−第48話− |
「ハァ!?アンタ、それで大丈夫なの、怪我の方は!」 パーティの最中、藤井のポシェットから携帯の呼び出し音が鳴った。しばしかけて来た相手と話す内につい一分前までの楽しげな表情が一転して険しさと心配をない混ぜにしたものになり、周りの面々が不審に思う。 「……そ、そっか……。ならいいけどさ……。けどアンタってばマジでタイミング悪過ぎ!こんな日にそんな事故起こすなんてさ。ハッキリ言って文化祭の時なんかメじゃないよ〜?」 事故? そう思って皆が藤井に注目したが、彼女の表情はさっきとは打って変わって安堵を示していた。 「……ハイハイ、わかってますってば。ま、杉菜の写真はアタシの他にも報道部のコが山程撮ってるから、それで我慢しとくのね。そんじゃね、ちゃんと休んでんのよ!」 そう言って電話を切ると、藤井は各人の方を向いて溜息を吐いた。 「今の、姫条からだったんだけどさ。何でもアイツ、バイクで事故ったらしいんだよね」 「「「ええっ!?」」」 藤井の言葉でその場にいた全員の形相が驚愕のそれに変わる。 「そ、それで大丈夫なんですか!?」 「あ、うん。なんでもバイト終わって一旦家に戻ろうとしたら、飛び出してきた子供避けようとしてコケたんだって。そんで足首ちょっと捻挫したみたい。2・3日は安静にしてなきゃだけど、全然重傷じゃないってさ」 藤井の説明を聞いて、皆がホッと安堵の溜息を落とした。今日は金曜なので姫条はガソリンスタンドでのバイトがあった。シフトを調整して遅れながらも何とかパーティに来る算段はつけたものの、肝心のイベントが欠席とはツイていない。 「良かったぁ〜!……でも残念だね、せっかくのクリスマスパーティに出られないなんて」 「ですね……。ですが、怪我が軽くて済んだのは何よりですよ」 「そうね。……でも、やっぱりあれかしら?去年の修学旅行の枕投げで、先輩とやらから頂いた大切なバイクを『クラッシュバイク!!』なんてしてたから、その報いが回って来たのかしら」 「なっ……ん、んなワケあるかっつーの!!」 「どっちにしても、杉菜のドレス姿しっかり撮影しとけって。超悔しそうだったよ〜。解るけど」 「あはは、そうだね〜」 ジングル・ベルの音も高らかなる2004年クリスマス・イブ当日。 はばたき学園の生徒にとって、この日は待ちに待った理事長宅でのクリスマスパーティだ。普段できないフォーマルな装いに身を包んだ紳士淑女予備軍(注:天之橋談)が一時真冬の夜の夢に酔いしれる聖夜。中等部や初等部、あるかどうか判らない幼稚部なんかはどうなのか知らないが、少なくとも高等部の生徒の大部分が楽しみにしている一大イベントである。容姿パラが関係しない分、多くの生徒はホッとしているだろう。天之橋の音頭の下、数多の生徒が「メリークリスマス!!」と唱和した後は、伝統的なクリスマス・ミュージックが流れる中、グラスをカチンと合わせる音や料理に舌鼓を打って綻ぶ笑い声が会場を満たしていた。 このパーティ、例年なら日の暮れた後のイルミネーションも際立つ時間に開催されるが、本年ばかりは未だ暮れなずむ夕日が西の空に残照を宿している時間に始まっていた。それもこれもただ一人の生徒の為、しかし誰もそれに文句を言う者はいなかった。 その一人の生徒はと言えば、この日に相応しいスノーホワイトのパーティドレスを身に纏い、傍らに黒いタキシード&翡翠の瞳をした美男子を従えて、会場中の注目を一身に集めていた。 今更あれこれ形容したところで過去の褒め言葉が反復されるだけなのでその辺は省略するが、観られないと思われていた杉菜のドレス姿(現代物)を観る機会に恵まれた者達は、自らの運命の幸運さに感謝の涙を浮かべていた。当然葉月はその筆頭、杉菜と合流した際には友人達に見事砂を吐かせる事に成功している。 ちなみに東雲家家長とその細君もOBとして参加しているが、天之橋や花椿と異質空間を形成しつつ歓談中である。 「結構盛大なんだな……」 タキシードをこれでもかと言わんばかりに格好良く着こなした美男子・葉月が、グラスを持ったまま周りを見渡してポツリと言うと、傍らの佳人・杉菜は軽く首を傾げた。 「え……?珪、今まで参加した事、ないの?」 「ああ、今回が初めて、俺も」 お目当ての杉菜が参加しないと完全に判明している状態で、果たしてこの人見知りで人込み苦手な王子様がこのようなイベントにダイブするものだろうか。ゲームでは強制だったのか、ささやかな期待があったのか、それともタダ飯を食う機会と取ったのか(姫条じゃないんだから)毎回律儀に参加していたが、本作品においてはそれはまずないだろう。 「そう……。じゃあ、楽しんでね」 「おまえもな」 「うん。……そういえば、昨日はどうだった?ご両親、帰って来てるんでしょう?」 「ああ、うん。二人とも、元気。昨夜は遅くまで付き合わされた」 葉月の両親は、今年のクリスマスに合わせて帰国していた。第35話冒頭の電話シーンでそれらしい事を話していたのは覚えているだろうか。それである。『帰国』というより『来日』かも知れないが。 葉月の過労により夏に急遽帰国した事で下手をすると来られない可能性もあったのだが、それでも家族愛の絆の為に父も母も頑張ったらしい、予定通り二人揃っての同時帰国が実現したのである。その為、ここ数日葉月は珍しく自分の家に帰って親との語らいを楽しんでいた。その喜びが今の彼からとてもよく伝わってくる。 「そう……よかったね」 「ああ。――――そうだ、あとでおまえの家にもお邪魔したいって言ってた。俺がいつも世話になってるし、二人とも、夏に会ってから結構気に入ってるみたいだし、おまえのこと」 「私のこと……?」 「そう。明日の午後辺りなら寂尊さん達、都合つきそうか?」 「うん。お昼前には帰って来るって言ってたから、多分大丈夫だと思う」 寂尊と桜には例年24日の夜から25日の午前中まで二人きりのデートを楽しむ習慣がある。寂尊の誕生日でもあり『東雲桜』の誕生日でもある日に、真っ先に祝福を言い合いたいが為だ。その間子供達は放ったらかしだが、杉菜も尽もこういう性格なのでそれもまた良し、と考えているようだ。そのかわり25日の午後は家族揃って家で団欒する事になっている。何にしても毎年この2日間の休みをもぎ取る為にしている寂尊の努力には脱帽物だ。 「じゃあ、昼終わった後くらいに行くから」 「わかった」 こくんと了解の仕種をして、杉菜は不意に押し黙った。どうしたのかと葉月が彼女の顔を覗きこんだが、そこからは何も見てとれない。 「杉菜?」 「……ううん、なんでもない。ご両親が帰って来てて、嬉しそうだなって、思って」 「ん?……まあ、な。滅多に会えないし……嬉しい、確かに」 「うん。それが、良かったって、思ったから。……今日も早く帰って、ご両親とたくさんお話して」 「……サンキュ」 本当は、本心は違う事を言いたいのだけど。 けど、それも本当に思うから。 『――――ね、杉菜ちゃん。君、彼に今言った事、話した事ある?』 話。言葉。想い。 『話してごらん。君の悩みは、一人で抱え込んでいるところから来てると思うよ。色んな事話して、彼からも話を聞いて、それから判断しても遅くないと思う』 わかってるのに。益田さんが言った事、ちゃんと解ってるはずなのに。なのにどうして言葉が出てこないんだろう。 昨日の今日で頭が混乱してるのかも知れない。 まだ機会はあるんだから、今はいい。せっかく楽しそうな日に、する話じゃない。 …………けど。 けど、それはもしかすると――――なんじゃないだろうか。 「――――あっ、丁度いい所に丁度いい人材がいるじゃないの。葉月くん!」 杉菜が思考の迷宮に入り込もうとしたところで、人込みを掻き分けるように元学祭委員長・鈴木が現れた。 「おっ、鈴木ちゃんメリークリスマス!って、どこ行ってたの?ずっと姿見えなかったけど」 「メリークリスマス、藤井ちゃん。ちょっとね、裏の方で色々と」 「……鈴木、俺に何か用か?」 「ウン、東雲ちゃんと楽しそうに話してるトコ悪いんだけど、少しの間手、貸してくれない?イベントの準備で手間取っちゃってて、背の高い男手が要るの。そんなにかからないから手伝ってもらえると助かるんだけど」 イベントある所に鈴木あり。文化祭が終わったにも関わらず、彼女は生徒会やら何やらに顔を出してはイベント主催の手伝いをしていた。手伝いというよりは影の大ボスだが、本人の進路がそっち方面なので学校行事はうってつけのシミュレーションフィールド、非常に楽しげに日々走り回っている。今日もパーティ内での小イベントで暗躍中だ。 「ん?ああ、べつにかまわない、けど……」 慣れてる相手なので手伝う分には問題がないが、杉菜を置いて行くのは不安。そう言外に語ると、それを察した藤井が言う。 「ダイジョーブだって。お姫サマは親衛隊女子部隊長であるアタシがしっかり守っててやるからさ。サッと行ってサッと終わらせてくれば問題ないじゃん」 「……だな。じゃあ杉菜、ちょっと行ってくる」 「うん。またあとで」 せわしくバタバタと駆けて行く葉月達を見送って、杉菜を除くGSメイトはなんとなく苦笑した。まったくもって「……やめとく」の回数が減ったもんだ、と感心しているのだろう。 その後すぐに、三原(いたのか)は「用を思いついたから、少し失礼するよ」と言ってその場を去り、須藤もそれに追随。守村・有沢は教師達に挨拶回りに赴き、鈴鹿と紺野はちょっくらバスケ部員と歓談、藤井だけが杉菜の傍にくっついたままだ。藤井も挨拶やお喋りに興じる相手は多いが、姫君を放っておく訳にもいかない(放るつもりもサラサラないが)。かえって杉菜の傍に行く口実になるがゆえ相手の方から探してくれるので、楽と言えば楽である。 「……奈津実」 挨拶の猛攻が一段落した頃、杉菜が藤井に声をかけた。 「なに?杉菜」 「……心配なら、行って来たら?」 「え?」 「ニィやんの家」 藤井は驚いて杉菜を振り返る。 「……な、なに言ってんの杉菜!葉月が戻って来てないのにアンタのこと一人にしとける訳ないでしょー!?それに第一、当の姫条からアンタの写真頼まれてんだし、それ以前に全然元気そうで――――」 「けど、さっきから、不安そうだから」 あっさりと本心を突かれ、藤井は瞠目したまま言葉に詰まる。実は電話を受けた時からかなり心配していたのだ。電話口の姫条の声では全くちっともこれっぽっちも深刻さの欠片がなかったので怪我については安心できたのだが、それはそれ。やはり心配ではあるのだ。 「捻挫でも、怪我したの、心配なんでしょう?だったら、行ってきた方がいいと思う。ニィやんもホッとすると思うし」 「……でも、アタシが行ったって安心するかどうかはわかんないじゃん……」 いつもの藤井らしくない弱気な発言だったが、杉菜は構わず言った。 「うん。けど……安心しないかどうかも、判らない。行ってみないと。でしょう?」 「…………まあ、そうだけど……でもさ、やっぱりアンタ一人にしとけないし――――」 「ウダウダ言ってないでさっさと行って来いよな、藤井。らしくねえぜ」 未だ迷った様子の藤井に、歓談を終えて戻って来た鈴鹿が言った。 「和馬!?アンタいきなりなに言ってんの、ってか聞いてたワケ!?」 「人聞き悪ぃな。おまえバレバレなんだって」 「な――――っ、うっわ不覚!アンタごときにアタシの乙女心を読まれるなんて!」 「俺ごときってそりゃどういう意味だよ!」 「ふ、二人ともここでケンカしないでよ〜!で、でも奈津実ちゃん。杉菜ちゃんや和馬くんの言う通りだと思う。心配だったらお見舞い行ってきた方が良いよ?こんなに賑やかなんだもん、一人抜けたくらいじゃバレないよ。私も和馬くんも杉菜ちゃんと一緒にいるし、何より姫条くん一人暮らしでしょ?一人暮らしで病気や怪我すると、とても不安になるって言うもん、喝、入れてあげたらいいんじゃないかなぁ。ね?」 一緒にいた紺野がもう一押しとばかりに説得すると、藤井は何とも情けない顔をして考え込んだ後、大きく息を吐いて顔を起こした。 「…………ごめん。あと、頼むね」 「うん!」 「姫条の奴にこのマヌケ、とでも言っとけよ」 「アンタねぇ、んなコト言ったらあとが怖いよ〜?……ま、そうと決まったら早速行って来るから!――――そだ、そこのボーイさん!ちょっとこの料理タッパーかなんかに詰めてくれませんかーっ!?」 一度決断すればあとは行動力の高い藤井の事、侘しく姫条ハウスでコンビニ弁当でもつついてそうな彼の為に手土産を用意して疾風のように会場を走り出て行った。 「まったく、らしくねえの見てるとこっちまで調子が狂うぜ」 「うふふ、和馬くんってば優しいよね」 「バッ……た、珠美!おまえ、なに言ってんだよッ!……って、らしくねえっていったら、今日のおまえもだけどな」 鈴鹿はそう言って杉菜に視線を移した。 「……私?」 「そうだよ。おまえ、やけに葉月に何かを話したそうにしてねえか?それなのに訊かれても『何でもない』とか返してるから、らしくねえなって思ったんだよ」 「らしくない……私、が?」 杉菜は目を開いて鈴鹿の顔を見返した。鈴鹿はそれにコクリと頷く。 「だろ?いつものおまえだったら、何はともあれ相手の都合良い時とかそういうのくらいは訊くだろ。業務連絡みたいにあっさりとさ。なのになんで今はそんなに腰が引けてんだよ?」 「腰が……引けてる?」 「そうだぜ。……まあ、おまえにだってそういう時はあるだろうけどよ、葉月はおまえの話だったら喜んで耳に入れてくれるんじゃねえか?」 最後のセリフは既に杉菜には届いていなかった。 (腰が、引けてる……私が?) けど、そうかも知れない。 あまりにも今までなかった事だから、戸惑って、迷って――――逃げてるのかも知れない。 逃げる、なんて、それこそなかったはずなのに。それなのに。それなのに、どうして、どうしても。 「和馬くん、それ以上は……」 紺野も杉菜の様子には気付いていたのだろう、鈴鹿の言葉を止める。 鈴鹿が気付くくらいなら他の面々も気付いていて当たり前。しかし紺野はそれ以上杉菜を追求せずに、にっこり笑って自分の親友に話しかけた。 「杉菜ちゃん、無理しなくていいんだよ?杉菜ちゃんが話したいって思った時に話せばいいんだから。葉月くんならちゃんと話聞いてくれるし、それ以前に話せるようになるの、ちゃんと待っててくれると思う。だから無理して話そうとしなくても大丈夫だよ。……それに、せっかく杉菜ちゃんが初めてクリスマスパーティに来られたんだから、もっともっと楽しまなくっちゃ大損だよ。でしょ?」 「…………うん」 誠意と慈愛に満ちた紺野の表情に、杉菜がこくんと頷いた。 「あ、そうだ!さっきね、あっちにすごく美味しいお料理あったの。杉菜ちゃんの分、取って来てあげるね。和馬くん、ちょっと見ててあげて」 「おう、いいぜ」 鈴鹿の返事を聞くと、紺野はぽてぽてと駆けていく。その様があまりにも一生懸命なので、鈴鹿は笑みを浮かべた。浮かべてから、今度は友人を見る瞳で杉菜を見下ろす。 「……まあその、だな。あんまり深く考えてねえで、ドーンと直球勝負仕掛けりゃいいんだよ。話があるなら話す、話したくないなら話さない、どっちかに決めてウジウジしてんなって」 鈴鹿のように直球勝負しかしないのもどうかと思うが。 「ウジウジ……してるの?私」 「ああ、そう見えんだよ。その辺がらしくねえっつってんの。なんつーか……おまえってそういうの見ててスカッとするくらいに割り切ってるのが当たり前だからよ、マジでここんとここっちまで調子狂うっつーか。おかげで夏にやったボーリング大会のリベンジ誘えねえじゃん。俺、ぜっっってーおまえに勝つって決めてずっと特訓してんだからな、さっさとシャンとしろよな」 不器用ゆえに上手くソフトに言えないながらも、励まそうとする意思はしっかり伝わってきて、杉菜はやや目線を下げてから頷いた。 「……うん。早く、シャンとする」 「ああ、そうしろよな」 (ったく……俺がこんなこと言うの自体がらしくねえよな。けどコイツが落ち込んでっと珠美も落ち込むし、何よりダチがクサってんのってイヤなんだよな。それに……) 鈴鹿は目の前の杉菜を改めて眺める。そして、やれやれと一つ溜息を落として天井を仰いだ。 (……マジで葉月も苦労するよなぁ) 杉菜に人間らしい表情が増えた事。それは取りも直さず杉菜に魅了される男を増やすという事で。 (単なるダチのこの俺でさえ、たまにドキッとするもんなぁ。元々東雲に好意持ってた奴なら、なおさらだぜ) かつてのようにただ美しい姿だけではなく、その感情が姿をも取り込んで魅了する。 その辺に気付いてない杉菜に再び溜息を落として、鈴鹿は戻って来た紺野と、それから葉月へと目を向けた。 プレゼント交換や合唱クラブの賛美歌等、クリスマスらしい小イベントが続々と始まっては終り、やがてパーティ自体もお開きの時を迎えた。お開きになったとはいっても18時になるかならないかといったところ、豪華な門をくぐり出た生徒達は三々五々聖夜本番を迎える為に街へと飲み込まれて行く。 「……お疲れ」 天之橋邸を辞して、やっと二人きりになったところで葉月が言った。 「珪も。お疲れさま」 美男美女の宿命で結局パーティ中はほぼ引っぱりだこだったので、お互い間違っていないセリフである。 「なあ……少し、時間いいか?」 家に至る道を辿ろうとして、葉月がふと杉菜の歩みを止めるように話し掛けた。 「……時間?どうして?」 「これから海……、行かないか?」 「海?……かまわないけど……でも、そんなに時間、取れない。それでも……?」 「解ってる。寝てもちゃんと送ってくし」 元々帰りは葉月が杉菜を送って行く係である。寂尊は娘を葉月に託した後、高らかに聖夜を寿ぎながら彼の最愛の片翼を連れてデート本番へと出かけて行ったものである。ちなみに一人残された尽がどうしているかというと、友人宅でやはりパーティに興じた後、杉菜の就寝時間までにはその友人の親に車で送ってもらう事になっている。くれぐれも送り狼になるなと葉月に念を押していたものだ。更に蒼樹だが、どういう繋がりか伊集院グループの会長宅でのパーティに出席中、杉菜のドレスアップを拝めないのをこれまた残念がっていた。 「けど、ご両親、待ってるんじゃ……」 「大丈夫。今日はうちの親も出かけてるから、今帰っても一人なんだ、実は」 息子と会うのも久々ならば、夫婦同士で会うのも久方ぶり。葉月が出かけるのならばと、両親も連れ立ってデートに出かけて行ったらしい。非常にお互い嬉しさ大爆発状態であったから、邪魔をするのも気が引けるという訳だ。 「だから、平気。……来いよ」 「……うん」 差し出された手を取って、杉菜は葉月と並んで歩き始める。コンパスの差は大幅にあるのだが、杉菜の通常の歩行速度と葉月のゆっくりめの歩行速度は同調しているので、特に置いて行かれたりする事もなくてくてくと海へと向かう道を辿る。 「冷えるな、今日は」 「うん……気温、例年より大分低い」 雲の切れ間から覗く月が晧々と、そして冷澄に、暖かな彩りに満ちた下界を照らしていた。頬に当たる青白い光は、触れる大気の冷たさを色で表したかのようだ。 しばしの間言葉少なに歩いて、着いたのは海を隔てて臨海公園を望む埠頭の一つ。眺めは良いが穴場なのか、他に人影は見当たらない。波の音が近く響いてくる以外は静寂に満ちていて、落ち着いた街灯の明かりがほんのりと馴染んでいた。 「思ってたより明るいのね、夜の海って……。この時間に来た事、なかった」 「今日は月が出てるしな」 「……よく来るの?」 「ときどき……遠くに街の灯りが見えるだろ?」 葉月はそう言って臨海公園の方に顔を向けた。大観覧車を含んだ公園の全てにイルミネーションが点り、今日という夜に相応しい光の宴を繰り広げていた。その向こうには数多の人家の明かり。寒々とした空気の中で、暖かな何かを感じさせてくれる、そんな優しい光が地上の星を形作っている。 「うん……」 「あの灯りの一つ一に人が住んでいて、みんなそれぞれ笑ったり怒ったりして暮らしてる。夜、目が覚めて、世界中で自分が一人きりになったような気がする時……ここに来て、そう考えると、少し安心するんだ」 「珪……」 すると葉月は気がついたように苦笑して言い直す。 「いや……安心してたんだ、かな」 「……『してた』?じゃあ、今は……それじゃ安心できないって事……?」 杉菜が愁眉を寄せると、葉月は微笑って首を横に振った。 「そうじゃない。他に安心する場所ができたから、わざわざここに来なくてもいい。そういうこと」 そう言って彼は臨海公園の方を眺めた。 「……小さい頃、一人で家にいるのが嫌いだったんだ……」 ふと、葉月が言った。 「……?」 「このまま、誰も帰ってこないんじゃないかって、そんなこと、考えるから……。だから、一人でいるのは苦しかった。でも、親の困った顔を見るのはもっと嫌で……いつも、平気な顔してた。……気が付いたら、どうやって笑えばいいのか、判らなくなってた」 葉月の両親は双方共に世界的に活躍する建築家とバイオリニスト。葉月が子供の頃から家を空ける事が多く、息子と接する機会は少なかった。そんな日々の中で、小さい葉月の心には少しずつ何かが覆い被さっていた。 「判らなくなって、それでもやっぱり親を困らせたくなくて……そうしてる内に、一人になること、受け入れてた。一人でいれば、人に深く関わらなければ、辛いこと、誤魔化していけるかと思って」 「……珪……」 「でも、やっぱり駄目なんだ。何も感じないようにしても、何も思わないようにって願っても、どうしても欲しくなるんだ。誰かの……大切な人の、ぬくもり。焦がれて、望んで、けどそれに気づいた頃には上手く自分を表すこともできなくなってて……やっぱり俺は一人なのかって、思い知らされてしまう。それで一層深い所に沈んでく。……一人で」 「…………」 「そんな時、ここに来て、街の明かりを見てた。どうしてか、ここに来ると安心できた。何の解決にもならないって知ってても、安心できる場所があるってだけで、心が軽くなるような気がした。今はたまに来る程度だけど、それでも俺にとっては大事な場所なんだ、ここ」 「……そんな大切な場所に、連れて来てよかったの?」 私を。 「ああ」 おまえだから。 「…………ありがとう……」 囁くように言われたそれを微笑みの中に受け止めて、葉月は顔を杉菜に向けた。 「……今度は、おまえの番」 「……え?」 きょとんとする杉菜の頬に手を添えて、葉月は彼女の瞳を見つめた。 「今度はおまえが打ち明ける番。心の中のモヤモヤしたもの、全部」 「――――――!……わた、し……っ……」 驚いた様子の杉菜に、葉月は微笑みを浮かべたままなおも言う。 「話せよ。全部受け止めるから……俺」 ――――聴いてあげて? パーティ会場で、鈴木から解放されて杉菜の元へ戻る途中で会った紺野は言った。 ――――杉菜ちゃん、葉月くんに話したいことがあるみたいなの。でも、何だかいつもと違って切り出すの、躊躇ってるみたい。杉菜ちゃんってそういうの、ほとんどないのに。……わたしが言うのもなんだけど……葉月くん、杉菜ちゃんの話、聴いてあげて?今更わたしが言わなくても、葉月くんはそうしてくれると思うんだけど、それでも。……言いたいこと、いつまでも中に抱え込んでるのって、とっても苦しいと思うから……。 その気持ちはよく理解できる。その意味も込めて葉月が頷くと、紺野はホッとしたように笑っていた。 「珪、私………」 「俺……おまえに無理に笑って欲しいとか、そんなことは思わないけど……おまえが辛そうに悩んでるの見るの、嫌だ。俺じゃ役者不足かも知れないけど、俺、おまえの力になりたいんだ。話せばスッキリすることだって結構ある。だから話せ、おまえの今の気持ち、全部――――」 体を屈めて杉菜と同じ目線で語りかける。見つめられる杉菜の方は表情こそはいつも通りなものの、その瞳に強い逡巡の色を浮かべて葉月を見つめ返していた。 やがて、その形のいい唇から言葉の欠片が漏れた。 「…………わからないの……」 「わからない……何が?」 「どうしたらいいのか、判らないの。私の中で、確かに何かがあるの。渦巻いてる、何か。痛くて、苦しい。それをどうやったら抑えられるのか、判らないの。ずっと……いつからか、ずっと、そんな事ばかり頭にあって、いつまでも回ってるの。それが消えなくて、消せなくて、どうしたらいいのか判らない…………けど……」 そう言って俯く。 「……けど?」 「……けど……何よりも苦しいのは、それが珪の重荷になるかも知れない事実……それが……嫌」 「俺の……重荷に?」 訊き返すと、杉菜は俯いたまま頷いた。 「そう。私、珪に甘えすぎてる。傍にいて欲しいの、お互い様って言ったけど、やっぱり私の方が甘えてる。自分で立てないままに凭れかかってる。しがみついてる。珪に。ずっと」 「…………」 「これって、執着でしょう?依存でしょう?相手を顧みないで、自分を優先させてる。こんなの、今まで知らなくて、だから今もどうして抑えたらいいのか判らなくて、それで……けど、それでやっぱり迷惑かけてる。どっちに転んでも、迷惑になる。結局は自分しか見てない。それがとても、嫌。……『嫌だ』と、思うようになった事自体、変になってる、私」 今まで、『嫌』だと思う事は少なかった。 生理的嫌悪感を及ぼすものや、危険な事象に対して思う事はあっても、それ以外の物事に好き嫌いなんて思った事、なかった。 なのに、今は違う。渦巻いてる。嫌な感じ、嫌な想い。グルグルする。何故。どうして。 …………判ってる。執着してるからだって。束縛したいからだって。 抱いた事のないそれを、今は抱いてるからだって。 でも、それは。 それは、全部。 「……でも、どうしても抑えられないの」 葉月の手から離れて、杉菜は数歩の距離を歩いて彼に背を向けた。葉月も無理には追わず、ただ静かに彼女の言葉を聴いていた。 「今の私からそれを取ったら何も残らないの、わかるの。どうしてか判らなくても、それだけは判るの。私から……今の私から珪を取ったら、本当に、何一つ残らないの」 背後から息を飲む音が聞こえた気がしたが、それでも杉菜は葉月に背を向けたまま思いを巡らせる。 全部。 全部、あなたに基づくものだから。 思う事、感じる事、考える事。ただ一人、あなただけが私の世界を動かす。良い方にも悪い方にも、ただあなただけが。 でもそれは、あまりにも重くて。あまりにも、重すぎて。 「重荷に……なりたくないのに」 そう呟いた杉菜の肩に、ふわりと何かが掛かった。見れば、先程まで葉月が着ていた黒のコートが、杉菜をその白いコートの上から包んでいた。 「……?」 「……降って来た。冷えるだろ?」 微笑みと共に、いつの間にかすぐ傍に寄り添っていた葉月が顔を上げて空を示す。それを追うように見上げれば、月を隠そうとする雲の群れから無数の白い雪が踊るように地上に舞い降りてきていた。 「……雪……」 「ああ、道理で冷え込んでた訳だ。……ホワイトクリスマス、だな」 言われて初めて気がついた。決して大きくはないものの、それなりに形を持った微細な氷の結晶が柔らかく降っていた。 「……けどこれじゃ、珪の方が寒いと思う」 自分に掛けられたコートに手を掛けると、葉月はそれを止めるように杉菜の手を抑えた。 「いいから羽織ってろ。おまえが風邪引く方が嫌だ」 「けど……」 「風邪引かないから平気、か?絶対引かないなんてこと、ないだろ?」 「……私は、珪が風邪を引く方が嫌」 「……そうか?…………じゃあ、こうする」 なおも反論する杉菜に苦笑した葉月は、彼女の後ろに立ったまま腕を回して、杉菜のその華奢な体を背後から抱きしめた。身長差から言えば抱きすくめる、に近かったが。 「……これで、暖かいだろ?」 「……やっぱり、珪の方が寒い。背中から受ける気温でかなり体感温度も変わる、から」 「充分暖かい、これ」 「……そうなの?」 「そう。こうしてれば、平気」 笑いながら言う言葉に嘘はなく、杉菜は頷いて現状を受け入れるしかなかった。 「……うん、わかった……」 背中から感じる熱。欲しいもの、欲しかったもの、生まれて初めて欲しいと願ったもの。 あなたの………ぬくもり。 それを背中に感じながら、杉菜は天を見上げる。星が光を弱めたかのように、切れ切れに届く月光と街からの光に照らされてキラキラと降りて来るそれらを。 「こうやって見てると、まるで……」 「……フケみたい、とか言うなよ」 「……どうして判ったの?」 「付き合い、長いから。おまえの発想くらい判る」 ロマンもへったくれもない喩えを持ち出して、それでも葉月は微笑みを崩さない。ゲームだったら間違いなく印象サイアクな答えだろうに、やはり彼も相当杉菜に感化されている。 「けど、残念だな。見せたいのに」 「?」 「臨海公園。もっと遅い時間になると、ライトアップが変わるんだ。大観覧車に光のクリスマスツリーが出来る」 「光の……ツリー?」 「ああ。ここから見ると、海に浮かんでるように見えるんだ。結構壮観。俺、去年偶然見つけて、おまえに見せてやりたいと思って。……けど、夜遅いから見せられなくて。ごめんな」 本心から申し訳なさそうな声だったので、杉菜は思わずブンブンと首を振った。 「謝らなくて、いい。私の体質が悪いの。珪のせいじゃない」 自分の体質が悪い、なんて思ったのは初めてだった。体質は体質、それだけのもの。良いも悪いもない。そう思っていたのに。 「それでも。綺麗だから、どうしてもおまえに見せたかったんだ。けど、そう、例えば時間をずらしてもらうとか、そういう事は出来ないから。そういう力、今の俺にはないから。それで、ごめん」 「……ううん……今でも、充分綺麗」 杉菜は自分の胸元に添えられた葉月の手に、自らのそれを重ねた。 「誘ってくれなかったら、この光景だって見られなかった。こんな光景がある事も、知らなかった。だから、充分。充分……嬉しい……」 ゆっくりと立ち昇ってくる内側からの熱。心の中から芽生えてくる何か。それを示す言葉。 「…………なぁ」 しばらく黙ったままで景色を眺めていた二人だったが、やがて葉月が呟いた。 「何……?」 「さっき、雪の中にいるおまえを見てて……怖かった」 「……怖い……?」 「ああ……いや、不安になった。溶けて、消えてしまいそうで、それが怖かった。コートに街の光と月の光が映りこんで、揺らめいて……俺の前から、いなくなってしまいそうに見えて……怖く、なった」 「そんなこと……」 「ああ、あるはずない。けど、それでもそう思ったんだ。……このコート、黒いだろ?」 葉月は唐突に杉菜に羽織らせた自分のコートを示した。杉菜そのものを示すような彼女のスノーホワイトのコートとは対照的な、深い深い暗闇の色。 「?うん」 「これを掛けて、ようやくおまえが消えないって実感できた。それくらい、おまえ、消えそうに見えたんだ。……俺も、これと同じ」 「……同じ……?」 「心の中。このコートと同じ色。――――さっきおまえが言ってたこと、俺にも当てはまる。俺、おまえに甘えすぎてる。おまえは自分の方が甘えてるって言ったけど、俺の方が甘えてる。自分で立てないままに凭れかかってる。しがみついてる。おまえに、ずっと。何からも切り離して、俺の傍にいさせたい。俺だけの傍に置きたい。そう願ってる、いつも」 「……珪……」 「いつだってそんなこと考えてる。おまえに俺じゃない誰かが近づくの、嫌だ。誰もいない場所におまえを閉じ込めて、俺だけしかその世界にいないようにしたい、そんな汚いこと、感じて、思って、考えてる。おまえにふさわしくないくらいに、黒い。このコートと同じくらいに。…………けど」 抱きしめる腕に力を込めて、葉月は続ける。 「消えそうだったおまえに、このコート着せ掛けて、そしたら安心したんだ」 「安心……した……?」 「ああ。……これで、おまえは溶けなくて済む、消えていなくなったりしない、そんな存在になったって」 「…………珪……私、は……」 「おまえが消えないでくれるなら、おまえがどんな存在になったって構わない。せっかく見つけた安心できる場所、失いたくないから。白くなくたっていい。たとえ黒くなったとしても、おまえがおまえでいることに変わりはないから」 どんなおまえでも、俺を変えた唯一の存在である事に、変わりはないから。 「…………」 「俺も、おまえに執着してる。依存してる。自分でも今、ものすごい自分勝手なこと言ってるの、解ってる。けど、抑えられないから」 伝わってくれ。 おまえの想い全てが、俺にとっては喜びに変わるんだってこと。嬉しいんだってこと。 「俺から……今の俺から杉菜を取ったら、本当に、何一つ残らないんだ。本当に――――」 何もかも、今の俺はおまえに出逢って生まれてきたものだから。 どうか、欠片でも良いから伝わってくれ。 祈るように杉菜の髪に顔を埋めた葉月が囁く言葉の一つ一つを、杉菜は全身全霊で受け止めていた。 空気を伝って聞こえてくる言葉も。空気を伝わらないで聞こえてくる言葉も。すべてを。 『色んな事話して、彼からも話を聞いて、それから判断しても遅くないと思う。自分が醜いかどうか……いや、自分だけが醜いのかどうかをね』 昨日益田が言っていたセリフを思い出す。 『彼の中にも、きっと汚れた部分はある。抱えている何かはある。そういうの曝け出して初めて相手を受け止めるかどうか判って来る。それをしない内から怖がってたって何にも答えは出ないさ』 答え。 答え、出た。ううん、とうに出ていたのかも知れない。 汚れた部分、抱えている何か。それを聴いても、曝け出しても、それでも。 それでも、私は。 あなたを。 「…………傷、たくさんついてる」 「ん……?」 「手。珪の。細かい傷、たくさん出来てる」 胸元の葉月の手を見ながら、杉菜が言った。手袋はコートのポケットの中、杉菜と手を繋ぐ時にはいつもそうだ。 「ん、……ああ、シルバーいじってた時の……。昨日も熱中してて、結構自分の手まで磨いたりしてたな、そういえば」 「そう……。最近、熱心だね」 「まぁ、な……。どうしても作りたいの、あって。けど上手く出来なくて、何度もやり直してるんだ。それで」 「そう。無理、しないでね。……痛くない?指」 「平気。気にするほどじゃない。言われるまで忘れてたくらいだし」 「なら、いいけど。それと……本当に、寒くない?」 「……ああ。おまえがいるから。おまえは?寒くないか?」 「…………うん」 重なっている手。お互いに冷たい手だけれど、その中には確かにお互いの熱があって。伝わってくるぬくもりがあって。 「私も」 欲しいもの、欲しいこと。 あたたかな、手。 私に伸ばされた、あなたの優しさ。 「私も、珪がいるから、平気」 ここにある確かな暖かさ。 執着でも依存でもなんでもいい。それはもう、水のようなものだから。さらさらと流れ込んで、私を生かす不可欠なものだから。 だから、平気。 こんな私を抱きしめてくれる、あなたがいるなら。 「そう、か……。……なあ。俺、言ったことあったか?」 「何……?」 空気越しに葉月が笑む気配がした。 「俺…………おまえがいてくれて、良かった」 ……私も。 私も、あなたがいてくれて、良かった。 「――――メリークリスマス、杉菜」 「……うん。メリークリスマス、珪」 互いの世界にとって救いになる君に、精一杯の祝福と、そして何より感謝を込めて。 見上げる空からは、そんな二人を包み込むように未だ優しく白い不香の花が降り注いでいた。 どれほど歩いたのかわからなくなったころ、王子はふと気がつきました。 王子は、魔女が生み出したこの闇は魔女の醜さをあらわしているものだと思っていました。 その中に姫の心がとらわれていると、そう思っていたのです。 けれど、長いあいだ闇の中をさまよっているうちに、何かがちがう気がしたのです。 王子に絡みつく闇の奥深くに、どこか覚えがあるような感覚を抱いたのです。 「私はずっと、かがやく光だけに気を取られてはいなかっただろうか。 あの魔女は言っていた。心は美しいものだけでできてはいない、と。 だとすれば、もしやこの闇のすべてが、愛しいかの姫の心そのものだとでもいうのか?」 王子がそう言うと、突如として魔女の笑い声が聞こえてきました。 「おやおや、ようやく気がついたのかい。 そうさ、この深い闇はすべてあの姫の心をうつしたもの。 あの姫が本来持っている心のすべて。それを閉じ込めたものさ。 おまえの歩みを留めたり、病のようにおまえを蝕んだりする心、それらのすべてがね」 魔女は愕然として驚いている王子になおも言いました。 「――――さあ、おまえは姫にかけた呪いを見つけたよ。おまえの勝ちさ。 だが、解けたわけじゃない。 解いてやってもかまわないが、おまえは本当にそれを望むのかい? それは、今までにおまえが感じたこの闇の醜さを、あの姫に解き放つということだよ。 その醜さを、おまえはすべて受け入れることができるのかい?」 黙ったままの王子に、魔女は笑いながら声だけでたずねました。 王子は悩んでいました。魔女の言葉に、嘘がないと感じたからです。 呪いを解けば、姫の心は姫に宿りますが、それと同時にこの深い闇をも宿してしまいます。 それを姫ではなく自分が勝手に決めてよいのか、とても迷っていたのです。 ……ふと、思い悩む王子の目の前に、さきほどまで追いかけていた光がかすかに点りました。 ゆらゆらとはかないその光は、王子を励ますかのように彼のそばを飛んでいました。 王子はその光にそっと手を差し伸べて、やっと口を開きました。 「確かに、人の心には醜い闇がある。私とて、そしてかの姫とてそれは同じだろう。 けれど、おまえはこうも言った。 この闇は姫が本来持っている心のすべてだと。 ならばここにこうして点っている光も、確かにかの君のもの。 姫の中には、確かにこのような優しい光も存在しているのだ。 私が望んだのは、姫のすべて。闇も、光も、全てを含めたあの方自身だ。 呪いを解き放つことで災厄が起こるというならば、その責は私が負おう。 あの方の心からの微笑みを得るためならば、その苦しみなどささいなものだ――――」 王子が魔女に、そして己を覆う闇のすべてにそう告げたその途端。 王子の手の中にあった光がひときわ強く輝いて、深い闇のすべてをのみこみました。 |
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