−第47話− |
季節は巡り、冬になった。 街を歩く人々の姿は確実に体積を増し、乾いた空気が肌に凍み入る。けれどそれと相反するような華やかな彩りが、心を暖めるように街並を染めている。大気に満ちる音楽もまた、例年と同じ朗らかな長調。大きな樅の木に幾重にも飾られた赤と緑・青と金の帯が、曇りがちな空の下で誇らしげに揺れていた。 そしてその中を無駄に響き渡る奇声といえば……。 「アア〜ンもう、ステキ!サイコー!ビューティフル!トレビアン!ハラショー!もうアタシ、自分の才能が恐ろしくなっちゃうワ〜!ハレ〜ルヤ〜!」 ブティック・ジェスから轟いてきたあやしげな歓声に、道行く人々がビクッと身を強張らせる。壁や扉をつき抜けて聞こえてきたその声の持ち主は、もちろんこの店のオーナー・ゴロー=ハナツバキである。 「やっぱり世界広しと言えど、アナタにこれほど似合うドレスをデザインできるのはこのア・タ・シだけ!うぅん、アタシったらな〜んて素ン晴らしいのかしら」 試着室から出て来た杉菜を前に、自分の才能とやらに酔っている花椿をニコニコと眺めながら、桜が同意する。 「本当ね、ゴローちゃん。杉菜、とてもよく似合っているわよ」 「そう……?」 「そうよ、杉菜ちゃん!何しろこのアタシがアナタの為だけに考え出したデザインが、似合わないなんて事あるはずないじゃない!あぁでも、見てたら何だか次のショーのアイデアが浮かんで来ちゃったワ!ちょっとアシスタ〜ント?アタシのデザイン帳持ってきてちょうだい、カモ〜ン☆」 完全に浮かれている花椿を余所に、桜は我が娘のドレス姿に大満足そうだった。 「やっぱり杉菜はこういうデザインが似合うわね。とても綺麗よ。―――どこか合ってないところはない?靴も大丈夫?」 「うん、ぴったり。けど……本当にいいのかな、タダで」 「あら、ゴローちゃんがそれでいいって言うんだから、好意に甘えてもかまわないでしょう。でしょ?ゴローちゃん」 「モッチロ〜ンよ!アタシにインスピレーションをくれたってだけで充分お代分は頂いちゃってるワ〜!第一これはアタシから杉菜ちゃんへの、一足お先になクリスメェス・プレゼ〜ント!!気にしちゃダメよ、ノンノン!」 彼女にふさわしい、上品で尚且つ歳相応の可愛らしさを持ったドレス&ミュール&アクセサリーの数々。10月に杉菜に会った際に言っていた約束の品々を、花椿はまったく即物的な見返り無しでプレゼントしてくれたのである。 「そ・れ・に!明日は、杉菜ちゃんが初めて一鶴の家でのパ〜ティ〜♪に出席できる日じゃない?そんなステキな日の前日に、そんなコト気にするなんてダメダメよ!」 多少は気にして下さい、センセイ。 上代6桁は軽く下らない品々に対する周りのスタッフの内心の嘆きを悟る事無く、花椿は実に楽しそうにウィンクを贈った。 「そう……ですね。ありがとうございます、花椿先生」 杉菜が一礼すると、花椿はウンウンと頷いてご機嫌度マックス状態で鼻歌を歌いながらデザイン帳にアイデアを書きとめていく。 「でも、本当にお似合いですねぇ!私、ここに務めさせて頂いて長いですけど、こんなに難しいラインのドレスを着こなせる方って初めてですよ」 店員の一人がそう言うと、他の者もそれに賛同した。 真の美女にはかえって華美な服装は似合わない。杉菜の場合も同様で、派手なデコレーションを一切取り除いたシンプルなドレスには要所要所に布自体のドレープが軽く揺れている程度。しかしシンプルなだけにそのラインの洗練度は半端ではない。着こなすだけでも難しい事この上ないのだが、当然ながら杉菜はさらりと着こなしてしまっている。 「そ〜なのよ!今の杉菜ちゃんにはピュア:エレガント=6:4くらいのブレンド率が一番グッ!ピュア過ぎちゃダメ、エレガントが強くてもダメ、その辺の匙加減はやっぱりアタシでなくちゃ判らない深遠の世界なのヨ。桜ちゃんは100%エレガントが一番ステキでマーベラスなんだけど☆」 「まぁ、ゴローちゃんったら。けどその通りね。……けど本当にこの杉菜のドレス姿は綺麗だわ。珪くんも喜ぶわよ、きっと」 「……珪が?」 「ええ」 「アタシも保証するワ!ステキドレスア〜ンドステキメイクのステキお姫サマに、カレだけじゃなく会場中の視線はもうク・ギ・ヅ・ケ!明日のパーティ、ホント楽しみねェ、桜ちゃん♪」 「本当ね、ゴローちゃん♪」 この二人、一体どういう訳か現役高校生の頃から仲が良い。花椿がこれだから、性別関係無しに話せるというところが大きいのだろうが、それにしてもテンションが高い。周りから見ると一種異常である。皆怖くて何も言わないが。 (喜んで……くれるのかな、珪) 間違いなくそうだろうと思われる事を、本人だけが解っていない。この辺が杉菜の杉菜たる所以だが、何とも鈍いとしか言えないだろう。何にせよ、パーティ仕様に着飾った杉菜に、葉月だけでなく姫条辺りも鼻の下を伸ばして感動しそうな事は容易に想像できる。 (喜んで……笑ってくれたら、いい、けど……) 杉菜は姿身に映る自分の姿を確かめて、動き易さを知るかのように軽く身を翻した。 この後、用事があるという桜と別れて、杉菜は先に帰宅する事にした。母娘揃って買物に来る事は最近少なかったのだが、それでも用事となれば致し方ない。寂尊は明日明後日に有給をもぎ取る為に休日出勤、尽は友人一同と共に温水プールで大胸筋及び三角筋の増強に励んでいる。杉菜は一人で電車に乗って帰ろうと新はばたき駅へと向かう。 が、歩いている内に自分も幾つかの用事を思い出して、そのままショッピングモールの中を巡り歩く。楽しげな人々の行き交う中、華やかな飾りつけの店を眺める。 「…………これ……」 一つのショーウィンドウの前で、杉菜は立ち止まった。ショップの店頭にディスプレイされている品物はメンズ物だったが、そのマネキンが着用しているマフラーの色が目に止まった。 (この色、珪に合いそう……。……あ) そう思って、ふと杉菜は気付く。 (また……だ……) また。 また、彼が基準になってる。 何かを考える、そのたびに。 いつも、ふとした拍子に彼を思い出してる。 そう考えた時、背後のロビーに据えられているテレビの画面が変わった。映された映像に、周りの女性が振り返って嬌声を上げる。杉菜も聞き覚えのあるBGMに振り返った。 大きなスクリーンに映るのは、今しがた考えていた相手。 夏にしていた大きなアパレルメーカーブランドの仕事、その一つであるテレビCM。秋のオンエアからこっち、物凄い人気を博しているそれは、その洗練された映像美とハイレベルなセンス、効果的な演出によって、ブランドだけでなくモデル本人にも絶賛が贈られていた。 「やっぱカッコイイよね、葉月珪って!」 「うんうん!それにここの……あ〜!もうこの笑顔!こっちが蕩けそうだよ〜!」 「この冬バージョン、すっごくいいよねぇ。この為に夏にオーストラリア行ってきたんだっけ?冬の無機質なビル群の中にこの笑顔だから一層映えるんだよね」 周りの女性がそれぞれに褒めちぎっている葉月の微笑みを見慣れている少女は、そのままジッとしてスクリーンの中で踊るように歩いている葉月の姿を見ていた。 せっかくの休みなのに、今日も仕事だって言ってた。 以前みたいに忙しい訳じゃないし、体調だって悪くないし、仕事がなければ傍にいてくれる。 無理してないって微笑うから、そうなんだとは思う。 それなら、それでいいのだけど。 けれど。 けれど、その笑顔が他の人に向けられるのは――――嫌。 そう思うようになったのは、いつから? そう思うようになったのは、どうして? ずっと抱えている、私の中の変な部分。どうやったら解けるんだろう。 どうしたら。 「――――どうしちゃったの?こんな所でボ〜ッとして」 不意に横合いから聞こえてきた声に杉菜が振り向くと、そこには見知らぬ男が立っていた。年頃は30絡み、隙のない肉体は何か武道をやっている事を感じさせるが、その割に態度はどこか飄々としている。気さくな中にシニカルなものが潜んだ笑顔だ。 「……どなたでしょうか?」 「いや、別に通りすがりの青年その1だけどさ。君、なんかブルーな空気背負っちゃってるから、どうしたのかなって思って」 「ブルーな空気?私が……ですか?」 「そ。せっかくそんなに可愛いのに、そんな顔してたら台無しだよ?良ければ俺が話聞いてあげるよ。ついでにお茶でも一緒にどう?」 どうやらナンパのようである。が、こういう日にはよくある事なので杉菜はケロッとしたものだ。 「お茶なら家に100種類ほど揃っているので、外で飲む必要はないです」 事実である。茶道をたしなむ母の影響か、お茶等の嗜好飲料に関して東雲家の関心は高い。その為産地・時期・メーカー等に各自がこだわりを持って銘柄を集めるようになり、結果がこの数値だ。その中でも寂尊の収集する薬草茶に関しては、世界を股にかけた充実ぶりである。 だが相手は拍子抜けする訳でもなくただただ感心したように目を見開いた。 「へぇ、すごいね〜。好きなの?お茶」 「嫌いではないです。……あの……どこかで、お会いした事、ありましたか?」 杉菜の淡白な態度にも動じない男の顔を見ながら、杉菜はふと見覚えがあるような気がして訊ねた。すると相手は目を見開いてからにっこりと笑った。 「あ、俺の事見覚えある?こんな美少女に覚えててもらえるなんて嬉しいよ。――――零一の生徒さん」 「え……零一って……氷――――」 「益田!何をしている!」 杉菜が聞き返そうとした時、背後から学校でほぼ毎日聞いている声が飛んできた。 「おっ、零一こっちこっち!」 「こっちこっち、ではないだろう!休日に呼び出しておきながら待ち合わせ場所に現れないばかりか、あろうことかナンパなどという行為に及んでいるとは、けしからんにも程がある!今日という今日こそはお前のその根性を――――ん?……東雲?」 「氷室先生……?あ、こんにちは」 「ああ、うむ。―――益田、お前はよりによって俺のクラスの生徒に声をかけたのか?」 「そんな怖い顔しなさんなって。結果的にはそうだけど、元はと言えばその子を守る為だぜ?周り見てみろよ、彼女に声かけようと虎視眈々と狙ってそうなヤツがわんさかいるから」 益田と呼ばれた男が顎で示すと、確かに杉菜の周りにはナンパと思しき属性の男達がさりげなく配置しており、気付かれたと解って速やかに視線を逸らして去っていく。 「……なるほど」 「そういう事。生徒さんも、あんまり無防備そうな顔してポツンと立ってちゃ駄目だよ?クリスマス前の今日なんか、獲物を狙うハイエナがどこに潜んでるか判らないからね」 「お前が言うと妙に説得力があるな」 「おいおい、そりゃないだろ」 頭上で繰り広げられる会話を聞いている内に思い出したのか、杉菜が益田を見上げた。 「あ……確か、文化祭の時にいらっしゃっていた方、ですよね?劇が終わった後、氷室先生とお話していた……」 正確には『劇が終わった後、氷室の前で腹を抱えて笑い転げていらっしゃった方』である。 「そ、よく覚えてたね。あ、俺は益田義人。氷室センセイの古い友人ってヤツ、かな?えーと、東雲杉菜ちゃんだっけ?劇、観たよ」 「そう、でしたか。……先ほどは失礼しました」 「いやいや、このご時世だし、警戒心はあるに越した事ないしね。でも本当に綺麗な子だね〜。お姫さま姿があんまり素敵だったんで覚えてたんだけど、こうやって間近に見てもホンット綺麗だよ?」 そう言うと、横にいた氷室が冷たい半眼の視線を彼に向けた。 「益田、いかがわしい視線で見るな」 「いかがわしいって、おまえなぁ。綺麗なものに見惚れて何が悪いってんだ?」 「いかがわしいものをいかがわしいといって何が悪い」 「言うねぇ、まったく。おまえさんの縦ロール姿ほどじゃないぞ?あれはもう傑作だったな!まさに大爆笑の起爆剤、キャスト考えた子に拍手贈りたかったよ、マジで」 「何だと!?俺の精魂込めた迫真の演技を馬鹿にするつもりか!?」 「迫真ねぇ……。ま、おまえとの友情の為にこれ以上は言わないでおいてやるか。――――で、杉菜ちゃん?今日は一人な訳?」 氷室が何かを言い返す前に、益田がさっさと杉菜に話題を振った。 「はい。先ほどまでは母も一緒でしたが、用事があるので別れました。買物をしてから帰宅するつもりです」 杉菜が答えると、氷室がその長い指を顎に当ててふと考え込んだ。 「ふむ。……しかし先程の状況から推測して、君を単独行動させるのは些か不安が残るな。差し障りがなければ私が同行して送り届けようと思うが」 「おい零一、そんな事してこの前の子に誤解されるんじゃないのか?」 「なっ、何を馬鹿な事を!篠ノ目とは、その……そういう関係ではない!」 「へ?そういう関係ってどんな関係だ?それに俺、別に篠ノ目ちゃんの事言ったつもりはないけどなぁ?」 「……益田……」 「ま、それはともかく零一の意見には俺も賛成。一人にしとくと何か不安だからね、生徒さんさえ良かったらお供していいかな?」 「べつに、かまいませんけど……何か、用事があるんじゃ……?」 「こんな可愛い子放っといてやらなきゃいけないような用事じゃないから大丈夫。単なる買出し程度だしね。あ、ちなみにコイツは荷物持ち。どーせ家にこもって冬休み明けの実力テストの問題作りに没頭してるだろうから、貴重な冬の太陽を浴びさせてやろうと思ってね」 「お前にそれを言われる筋合いはないぞ……」 そんな遣り取りがあった後、結局杉菜は臨時保護者二人と共にショッピングをする事になった。端から見ればまさしく文官武官(しかも美形)を従えたお姫様である。周囲の人々もその絶妙な光景に思わず目を向けるというものだ。ビクトリア王朝時代のスタイルでもしていればさぞかし嵌った事だろう。 正直なところ、杉菜としても成人の連れがいるのは好都合だった。明後日の25日は父・寂尊の誕生日兼両親の結婚記念日で、ここ数年二人にはビンテージワインをプレゼントしている。はばたき市に来てからは天之橋辺りに付き合ってもらってリカーショップを覗く事が多かったが、今年は用事があって同行できないという事でどうしたものか頭を悩ませていたのである。こういう時未成年は辛い。 「……しっかし、女子高生が親の結婚記念日にロマネ・コンティのビンテージ買うって、なんか物凄いなぁ。色んな意味で」 高級リカーショップで購入した、美しくラッピングされたワインの袋を持ちながら、益田が感心と呆れと両方の意味を込めた溜息を吐いた。 「東雲の場合、一般の高校生に比べて遥かに収入が多いからな。未成年でしかも学生の身とは言え、株式投資についての的確な判断力と分析力には私も脱帽物だ。だがあまり高額な商品を購入するのは正直いかがなものかと思うが」 「日頃あまり買物をしませんし……。こういう時にこういう形で返せれば、と思って。教育費や生活費、負担して貰っているので。それに、両親はこういったプレゼントの方が喜んでくれるので」 「親孝行だねぇ」 「まったく、誰かに聞かせてやりたいセリフだな」 「誰かって誰だよ」 「少なくとも俺ではないな」 「よく言うぜ」 その後も三人はその辺のお店を覗いたりしてちょこちょこと用を済ませてから、益田の要望により喫茶店で一服する事にした。 「けど、ホンットに見れば見るほど綺麗だよね、杉菜ちゃんってさ」 淹れ立てのコーヒーを飲みながら益田が杉菜に笑いかける。 「そう……なんですか?」 「そうそう!俺も恋人に立候補したくなるくらいだよ。フリーじゃないのが残念」 「益田、そういう冗談はだな……」 「……フリーじゃないって、誰がですか?」 氷室がたしなめようとする前に、杉菜が益田に訊ねた。 「――――え?あの、劇で王子様やってた男の子……何て言ったっけ?」 「葉月珪、だ」 「あーそうそう、その葉月くん。彼、杉菜ちゃんの恋人なんでしょ?」 すると杉菜は心底キョトンとした顔をして首を傾げた。 「恋人……珪が?」 「だって、あれだけの観客の前で、お芝居とはいえキスシーンを堂々としちゃえるんだから、付き合ってるんでしょ?君と葉月くん」 「……付き合ってません、けど」 「――そうなの?」 「――そうなのか?」 戸惑ったような杉菜の声を聞いて、氷室と益田は瞠目して異口同音の言葉を発した。 「おい零一、お前まで何言ってんだよ」 「いや……しかし……。私はてっきり葉月と君はそういう関係……その、つまり、世間一般でいう『恋人同士』に当たるものだと認識していたが……」 氷室だけでなく、他の者も同意見だろう。 だが。 「……そう、なんですか?」 「…………」 本当に解っていないらしい、氷室と益田は内心頭を押さえた。毎日学校である種のバカップル振りを見せつけられている氷室はともかく、一度遠目に見ただけの益田ですら葉月と杉菜の関係にはピーンと来たというのに。 「……零一から聞いちゃいたけど、本当にこういう子なんだなぁ」 「…………?」 苦笑した益田に首を傾げる杉菜を見て、更に苦笑の度合いが増す。 「いやいや、悪い意味じゃないよ?ホントにピュアな子なんだねぇ。俺みたいにスレてる人間にはちょっと眩しすぎるな」 「……スレてるんですか?」 「そりゃあもう。それだけ人生経験積んでるって事だけどね」 「人生経験の蓄積度ではなく、お前の場合は経験する際の心構えが問題なんだ――――――ん?電話か。少々失礼する」 ピルルルル、と氷室の携帯が鳴り、彼は二人に断って一旦店の外に出た。どうやら生徒からの質問らしく、完全に業務用の顔で答えているのが窺えた。 「アイツも大変だなぁ。休みの日にまで先生しなきゃならないなんてさ」 「けど、楽しそうです」 「ま、ね。でも俺、アイツが俺の先生じゃなくて本っ当に良かったよ。あんな教師に付き合ってたら身が持たないったら」 その割には益田の顔は楽しそうだ。氷室が益田の担任だろうと、いつものペースでいいコンビが組めるだろう事は想像に固くない。 「それはともかく、話戻そうか」 おもむろに、益田が杉菜の方を向いて言った。 「戻す?」 「そ。俺、経験だけは積んでるからね。仙女ミーナちゃんじゃないけど、話聞いてアドバイスするくらいは出来ると思うよ?」 「アドバイス……?」 「君が、あのスクリーンの前で葉月くんの姿を見ながら切なそうな顔をしていた事について」 益田がそう言うと、杉菜は軽く目を見開いて益田の顔を見つめ返した。見返したその顔は先ほどまでと変わらない温和なもの。 「我ながらお節介だよなーとは思うけどね、気になっちゃったからさ。あまり知らない人間だからこそ逆に話し易いって事もあるし、良かったら話してごらん?あくまでも、君が良ければ、だけど」 ニコニコと笑いながら言ってくる益田に対して、杉菜は手元のティーカップに顔を向けた。 「……切ない……そんな顔、してましたか、私……?」 「ああ、してた。劇のラストであんな綺麗な笑顔を見せてくれた子が、どうしてこんなに辛そうな顔してるのかなって思ってね。それでつい声かけちゃった訳で」 杉菜は俯いた姿勢のまましばらく黙った。 しばらくの間身じろぎもせず、やがて小さな声でポツリと言った。 「……自分が、解らなくて」 「ん?」 「……以前は、何も感じなかったんです。何があっても、どんな事になっても、ただ生きて動いてるだけ。何かを感じる、という事はなくて、本当に理性だけで動いてた。そんな人間でした。けど……」 「けど?」 「……いつからか、自分の中にそれまでと違うものが入り込んでて、それに支配されるようになりました。支配されるだけじゃなくて、支配していたい、そんな風に感じるもの。それが判ってから……そう、不安……に、なりました」 「不安?」 「それにしがみついていないと、自分が保てない、そんな気分。今まではなかったのに、今はもうそれがないとおかしくなるような、そんな感覚。……恐怖、というものかも知れません」 「恐怖……それは、その『何か』を失う事に対して?」 「……だと、思います。けど、私、この感覚は知らなかったから、どう対処して良いのか判らなくて。何より、それで……そのせいで、相手を傷つけたり重荷になったりするのは、嫌で。矛盾してるんです。しがみつきたいのに、しがみついたら駄目だって。そういう事、ずっと頭の中で巡ってて…………さっきもそれで、益田さんが仰ったような顔、してたんだと思います」 「ふぅん……。その、しがみつきたいものっていうのが……葉月くんな訳だ?」 「…………はい」 本当に、いつからなんだろう。私の中に占めるあなたの比重がこんなに大きくなったのは。 珪。 あなたはいつも笑ってくれる。けど、私は何かあなたに返せている? 笑顔だって、文化祭の時以来一度も返せてない。 あなたがくれるたくさんの思いに、私が返せるのは即物的なものだけで。 けど、私が欲しいのはそれじゃないから。形じゃないから。 いつも差し伸べてくれる大きな手とか、笑いかけてくれる時の空気の優しさとか、呼びかけると必ず気付いてくれる事とか。些細なようで、けれどとても大きくて。 かつては特に望んでいなかった、でも今はいつでも望んでしまうそれらの事。 私は、同じようにあなたに返せているの? こんなにも。 こんなにも、醜い想いで一杯の私が。 「……本当に好きなんだねぇ、彼の事」 押し黙ってしまった杉菜を穏やかに見守るように微笑んでいた益田が、とても優しい響きで呟いた。それを聞いて、杉菜はハッと顔を上げて彼の顔を見た。 「…………好き……?」 「それだけ大切なんでしょ?彼が」 「それは…………そう、です」 「だろ?――――俺にもそういう覚え、あるからね」 益田はコーヒーを一口飲んでから言葉を続けた。 「本当に誰かを好きになるとさ、純粋な気持ちだけじゃいられないんだよ。誰にも渡したくない、自分だけを見ていて欲しい、そんな独占欲だけじゃなくて、好きな相手なのにグチャグチャにしてしまいたくなったりする事がある。理屈じゃないから手のつけようがない。綺麗だと思ってた自分の中が汚れたもので溢れかえってるの、思い知らされるんだよ、常に」 そう言って軽く自分の胸を指差す。 「そういうの、正直自分でも嫌になる。そんな自分を相手に知られたら、相手は俺の事を嫌うんじゃないか、離れていくんじゃないかって不安になって、怖くなる。そんな事の連続だよ。――――けどさ、それでもその汚いのを押しのけていくと、やっぱり残るんだよ、最後には」 「残る……?」 「自分が相手が好きだっていう、純粋な気持ちがね」 杉菜が思わず瞬きをするのを見て、益田は頬杖をついてなおも微笑う。 「そう。好きって気持ちはとても純粋なものだ。けど、好きであればあるほど執着は強くなって、汚れた部分も生まれてくる。確かに矛盾してるけど、俺はそれが悪い事だとは思わない。綺麗な部分と汚い部分、両方あるからこそ誰かを好きになったりする事が出来ると思うからね。そして俺のみたところ、葉月くんはそういうの全部受け止めてくれるタイプの人間なんじゃないかな?」 一旦息を切って、益田は残ったコーヒーを飲み干した。 「珪は……優しいから……」 「ウン、多分ね。けど、それは相手にもよるでしょ。君だから受け止めてくれるんだよ。――――ね、杉菜ちゃん。君、彼に今言った事、話した事ある?」 「……いいえ」 「話してごらん。君の悩みは、一人で抱え込んでいるところから来てると思うよ。色んな事話して、彼からも話を聞いて、それから判断しても遅くないと思う。自分が醜いかどうか……いや、自分だけが醜いのかどうかをね」 「自分だけが……」 「彼の中にも、きっと汚れた部分はある。抱えている何かはある。そういうの曝け出して初めて相手を受け止めるかどうか判って来る。それをしない内から怖がってたって何にも答えは出ないさ。少なくとも、俺はそう思うね。――――――お、戻って来ましたか、センセイ」 益田が顔を起こして、席に戻って来た氷室を迎えた。 「ああ、悪かったな。生徒から質問の電話だった。……ずいぶんと話が弾んでいたようだが、何を話していたんだ?」 氷室が聞くと、益田は杉菜の顔をチラッと一瞥してから食えない笑顔で返す。 「いやなに、今度俺の店に遊びにおいでって誘ってたんだよ。サービスするからってね」 「――――益田!彼女はまだ18歳の未成年だ。アルコールを扱う夜間営業の飲食店に誘うなど言語道断だぞ!」 「別にかまわないだろ?お前だって秋に未成年連れてきたじゃないか」 「あれは不慮の事態が起こったからだ!望んで連れて行った訳ではない!大体お前ときたらその辺のモラルがいいかげん過ぎる。以前姫条を臨時で雇った時もちゃんと身元を調べないばかりか、その後も何かと声をかけて働かせていたらしいな」 「あ〜姫条くんね、いや、彼ホンットによく働いてくれるもんでさ。けど飲ませたりはしてないぜ?」 「当たり前だ!」 これはこれで漫才の様だが、人数的にそうツッコむはずの杉菜は二人を眺めたまま自分の思考を巡らせていた。 喫茶店を出た後、氷室の車によって荷物ごと家まで送り届けられた杉菜は、深々と車中の男二人に頭を下げた。 「本当にありがとうございました、氷室先生」 「気にするな。生徒を危険から守るのも教師の勤めだ。明日の理事長宅でのパーティには参加するのだったな?」 「はい」 「そうか、ならばくれぐれも気をつけるように。冬季休業中、しっかり受験勉強に励みなさい」 「はい。……益田さんも、ありがとうございました」 「いいっていいって。少しでも役に立てたならそれで充分さ。それじゃ頑張って。色々とね?」 「……はい」 窓が閉められて、車が発進する。頭を下げて見送っている杉菜の姿を確認してから、益田は口を開いた。 「礼儀正しい子だね〜。まだ見送ってくれてるよ」 「彼女の母親は礼儀作法の師範だ。お前も少しは見習ったらどうだ?」 「ご冗談を。俺はそんな形にこだわるタチじゃないの」 そう言うと、氷室はバックミラーを一瞥してから益田に訊ねた。 「形だけ……だと思うか?」 「……いや」 角を完全に曲がって彼女の姿が見えなくなって、ようやく益田は正面を見た。 「形だけに見えて、全然そうじゃないな。なるほど、お前が気に入ってる訳だよ。篠ノ目ちゃんの次にね」 「……その言い方は語弊があるが、あながち外れてはいないな。彼女は……東雲は自身でそういう事に気がついていない。それが、昔の俺を思い起こさせる時がある」 「へぇ?」 益田が運転席の氷室を見ると、彼はほんの少し眉を顰めた顔で言う。 「一度思い込んだ事に囚われすぎて、大事な事を見失ってしまう。そんな部分が俺にはあるが、東雲にもある。俺の場合……それほど頑なになる必要があるのか、最近は悩んでいるところだが……彼女も同じように悩んでいるのだと思う。ただ、彼女の場合は葉月がいるからな。それほど心配はしていない」 「ふぅん……。ずいぶんと人並みの感情に対して理解が深くなったなぁ?以前は『恋愛など脳内物質の悪戯にしか過ぎない無益なものだ』なんて言ってたくせにな」 すると氷室はムッスリした顔になった。ほんの少し頬が赤いように見えるのは、ある女生徒に対しての自身の感情について迷っている証拠だろう。益田がそれに気付いて一層笑う。 「……別に否定している訳ではないぞ。学業と両立できれば問題ない。葉月も東雲もその点は完璧だからな」 「やれやれ、そう言うと思ったよ」 「どちらにしても……今日は礼を言う」 「へ?」 「身近な人間に対して弱音を吐けないのは、東雲の長所であり短所だ。少しでも弱音を吐く事で気が楽になるのなら、お前のお節介もたまには役に立つ、という事だからな」 「礼を言われてる気分にならないんだけどなぁ……。けど、解ってた訳ですね、センセイ?」 「無論だ。東雲の表情を見れば何を話していたかくらい見当がつく」 「そりゃまた結構な眼力で。――――ま、あとは彼女次第だろ。通りすがりの青年その1には、これ以上する事はないさ」 「そうだな」 軽い二つの笑い声が、街に帰って行くエンジン音に重なって溶けた。 いつも、いつでも。気がつけばあなたの事を考えている。 何もなかったはずの私。『心』がなかったはずの私。 けれど今は何かが違う。変わってきている。 暖かいもの。汚いもの。色んなものが私の中にあって、いつも渦巻いている。 それは、全てあなたに関わることで。 珪。 私を呼び起こした、ただ一人の人。 どうか。 どうか、許してくれますか。 あなたに、甘えてしまうことを。 好きとか、嫌いとか、そういう感情なのかは判らないけど、でも。 私がここにいることは間違いないの。 あなたに支配されている私が、確かにここにいることは。 |
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