−第40話− |
王子が世界の果てで魔女に囚われているころ、姫の国ではある噂が流れていました。 それは、王子が遠つ国でべつの美しい姫に出会い、幸せに暮らしている、というものでした。 もちろんそれはただの噂でしたが、それを聞いた王は心を痛めました。 「あの王子が誓いを破るはずはない。 だが、このことは姫の耳に入れてはよろしくないだろう。 あれからずいぶんと経っておる。未だ彼の無事を祈りつづけている姫にはつらかろう」 ですが、そういう噂ほど耳に入ってしまうものです。 王宮で侍女たちが話しているのを聞いた姫は、教会にこもって思い悩みました。 「あの方が無事ならば、私はそれでよかったはず。 なのに、なぜこのような気持ちになるのでしょう? 胸が苦しく、もやがかかったよう。こんなことははじめて。 私は、一体どうしたというのでしょう?」 自分でも解らない思いに、姫は祈ることすら忘れて考えましたが、どうしてもその答えは見つかりません。 「ああ、どうか早く帰ってきてくださいませ。 私にさまざまなことを教えてくださったあなたなら、きっとこの思いの正体もわかりましょう。 どうか、一刻も早く私のもとに―――」 姫の良き話し相手になっていた青年貴族は、そんな姫の変化にいち早く気付きました。 しかし彼は何も言わず、ただ一身に考え続ける姫を黙って見守るだけでした。 2004年11月13日。 はばたき学園では秋の一大イベント・文化祭の当日を迎えていた。 3回目となると描写のバリエーションもいい加減底を尽きているのだが、何はともあれ快晴による蒼天の下、賑やかなお祭騒ぎが繰り広げられている事には間違いない。 今年の氷室学級はクラス出展は特別行っていない。受験生だからこそ羽目を外す機会が必要だとは思うのだが、学祭委員とそして何より担任教諭(特に後者)が必要以上に学園演劇に情熱を滾らせているので、口を挟む隙がないのだ。鈴木以上に牽引力がある人物はほぼ皆無であり、結果として学園演劇の裏方として大いに活躍する事で文化祭に参加する、という意義を見出している。 つまり、文化部に所属する守村や三原を除いて、葉月達レギュラーメンバーも基本的に劇以外の時間は暇だったりする。昨年・一昨年が色々慌しかったのに比べれば、逆に何もなくてつまらないくらいだ。 それでも他クラスでは出展している所もあるので、暇人+休憩中の面々はのんびりと練り歩いて祭の雰囲気を楽しんでいた。 「あーもうチクショウ!俺も試合出ればよかったぜ、あんな白熱した展開になるってわかってたらよー!」 「和馬くんたら……。気持ちはわかるけど、今日の試合は新レギュラーのフォーメーションの練習も兼ねてたんだし、仕方ないよ」 「それはわかってっけどよ、やっぱこう、見てるだけじゃ物足りねえんだよな。ったく、鈴木の命令がなければ飛び入りしてたぜ」 体育館で行われていたバスケ部の招待試合に出られなかった事が本当に悔しいらしい、鈴鹿は苦虫を噛み潰した顔で主張した。ついさっきまで皆で観戦していたのだが、ギャラリーから身を乗り出して今にも飛び降りていかんばかりの彼を抑えるのに、周りの面々は結構な苦労を強いられた。 「それも仕方ありませんよ。鈴鹿くん、試合が白熱すればするほど動きが激しくなって、体中擦り傷作るじゃないですか。劇に出るんだから、それくらいは我慢しないと」 「……まあ、そうだけどよ。べつに俺一人傷作ったところで大して影響ないんじゃねえか?どうせ脇役だしよ」 「それはどうかしら。鈴木さんの事だから、見えるところに傷をつけてしまったが最後、劇が終わった直後に右ストレートで奥歯をガタガタ言わせるくらいの事はすると思うわよ。あの人、こういう状況ではとことん完璧を期す人だから」 「…………」 眼鏡を光らせて語る有沢の言に、鈴鹿は何となく押し黙った。女に殴られるという不名誉もさることながら、確かに鈴木なら軽く奥歯をガタガタさせてくれそうである。なんでも裏情報では鈴木の趣味はボクシングらしい。どこまで事実かは謎だが。 「え、え〜と、……そ、そうだ!ねえ杉菜ちゃん、次、何か観たいものある?」 不穏な雰囲気に包まれた場を何とかしようと、守村に次いで気配り屋さんな紺野が杉菜に話を振る。 「……私?」 「うん!葉月くんも、どこか行ってみたいクラスとかない?劇までまだ少し余裕があるし、どこかで時間潰していこう?」 「俺は、べつに……」 どこかに行けば必ずと言っていいほどちやほやされるので、あまり顔を出したくはないようだ。午前中は保健室で第一次昼間睡眠を摂取していた杉菜の横で突っ伏して眠っていたから特に眠気はないのだが、しかし確かに時間には余裕がある。 「私も、特に。美術部も手芸部も見てきたし、吹奏楽は準備してる間だから聴けないし」 美術部の今年の出展は、ゲームに沿って部員全員による壁画製作だ。 今までの三原ならば他の一般部員と共に何かを作り上げる、という事はしなかっただろうが、今年は色々思うところがあったらしい、ノリノリで共同制作に勤しんでいた。いつの間にかデフォルト装備されている彼のハニーこと須藤が彼のやる気を鼓舞したのもあるだろう。 「去年の文化祭はとても哀しいことがあっただろう?けど、あの時ブラン・プリマヴェラを守ろうと皆と一心になっていたボクを、ボクはとても素晴らしいと思ったんだ。誰かと一緒に何かを成し遂げようとする、それはとても美しく尊いことなんだと気付いたんだよ」 出来上がった傑作を前に、この上ない美しい微笑みで三原はそう語っていた。その後は感動した須藤と二人の世界を構築し始めてしまったので、とりあえずその場に置いてきたが。 「……あ、そうだ」 「?なんだ?」 「園芸部、まだ行ってない」 「ああ、そういえば……寝てたしな」 他のメンバーは午前中に飲茶に行ったようだが、葉月と杉菜はまだだった。 「うん。少し喉乾いたし、お茶、飲みたいかも」 「そう?それじゃ行こうか。和馬くんたちもいいよね?」 「べつにかまわねえぜ。さっき叫びまくったから俺ものどカラカラだしな」 「私も構わないわ」 「僕もです。……けど、なんだか気恥ずかしいですね。自分がついさっきまで働いていた場所に客として行くのは」 守村が照れながら言ったところで、昇降口の方向から藤井が現れて葉月達に気づいた。 「あっれー?みんなしてどーしたの?」 「あ、奈津実ちゃん。あのね、今から園芸部のオープンカフェに行こうって話してたの。奈津実ちゃんこそ姫条くんは?」 「あーアイツね。さっき交代のヤツと変わって、今シャワー室行ったトコ。も、すごいよ〜!ソースの臭いこびりついちゃってて!」 苦笑半分の表情で藤井はけたけた笑った。 予想通りというか前述通りというか、姫条らの所属する3年B組の今年の出展は焼きソバ屋である。勿論プロデュースは姫条。パッと見お祭り人間だけにこういうイベント時には大層その魅力を発揮するものだから、メインの作り手&売り子も彼になるのは必然だ。 だがしかし、飲食系屋台出展者の宿命で、今年も彼には実に香ばしい庶民チックなソースの香りが体中に染み付いている。そこでそれを事前に予測した鈴木によって「準備の前にシャワー浴びて来い」とのお達しが出た訳である。 「てなワケで、今シャワー室に行けば、もれなく覗きイベントが発生すること確実だね!」 「覗きイベントって、奈津実……歴代のときメモじゃないんだから、そんなフラグは立たないわよ」 なんでフラグなんて言葉知ってんですか、有沢さん。 「ま、冗談はさておき、カフェ行くんなら一緒していい?アタシもまだ行ってないんだ」 「うん、いいよ」 藤井が合流して、一同はぞろぞろと園芸部のオープンカフェ目指して移動し始めた。各自人気のある一団とあってか、周りの生徒や一般客もついつい目をやってしまう。 「今年はカモミールティーがとっても好評なんですよ。育ちも良くて、本当に美味しいんです」 「そうなのか?じゃあ、俺、それにするか」 「私はマロウにしようかな……喉、使うし」 「そうね、マロウティーは喉粘膜にいいし、劇の前でも刺激は少ないものね。私もそれにするわ」 「だったら和馬が注文するべきじゃない?アンタ、よっぽど試合観戦で叫びまくってたんでしょ。結構声ガラガラだよ〜?鈴木ちゃんに怒られんじゃない?」 「あのなぁ、試合に出ないでやっただけでも充分義理は果たしたぜ。この上声までどうこう言われる筋合いはねえよ。大体俺のセリフって少ねえし」 「そういう問題じゃないと思うんだけどな……」 一行がなんとも意味のない会話で盛り上がっていると、ふと、彼らに近づく一人の女の子の姿があった。 「あ……あの…………」 か細く聞こえて来たその声に、鋭敏聴覚を誇る杉菜が気付いた。と同時に、声を発した女子が勇気を振り絞るようにボリュームを上げた。 「あ……あの、は……葉月くん!」 か細いが故にかえってハッキリと届いたその呼びかけに、名指しされた葉月が振り向く。そして、その女子の姿を認め、ほんの数秒思い巡らせるようにしてから、大きく目を見開いた。つられて他の面々も彼女の方を振り向いた。 「…………おまえは……」 振り向いた先には、同年代の物静かな印象の女の子が一人、緊張した面持ちで立っていた。 中庭に設けられた園芸部のオープンカフェは今年の飲食系の中ではピカイチの出来で、多くの客が思い思いの優雅な一時を楽しんでいた。 杉菜達一行は園芸部影の実力者・守村が同行していた事もあって、混雑の最中にも良い席を用意されてハーブティと手作りケーキに舌鼓を打っていた。 ……ただし、例外が一人。 杉菜達のテーブルから少し離れた場所で、葉月は先ほど声をかけてきた女子と話していた。 「……守村くん、あの子知ってるの?なんかちょっと知り合いっぽく挨拶してたよね」 藤井が身を乗り出しつつこっそり訊ねると、守村は素直に頷いた。 「はい、中等部で僕と同じクラスだった人なんです。お父さんの転勤で引っ越すことになって、転校してしまったんですが……元気そうで良かった」 「ふーん。けど、葉月とはどういう関係なワケ?同じクラスじゃなかったでしょ?」 「ええと……それは……」 守村は今度は口を噤んだ。果たしてこの場で言っていいものだろうか、それとも言うべき事なのだろうか。 中学時代、葉月は今からでは想像し難いくらいに自分の世界に閉じこもっていた。グレていた訳ではないが、とにかく他の人間との接触を必要以上に避けていた。(グレた葉月というのもある意味面白そうだが) そんな彼が自分に声をかけてきたきっかけ、それは今葉月の目の前にいる女子が葉月に贈った押し花だった。(←ドラマCD参考の事) れんげ草と、リンドウ。彼女は花言葉に自分なりのエールを込めて、葉月にそれらを贈ったのだ。 あなたは一人じゃない。あなたの心の痛みを和らげる存在はちゃんといる。そんな意味を込めて。 ……まぁ個人的には非常に嫌味臭い意味込めてないかオイとか超内気で他人と会話も出来ない設定の割には何気に自分主張しまくってんなオイとか思う訳だが、何はともあれ葉月はそれで多少なりとも気分が浮上したらしい。丁度森山の説得でモデルを始めた時期と重なって、それまでの「近づく者には問答無用でマシンガン乱射」様のスタンスから「必要以上に近づく者にはピストル発射」様に変化した。 たまたま守村は植物オタクの知識を買われてその場に居合わせる羽目になったのであるが、それはそれとしてその辺の事情をベラベラ語っていいものだろうか、と悩みに悩んだ。 何しろ、目の前に現・彼女とも言える杉菜がいる。いくら杉菜がこういう性格だとはいえ、そういう話を聞かされるのはどうなのかと考えてしまう訳である。 「……何というか……葉月くんって、中等部の頃はいつも一人でいたじゃないですか。それを、同じような悩みを抱えていた彼女が、励ましたって言うか……上手く言えないんですけど……」 何とか当り障りのないように言葉を模索する守村に、他の面々は事情があるのだろうと納得する事にしたようだ。 「あ〜いいっていいって、無理に聞き出そうってんじゃないからさ。ちょっと気になっただけ」 そう言って藤井はローズヒップティーを一口飲む。飲むや否や「うわ、すっぱ!」と顔を顰めては有沢に「それはそうでしょう、100%じゃ」とツッコまれる。 いつもの明るい会話に戻り、それぞれがハーブの効用でほんのりまったりしていたが、杉菜だけはいつも以上に黙ったままで離れた所にいる二人に視線を向けていた。 「……元気そう、だな」 「う……うん……。葉月くんも……元気そうでよかった」 中庭の端っこ、あまり目立たない所で、葉月と彼女は対峙していた。お互いの性格上しばらくは黙然として奇妙な空間を作り上げていたが、やがて彼女の方から勇気を振り絞るように口を開いた。 「あ……あの……私、葉月くんにお礼と、お詫び、したくて……」 「礼と……詫び?」 「う、うん……。あの時、葉月くんが、声かけてくれた時……私、何も話せなくて……。押し花も、勝手に押し付けてたし、申し訳なかったって、ずっと、そう思ってて……」 途切れがちに話す彼女に、葉月は首を横に振って応えた。 「……謝る必要なんて、ない」 「……え……?」 「俺、あれにかなり救われたとこ、あるから。だから、謝らなくていい」 「……本当……?あ……ありが、とう……」 彼女は照れたように微笑んだ。かつて会った時はただただ驚いた様子しかなく、笑顔のえの字も浮かんでいなかったものだが、こうして見るとなかなか整った顔立ちをしている。杉菜には及ぶべくもないが多くの男子に秘めた想いを抱かれているだろう事が容易に想像がつく。 「そういえば……おまえの声、聞いたの初めてだったな。話せるように……なったんだ」 「う、うん。…………葉月くんの、おかげなの」 「俺の?」 目を見開いて聞き返すと、彼女は強く頷いた。 「あの時……葉月くんが話してくれたこと、ずっと心に残ってて。私……私も結局、誰かに気づいて欲しかったんだと思うの。自分が一人じゃないってこと、知りたかったんだと思う……。だから、葉月くんが気づいてくれたこと、とても嬉しかったの。……でも、あの時は、上手く話せなくて……」 葉月と話すのに慣れていないせいか緊張気味に語る彼女の話を、葉月は黙って聞いていた。 「それで……何て言うのか、私、こんなじゃいけないって、思って。少しでもみんなとちゃんと話したりできるようになりたいって、思って。色んなものに向かい合えるように、強くなりたかった。だから、転校先では自分から話しかけるように頑張ったの。……もちろん、最初はすごく怖かった。声小さいし、震えるし……誰も聞いてくれないんじゃないか、誰も気づいてくれないんじゃないかって、挫けそうになったこと、何度もあった。でもそんな時、葉月くんのグラビアを見て元気出してた。もしも次に会うことがあるのなら、その時はちゃんと話せるようになりたい、そう思って」 「…………そう、か」 「うん。ずっと見てた。支えにしてたの。そうしたら……私の小さな声でもちゃんと聞いて、一人じゃないんだってこと、教えてくれる人がいるの、気がついた。普段そうだと思わなくても、ふとした拍子にそういうの気づいて……とても、安心した」 「そうだな。そういうのって……いつの間にか、さりげなく傍にいたり、あったりするよな」 「でしょう?だから私、少しずつ勇気出せるようになったの。まだまだ全然だけど、それでも前よりはたくさん話せるようになって、友だちも出来た。それは、葉月くんのおかげで、それで、私どうしても、お礼言いたくて」 「……そうじゃないだろ?おまえが頑張ったからだ、俺、何にもしてない。俺の方こそ―――」 「ううん、葉月くんのおかげなの!他の人にも言われてると思うけど、高校に入ってから葉月くんの表情はとても暖かくなったでしょう?……私、勝手なんだけど、葉月くんにはなんだか連帯感というか仲間意識、みたいなの感じてて。それで、表情が変わったのを見ていたら、とてもホッとしたの。葉月くんにも、一人じゃないってこと教えてくれる人、見つかったんだなぁって。それが、とても嬉しくて、そのたびに元気もらえてたの。頑張れたのは、だから、葉月くんのおかげなの。本当に、ありがとう――――」 そう言って彼女は深々と頭を下げた。再度頭を上げると、絶句して困惑の表情を浮かべた葉月に微笑う。 「……なんだか、皮肉だけどね」 「……皮肉?」 「うん。あの時、私が転校しなかったら、もしかしたら葉月くんを変えるのは私だったのかなぁって、おこがましいんだけど、そんなこと、考えたりしたの。でも、転校しなかったら、私、多分押し花、贈れなかった。贈る勇気、出なかった。そしたら絶対に私のこと、知ってもらうなんて出来なかった。だから……」 「そういえば、そうだな……。けどおまえ……今、恋人いるんだろ?」 葉月が訊ねると、彼女は頬をうっすら赤くしてから頷いて笑った。 「うん……さっき言った人。一言一言、ささいな言葉までちゃんと聞き逃さないでくれる、優しい人。……そういえば、葉月くんに少し、似てるかも」 「…………。……けど、ならあんまり俺のこと気にしてたらまずいんじゃないか?」 「っ、それとこれとは話がべつ!文句、言わせないし!」 ムキになる彼女に、今度は葉月が笑う。 「それにしても……お互いずいぶん変わったもんだな」 そう言えるほどお互いをよく知っていた訳ではないけれど、自ら作っていた檻の中で寂しさにうち震えていたのは同じだから。 「……本当だね」 「ああ。けど……サンキュ」 自分が自分以外の誰かの支えになる事がある、それは自分にとっても支えになってくれるから。 直接伝えるのは難しいのに、それをこうやって伝えてくれた君に 杉菜とは違う気持ちだけど、確かに君が残してくれたものも『ここ』にあるから。 だから、心から、感謝を。 「あららら〜、な〜んだかイイ雰囲気だねぇ……」 出歯亀さながらに葉月達を見遣って藤井がしみじみと言う。 「わたし、杉菜ちゃん以外にあんなに優しそうに笑う葉月くんって初めて見た……」 「本当ね。まぁ、恋愛感情は絡んでなさそうだけど」 対杉菜用の微笑みはもっとラブラブオーラが漏出しまくっているので、さすがにそれは理解できる。ラブラブフィルターの代わりに友愛フィルターがかかっているようなものか。 「そうですね……。でも、ああいう関係も素敵だなって思います」 「けどなんかよ、見ててむずがゆいっつーか」 「アンタってばホント、珠美になーんにも教えてもらってないねぇ」 「どういう意味だよ!」 「そういう意味でしょう。……本当に美味しいわね、このケーキ」 有沢がサクッとツッコんでからケーキを口に入れる。その一言がきっかけで、話題は鈴鹿イジメから手作りケーキの話、更には一昨年の氷室学級出展物に移る。 「――――杉菜?どしたの?」 皆が楽しそうに話している中、隣で一言も発しないままの杉菜に気づいて、藤井は他の面々に気づかれないように囁くように訊ねた。 「なに?もしかして眠い?」 「……ううん」 否定はするものの、彼女の様子はどこか心ここにあらずといった様子。藤井は軽く首をかしげる。 (……どしたんだろ。最近こういうこと多いなぁ。疲れてんのかな……いやでも杉菜の睡眠時間と体力と回復力を考えるとそれはないか〜) 他の者に勘付かれるのもどうかと思ったので、何気ないフリを装ってそのまま杉菜の視線の先を辿る。 辿った先にあるものを認めて、更に確認するように杉菜の顔をちらりと見て、藤井は今度は心の中で大きく首を捻った。 (………………も〜しか〜して〜ぇ…………) いやでもちょっと待ってよ? 杉菜ってば相変わらずのプレーンな表情だし? まさか、…………うん、『まさか』だよね、それこそ。 けど……なんかちょっとこれってアレじゃない?アタシだったら間違いなくアレ、だよね。 ひょっとして、もしかして、杉菜ってば――――。 「……何百面相してるの、奈津実」 「へ?」 有沢の声に思考を寸断されたと同時に、杉菜が唐突に立ち上がって、藤井は驚いて傍らの心の友を見上げた。 「―――杉菜!?」 だが杉菜は藤井の声も聞こえないように、そのままスッと身を翻してテーブルを離れた。離れついでに中庭の端で談笑(?)している葉月達の方に歩いていく。 「……なんだ?」 「どうしたんでしょう、東雲さん……」 「杉菜ちゃん……?」 周りの面々も呆気と謎に満ちた面持ちで彼女の後ろ姿を眺める。その姿にはいつもと変わった動きはないが―――― しかし。 立ち位置の関係で丁度杉菜達のテーブルに背を向けたようになっていた葉月は、ふとジャケットの袖をくん、と引かれて振り向いた。 「……杉菜?」 どうかしたのかと言外に訊ねたが、押し黙ったまま見上げてくる瞳には不可解な色。 「どうした?」 口に出して再び問うと、今度は声が届いた。 「……そろそろ行かないと、更衣室」 ほんのわずか、いつも注意深く聴き続けていなければ判らないほどの、固さ。 葉月は一瞬眉を顰めかけたものの、杉菜の表情はあまりにも変わらないので、すぐに表情を戻した。 「……?――――ああ、もうこんな時間か……」 思ったよりも会話に気を取られていたらしい。押し花は作り続けているのか、という質問からモチーフとしての植物のデザインやレイアウトなど、物作りを趣味とする職人気質同士ならではの熱き語らいに話が移行していたので、うっかり時間の経過を忘れていた。 「そうだな、そろそろ行くか。――――それじゃ、俺、ここで」 葉月が押し花の女(という表記がいいものか悩むがとりあえずこう呼ぶ)を振り返って告げると、彼女は心得たように笑って頷いた。少なくとも葉月と普通に話せるようになりたい、という彼女の野望はすっかり実現できたようだ。 「うん。……今日、会えて本当に良かった」 そう言って彼女は葉月の背に隠れている――というより体格差の問題でそう見えるだけだが――杉菜に顔を向けた。 観察中の藤井達はすわ「現カノと元カノ(←違うだろ)の直接対決!?」とか思ったようだが、生憎そういう展開にはならないようである。杉菜が葉月の前に進み出て、優雅な一礼をもって押し花の女に挨拶したからだ。 「初めまして。お話中のところ、お邪魔して申し訳ありませんが、時間が来てしまいましたので失礼致します」 見事なまでの杉菜スタイル(なんだそれは)で相対すると、相手の方も慌てたように一礼する。 「あ……その、こちらこそ、はじめまして。忙しいのに、お時間を取らせてしまってごめんなさい」 社会人のような応答が交わされて、何かを期待していたギャラリーはガックリと肩を落とした。杉菜がいてそんなお約束展開になる筈もない事を、皆うっかり忘れていたようである。 「じゃあ葉月くん。わたし、劇見終わったらすぐに帰るから……」 「ああ。気をつけて帰れよ」 「ごきげんよう」 さっくり和やかに別れを告げて、葉月は杉菜を連れ立ってテーブルに戻った。肩を抱くまではしなかったのは背後から投げかけられる視線が照れくさかったからかも知れない。 葉月達が戻ってきたので他の面々もタイムリミットと判断し、それぞれに席を立って会計を済ませた。男性陣はともかく女性陣はこれからドレスアップ&メイクアップの時間である。数人程度の規模ではないので少し早いが後方へ移動を開始した。 「……大丈夫か?」 歩きながら、葉月は隣を歩く杉菜に訊ねた。 「……え?」 「その……緊張とか、そういうの。おまえ、さっき様子変だったから。もしかしてって思って」 「緊張……?ううん、アドレナリンの分泌量は正常時と変わらないけど…………変、なのかな、私……?」 「さあ。変って言っても、そんなにおかしいってほどじゃないし。俺の気のせいだったら、悪い」 「ううん、心配してくれてありがとう。…………べつに、なんでもない……と思う」 確かにこうして見る限りではいつもと変わらないのだが、少し引っかかるような気はした。 「そうか……?」 「うん。上手く説明できないから、多分、なんでもない」 相変わらずさらりと言い流されて、葉月は少し鼻白んだ。 (……なんでもなくないから、説明できないんだろ、普通。けど、無理に訊くのもな……) そう思っていると、今度は杉菜が訊ねてきた。 「珪こそ、楽しそう。さっきの人のおかげ?」 「ん?あ、ああ……そうだな。…………あいつにも、昔の自分と似たようなとこ、あって。けど、いい方にすごく変わってたから、ホッとした。楽しいって言うよりは……嬉しい、かな」 葉月がそう言うと、杉菜の瞳にさっきと同じような不可解な色が再び浮かんだように見えた。 「そう……?良かった、ね」 「…………?」 いつも通りに言おうとして、どこかそうなりきれない気配のかけら。それを感じて葉月は口を開こうとしたが。 「ハイ、到着〜!そんじゃ男性諸君、ここから先は女性専用。化けたあとの変身ぶりをを楽しみにしてろよー!見惚れて絶句したら夕飯奢ってもらうからねん♪」 藤井がちゃきっと宣言して、葉月の言葉はそのまま飲み込まれた。 舞台となる講堂にほど近い特別教室の一つが学園演劇女性キャストの更衣室兼控え室になっている。去年のトラブルを踏まえて厳重な警備の元、関係者以外は何人も近寄れない物々しい空間になっていた。喩えて言うなら、デパートの客用出入り口に警備会社のガタイのいいニィさん達がぞろりと立ってる雰囲気を想像してもらいたい。 まぁそれはともかく。 「バーカ!んな賭け乗るかってんだよ!第一おまえらのケバケバしいカッコ見たって見惚れるわけねえだろ!」 「ケバケバしいだぁ〜!?アンタね、あとで吠え面かかせてやるから覚悟してな!」 「か、和馬くんも奈津実ちゃんも、こんな所で吠えちゃダメだよ〜!」 「まったく……。緊張感がないというか、お気楽というか……」 「あはははは……。そ、それじゃあ僕たちはあちらですから」 守村が鈴鹿の腕を引っ張るようにしながら女性陣に別れを告げて、その場を去る。互いの顔が見えなくなるまで鈴鹿と藤井は悪態を飛ばし合っていたが。 「それじゃ、俺も行くから。……またあとで、姫」 愛しの眠り姫に寂しそうに告げてから、葉月も廊下の角に姿を消した。葉月の控え室は講堂内の用具室。舞台での音声などは聞こえるが、決して姫君の姿を見る事はできないように出番までぶっちゃけ隔離状態である。一応従者役の姫条が話し相手になっていいと言われているが、どちらもうんざりな計らい故にしばらく一人でぽつねんとしているだろう。ちなみに音声だけでも聞こえるようにしているのは、杉菜の声を聞かせる事で居眠りを防止させる為だそうだ。 何はともあれ、杉菜禁断症状に陥った王子が、どのように姫に邂逅するのか、筆者も頭の悩まし処である。 「あ〜も〜、なんだって葉月ってあーゆーセリフ似合うかねぇ。王子役ハマリ過ぎ!」 「そういうキャラだもんね……」 「制作スタッフの緻密な分析の元に生まれた王子の中の王子だもの、仕方ないわ」 三者三様に複雑微妙な溜息を漏らすと、更衣室のドアを開けてヘアメイク係の生徒が出てきた。 「あーッ、杉菜姫ってばやっと来た!さ、早く早く。髪の毛もいじるんだからのんびりしてられないよ!なつみん達は先に着替えちゃって!杉菜姫終わったら即メイクするから!」 そのセリフに引っ張られるように杉菜が部屋に入った後、続けて入ろうとした藤井はハタと気が付いた。 「どうしたの?奈津実ちゃん」 「いや、葉月王子はともかく、姫条ってシャワー終わったのかなって。今んとこ会ってないじゃん?さすがに遅いなーって」 「そういえばそうね。髪を乾かしてでもいるんじゃない?」 「あ、そっか。あーでも一応確認してくる、アタシ。出番はあとっていっても、あの王子様には常に目覚しがいないと危なっかしいしね」 体の向きを変えつつそう言うと、紺野がこれ以上ないくらいに目を見開いた。 「奈津実ちゃん……まさか、覗きイベント発生させるつもり!?」 「んなワケあるかってーの!!男子の更衣室前まで行って姫条来たか訊いてくるだけ!!」 「なるほどね、シャワーシーンじゃなくて、着替えを覗くイベントを選択する、という事ね」 「志穂までなに言ってんのッ!!」 奈津実なりに姫条を心配しているのが見え見えなのでどうやら親友二人はからかいモードに移行したらしい。須藤が加わっていたらまたエライ事になっただろうから、三人しかいない故に出来る技だ。 「それじゃ私達、先に準備してるわね。見つからないよう気をつけるのよ」 「お供の方によろしくね〜。あ、でもときめき度の低下には注意してね〜」 ガラガラ、ピシャン! 時間がない分サラリと言って、二人はさっさとドアを閉める。 「ったく〜!!そういうんじゃないっつーの!……いや、そりゃ多少は……だけどさ」 赤い顔で不貞腐れて、しかし考えた事を消化してしまおうと藤井は廊下をずかずか歩いて行く。 すると。 「おい」 「ハイ?―――って、葉月ぃ!?アンタ、更衣室行ったんじゃなかったの?」 横合い・やや斜め上から声を掛けられて振り仰げば、既に立ち去った筈の葉月珪。 「ああ……いや、ちょっと訊きたいこと、あって」 「訊きたいこと?アタシに?……めっずらしいこともあるもんだねぇ。明日は雹でも降るんじゃない?いや、ヤリ?それとも猫?晴れときどきネコ、なんちゃって」 使い古されたネタで茶化すが、相手は不機嫌な顔にはなったもののノっては来ずに本題に入った。 「……何か、様子おかしくなかったか?」 「何が。……って、杉菜のことに決まってるか。ん〜、まあそうかもね」 「そうか……。やっぱり気のせいじゃなかったのか……」 深く眉間に皺を刻んで、葉月は形のいい指先を顎に当てる。その真剣な様を見て、藤井は自分の中に悪戯心が芽生えてくるのを感じた。 「原因は、判ってるけどね?」 ニヤリと笑いながらそう言うと、弾かれたように葉月は顔を上げて藤井を見返した。真剣を通り越してかえって可笑しいくらいのその視線に、藤井は思わず笑いを堪える。 「……なんだ、それ。教えろ」 「あ、質問する相手にその態度はないんじゃな〜い?教える気なくなっちゃったなぁ〜」 「…………教え……て、ください」 「オッケーオッケー、最初っからそういう態度に出てればアタシも素直に教えてあげるんだってば。……けどねぇ?アンタ、想像つかない?」 「つかないから訊いてるんだろ」 「それもそっか」 さも満足そうにニヤリ度数を上げてから、藤井はおもむろに言った。 「アンタが杉菜に近づく男に抱いてる感情と同じっしょ」 「……?」 頭に血が上っている為か、これほど露骨なヒントにも気がつかないようなので、藤井は「しょーがないなぁ」という溜息一つを零しながら教え諭すように発言した。 「つーまーりー、アレよアレ!ジェラシーとかヤキモチとか嫉妬!」 ハッキリとそう宣言すると、葉月は忙しく瞬きをしてから思いっきり瞠目した。 「……ジェラシーって…………杉菜が、か……?」 「アタシが察するにそういうことだと思うけど〜?大切な人が他の女と喋ってるのを見てドロドロしたイヤ〜な感じがする、といえばそれっきゃないでしょ」 ドロドロ云々は藤井の捏造だが、それをもっともらしく断定口調でフフンと言ってやると、言われた方はフリーズしたかのように駆動停止した。 しばしその格好で固まったあと、ようやく思考回路が繋がる。 ジェラシー?ヤキモチ?嫉妬? あの杉菜が? 俺が他の女と話してた、その事に? まさか。 そうだ、まさか、だろ。あり得るはずない事だ、今までは。 けど、もし本当にそうだとしたら。 どうしよう、どうすれば。 俺……俺――――。 「…………っ……!」 ストン、と心の中で全てが理解出来た瞬間、顔どころか体中の体温が上がった。顔が一気に真っ赤になっていくのが自分でも解った。 もしそうなら…………俺、嬉しくて、たまらない。 脈が速い。 体が熱い。 心が―――弾ける。嬉しさの、あまり。 笑みこそ浮かべていないものの、口元を手で押さえて、そらもう嬉しさ200%超のオーラ大放出叩き売り状態になった葉月を見て、その原因になった藤井はこれまた目を見開いて葉月の沸騰具合にビックリしていた。 (うっわあぁ〜〜〜……な、なによ、葉月、カワイイ!カワイ過ぎ!!うわ、萌える、これはマジで!!) 藤井も釣られて真っ赤になって唖然とする。 「――――――ッ」 葉月はそんな藤井の視線に気付いてか、顔を真っ赤に染めたまま憮然として足早に自分の更衣室へと向かって行った。子猫イベントといい今といい、どうやら藤井には滅茶苦茶気恥ずかしい場面を見られる宿命のようだ。 一人残された藤井は彼の後ろ姿をボ〜ッと見送りながら、感嘆の溜息を深々と吐いた。 「……いっや〜、なんかもう、もんのすごくイイモン見させて貰ったって感じ……。葉月の奴、メロメロじゃん……」 あ〜、こんな時に限ってカメラ教室に置いてあんのよね、しくじったなぁ……ちっ。 「お?なにしとんねん、自分」 舌打ちを鳴らして悔しがっていると、姫条が石鹸の香りと共に現れた。制服に洗面器を持っている様は何とも珍妙ではあるが、爽やかな事には違いない。(どこから洗面器を持ってきたかという事は訊かないように) 「……あ、姫条?なにアンタ、今までシャワー浴びてたの?気合い入り過ぎー」 「んなワケあるかい。うっかりドライヤー忘れたもんやから、借りるのに時間かかってしもてな。ようやく髪が乾いたとこや。――――で、自分こそ何しとったん?『もんのすごくエエモン』って何のこっちゃ」 藤井の言葉が聞こえたのだろう。数分前の出来事を思い出して、藤井がテンション高くかくかくしかじかと解説すれば、何やら姫条は御機嫌ナナメ。深〜い溜息と共に大げさに眉を顰めた。 「自分なぁ……。そないに葉月に悶えとるなんて、オレのモグロッチは諦めたんかい」 「はぁ!?何よそれ。アンタねぇ、全然そんな接し方してもくれないくせに、こういう時だけそういうのはやめてよねー。ていうか、アンタだってさっきの葉月みたら絶対悶えるって!」 「そら悶えるやろ、キショくて」 「わかってないなー!あれはマジで萌え!ザ・萌え・オブ・ジ・イヤー!!守村くんのミトン&ポンポンマフラー姿なんて比べものになんかなんないって!」 比べる事自体間違ってるだろう。というかその喩えは絶対に違うだろう。 完全にハイになっている藤井がまさに萌えまくっているのを見て、自分でも解らないままに姫条は気分が荒んでいくのを感じた。 だがふと、何かを思いついたように、藤井の耳元に口を近づけて囁いた。それはもう、極上の甘さ加減で。 「たいがいにせんかい、オレもエエかげん妬くで……なぁ、奈津実?」 ピキーン。 藤井の動きが止まる。 したり、という顔をして、姫条がニヤリと笑いながら姿勢を戻した。 「――――――な〜んてな!……って、藤井?どないしたん?」 予想通り静かになって一安心と思ったものの、なかなか再起動しない藤井の顔を改めてよく見れば、完全に硬直してロボット状態である。頭の前から足の先まで、完璧に固まっている。 「……オイ、大丈夫か、自分……」 「…………き……姫条……今、アンタ、その、あの……」 やりすぎたか、と心配した姫条の声に応えるようにギギギと顔を上げて、藤井は姫条の顔を見上げた。 見上げて、その形を認識した途端。 火を吹くように真っ赤になって葉月同様手で顔を抑えて、藤井は遁走した。 「…………あ〜……」 ドダダダダと砂煙を上げんばかりに小さくなっていく姿を呆然と見送ってから、姫条はおもむろに頭を掻いた。 そして、その顔に浮かぶのは苦笑。 「……アカン。すっかりモグロッチになっとるやんか、アイツ」 心なしか姫条の顔もほんのり赤い(非常に判り難いが)。 今までのところ、藤井とは友だち付き合いしかしていなかった。 藤井からの告白以降も恋情を絡めた接し方は避けてきた。それは自分に杉菜への執着が残っていたせいもあるが、何より思わせぶりな態度で中途半端に期待を持たせて傷つける事はしたくなかったからだ。 しかし、思い返せば、何か事あるごとに真っ先に声を掛け合っていたのは彼女。 価値観も合うし、ノリも合う。まこと口を挟むもの無き無敵の高校生ドツキ漫才コンビ。杉菜には遠慮していた部分も、藤井には正直に触れられた。正直というには色気が無いが。 (性別関係無しに安心してぶつかれたっちゅうたら、確かにアイツしかおらんかったけど……) いや、そらよう見るとカワイイ顔しとるし、スタイルだってバッチリやし。 性格はサッパリしとるし、いると明るくなるし(ウルサイけど)、なんやかや言うたかて気配り上手ってとこもあるし。 せやけど、『そういう』対象として見とったつもりはなかった。 なかった…………はずなんやけどなぁ。 「なんや、ちゃんと『女の子』やん…………不覚」 不覚なのか。 藤井のしぶとい長期戦の効果が現れてきたのか、姫条にとって既に藤井は『女の子』。知らず知らずの内に、真綿で首を締められるように(?)ジワジワと浸透してきていた。その事にさっぱり気がつかなかった。 そう、ついさっきまでは。 「ホンマに不覚……。解ってても深みにハマッてくっちゅうのがモグロッチやとすれば、すっかり免許皆伝やん」 そう呟いた姫条の目は、苦笑の内にあってなお嬉しそうな輝きを帯びていた。 ガララララララーーーッ……ギシャン!! 「奈津実ちゃん!?ビックリした〜!」 「奈津実、どうしたの?……顔、真っ赤よ?まさか、熱でもあるの?」 バッファローの如く猛進しながら部屋に飛び込んできた藤井に、紺野と有沢、そして周りの生徒が不審極まりない視線を浴びせる。ちなみに須藤は別室で専属ヘアメイクによりドレスアップ中。いたら間違いなく一言あったに違いない。 「……い、いや、なんでも……」 なんでもないという状況には見えないほどの狼狽具合なのだが、それを言っただけであとはひたすら荒い息をぜーはーぜーはー繰り返しているだけなので、誰も何も問わなかった。第一そんな暇はもうない。開幕までの時間は確実に少なくなっている。 「藤井ちゃん……。準備、すぐに出来そう?それともラストにする?」 珍しく戸惑いがちに鈴木が訊くと、藤井はハッとしたように彼女と顔を合わせてブンブンと頷いた。 「ゴメン、そうして。今はちょっと、火照り、おさまんない。てか、水飲ませて」 舞台前なので本来水分摂取は控え目にしたいところだが、今はそんな事に構っていられない。鈴木は意を解して手近に用意してあったペットボトルを取って藤井に渡した。 「了解、ハイお水。それじゃ……そうだね、東雲ちゃんでも眺めて気分落ち着かせてちょうだい。あ、かえって興奮するかな?」 示された先に視線を投じれば、そこには化粧とウィッグを施された姫君が端然と座っていた。 「……うっわぁ〜……こないだも見たけど、今日はまた一段とキレイじゃん、杉菜!!」 「この前はウィッグが仕上がってなかったしね。ウン、ワタシとしても大満足♪」 ドレスはまだ着込んでいないものの、いつもと違ったロングヘアーの彼女は本当に掛け値なしの『姫君』であった。確かに興奮はするが、それ以上に見惚れて和む割合の方が多い。事実藤井の顔は既に蕩けている。 「……あ、奈津実」 藤井に気がついて杉菜がこちらを見ると、藤井はようやく呪縛から解かれたように杉菜に駆け寄った。 「あ〜もうアンタ可愛すぎ!最高!ドレスなしでこれだもん、ドレス着たらもっとキレイなんだろうな〜!このウィッグって、前に言ってたママさんの?」 「うん、お母さんが昔切った髪で作ったの。取っておいたの、役に立って良かった」 「そりゃあのパパさんがママさんの髪を捨てさせるわきゃないもんね。うわ、超サッラサラー!長さも結構あるよねぇ。でもでも、ロン毛のアンタってすっごい新鮮。はぁ〜こりゃ王子様じゃなくても一発で恋に落ちるよ〜!遠藤ちゃん、グッジョブ!!」 ヘアメイクを担当した三年の遠藤(ヘアメイクアーティスト志望)に賞賛を贈ると、贈られた方も満足に拳を握る。 「奈津実、顔赤いけど、大丈夫?」 杉菜をメロメロ顔で愛でている藤井に、唐突に杉菜が訊ねた。訊ねられて、藤井は一瞬言葉に詰まる。 「交感神経、かなり異常あるみたいだから……本当に大丈夫?熱とか、ない?」 「……交感神経ってアンタ、そのネタ何度目?」 そう言って藤井は、メイクに触らない程度で杉菜の肩にこてんと頭を乗せた。それを見て、杉菜は周りに聞こえないくらいの音量で藤井に声をかけた。 「……奈津実?」 同じくらいの小さな声で、藤井の声が響く。 「……大丈夫だけど大丈夫くない。……アンタさぁ……」 「何?」 「よく平気だよね」 「……何が?」 「呼ばれるの」 「……誰に、何を?」 「………………名前を……好きな、男に」 最後の二語は殆ど聞こえないくらいに。 「…………奈津実、ニィ――――――」 「だぁーーーッッッ!!」 顔を上げざまいきなり藤井が吠えて、部屋中がビクッと怯えた。杉菜ですらさすがに目を見開いていると来た。 「あーもう、こんなのアタシのキャラじゃない!てか、こんなんでビビってるなんてアタシらしくない!!アタシが目指すはモグロッチ!あ、いやその喩えはナンだけど、とにかくそーゆー魔性の女!ドキンちゃんなの!峰不二子なの!この程度で怯んでちゃ藤井奈津実の名がすたる!!」 真っ赤な顔のまま一人熱く叫んでいるのを、周りの人間は唖然として眺めていた。 「―――よっしゃあ!!気合一閃、舞台にかけろ!アタシはやるぞーーーッッッ!!」 勢いついでに両の頬っぺたをバチンと引っぱたこうとして―――その動きが止められた。 「……詳しい事はともかく、そんでもって気合入れようとしてるのは非常にヨロシイ事なんだけどね」 藤井の両手首をガッチリとつかんでいるのはもちろん鈴木。にこやか〜に微笑みながら、その目はちっとも笑っていない。 「ここで更に頬でも腫らしたりなんかしたら――――――奥歯ガタガタ言わすよ?」 「…………ハイ」 何はともあれ、舞台は幕を開けるのである。 |
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