−第4話− |
「お帰りー、ねえちゃん」 玄関に入ると、陽気な声と小柄な姿が、杉菜を迎えた。 「ただいま、尽」 靴を脱ぎ揃えながら、杉菜は弟に向かって答える。 「……お母さんは?」 「まだ帰ってないよ。今日は少し遅くなるかもって言ってただろ?言ったの昨日の夕メシどきだけど。覚えてる?」 「そういえば……。じゃあ、作る。―――尽」 「はいはい、手伝うからさ。えーと、あと1時間半か。そんだけありゃ間に合うかな」 ぶつぶつ呟く尽を後に、杉菜は自室に戻って鞄を置き、素早く着替える。すぐに台所に向かい、冷蔵庫や食糧庫を開け、夕御飯の材料を揃える。 「出汁はとっておいたから、すぐ作れるよ、煮物と味噌汁」 「うん。それじゃ……じゃが芋」 「わーった。洗うからこっち寄越して」 杉菜の単語に即座に反応し、こまごまと動く尽。杉菜は杉菜で、見事な庖丁裁きで野菜を切っているのだが、二人のコンビネーションは実に見事としか言いようがない。15分もしない内に、下拵えはすっかり終わってしまった。 何皿かの料理を完成させ、煮物を火にかけたあと、杉菜はキッチンに置いてあるテーブルに、部屋から持ってきた問題集とノートを広げる。尽も同じように、宿題を始める。姉の早さには到底及ばないが、尽の鉛筆の進みもなかなかのものだ。 「そういえばねえちゃん、学校どう?イイ男、いる?」 宿題の解らないところを姉に教えてもらいながら、尽が聞いた。 「学校?……べつに。ふつう。それに……イイ男って?」 「……ねえちゃんさぁ。高校入って、もう一ヶ月だろ?せっかくそんなに美人なのに、彼氏も作らない高校生活なんて、さびしくない?」 「ううん」 あっさり具合は、弟相手でも変わらない。美人だと言われようが天才だと言われようが、杉菜の冷静淡白ぶりは一切の変化がないようだ。 「男友だちもいないとか、そんなことはないよな?」 「さあ……。声かけてくる人には、答えてるけど。……友達なのかな?それ」 「そっか……やっぱり、声はかけられるんだよな、ねえちゃんって。じゃあさぁ、そん中で気になるような男とかって、いないわけ?カッコイイとか、やさしいとか、勉強できるとか、運動できるとか、そういうの」 「べつに」 何の感情も入らない姉の言に、尽は内心頭を抱えた。 生まれた時から、こういう姉の下で育ったわけだが、尽は姉とは違って非常に判りやすい性格であった。感情豊かで表現が真っ直ぐ、積極的に会話もすれば色んな事に興味をもつ。そのおかげで、近年『イイ男チェック』なるものに興味を持っているのではあるが、ともかくも姉よりは遥かに行動的な人種だといえるだろう。 そんな尽の目下の悩みといえば、目の前にいる実の姉の将来であった。 確かに杉菜は勉強もスポーツも、更にいえば家事全般も人並み以上にできる。全パラメータが軽く200越えているのでは、というくらいだ。 しかし、その目覚しい天賦の才とは裏腹に、彼女ならではの性格や体質が、社会生活を営む上で障害になるのではと思われて、尽は気が気でない。特に、体質面だ。 自分が傍にいられれば良いが、そうでない場合、彼女のフォローをする人物がいなくては困る。それくらい、現代日本で生活するには杉菜の体質は困りものなのだ。そういう意味で、できれば杉菜にベタ惚れになって彼女のフォローをする、いわば下僕となる男を見つけ出さないと、と真剣に考えている。心から姉を心配しているが故の、悩みだった。 とはいえ、この姉がそうそう男に目がいく筈もない、というのも、これまた尽には良く解っていて、心の中で深い溜息をつく。 すると。 「……そういえば、いるかも」 不意に、思い出したように杉菜が言った。 「なに?ねえちゃん。いるかもって……気になる男、いるの!?」 思わず尽は身を乗り出す。まさか、いるのか!?このねえちゃんが、気にするような男が!? 期待感を込めて聞いてくる尽に、首をかしげながら、杉菜は答えた。 「……気になる人、じゃなくて……気に、ならない人」 「………………ハイ?」 「だから、気にならない人」 一瞬にして、期待感が萎んだ。気にしないって、そんな哀れだよ、ねえちゃん……と思いながら、しかしてその哀れな人間が誰かが気になった。 「…………だれ、その、気にもかけられてない奴って」 「葉月珪くん」 あまりにもスンナリと答えた為、一瞬尽はそれが誰だか解らなかったが、すぐに思いついた。葉月珪って、あの『葉月珪』の事か!? 「ねえちゃん!?葉月って、あの、モデルの葉月だろ!?あいつ、オレが知ってる中で一番レベル高いよ!それが、アウトオブ眼中!?まてよ、ねえちゃん〜〜〜っ!」 「……レベル、高いの?」 今度は本当に頭を抱える。 そりゃあ杉菜はレベルが高いし、尽としてもそれなりのレベルの男でなければ、姉に近付いて欲しくはないのだが、それにしたって、葉月レベルでも駄目だとは。 こうなったら、自分が彼以上の男になって、姉のフォローを一生していくしかないのだろうか、と本気で思い込み始めた頃。 杉菜が例によってポツリと言った。 「気兼ね……しないの」 「………………ハイ???」 「普通に話して、普通に通じるの。……気が楽。気にしないで、済むの」 「…………ねえちゃん、それって、さ……」 それって、気にしないどころか、めちゃくちゃ気になってる、って事じゃないか……? そうは思ったものの、姉の表情はやはり変わらず無表情。 「なに……?」 「いや……なんでも……」 駄目だ、この姉には自発的に恋愛感情なんて起こる筈がない―――。 そう考えて、尽は自分の思った事を口にするのは止めた。 と、するならば。 (……やっぱりここは一つオレが手を回して、何とかしなきゃ。このねえちゃんが、多少なりとも男に興味を持ったのは確かなんだから、それをフォローしてやらなきゃな。オレにできることといえば、情報収集か。……う〜ん、葉月だけじゃ不安だな。ほかにも何人かめぼしいヤツ、ピックアップしておくか。―――まってろよ、ねえちゃん。きっとねえちゃんにふさわしいイイ 新たな決意を秘めた尽をよそに、杉菜は自分の課題を続けた。常人がやれば2時間はかかる量を、30分ちょいで終わらせ、一時部屋に戻って今度は入浴セットを持って脱衣所に置く。既に尽によって用意されていた風呂にそのままは入らず、再びキッチンに戻って、夕食の準備を続ける。 「ねえちゃん、いいから先に風呂入ってきなよ。時間もったいないし、あとはオレがやるからさ」 「でも……平気、だけど」 「オレが平気じゃないの。そりゃ慣れてるけど、やっぱ心臓に悪いから、起きてるうちに入っちゃってよ」 「そう?……じゃあ、そうする。ありがと」 「いいっていいって。ホラ、あと30分だよ」 東雲家以外の人間には理解出来ない会話で、姉弟のコミュニケーションがとられ、杉菜はさっさと浴室へ向かう。こっそり尽は溜息をついていたが。 殆どカラスの行水並みのスピードで、杉菜がシャンプーの香りを漂わせて脱衣所を出た頃、ダイニングには尽によって夕食が並べられていた。 「さ、ねえちゃん。先に食べてようよ。時間ないからさ」 「時間……べつに、そこまで急がなくても、大丈夫だけど」 「いいから、早く」 「……うん。いただきます」 そう言って杉菜は、葉月の前でするのと変わらず、用意された食事を一気に食道に流し込む。はっきりいって味わっているのか解らない。尽の舌には、これ以上の美味はないというほど、素晴らしい出来の品々なのであるが。 「ふう。」 用意したお茶を3杯ほど飲み干して息をつくと、杉菜は自分の食器を持って立ち上がった。 「―――ねえちゃん!食器放して!!」 時計をちらりと見た尽が、急に叫んだ。その声に答える様に、杉菜は即持っていたそれらをテーブルの上に置き直した。 そして、時計の針が午後7時を差し、時報の鐘がなった途端。 葉月がかつて目撃した様に、尽の眼前で、杉菜は糸が切れた様に倒れ込んだ。 尽はといえば、別段慌てるふうもなく、姉の傍に膝をつき、怪我がないかを確かめる。 「ねえちゃん、怪我ないな?」 「………………ん」 「夕飯食べたし、風呂も入った。あとは歯をみがいてパジャマにきがえて寝る。それだけ。わかる?」 「………………歯磨きして、パジャマ着て、寝る…………」 「そ。それじゃ、ホラ、立って」 「ん…………」 のんびりと、杉菜は立ち上がった。動きに機敏さはないが、足取りは確かだ。但し、瞼は閉じている。ダイニングを出て、真っ直ぐ洗面所に向かい、しばらく歯を磨く音と流水音が聞こえ、続いて階段を昇る音。ドアが閉められる音を最後に、二階からは何も聞こえなくなった。 「……やれやれ、正確すぎだよ、ねえちゃん。あやうく食器割るトコだった」 安堵の溜息をついた後、尽は姉の食器を流し台に運ぶ。 「昼間みたいに、反応しなくなるわけじゃないけどさ。ベッド入るまでの時間、見ててこっちが怖いよなー。フツーの体質のオレとしちゃあ、さっさと風呂もメシもすませて、寝てもらった方が安心だよ、まったく」 杉菜の就寝時間は、氷室に対しては『午後8時』と報告されている。しかし実際は、午後7時になると彼女は意識が保てなくなる。『午後8時』というのは、無意識状態で食事をし、入浴した後、ベッドに入る時間の事であった。 この時間帯に無意識状態にあると、杉菜は授業中倒れた時のような無反応ではなく、言われた事を行動してから、就寝する。尽が両親に尋ねたところ、姉は幼少の頃からそんな生態だったらしく、修学旅行や合宿の度に、周囲の驚愕を誘っていたそうであった。 全国大会に行く程の脚力を持っていながら、陸上部を一年で退部したのも、そういう事情があっての事だった。何しろ午後7時になると突然眠るのだ。遅くまで練習する部活など、到底馴染める筈がない。 もっとも、顧問に懇願されて入った部活だったので、杉菜本人は何の感慨も持っていなかったようだが。むしろ、周りの部員達の方がよほど残念そうな顔をしていた。 尽は姉の食器を洗いながら、再び大きな溜息をついた。 (一日に最低14時間は熟睡しないともたない体なんて、まったく難儀な体だよ、ねえちゃん。ホント、このオレが何とかしてやらないとなー) しみじみと、愛する姉を思いやる尽であった。 姉の為にしたためた『イイ男』データ帳が、もうすぐその出番を迎えるか否かは、定かではないが。 |
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