、精魂込めて描かせて頂きます!」 「おっ、ノリノリやないか。そんならオレも手伝ったるわ。いっそ全クラス分描いてみるっちゅうのはどうや?」 「それいいねー。学生最後のお楽しみってヤツ?ホラホラ、みんなも描いた描いた!」 お祭り人間二人が率先してチョークを振るうと、残っていた他の生徒も黒板中にカラフルな落書きを散りばめていく。中には何やら思わせぶりな一言もあったりして皆で笑い合う。高校最後の日に相応しい、晴れやかな笑い声が教室中に響いた。 「あ、そうそう忘れとったわ。自分、ちょお手ェ出し」 ふと何かを思い出して、姫条が隣で楽しげに氷室の似顔絵を描く藤井に話しかけた。 「手ェ?なによ一体」 「エエからエエから。コレ、やるわ」 藤井が首を傾げながらも手を差し出すと、姫条はその手の平に小さいある物をぽとんと落とした。目を見開いてそれを認識すると、藤井はバッと顔を上げて贈り主を見つめた。 「……姫条、これ、何……」 「見て判らんか?ボタンや」 「いや、判るけど――――誰の。どこの。……なんで」 藤井の手の平でころりと転がっているのはどう見てもはば学男子制服のブレザーの付属品であるボタン。色の落ち方からして使用して三年は下らない。 「オレのに決まっとるやろ。この世に一個しかない、この姫条まどか様の制服を飾っとった第二ボタンや。……どっかの誰かさんが欲しがっとるんちゃうかな〜って第六感がピピッと働いてなぁ、女の子たちがぎょうさんお願いしてきたんを心を鬼にして取っといてやったんや」 さすがに人気者だけあって、姫条にボタンを貰いに来る女子は数知れず。限定数個のそれに群がる女子の群れはさながら肉食獣の如きで、彼の制服には最早ボタンは一個も存在していなかった。ジャケット然りシャツ然り、トレードマークのチョーカーですら行方不明で、このまま帰ったら露出狂一歩手前のキワドイ格好である(さすがにベルトは死守してあるが)。 第二ボタンとまでは言わないまでも、藤井も何か記念になる物は欲しかった。だがその状況に加えて天邪鬼な性格ゆえ言い出せず、ほんのり悔しがっていた。 なのに。 「な……んで、それを、アタシに渡すワケ……?」 「そらその誰かさんは素直に『第二ボタンくださ〜い♪』って言えん難儀な性格しとるからなぁ。オレが気ィ利かせてやらんとアカンやろ?」 ニヤニヤ笑いながら藤井を見下ろす姫条に、藤井はジト目で睨みつけた。が、その頬は長波長の光でも浴びたかのように真っ赤だ。それを隠すように顔を逸らして嘯く。 「…………アンタって、ホンッッットにバカ!」 「『バカ』言うなや。せめて『アホ』にしとかんかい」 「じゃあ、どあほう」 「そう来るかい!…………まぁ、アレやな。許可証みたいなもんや」 「許可証?なんの」 そう訊ねると、今度は姫条が顔を逸らした。非常に判り難いが、よくよく見ればやはり彼の頬も遠赤外線を浴びたかのようだ。 「そら……アレやアレ、判るやろ」 「判んないから訊いてんじゃん」 「なして判らんかな〜。判るやろ、ちーと考えたらすぐに」 「わっかるワケないじゃん。いきなり許可証とかって言われたってさ」 「あ〜ッ!……せやから…………アレや。その――呼び捨て許可証、っちゅうヤツや」 「――呼び捨て?許可も何も、アタシアンタのこと最初っから呼び捨てじゃん。今更何言ってんの?」 「苗字ちゃうわ、アホ」 「…………は?」 藤井が?マークを頭上に浮かべると、姫条は正真正銘真っ赤になって追いかけてくる視線から目を逸らす。 「言わすなや!ニュアンスで解れっちゅうんやホンマに!」 「ニュアンスで解れって、…………姫条、それって、まさか……」 呆気に取られるように顔を上げたままの藤井をチラッと見て、姫条は不貞腐れたような顔で彼女の額を軽くつついた。 「あたっ」 「まー……つまり、ウン、自分のモグロッチ昇格のご褒美っちゅうとこやな」 「……モグロッチって、アンタまだそれ言うつもり?」 「あーもうツッコミ無しや!……エエから次の教室行くで、――――奈津実」 「――――――!!…………うん……まど、か……」 真剣味の篭った呼び方に、藤井が完熟パプリカのごとく真っ赤になって頷く。ネクターのような甘ったるい空気がそこはかとなく漂ってくるのを、やや遠巻きに有沢達が見守っていた。 「……これはこれで見事なまでのバカップルね」 「でも嬉しそうだよ、奈津実ちゃんも、姫条くんも」 有沢が苦笑混じりに言うと、紺野が笑いながらヒソヒソと返してきた。 「……そうね」 同意と共に空気が綻ぶ。 「仲良き事は美しき哉、ってところかしら。……幸せなのはいい事だわ、本当にね」 さざ波のように空気が伝染して、初春の大気に溶けて弾けた。 「――――三年間、本当にお世話になりました。ありがとうございます」 深々と頭を下げる杉菜に、氷室は何とも複雑な微笑を返した。 「いや……体質以外の点で、君に指導する事はわずかだった。手が掛かる……と言えば掛かったが、そうでないと言えばそれも間違いではない。君のような生徒を担当する事で、私が学んだ事も多々あった。……私も、君に感謝している。ありがとう」 「そんなことは……」 「いいのだ、私がそう思ったのだからな。――――だが、これからは今までのようなペースを貫く事が難しくなる可能性は大いにある。大学生活でも、社会生活でもだ。それだけは充分留意した上で生活する事を忘れるな。いいな?」 「はい」 「よろしい」 職員室の扉の外、廊下の端に寄って高校生活最後の会話を交わしながら、氷室は杉菜を眺めて改めて微笑んだ。 「……本当に、変わったものだな」 「……え?」 「入学当初の君は、こういう注意をしてもどこか遠い世界の事として聞いているような節があった。違うか?」 確認するように同意を求めると、杉菜はやや小首を傾げてからこくんと頷いた。 「……そう、だったかも知れません」 「ああ、私はそう判断していた。しかし今は確かに己の事として受け止めている。自分の意思で、立っている。その変化がとても好ましい、そう思ったのだ」 「氷室先生……」 「入学当初の君は完璧な人間のように思えた。だが、今の君の方が遥かに一個の人間として好感が持てる。……不完全だからこそ、逆に人間としては完璧なのかも知れない。人は人によって変わる。誰かに……葉月によって変わった結果が今の君ならば、君はその気持ちを大切にするべきだ。たとえそれが迷いや悩みであろうとだ。少なくとも、今の私はそう思う」 自分も経験があるだけに、氷室の言葉は杉菜に届いたようだ。静かに36pの差を見上げてから、今度はしっかりと頷いた。 「――――はい」 「うむ。……次に会う時の君の成長を、心から楽しみにしている。では」 そう言って職員室に戻っていく氷室に再び頭を下げてから、杉菜は手に持ったある物を見つめる。そして人が大分少なくなった校舎を出て、裏の森の一角へと向かった。 開かれた教会は古びたもの特有の気配を漂わせていた。一歩足を進めるごとに床に沈んだ砂埃が僅かに舞い上がって、窓から差し込む光で揺らめく。 「……綺麗……」 ポツリ、と呟いた杉菜の声に応えるように、彼女の目の前に据えられたステンドグラスからは、木漏れ日と混じり合った陽光が風に踊っているのが判った。鮮やかな色彩で踊るそれに、素直な感想を告げる。 「……卒業前に、入れてよかった」 彼女の右手の中にはこの教会の鍵。一昨年の文化祭でトラブルが起こった為に鍵も以前より強固な物に変えられていた。だが、杉菜はその管理に融通が利く天之橋に頼んでそれを貸してもらった。過去の事件ゆえに当初は心配そうな顔で渋っていた天之橋だったが、杉菜には滅法弱い。二つ返事で貸し出してくれた。 どうしても入りたかった。しかし一生徒の身ではそうそうわがままを言う訳にもいかなかった。 入学式の日は正直ここまで思い入れも強くなかったけれど、今は違う。違ったから。 だから一度で良いからと、わがままを言った。言えた。 おとぎ話の王子と姫をモチーフにしたらしいステンドグラスに吸い込まれるように近づいて行った杉菜は、その前の祭壇の端にある一冊の書籍に目を留めた。聖書とは違う大きさと厚さのそれに引き止められるように、それに手を伸ばして表紙を撫でる。 〜Die legende für Madchen〜 そう書かれた淡いベージュの装丁はほんの少しだけ色褪せていたが、その姿は手ずれた跡も少なく綺麗なままだった。読まれる時、余程大切に扱われていたのだろう。 本を開くと、そこにはやはり色褪せた彩色と異国の文字で物語が描かれていた。 「……遠い国へ旅立つ日、王子を止めようとする姫に彼はこう告げました」 書かれたドイツ語を澱みなく翻訳するかのように、杉菜は言葉を紡ぐ。 「私は旅立たなければなりません。でも、これは私が決めたこと。私がそれを願うからこそ、旅立つのです。……私の心はあなたのもの。たとえ世界の果てからでも、どれほど時間がかかっても、必ずあなたの元に帰って参ります。私を案じて下さると言うのなら――――――」 『……約束』 声が、聞こえる。 「……見て、あの窓。ステンドグラスっていうんだ。この本のお話と同じだ……」 そのステンドグラスから入る光に、柔かな亜麻色の髪が輪郭を変える。 「この教会なんだ、きっと……」 キラキラと光踊る教会の中で、その横顔は笑っていた。けれど、やがてその表情は哀しげに曇る。 「……もう行かなきゃ……」 「うん。つづきは?またあした?」 「ううん……」 「じゃあ、あさって?」 重ねて問うと、ふるふると力なく首が横に振られた。 「……………もう、しばらくここには来られない」 「どうして?」 「……外国に行くんだ。父さんの住んでる国」 「……遠い国?」 「……とても遠い」 「………………」 遠い国に行くと言ったその子は、けれど振り返って再び笑った。 「……いつか、俺、お話のつづきしてやる……」 「…………王子様は、教会のお姫様とまたあえる?」 「ああ。――――王子は、必ず迎えにくるから……だから、そしたらおまえ、すこしでもいいから、俺のために…………」 「あなたに……なに?」 「……俺に…………笑えよ?」 ――――約束。 「約束……」 うん、約束。 ……けど、私はあなたにそれを未だ返せていない。 受け止めてくれる人がいる、その嬉しさを知った。 でも、その嬉しさの代わりに渡せるものは、今はまだ私にはなくて。 それだけがまだ心残りなのだけれど。 杉菜はステンドグラスから零れる光を浴びた絵本をそっとめくってゆく。少し埃が溜まったようなそれは、ずっとここにあったのかも知れない。あの時からずっと、この場所でこの想いと一緒に眠っていたのかも知れない。 ギギィ……――――。 杉菜が最後のページをめくろうとした時、背後で扉が開く音がした。 逆光を浴びた一つの影がその輪郭をゆっくりと現して、掠れるような声を紡いだ。 「…………ここに……いたのか……」 まるで長い時をかけて彼女を見つけ出した安堵を示すかように。 彼女の王子が、そこに立っていた。 |
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