−第39話− |
変。 そう、かも知れない。 けどそれは、今に始まったことじゃなくて。 「はーい、じゃあ今日はここまで!」 鈴木の声がステージ上にこだまして、同時にキャストやスタッフ達が一斉に大きく息を吐く。疲労の内にありながら、その表情はどこか明るい。 文化祭を目の前にして、学園全体がお祭騒ぎを控えた賑やかさで満ち満ちていた。校舎や校庭、体育館や屋上に至るまでそこかしこから騒がしさと楽しさ、そして時折屍の趣きをした声が響き渡って秋の夕暮れを彩っていた。 勿論学園演劇に参加する面々も連日の通し稽古とダメ出しを経て、氷室言うところのエクセレントな舞台の完成へと近づきつつあった。総監督の鈴木が率先して張り切りまくりの動きまくりのと立ち回っているので、上手くノセられた各人も張り切るという好循環。不況下で人員を酷使するだけの企業の経営陣に是非とも見習って欲しいものである。 「紺野ちゃん、時間の方はどう?」 「うん、前とほとんど変わらなかったよ。セットの移動時間とか入れても、大体この時間でOKだと思う」 ストップウォッチで何やらタイムを計っていた紺野に、鈴木は満足そうに頷いた。 「よっしゃ、これで東雲ちゃんのタイマーはほぼ決まったようなもんだね。東雲ちゃん、ちょっとこっち来て!」 「うん」 呼ばれて杉菜が鈴木に近寄る。手渡した台本のキャスト別備考欄は既に真っ黒だが、なおも間隙に鈴木はあれこれ書き込んでいく。 「いい?呪いを受ける瞬間のシーンからクライマックスにおける王子様とのキスシーンまで、ほぼこのタイム。この間は完全に眠ってていいからね。アドリブの入り具合によっては多少前後すると思うけど、大体この時間には起きてちょうだいね」 「うん、解った」 その打ち合わせの様子を見ながら他の出演者達は苦笑していた。 「鈴木ちゃんてば杉菜の特異体質まで利用しちゃうんだもんな〜」 「いや、せやけど呪いを受けたっちゅうリアリティは確実に出るやろ。杉菜ちゃんの瞬間入眠は知っとってもビックリするんやから、一般のお客さんが見たらエライ驚くで」 「うん、その通りだね。けれどだからこそこの劇に彼女はうってつけなんだ、ボクはそう思うよ」 「ですが、それで彼女の睡眠時間まで確保するっていうのは……一石二鳥というか」 「運び手役が大変だけどな。東雲抱えて舞台裏行ったり来たりするんだからよ」 「って、それ私と有沢さんだよ……」 「あら、それは当然よ。まさか色サマとミズキに彼女を運ばせるわけにはいかないでしょう?かといって男子に運ばせるなんて問題外だし」 「それはそうだけど……舞台裏の移動はちょっと不安ね……」 流石に男に任せるのもアレなので、基本的に姫は女性陣によって搬送されるのである。紺野は力もあるだろうが、果たして有沢はいかがなものか。 「ところで葉月はどこ行ったの?」 「葉月?奴ならさっき衣裳係に呼ばれて裏に行ったぜ。王子の衣裳できあがって来たんじゃねえか?」 「あーそういえばそんなこと言っとったなぁ。……って、そないいうたらオレも稽古終わったら来い言われてたんや!アカン、ほな行ってくるわ!!」 脱兎の勢いで駆けり去って行く姫条を見送って、再度皆が苦笑する。 「姫条くんもさすがに疲れてるみたいですね」 「そりゃあの葉月王子のフォローしてんだもん、疲れないワケないって」 重々しく頷く藤井の言に、その場にいた全員は賛同の感情を禁じ得なかった。 「けどちょっと楽しみだね、葉月くんと姫条くんの衣裳」 「う〜ん、葉月はともかく姫条はどうだろ。何しろ色黒いし、葉月が王子チックな衣裳だと姫条の従者衣裳ってつり合いとれなさそうな気がすんだけど。このアタシの情報収集能力をもってしても二人のデザイン調べつかなかったんだよねぇ」 ちなみに姫周りのドレス提供に関しては須藤が例の調子で申し出たものの、舞台がなんちゃってドイツなのでおフランスなドレスはそのままでは使えない。一部手直しする感じで用いられているが、やはり一から作る物も多い。 その最たるものが王子(とその従者)の衣裳。鈴木が知り合いのデザイナー(ゴローにあらず)に頼んでデザインして貰ったらしいそれは、今のところ企業秘密状態で手芸部の衣裳担当者のみに預けられていた。 「俺、本っっ当に王子役じゃなくて良かったぜ……。王子の衣裳っつったらアレだろ?ヅカの男役が着てるようなビラビラした奴だろ。そんなのぜってー着たくねえもんな」 こっちだって見たくない。似合うのは葉月と三原くらいである。 「そ、そうですか。でもどうなんでしょう、鈴木さんが今さらそんなベタな路線で満足するでしょうか……」 「守村くん、なにげに鋭いトコついてくるねぇ……」 GSメイトがあれこれ想像を膨らませている傍ら、杉菜は鈴木と未だ打ち合わせをしていた。 「――――と、こんなところかな。……東雲ちゃん、どうかした?なんかおかしいトコあった?」 現段階での注意事項についての説明を終えて、フム、とペンを持ち直した鈴木が、杉菜の様子に引っかかったように訊ねた。 「ううん、そうじゃない。ただ……」 「ただ?」 「これ……上手くできるかどうか、自信ない」 そう言って指差したのは、クライマックスシーンの一部分。鈴木による特記事項の中で、一番始めに記載され、かつ最も重要な事項として強調されている一文だ。 「あ〜、そこね」 他のシーン全般において、ほぼ鈴木の思い描いた通りの演技をしている杉菜だが、確かにこのシーンのこの演出だけは難しいかも知れない、そう思った(まあ思い描いたと言ってもいつもの杉菜そのまんまなので演技というのもなんなのだが)。 だがしかし、それができなければこの舞台は失敗に終わる。氷室の魔女役なんぞ足元にも及ばないほどに重要な要素。 それだけに杉菜も不安を感じているのだろう。 「うん、まあ、ね。難しいかな〜とは思うんだけど、でもどうしても外せないからさ。何とか頑張ってやって欲しいんだよね、そこは」 「解ってる。……けど、出せるかどうか、解らない」 「ウ〜ン……そうだなぁ……。観察する、とか?」 「観察……?」 「そ。東雲ちゃんが今まで生きてきた中で、一番近いって思ったものをじっくり観察して、それを再現してみるとか。形態模写は上手なんだし、それの応用でできない?」 「生きてきた中で、一番近いもの……?形態模写で?」 「ウン。それを見て、嬉しいって思ったこととかあるでしょ。そういうサンプルを探してさ。……お、王子と従者、ご登場みたい」 鈴木が視線を別の方向にやったので杉菜もそちらを向いた。他の生徒達に迎えられるように、葉月と姫条がステージの袖から出て来た。 が。 「……え!?」 「なんだァ、そのカッコ!?」 「まさかそれが王子の衣裳?」 「ウソ〜ッ!!」 感嘆、というよりは意外性の響きをした声が多くステージを支配した。 「なんだよ、その格好!普通じゃねーか!」 「王子とその従者っていうよりは……」 「LOTRのアラゴルンだね……」 「もしくはRPGの『ジョブ・旅人』ってやつ?」 「まったくや。オレもどないな服ができるんかな〜思て正直楽しみにしとったんやけど、フタを開けたらこの通りや」 ゲームでの葉月の王子様衣裳を期待した人は残念でした。そう、二人の衣裳は『王子とその従者』ではなく、ハッキリ言って『二人連れの冒険者』であったのだ。 色彩はこれでもかと言わんばかりにグレイカラーが入った地味なもの、服のデザインも華美とは対極にあるシンプルさ、マントは森の中で見事な保護色となる小汚さ。腰に佩いた剣モドキは実に無骨で色気がない。 しかし、着用者が稀なる美形であるゆえか、そこはかとなく漂う高貴さ・格好良さは逆に強調されている。つくづく美形は得である。 「似合う似合う!やっぱこっちの案で正解だったね!」 鈴木がご満悦の表情で二人に近づくと、王子様達はなんとも複雑な表情で見返した。ヅカチック衣裳を着なくて済んだのは幸いだと思ったようだが、これはこれでどうなのか。 「結構重いぞ、これ……」 「そりゃ仕方ないでしょ。王子と勇者は旅の途中なんだから。まさか手ぶらで森の中ほっつき歩いて旅する訳にもいかないでしょ?それでも大分軽くしたんだから、文句言わない」 「ってことは最初はもっと重かったんかい……」 何を装備させるつもりだったのやら。とりあえず姫条のリュックからぶら下がっているフライパンが妙に観衆の涙を誘う。 「ハァ……も〜ちょっと端正なオトコの魅力溢れる衣裳やと思っとったから、なんやほんのり寂しいなぁ……」 「あのねぇ、いかにも高そうな服着てたらあっという間にカモじゃない。いくらおとぎ話だからってそんなの許せません」 非常に現実的な意見で姫条の嘆きをスッパリ切り捨てた後、鈴木は他のスタッフや出演者との打ち合わせに走っていった。学祭委員長としての任務もあって休む暇もなく、それ以前に家に帰っているのかさえ怪しい程なのにそのバイタリティーには全く衰えがない。『スタミナ』のパラメータがあったら軽く300は超えているのではなかろうか。 それはともかく衣裳はほぼ出来上がり、劇自体も一部アドリブシーンのみ抜かしてほぼ完璧に仕上がった。あとは全員分の衣裳合わせと最終確認をして数日後の本番に備えれば良いだけだ。 「しっかしまあ、葉月も姫条も良かったじゃん。和馬のセリフじゃないけど、ビラビラキラキラなフリルやらレースやらごってごてになったお貴族スタイル、しなくて済んでさ」 「そらまそうやけどな」 「しょうがないよ、そんな美麗な衣裳をまとう資格があるのは世界広しと言えどこのボクくらいのものだからね。ウン、くじけちゃダメだよ」 「いや、誰も着たくねえって」 「そうですね、僕もちょっとそれには抵抗が……」 フリルやレースが似合いそうな人間に言われてもどうかと思う。 「……どうした?」 周りがワイワイと騒いでいる中、憮然としているのか単に眠いのか、ろくすっぽ話にも加わらず黙っていた葉月が、やはり傍らにいて黙っている杉菜に声をかけた。 「……え?」 「俺の顔。見てるだろ、さっきから」 葉月の言う通り、杉菜は先程から沈黙を守ったままでジッと葉月の顔を見上げていた。問われて気がついたように瞬きをする。 「あ……うん」 「何かついてるのか?……それとも変か?この衣裳」 王子用という事で小汚い割にもややノーブルの香りを漂わせた衣裳を見下ろして葉月が問うが、彼女はそれには首を横に振った。 「ううん、そうじゃない。……観察、してた」 「観察?」 「そう」 「何を?」 「眼輪筋と口輪筋と大頬骨筋。あと頬筋も」 「…………つまり、表情筋か?」 「うん」 「どうして?」 「……参考」 「参考?」 「うん……ちょっと」 「……そう、か」 相変わらず淡々とした会話である。実に無駄に行数を食う二人だ。 葉月が半ば隠居じーさん化した後、この二人の物理的距離はラブラブバカップルの域にまで達している。登下校は勿論の事、選択別授業とトイレタイム以外の殆どの時間を共有していた。学校の外でも、ほぼ毎日夕飯にはお邪魔しているし、空いた時間は二人で受験勉強(必要なさそうだが)、休みは森林公園で例のストリートパフォーマンス付きのデートなど、非常に青春を謳歌した生活を送っている。 が、物理的距離や精神的距離が近づこうと遠ざかろうと、二人の言動にはさほどの変化は見られず、周りの友人達も苦笑するのが常であった。 当人達が幸せならそれでいいのだが、この二人の場合葉月はともかく杉菜が幸せ一杯なのかどうかが実に窺い切れず、どうにも判断がつきかねる関係ではあった。 「残念だったねぇ、葉月。杉菜の晴れ姿、当日まで見られないなんて♪」 藤井が二人の会話に割り込むように混ざって杉菜の肩を抱く。 「……そうだな」 「おっ、珍しく素直やないか。まぁ明日、葉月がバイトでおらん時にフルバージョン合わせて最終確認する言うてたから、自分の分までオレがしっかり杉菜ちゃんのドレスアップを拝んどくわ。あ〜、もうメッチャカワイイやろな〜!」 「…………」 「は、葉月くん、目が据わってます!姫条くんもそういう冗談は洒落にならないからやめてください!」 「ほっとけよ守村。こいつら、これがコミュニケーション手段なんだからよ」 呆れかえりの眼差しで鈴鹿がツッコむ。葉月が姫条にとっていいオモチャと化してから久しいのだが、それでも律儀に止めようとする守村も真面目な男である。どうでもいいが『男』という漢字が守村というキャラにはすこぶるそぐわない気がしてならないのは筆者だけだろうか(←まったくもってどうでもよろしい)。 「でもさ」 藤井が杉菜の肩を抱き寄せたまま言う。 「高校最後の文化祭がこんなに明るい気分でできるのって、すっごい幸せだよね!」 こまかいバタバタはあったとしても、たった一日の祭の為だけに結局皆で楽しんでいる。去年の事を思い出して、その場にいたほぼ全員が穏やかに笑った。 「……そうね、幸せな事よね」 「藤井さんったら、たまにはいいこと言うじゃない!」 「『たまには』って、アンタ、一言余計だっつーの!」 「ふ、二人とも〜」 いつもの日常、いつもの会話。 ささやかな事だけれど、それが一番大切なのである。 「おや、杉菜君じゃないか?」 木曜日の放課後、校舎裏で猫一家と何やら交流している杉菜の後ろから声がかかった。振り向いて見れば、そこに立っていたのは二人の成人男性だった。かたやイギリス製のスーツをバシリと着込み、かたやなんとも奇妙な服を着ている。まこと形容しがたい奇天烈な組み合わせだ。 「え?あら、ホントだワ!ウッフフフ、奇遇ねぇ杉菜ちゃん!」 「……あ、天之橋さんに、花椿先生……こんにちは」 「ああ、こんにちは。こんな所で一人で何をしていたのかな?――ああ、猫だね」 「はい。珪……葉月くんがいないので、様子を観に来ました」 「そうか、今日は彼は仕事だったね」 にこやかに頷く天之橋の横で、花椿は杉菜の周りにいる猫に目を奪われたようだ。 「んまっ、カ〜ワイイ猫ちゃんたち!アタシも触りたいワ〜!」 クネクネと悶えながら近寄ると、猫達は一斉に全身の毛を逆立てて慌てたように遁走してしまった。 「ア〜ラララ、残念……。アタシの美しさに怯えちゃったのカシラ?」 「……怯えたのは間違いないだろうが、美しさが原因では決してないだろう……」 深々と苦渋の溜息を落として天之橋は額を押さえた。 「すまなかったね、せっかく遊んでいたというのに」 「いいえ、お気になさらず」 本当に気にしていないようで、天之橋はホッとした。 「今日は舞台稽古は終わったのかい?先程までとても講堂が賑やかだったようだが」 「はい。今日は衣裳合わせと打ち合わせだけだったので」 「そうか。君のドレス姿はそれはそれは美しいだろうね。当日を楽しみにしているよ。――――ところで、東雲先輩や桜姫は元気かい?」 「はい」 「そうか、それは良かった。まあ、あの二人が体調を崩すというのは想像つかないが。おっと、これは失言だったかな?」 「一鶴ったら!失礼も失礼よ、プンスカプン!でも最近先輩にも桜ちゃんにも会ってないワネェ。たまには一緒にレバ刺しでも食べに行きたいワ〜」 「伝えておきます」 東雲夫妻と天之橋・花椿コンビ。実はこの組み合わせ、昔っからの知り合いである。 花椿が高一の時、当時三年生で生徒会長を務めていたのが寂尊だった。この性格からして一般人とは離れた次元で意気投合していた二人であったが、花椿がその後留年して天之橋と合流した年、後に寂尊の奥さんとなる桜も二人と同級生になった。後輩・ゴローの様子を観るついでに大学生の寂尊がはば学の文化祭に遊びに来て、桜の上段後ろ回し蹴りを喰らうという運命の出会いをした事は14話で述べたが、そういう繋がりがこの面々にはあった訳だ。 つまり、天之橋や花椿にとって杉菜は姪っ子のような気分になる存在なのだ。さすがの天之橋も、生まれてすぐの新生児時代に抱き上げた相手に対していかがわしい邪な想いを抱かないようで、非常に何よりである。……いや、多少はあるかも知れないが、それは世界の平和の為に秘めておこう。 「なぜレバ刺しなんだ……。それはともかく……そうだね、クリスマスパーティの時にでもご招待してみようかな。久しぶりに二人の元気な姿を見てみたいしね。……ああ、しかしそうすると杉菜君が一人になってしまうな」 尽は眼中外ですか、理事長。 「そうよ一鶴!せっかくのパ〜ティ〜♪に杉菜ちゃんが来られないなんて酷すぎるワよ!何とかできないの!?」 「ふむ……」 「どうぞ、お構いなく。私、気にならないので」 「ノン!ダメダメ〜!こういう機会には積極的に参加しなくっちゃ、人生の楽しみ半減よ!?それにアタシ、杉菜ちゃんのためにそれはもう素ン晴らしいドレスのデザイン閃いちゃったんだから!それを着て貰わないと、アタシ泣いちゃうワよ!」 「見苦しいからそれだけはやめないか、花椿。……しかし、やはり今年のパーティについては少し考えてみるよ。折角皆が楽しんでいるのに、杉菜君だけが楽しめないのは不公平だからね」 軽くウィンクをして、天之橋は悪戯っ子のように笑った。こういう時だけはまともに見える。 「……お気遣い、ありがとうございます」 「いやいや、頭を下げる必要はないさ。むしろ今まで気が利かなかった私が悪いからね。それに可愛い杉菜君の為なら、気遣いをするのも嬉しいものさ」 「あら〜、一鶴ってばなかなかイイ事言うじゃな〜い?ご褒美にアタシのチッスでもあげちゃおうかしら」 「要らん!心の底から要らん!!」 一転して恐怖と焦りに見舞われた天之橋が首をブンブンと横に振る。冗談とは分かっているが、冗談でもやりかねないのが花椿。長い付き合いだからこそ相方の性格はよ〜く解っていた。 「あ〜ら残念。でも、そうと決まればアタシは早速アトリエでドレスの制作に取りかかるワね。クリスマスには感動の溜息を一身に受けるビューティフルな女神サマの降臨よ!アン、もうこうしちゃいられないワ!それじゃあ一鶴、杉菜ちゃん、アデュ〜☆!」 「……アデュー」 「……無理してあいつに付き合わなくてもいいんだよ、杉菜君」 くねりまくったまま立ち去った花椿に送る言葉を聞いて、天之橋は苦笑した。小さい時から見ているが、こういう時は律儀な子である。そういうところは好ましいのだが、相手が花椿では素直に褒められない。複雑な心境である。 花椿が去った為か、猫が一匹二匹と戻って来て杉菜の周りに集まる。天之橋もたまに猫一家の様子を観に来ているので、彼にも人見知りせずに寄って来る。もっとも8:2の割合で杉菜に纏わりついているし、葉月がいたら確実に天之橋に寄っていく猫は0だろうが、まあそれは置いておこう。 「すっかり君に懐いているね」 「……餌付けしてるから、だと思います」 正確には餌付けしているのは葉月だが。 「そうかな?私にはそれだけとは思えないよ。小さい頃から君は動物に好かれる事が多かっただろう?純粋な存在こそ君に惹かれてしまうのかも知れないね」 「純粋……ですか?」 「そうさ、君もまたとても純粋だからね。一緒にいてホッとするような気分になる。それは……そうだね、澄み切った青空や紺碧の海を眺めていると心が透き通っていく気がする、それと似ているからかも知れないな」 「純粋……なんですか?私……」 「そんなに不思議そうな顔をしなくてもいいんだよ。自分では解らないものだからね」 穏やかに笑って、天之橋は足元の猫を抱き上げてその頭を撫でる。気持ち良さそうに喉を鳴らす音が、淡瑠璃色と薄茜色が交差する空にか細く溶けていく。 「……ところで、このところ何か悩み事でもあるのかな?考え込むような仕種が多いから、少し気になっていたんだが」 猫を撫でながら、天之橋は静かに訊ねた。杉菜は軽く首をかしげる。 「……悩み事、っていうんでしょうか。劇の事で、少し」 「学園演劇かい?とても素晴らしい演技だと皆が褒めているようだが……それがどうかしたのかな?何か不安な事でもあるのかい?私でよければ相談に乗るよ」 下心の有無は判らないが、何はともあれ生まれた時から知っている人物だけに杉菜も多少は気を許したらしい、こくんと頷いて言葉を続けた。 「不安……と言えば、そうかも知れません。……最後のクライマックスシーン、アドリブなんです」 「ああ、そう聞いているね。アドリブでセリフが出ないかも知れない、それが不安なのかな?」 「……いいえ、そうではなくて…………笑えない、から」 「笑えない……?」 「はい。そのシーン、台本に……『王子に最高の微笑みを向ける事』ってあるんです。『姫』だけの特記事項で」 杉菜は腰を下ろして足元の猫を撫でながら言った。 「私……今まで笑った事、ないから……」 「…………フム」 天之橋は無表情で呟く杉菜を見下ろして、わずかに眉を寄せた。 小さい頃から知っていて気にも掛けているが故に、天之橋も杉菜の感情表現については多少なりとも知っている。確かに彼の知る限り、杉菜が笑っている姿を見た事はない。それは実に残念無念極まりない事だと思っている。 だが、それが気にならないくらいに伝わってくるものがあるのも事実。だから誰も特には追求しない。無表情すら彼女の世界を表す一つのファクターなのだ、と。 今まではそうして過ごせてきたものが、しかし今回だけは事情が違った。出来ない、といえば簡単だがそれでは話がまとまらない。まったくもって舞台の成功の鍵を握るのだ、杉菜の微笑みは。 「表情筋の動きは把握できました。サンプルをたくさん観察しましたから。けど……違うみたいだから、それじゃ」 「なるほど……ここのところ君に見つめられて舞い上がる生徒が続出していたというのは、そういう理由があったからなんだね」 どうやら葉月だけに留まらず、他の生徒も杉菜の観察(見ようによっては熱い眼差し)を受けていたらしい。受けた方にとっては幸せだったろうが、もれなく葉月のブリザード・アイが付いてくるので、まさに『天国と地獄』を一気に味わえる貴重な機会だったと推察される。 「そうだね……君の言う通り、表情筋の動きを理解したところで本当の微笑みは生まれてこない。そこには本人の心が伴わなくてはね」 「……心……」 「――葉月くんといる時、君はどんな気分を抱いているのかな?」 天之橋が唐突に葉月の名前を出したので、杉菜は咄嗟に振り返って天之橋を仰ぎ見た。穏やかに微笑みながら、天之橋はそんな杉菜になおも語りかける。 「……私にはね、彼といる時の君は表情には出なくても、とても優しく微笑んでいるように見えるよ。全身から暖かい空気が生まれてくるのが伝わってくるんだ。もし、彼といる時に、君自身がそんな暖かい気分で満たされているんだとしたら―――」 天之橋は一息おいて、真っ直ぐに見上げてくる杉菜の瞳に応えるようにウィンクをした。 「その気分を、表情筋というエッセンスにほんの少し、加えてあげればいいんだよ」 「その気分を……ですか……?」 「そうとも。――少し違うかな。そう、筋肉はおまけさ。気分の方が主人公なんだよ。上手く笑おう、なんて考えずにただ感じてごらん。嬉しかったり楽しかったりする事をね。そうすれば、いつの間にか『最高の微笑み』は生まれているものさ」 そう言って抱いていたそっと猫を降ろして杉菜の頭をポンポンと叩く(←その前に手を洗いなさい、理事長)。『溺愛している姪っ子を可愛がるおじさん』の顔で、天之橋は微笑った。 「――――さ、日も暮れてきたからそろそろ帰ろう。今日は久しぶりに私が送って行くよ」 「そういやねえちゃん、葉月のこと凝視してなかったな、今日は」 文化祭も翌日に迫った金曜日の夜。 翌日が本番とあって全校生徒の三割は泊り込みで最終準備の真っ最中だが、演劇キャストは裏方を除いた全員に総監督命令として「とっとと帰って肌状態整えとくように!」とのお達しが出ている。葉月も自宅でゆっくり休めばいいものだが、どうも最近は東雲家の方が落ち着くようになったらしい。例によって東雲家で夕飯を食べた後、何となく尽の宿題を教える羽目になっている訳だが、そんな折り、ふと尽が思い出したように言った。 「凝視?何の話ですか?」 葉月同様ご相伴に呼ばれた『はばたき市一人暮らし高校生同盟』のNo.2こと蒼樹が、何事かと訊ねる。 「んーと、ねえちゃん、ここんとこ妙に葉月の顔をジ〜ッと見てたんだよな。なんでも表情筋の観察とか言ってたけど」 「表情筋……ですか?」 こっちはこっちで自分の勉強をしていた蒼樹がシャーペンを顎に当てて不可思議な表情をした。 どーでもいいが葉月にしろ蒼樹にしろ、ついでに本日バイトの姫条にしろ、すっかり東雲家のレギュラーメンバーと化している様子。最早夫妻への耐性がバッチリ付いて、当たり前のように寛いでいる状況である。というか各自マイ歯ブラシやマイパジャマまで置いてる時点で寛ぎ過ぎだろう。 閑話休題。 「そ。けど、なんか今日はそれがなくてさ。なんかあったの?葉月」 「いや、べつに何も。俺も不思議」 「喧嘩とか、そういうことではないのですか?」 「……じゃ、ないと思う。それ以外はいつもと変わらないし。ただ……そうだな。劇、不安なのかもしれない。よく話し込んでる、総監督と」 「ああ、涼おねえちゃんだね。ふ〜ん、めずらしいなぁ。ねえちゃんが不安になるなんて」 「そうですね……。でも、いよいよ明日ですね。僕も今から楽しみです。ああ、でもちゃんとプログラムの再確認をしなくてはいけません。今のところ不都合はないはずですが」 はば学には電脳部がないのだが、何の因果か芋づる式に他校の蒼樹も舞台装置(CGを駆使した特殊効果用)に加わっているのである。受験生がそんな事してて大丈夫か、とツッコミたいところだが、きらめき高校における本年度出展作がそれ関連だった為、流用する形で協力を申し出たのだ。プログラムの一部だけとはいえ、蒼樹もお人好しである。 「舞台自体をまだ通して観ていませんし、とてもワクワクします。杉菜のプリンセスも珪のプリンスも、大変似合っているのでしょうね」 「さあ……。杉菜のはまだ見てないし、俺のは……王子って言わないだろうな、あれじゃ」 「どんな衣裳なんだよ……。ま、それは舞台でのお楽しみってヤツで期待しとくか。――――ところでさ、最近のねえちゃん、ど〜っか変だなって思ったりすること、ない?」 話題を変えて、尽が二人の顔を覗きこむように見上げた。二人は顔を見合わせて、しかしすぐに頭を振った。 「どうでしょう。言われてみると、少し変わった様子がない訳でもない、そんな気もしないでもないですが」 「そうだな……。時々、声かけても鈍い時ある、反応。ほんのわずか、だけど。変っていう程じゃない……と思う」 「そっかぁ〜」 こういう時のお約束、口と鼻の間にシャープペンを挟んで、腕を組みながら尽はウ〜ンと唸った。 「やっぱ気のせいかなぁ。なーんかちょっと前とはちがう様子が見えるなって思ったんだけど。なにせねえちゃん、ホンット表面に出ないからな〜」 三者ともしばし首をかしげた状態で考えるが、特に問題となるほどの事でもないようで、言い出しっぺの尽が真っ先に肩を竦めた。 「ま、ヤバそうじゃなければそれでいいしね。いちおう観ててやってよ、ふたりとも」 尽の言に頷いて、再び二人は顔を見合わせる。見合わせてから申し合わせたように隣の部屋に顔を向けた。 隣の部屋の眠り姫は、明日はどんな目覚めを迎えるのだろうか。 それは明日にならなければ判らない。 |
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